蒸し餃子を三個食べて、お茶を飲んで、それでテレビを見ている時、
パパが、パン屋開くのにいくらくらいだ、と言って、私は、二回目だな、って思って、もしかして、って思って、そしたら何言えばいいのかなって考えて、ムズイでしょって言った。そしたらママが、どれくらいだろうねって言って、パパが、退職金つぎ込めば行けるか、と言ったから、私は、立ち上がって、まだ起こっているお茶を台所に注ぎに行った。そしたら、台所からちらって見えるパパとママがぐわんぐわんして、私は、二階にいって、部屋に行っちゃった。
パパは、よく冗談みたいな口調で、そんなこと言う。私は、パパのこと、そういう口調のこと、考えると、またぐわんぐわんしてきて、今見えてる指と、ホントのほんとに見えてる指がちゃんと一緒なのか不安になってくる。この部屋にいると、私は、好きなだけ、あんまり恥ずかしくないように、ぐわんぐわんできるからそこは好きだ。
パン屋さん、やろうとすればできるのかな、もしかして、でも、そしたら、部屋にはあんまりいれないかもしれないな、でも、近くの小学校の先生とか、あのはるき君とか、みさきちゃんとか、きてくれるかもしれない。それは、小説家とか、頭のいい人たちよりもいいかもしれない。そうならば、パパにだんだんいらいらしてきて、やっぱりぐわんぐわんしてきて、だからこういう時はやっぱりゲーム実況とかをひらいて画面は見ないで寝っ転がった。鼻水をしたくなって、上のティッシュをとって、かんだら、少し起きあがったりした。餃子はやっぱり蒸したやつだし醤油よりポン酢の方が良かったかもしれない。そしたら呼び鈴がなって、二回あったので、やっぱりびっくりして、だんだんぐわんぐわんしてきた。立ち上がる決心が出来なくて、立ち上がろうとして、なんか腰が痛い気がして、もう一回寝た。そしたら三回が来て、もう一回びっくりしてどんどんぐわんぐわんして、やっぱりちゃんと決心しなきゃ、と思って、ゲーム実況の声を聴いて、そしたら四回が来たからうるさいな、って思った。決意を邪魔されたけど、私は、ドアまで歩いて、そしたらぐわんぐわんして、ドアが窓になって玄関になってぐわんぐわんになって、そしたらもうやっぱりベッドの枕が高すぎる気がするって思ってた。パパに、それは言わなくてはいけなくて、私は、明日言おうって思った。
作品データ
コメント数 : 12
P V 数 : 713.1
お気に入り数: 2
投票数 : 4
ポイント数 : 53
作成日時 2024-09-07
コメント日時 2024-09-20
#現代詩
#縦書き
項目 | 全期間(2024/12/10現在) | 投稿後10日間 |
叙情性 | 10 | 10 |
前衛性 | 4 | 4 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 20 | 20 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 10 | 10 |
構成 | 2 | 2 |
総合ポイント | 53 | 53 |
| 平均値 | 中央値 |
叙情性 | 10 | 10 |
前衛性 | 4 | 4 |
可読性 | 2 | 2 |
エンタメ | 20 | 20 |
技巧 | 5 | 5 |
音韻 | 10 | 10 |
構成 | 2 | 2 |
総合 | 53 | 53 |
閲覧指数:713.1
2024/12/10 17時00分37秒現在
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子供の時どういう感覚で世界を感じていたかというと、こういう心象風景だったかも知れないという懐かしさを感じる文章です。 其れをぐわんぐわんという擬音で表現しているところが、良いと思いました。 とても上手く表現出来ているので、童心を描いても知的な内容だと一目で分かる内容です。
1コメントありがとうございます。 実を言うと最初から子供の世界を描こうと思って書いたわけではなかったのですが、万太郎さんに懐かしさを感じてもらえたならこれも成功ですね。 よく何も心配しなくてよかった小学生の頃に戻りたいだとか中学生が人生のピークだっただとか言う人がいますが、私は子供の心ってどうしようもなく感じたがりで痛がりで、全然楽なんかじゃないと思うんですよね。ただみんな子供のころよりもずっと感度が鈍ってしまうから、大人はその傷跡の形を忘れてしまうってだけで。詩を書いている時。正確には自分が何に向かって書いているのか理解しきれていなかったのですが、コメントを拝見して、もしかしたら私は子供の感性みたいな文を書いてみることで、もう見えない傷に体感的に触れようとしていたのかなとふと思いました。
1なんかおもしろいなと思いました。おそらくパン屋さんを開きたいのは話者で、お父様に一度反対されたのでしょうか。諦めかけたとき、もう一度お父様に聴かれて、少し希望を持ったけど、やはりいざパン屋さんになることを考えると、その先の苦労を案じてぐわんぐわんなってしまってるのかなと。それか、パン屋さんになることを本気で考えている証拠がぐわんぐわんなのか。 前述していた蒸し餃子のことをまた考えたり、ぐわんぐわんしているのは、ベッドの枕の高さのせいだったりと、話者の本来の悩みというか葛藤が日々の衣食住などに急に展開されるあたりもリアルで面白いです。 とりあえずベッドの枕の高さのことをお父様に相談してそれでぐわんぐわんが治ったとしても、ぐわんぐわんを楽しんていた話者にとっては淋しいことなのだろうなと思うとまた面白く思いました。
子どもの視点からありのままに子どもごころを表現されたのですね。とてもおもしろいです。大人になってから子どものこころで書くのは難しいので。私ももう一度、子どもの頃に戻れたらなぁ……。
0楽しく読みました。押しピンのような足場で展開される速さと飛躍と転換。タイトル通りにぐわんぐわん。ですね。
0この文章は、キレがあって、嘘がなくて、苦しみが少なくて、自然で、心が表れていて、 とてもいいと思います。子供の頃のこと、だと仰っていますが、自我がまだ浸食されて いない状態に感じて、読んでいて、嫌みがない、と思います。
0目をひんむきながら読みました。こんなに苦痛を表現できる詩、中々ないなと、私は受け取りました。 最初のぐわんぐわんは、父と母のお金の問題の喧嘩、怒鳴り声でしょう。「ぐわんぐわん」という柔らかな音でモザイクがかけられている。「ぐわぐわ」だと緩和されないんですよ、「ぐわんぐわん」を選んでいるところがいい。 いつ、「ぐわんぐわん」が起きるかを見てみると、裏の顔と表の顔の行き来というか、豹変というか。 父と母の喧嘩、父の冗談(本心を分からなくさせられる)、私は好きなだけぐわんぐわんできる→自分の表と裏は自分で分かる、ぐわんぐわんの対処法はゲーム実況を聴くこと(何も炎上がない綺麗な実況者を選べば、健全ですよね、現代っ子な表現)、などなど。 最後の呼び鈴はなんでしょう。詩全体で強調されているのは「部屋」です。パン屋を開こうとする時も、「部屋」に居られるかどうかを心配する。この呼び鈴に両親が出ないこともおかしくて、ここで何か展開が飛躍していく。早計かもしれませんが、大人になることの呼び鈴のようです。自分も、大人みたいに、「ぐわんぐわん」せざるを得ないんだろうかと。 最後の締め方、解釈が広がりそうです。私は、ゾッとする終わり方だと思いました。 好きな詩です。
1ありがとうございます。個人的に、「なんか痛そうだな」と感じてもらえた時点でその詩はある程度成功したと思っているので、苦痛を表現できていると言ってもらえてとても嬉しいです。 確かに「ぐわぐわ」だと、たとえ耳をふさいでも目を背けても、五感情報が勝手に体に染み渡っていってしまうような、そんな不気味さがありますね。 「ぐわんぐわん」は頭痛からイメージして使った表現だったのですが、一文字違うだけで印象がこうも違うことを考えてみると、日本語の擬音って痛みの表現をするのにとても適していると感じますね。 「大人になることの呼び鈴」は自分の中で納得できる一文ですね。 私自身、最近呼び鈴がなんだか理由もよく分からずに恐ろしく感じていたんです。その正体を掴みたくて詩の最後で「ぐわんぐわん」と共鳴させたてみたのですが、もしかしたら、それは「大人になることの呼び鈴」だったのかもしれません。 丁寧に読み解いてくださり嬉しかったです。私もこの詩の最後の一節から抜け出せなければなりませんね。
1返信遅くなりすみません。丁寧に読んでもらえて嬉しいです。 大人も子供も、問題に直面して悩んでいる時の頭の中って、高尚な理想から未来の不安を行ったり来たりして忙しく、そのくせ突然生活が迫ってきたりして、結構支離滅裂で似ていると感じます。 でも違うのは、大人は支離滅裂の中からも次に進むための回答を探す所です。でもこの詩の主人公は違くて、その回答を先延ばしにする時に「ぐわんぐわん」がやってくる。 問題はこの主人公が「ぐわんぐわん」をあまり嫌っていないところですね。ご指摘の通り、それを気に入ってさえいます。 私の好きな漫画に、「一生快適な自己否定に留まるか、全てを捨てて自己肯定に賭けるか」という言葉があるのですが、一生この主人公は自己否定を享受して生きていくのかもしれません。
1遅くなりましたがありがとうございます。 “子供の視点”みたいな文章が書けるのは、私自身が子供の心から踏み出そうとしないからかもしれない、塗布と思いました。
0ありがとうございます。 「押しピンのような足場」って的確なのに響きがポップで良い表現ですね。 私は頭が良くないのでいつも頭の中で押しピンのような足場で飛躍したり落下したりしてます。いつかちゃんと壁にめり込ませたいですね。
0遅くなりましたがありがとうございます。 詩の性質上、表現が上手くいかないとどうしても痛み自慢のようになってしまうので、「読んでいて嫌味がない」と思ってもらえたことはとても嬉しいです。 一方で、「現実逃避する自我」のイメージから書き始めていたので、「自我が侵食されていない状態」って言ってもらえたのは意外でした。 でも確かに、「崩壊から自我を保護する音」が「ぐわんぐわん」であると考えると、まだ自我はある意味侵食されていないのかもしれません。それが良いことか悪いことかは別として。
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