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孤独から集団へ
全人類の孤独を代表して ここに申し上げる 私たちは元々群れであった 胎児は母と一体であり へその緒が切れたとき 個別の生を持った 親の助けなくて生きてきたものはいない だから我々は 孤独と集団の両傾向を持つ 愛に包まれて孤独をなくしてしまったのか 孤独とは本来何らかの積極的意味を持ち得るか 太陽には地球がいる その他たくさんの惑星がいる 地球には地球の月がいる 月の孤独を感じて 海は立ち上がり 青い炎と燃え上がっては砕け散る 冷たい温度で魚は死なない 孤独を超えて世界中に歌を響かせろ それが私たちの愛の証となる 名を売ろうと 悲しみを分け合おうと 言葉を発しようと いずれにせよ極限を求める私たち 永遠相に帰っていくとき 孤独は孤独という概念を脱皮する 私たちは真の私たちになる 孤独を癒すためにより孤独になろうとする 間違いに一言申し上げる 孤独を引き受け人のためになったりならなかったり それでも生きているだけで 私は嬉しい 生まれつき死ぬべき人など一人もいない 暮れていく夜に あなたが頼れる人はいるか あなたが孤独そうだったから 笑って欲しかったんだ 大仰な言葉をたくさん作りだして あなたを笑わせたかった 私が心を奪われた人よ その存在で人々を微笑ませてください 私のプロジェクトはまだ未完です 死は孤独な敗北ではなく 生こそが孤独な闘いだ しかし生きている限り他に出会い 心の愛が刺激される 賢い方法で 苦を滅して 本当の望みをかなえよう 時は初夏 夏の日差し 許せないと思った人をも 許してしまうときは来る そのときには私は 赦しの涙の中で 私自身として立つでしょう 新奇なもの 新しいもの 個性への欲求が 過去の人たち 過去の事物と繋がっていることを悟り 私自身の負債を すべての存在を自由にする翼を与えるために 失っていくことが正しいのだと思う 私自身の心においては 逃れられぬこともある それは正しいからなのだ 無常の世を過ごすのに 正しいという価値観を 放り投げても仕方がない 己と法を見よ
孤独から集団へ ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 920.8
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-05-16
コメント日時 2025-05-19
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
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| 技巧 | 0 | 0 |
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| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


「私のプロジェクトはまだ未完です」という言葉が素敵ですね。 壮大な愛を感じました。
1知人で、プロジェクトを個人で立ち上げた人がいて、その人を見習ってこんなことを言ってみました。
1そうですね。 私自身は、集団に属するよりも、 ひとりの方が良いです。 自然は無生物ではないので、 自然に囲まれている限り、 私は孤独ではないからです。 少し疑問に思ったことを二点ほど。 >太陽には地球がいる 全宇宙には、惑星を持たない太陽(恒星)もあると思うので、 >太陽系には地球がいる ではないかな?と思います。 >冷たい温度で魚は死なない ここは流石に北極圏とかでは魚は生きられないので、 >冷たい感覚では魚は死なない とか、温度以外のことばが、良いのではないでしょうか。 全体的に、前二作の窮屈さが消えておりますが、 叫ぶ感じではなく、淡々と語っておられる印象です。 良いと思います。 ありがとうございます。
1コメントいただきありがとうございます。僕の知る限り、太陽はひとつです。北極圏でも魚はいるようです。良いと言って下さり、嬉しいです。
0黒髪さん、狂う。 いや、また狂うのか? ごめんね。冗談だけど、 読めばそんな狂気臭が漂ってくる。 まてよ、敢えて狂気を表現しようとしているのか。 文章から眺めて何を伝え何をしたいのか、 ちんぷんかんぷんでした。素晴らしい。これは嘘つきです。 ありがとうございます。
1アラガイさんからは、狂ったという評を何度もいただきましたね。狂ったものが治ったのが、 逆に論理的に狂ったように映るのかもしれません。だれしも狂気を秘めています。 狂気は孤独につながり、正気は集団に向かう、そういった傾向を考えることも出来ます。 あるいは、狂気こそがカリスマ性を帯びることもあるでしょう。どちらにせよ、人に訴えかける 意見、文章といったものは、よく考えられたうえでしかありませんね。つまり、狂気にせよ 正気にせよ、考えられていない文章の薄利多売は、あまり褒められたものではないと思います。
0良い部分もあるし、退屈な部分もあります。 >無常の世を過ごすのに >正しいという価値観を >放り投げても仕方がない >己と法を見よ この結びの「論理」がよくつかめないのだけど、ごく普通に考えれば、無常は無常として受け入れるしかないでしょう。無常に負けてはいけません。個人的にはそう思います。 「正しい」云々とかいう事柄ではない気がするのですね。この世の起こることをなんでもかんでも「正しい」とする楽観論をややグロテスクに戯画化したのがヴォルテールの「カンディード」です。
1正しいということを、どう見るかということです。時代によって、正しさは変わるけど、 「正しい」という意味の概念だけは変わらない、ということです。もちろん無常も 変わらないんですが、縁起を良くすることを、続けるしかないんですね。そのための八正道 です。言葉の意味自体が、発明されたり死語になったりもしますが、人間にとって 一番大事なのは、「適応していく」ということだと思います。科学の発展を、止める必要は、 ひとつもないわけで、技術の倫理として、人間の適応能力を上げるかどうか、といった点も、 重要になると思います。
0「無常」と「正しさ」は(もちろん、わたしだってわかりません)簡単には接続できないはずですよね。きっと、偉いお坊さんでも、なかなか答えられないでしょう。 適応即「正しい」というのは、ごく一般にいって、ダ―ヴィニズムですよね?黒髪さんの仰っていることは、Dデネットなどの科学哲学の筋に近い気がしました。 仏教でも、そういう理屈はあるのでしょうか?よくわかりませんが、なんか変だなあ。
1無常であるから、正しいことをすると、よくなるのです。適応のことは、仰る通り ダーウィニズムです。考え方として、生命は適応によって、自然と関わり合うという 考え方ですね。自灯明法灯明の、自と法をよく考えれば、適応と言うことになると、 私は思います。適応する以上に正しいこともないと。努力をするべきですね。 喜んで楽しく、清らかな修業によって、やっと人々は救われます。さらに、在家に在っても、 生活の正しさ次第では、さとりに近づく。迷いでもなんでも、やってみなくては分かりません。 自分の心の判断を目覚めさせれば、なにをやっていても、さとりになる、ということを 考える次第です。思考過程には、言語過程が伴うので、他者を理解できます。そのような、 論理学によって、人の思考過程がある程度分かる。そしてアドバイスを重ねる。 人間の人生は、何と自由なんでしょうか。自縄自縛でぎちぎちになった人も、 心を正せば羽ばたける。すべての人に平等に与えられている良心、つまり仏性を、 大切にすることで、すべての物事が、本来的には、全て喜びとなり、智慧が生じ、 光明が生じ、煩悩が取れてくる。苦しみをどう扱うかと言うことと、人をどう思うか と言うことについて、ブッダは真理を説きました。世にある物語のすべてが、 同じような事を語っています。
0仏教とダ―ヴィニズムとでは、特にその倫理観において、かなりへだたりがあると言わざるを得ませんが、そこに、黒髪さんの大切にされている価値観があるのでしょう。 もうちょっと恣意性を隠蔽せずに、言い方を気を付けてもらうと、その独特のうさん臭さもなくなると思いますけどね。 でもまあ仏教もある意味では「制度」であり「政治」ですから、こちらも「仏教の本質は○○だ!」などと、偉そうに説教するつもりもありません。そもそもしらないし。判定するにしても、権威筋に仰がないと土台無理な議論でしょうし。
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