詩の日めくり 二〇一七年四月二十日─三十一日 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一七年四月二十日─三十一日    

二〇一七年四月二十日 「韓国ポップス」 風邪を引いたみたい。咽喉が痛くて、熱がある。薬局が開く時間になったら、クスリを買いに行こう。きょうは休みなので、部屋でずっと休んでいよう。 午前中はずっと横になっていた。何もせず。お昼になって、近くのイオンに行って薬局で、クラシアンの漢方薬の風邪薬を買って、ついでに3階のフードコートでまず薬を水でのんで、それから長崎ちゃんぽんのお店でチゲラーメンの並盛を注文して食べた。おいしかった。いま部屋に戻って、ツイートしてる。 ベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もうか、『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込みをやるか思案中。そか。両方やっちゃおうか。ワード打ち込みも、ルーズリーフで、あと2枚分だものね。 『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業が終わった。校正は後日、ゴールデン・ウィークにでもしよう。きょうは、これからベンフォードの『タイムスケープ』上巻のつづきを読もう。1年10カ月ぶりに依頼していただいた、現代詩手帖の原稿書きがあるのだが、もう頭のなかに原稿の元型ができているので、あさってからの連休3日間で(ぼくは月曜日も休みなのだ)いっきょに書き上げてしまおうと思っている。それでも数日の余裕があるので、しかも、そのうちの一日は学校が休みなので、十分に見直すことができるものと思う。とにかく、『全行引用による自伝詩。』の打ち込みが終わってよかった。引用文が間違いなく打ち込めているのか、たしかめはするのだが、ときに漢字の変換ミスや、言葉が足りなかったりすることがあるので(「している」を「してる」にしたりする。きっと、自分のふだんの口調が反映されているのだと思う)注意しながら打ち込んでいると、じつに神経に負担がかかるのである。しかし、それが終わって、ほっとしている。きょうは、もうあと読書するだけ。56歳。独身ジジイ。まるで学生のような生活をいまだに送っているのだなと、ふと思った。夕方に風邪薬をのむのを忘れないように、目覚ましでもセットしようかな。でもなんのためにセットしたのか忘れてしまってたりしてね。 BGMは韓国ポップス。韓国語がわからないから、言葉の美しさ、リズムを、音楽とともに耳が楽しんでいるって感じかな。2bicからはじまって、チューブがかけるものをとめないで聴いている。はじめてお見かけするアーティストが出てきたり、というか、そういうのも楽しみなんだよね。 そいえば、まえに付き合ってた子、しょっちゅう携帯をセットしてたなあ。仕事の合間に、ぼくんちに来てたりしてたからな。音楽がそんなことを思い出させたんやろうか。もう2、3年、いや、3、4年まえのことになるのかなあ。いまは神戸に行っちゃって、遊びに来てくれることもなくなっちゃったけど。 ピリョヘー。 いま思い出した。まえに付き合ってた子が携帯に時間をセットしていたの、あれ、「タイマーをセットする」という言い方だったんだね。簡単な言葉なのに、さっき書き込んだときは、思い出されなかった。齢をとると、すさまじい忘却力に驚かされるけれど、だからこそみな書き込まなくちゃならないんだね。 アンニョン。 いま王将で、焼きそば一皿と瓶ビール一本を注文して飲み食いしてきたのだけれど、バックパックの後ろについている袋のチャックを開けて、きょうイオンで買った風邪薬のパッケージを裏返して見たら、製造元の名前が、「クラシアン」じゃなくて、「クラシエ製薬株式会社」だった。クラシアンって、なんだか、住宅会社っぽい名称だね。調べてないけど。調べてみようかな。ぜんぜん、そんな名前の会社がなかったりして、笑。いまググるね。 ありゃ、まあ。水漏れとか、水まわりのトラブルを解消する会社の名前だった。「暮らし安心」からきてるんだって。「クラシアン」なるほどね。ちなみに、ここね。→http://www.qracian.co.jp/ ちなみに、ぼくがクラシエ製薬株式会社から買った風邪薬の名前って、「銀翹散(ぎんぎょうさん)」ってやつで、元彼と付き合ってたとき、ぼくがひどい風邪で苦しんでたときに、彼が買ってきてくれた風邪薬で、服用して5分もしないうちに喉の痛みが消えた風邪薬だった。いまも当時のように効いてるよ。 さて、ベンフォードの『タイムスケープ』の上巻のつづきに戻ろう。読書って、たぶん、人間にしかできないもので、とっても大切な行為だと思うけど、自分がその行為に参加できて、ほんと、幸せだなって思う。ぼくも糖尿病だけど、糖尿病で視力を失くした父のように視力は失くしたくないなって強く思う。 瓶ビール一本で酔っちゃったのかな。気分が、すこぶるよい。きょうは、休みだったのだけれど、朝はゴロ寝で、昼には、5月の第2週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『全行引用による自伝詩。』のワード打ち込み作業を終えて、韓国ポップス聴きまくっていたし、夕方からは読書に専念だ。 日本のアーティストの曲で、「a flower of the mystery」だったか、「a mystery of the flower」だったか、そういったタイトルの曲を思い出したんだけど、チューブにはなかった。残念。ああ、もう何でもメモしなきゃ憶えていられない齢になったんだな。というのは、その曲のアーティストの名前が思い出せないからなんだけど、ここさいきん、思い出せないことが多くなっている。いや、ほんとに、なんでもかんでもメモしておかなければならなくなった。情けないことだ。それにしても、なんという名前のアーティストだったんだろう。憶えてなくて、残念。 「どんなに遠く離れていても」っていうのは距離だけのことを言うのじゃない。 hyukoh の新譜が4月下旬に出るというので、Amazon で予約購入した。 二〇一七年四月二十一日 「タイムスケープ」 グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻に突入。上巻に付箋個所10カ所。レトリックと表現がすばらしいと思うところに付箋した。ルーズリーフ作業は、あした以降に。いま、4月28日締め切りの原稿のことで頭いっぱいだから。といっても、きのう、数十分で下書きを書いたのだけれど、完璧なものにするために週末の土日と休みの月曜日を推敲に費やすつもりなので、ルーズリーフ作業は、下巻も含めると、GW中になるかもしれない。といっても、きょうは、グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻を読めるところまで読もうと思う。ヴァレリーが書いていたように、「同時にいくつもの仕事をするのは、互いによい影響を与え合うのである。」(だいたいこんな訳だったような記憶がある。)きょうは、一日を、読書にあてる。 二〇一七年四月二十二日 「いつでも、少しだけ。」 いま日知庵から帰った。ヨッパである。おやすみ、グッジョブ! いつでも、少しだけ。 きょうか、きのう、『The Wasteless Land.』が売れてた。うれしい。 https://www.amazon.co.jp/Wasteless-Land-%E6%96%B0%E7%B7%A8%E9%9B%86%E6%B1%BA%E5%AE%9A%E7%89%88-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788656/ref=la_B004LA45K6_1_4?s=books&ie=UTF8&qid=1492792736&sr=1-4… グレゴリイ・ベンフォード『タイムスケープ』下巻 誤植 93ページ 1、2行目 「悪戯っぽいい口ぶりでいった。」 「い」が、ひとつ多い。 二〇一七年四月二十三日 「時間とはここ、場所とはいま。」 人間が言葉をつくったのではない。言葉が人間をつくったのだ。 時間とは、ここのことであり、場所とは、いまのことなのである。 時間とはここ、場所とはいま。 グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』下巻を読了した。思弁的なSFだったが、また同時に文学的な表現に見るべき個所がいくつもあって、これから自分が書くことになる文章が大いに影響を与えられることになるのではないだろうかと思えた。トマス・スウェターリッチの『明日と明日』以来である。 これから2杯目のコーヒーを淹れる。コーヒーもアルコールや薬といっしょで、中毒症状を起こすことがある。学生時代に、学部生4回生と院生のときのことだが、1日に10杯以上も飲んでいたときがあった。いま10杯飲んだら、きっと夜は眠れないことだろう。いくら睡眠薬や精神安定剤をのんでいても。 コーヒーを飲んだら、グレゴリイ・ベンフォードのルーズリーフ作業をしようと思う。きのうまでは、GW中にやろうと思っていたのだが、文章のすばらしさをいますぐに吸収して、はやく自分の自我の一部に取り込んでしまいたいと考えたからである。それが終わったら、つぎに読むものを決めよう。 GWは6月の第1週目に文学極道の詩投稿欄に投稿する『詩の日めくり』をつくろうと思う。いつ死んでもよいように、つねに先々のことをしておかなければ気がすまないたちなのである。さいきん、あさの食事がコンビニのおにぎりだ。シャケと昆布のおにぎりだ。シャケを先に食べる。なぜだか、わかる? 昆布の方が味が強いから、昆布の方から先に食べると、シャケの味がはっきりしないからだろう。ぼくが食べ物を好きな方から食べるのも同じ理屈からだ。おいしいものの味をまず味わいたいのだ。あとのものは、味がまざってもかまいはしない。ぼくが古典的な作品を先に読んだのも、同じような理屈からだったような気がする。食べ物の食べ方と、読み物の読書の仕方がよく似ているというのもおもしろい。両方とも、ぼくの生活の大きな部分を占めているものだ。ぼくの一生は、食べることと、読むこととに支配されているものだったというわけだな。それはとってもハッピーなことである。 さっき日知庵から帰ってきた。きょうは体調が悪くて、焼酎ロック1杯と生ビール1杯で帰ってきた。これから床について、本でも読みながら寝ようと思う。ディックの短篇集『ペイチェック』にしよう。タイトル作品以外、ほかの短篇集にぜんぶ入っているというハヤカワSF文庫のあこぎな商売には驚くね。 自分の詩集のところを、Amazon チェックしていたら、書肆ブンから復刊された、ぼくの詩集『みんな、きみのことが好きだった。』が、1冊、売れてた。うれしい。これ→ https://www.amazon.co.jp/%E3%81%BF%E3%82%93%E3%81%AA-%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AE%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%8C%E5%A5%BD%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E7%94%B0%E4%B8%AD-%E5%AE%8F%E8%BC%94/dp/4990788664/ref=la_B004LA45K6_1_2/355-1828572-1889417?s=books&ie=UTF8&qid=1492950970&sr=1-2… 二〇一七年四月二十四日 「floccinaucinihilipilification」 グレゴリイ・ベンフォードの『タイムスケープ』の下巻に載ってたんだけど、最長の英単語って、「floccinaucinihilipilification」というものらしい。山高 昭さんが翻訳なさっておられるんだけど、「無価値と判定すること」という意味らしい。 最長の日本語の単語って、なんだろう? きのう寝るまえに、ハヤカワSF文庫のディックの短篇集『ペイチェック』の悪口を書いたけれど、よい点もあった。活字のポイントが、むかしのものより大きくて、読みやすくなっている。なぜ、『ペイチェック』をあれほど分厚くしなければならなかったかの理由のひとつかな。でも、ほんと、分厚くて重たい。 FBを見ていると、きょうは天気がよくて、洗濯日よりだというので、洗濯をした。ついでに、1週間ほど、薄めた洗剤液の入ったバケツに浸けて置いた上履きを洗った。いまから、ディックの短篇集『ペイチェック』のつづきを読む。冒頭のタイトル作品の途中で眠り込んでしまっていたのであった。 いま解説を読んで気がついた。「ペイチェック」もほかの短篇集に入ってた。未訳のものがひとつもなかったんだね。なんだか悲しい短篇集だったんだね。『ペイチェック』分厚さだけは、ぼくの持っているディックの短篇集のなかで群を抜いて一番だけれど。 Lush の Nothing Natural を聴いている。この曲が大好きだった。だいぶ処分したけど、いま、ぼくの部屋も、大好きな本やCDやDVDでいっぱいだ。いつか、ぼくがこの部屋からいなくなるまで、それらはありつづけるだろうけれど。 Propaganda の Dr. Mabuse を聴いた。1984年の作品だというから、ぼくが院生のころに聴いてたわけだな。いまから30年以上もむかしの話で、まだ詩を読んだこともなかったころのことだ。理系の学生で、連日の実験と、考察&その記述に疲れ果てて家に帰ってたころのことだ。 いま、4月28日締め切りの原稿の手直しをしていたのだけれど、英語でいうところの複文構造をさせていたところをいくつかいじっていたのだけれど、ふだんのぼくの文章の構造は単純なものが多いので、ひさしぶりに複文を使って自分の文章をいじっていると、まるで英語の文章を書いてるような気がした。 ディックの短篇集『ペイチェック』で、「パーキー・パットの日々」を読み終わった。いま、同短篇集収録の「まだ人間じゃない」を読み直しているのだけれど、このあいだも読み直したのに、さいごのところが思い出せなかったので、もう一度、読み直すことにした。つい最近、読み直したはずなのだけれど。 あ、複文じゃなくて、挿入句だ。ぼくのは複文というよりも、挿入句の多い文章だった。複文っぽく感じたのはなぜだろう。自分でもわからない。読み直したら、いじくりまわす癖があるので、きょうは、もう見直さないけれど、あしたか、あさってか、しあさってかに見直して、手を入れるだけ入れまくろう。 とりあえず、8錠の精神安定剤と睡眠導入剤をのんで床に就こう。きょうの昼間は、なぜか神経がピリピリしていた。それが原稿に悪い影響を与えてなければよいのだけれど。いや、原稿をいじくってたので、神経がピリピリしていたのかもしれない。いまもピリピリしている。眠れるだろうか。いくら精神安定剤や睡眠導入剤を服用しても、昼間に神経がピリピリしていたら、まったくクスリが効かないことがある体質なので、きょうは、それが心配。ううん。この心配が、睡眠の邪魔をするのでもある。ぼくの精神というのは、どうしてこのようにもろいのだろうか。神経が太いひとが、うらやましい。 寝るまえの読書は、ディックにしよう。短篇集『ペイチェック』のなかから適当に選んで横になって読もう。あ、もしかすると、ディックの強迫神経症的な作品の影響かもしれないな。でも、ほかに読みたいものは、いまとくにないからな。とりあえず、クスリのんでPCを切ろう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月二十五日 「一生、ひとりでよいのだ。」 これから仕事に。あした、あさっては休みなので、4月28日締め切りの原稿を推敲することができる。もう推敲と言うより、彫琢の段階なのだけど。通勤では、このあいだ買った、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読むことにしよう。「もう一篇の詩」のあとに、「さらにもう一篇の詩」ってのがあったよ、笑。それは、うんこの詩でもなくて、ぼくにはおもしろくなかったけれどね。 きょうは、学校が午前で授業が終わりだったので、はやく帰ってこれた。二時間目の授業のまえに時間があったので、一時間はやく職員室についたのだ、岩波文庫の『金子光晴詩集』を読んでいたら、すいすい読めたので、やはり詩集はいいなあと思ったのであった。いま204ページ目に突入するところ。 もう十年くらいむかしの思い出だけど、食べ物の名前が出てこないので書けなかったのだけれど、『金子光晴詩集』を読んでたら、195ページに、「朝は味噌汁にふきのたう。」(「寂しさの歌」二)というのがあって、思い出した。ふきのとうの天ぷら、たしか花だったと思うけれど、それをジミーちゃんのお母さまがてんぷらにしてくださって、そのふきのとうは、ジミーちゃんちの庭で採れたものなのだけど、食べさせてくださって、適度な苦みが、大人の味だなと思わせられる、ご馳走だった。そのジミーちゃんのお母さまも亡くなられて何年たつのだろう。ジミーちゃんが発狂して以来、ジミーちゃんと会っていなかったのだけれど、共通の友人から、ジミーちゃんのお母さまが亡くなったと何年かまえに聞かされたのであった。ジミーちゃんは、ぼくが詩を書くときに、「いま書いてる詩にタイトルつけてよ。さあ、言って!」と言うと、即座にタイトルを言ってくれたり、詩句自体のいくつかも、ジミーちゃんの言動が入っていて、ぼくはそれを逐一、作品のなかで述べていたけど、ジミーちゃんのお母さまも、ぼくの詩作品のなかに何度か登場していただいている。たしか、書肆山田から出した『The Wasteless Land.IV』に収録した詩に書いてたと思う。たしか、こんなセリフだったと思う。「さいしょの雨にあたる者は親不孝者なのよ/わたしがそうだったから/わたしも親から、そう言われたわ。」ぼくって、まだぜんぜんだれにも雨が降っていないのに、さいしょの雨粒が、よく顔にあたったりするんですよねえって言ったときのお返事だったと思うけれど、ふきのとうの天ぷらをつくってくださったときの記憶も目に鮮明に残っている。つぎつぎと揚げていってくださった、ふきのとうの天ぷらを、まだ、あつあつのものを、それに塩をちょこっと振りかけて、ジミーちゃんと、ジミーちゃんのお母さまと、ぼくの三人で食べたのであった。おいしかったなあ。なつかしい記憶だ。 これから夕方まで、『金子光晴詩集』を読む。どんな詩かは、アンソロジーで、だいたい知っているけど、まとめてドバーッと読むのもいい。詩自体に書かれたこともおもしろいところがあるし、そこには付箋をしていて、あとでルーズリーフに書き写すつもりだけれど、自分の記憶にも触れるところが、ふきのとうの天ぷらの記憶のようにね、あると思うので、それも楽しみ。ぼく自体が忘れている記憶が、他者の詩に書かれた言葉から、詩句から、そのイメージから、あるいは、音からさえも、呼び起こされる場合があると思うと、やっぱり、文学って記憶装置だよねって思っちゃう。言葉でできたみんなの記憶装置だ。 4月28日締め切りの原稿の彫琢は、夜にすることにした。いまはとにかく、すいすい読めてる『金子光晴詩集』に集中しようと思う。BGMは Propaganda。Felt。 Lush。Human League。などなど。ポップスにしようっと。 あちゃ~。引用した金子光晴の詩句に打ち込みミスがあった。「朝は味噌汁にふきのたう。」ではなくて、「朝は味噌汁にふきのたう、」句点ではなくて、読点だった。ミスしてばっかり。まるで、ぼくの人生みたい。あ、そりゃ、そうか。打ち込みミスも人生の一部だものね。ワン、ツー、スリー、フォー! ぼくはコーヒーをブラックで飲むんだけど、大谷良太くんはいつも牛乳を入れてる。さいきんは砂糖も入れている。『金子光晴詩集』を読んでたら、240─241ページに、「牛乳入珈琲に献ぐ」という詩があったので、ふと大谷良太くんのコーヒーのことを思い出した。ヘリコプターが上空で旋回している。 恋人たちの姿を見て、「あれは泣いているのか/笑っているのか」と詩に書いたのは、たしかリルケだったか。いや、あれは、泣きながら笑っているのだと、笑いながら泣いているのだと、ぼくの胸のなかで、ぼくの過去の恋を思い出しながら思った。 付箋しようかどうか迷った詩句があったのだが、やはり付箋しておこうと思って、『金子光晴詩集』を読んだところを読み直しているのだが、場所が見つからない。女性の肛門のにおいを嗅ぐ詩句なのだが。(「肛門」は金子光晴のほかの詩句でも出てくる。「肛門」は、彼の詩の特徴的な言葉のひとつだな。) 見つけた! 何を? 詩句を。85ページにあった。「彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ」(金子光晴『航海』第四連・第一行目)これで安心して、250ページに戻って行ける。読み直して、ますます理解したことのひとつ。金子光晴は「肛門」や「尿」という言葉が好きだったんだなってこと。 さっきリルケの詩句を(たぶん、リルケだったと思うんだけどね、記憶違いだったら、ごめんね。)思い出したのは、『金子光晴詩集』の249ページに、「泣いてゐるのか、それとも/しのび笑をこらへてゐるのか。」(『死』第二連・第三―四行)という詩句があったからである。(と、ぜったい思うよ。)同じページには(249ページだよ。)「痺肩のいたいたしいうしろつき」(『死』第一連・第四行)といった詩句があって、この一年、五十肩で痛みをこらえるのに必死だった(痛みどめが数時間で切れるくらいの痛みでね、その痛みで睡眠薬で寝てても数時間で目が覚めてたのね)自分の状況を思い出した。この『死』という詩の第三連・一行目に、「ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。」という詩句があるのだけれど、この言葉は、ほんとに深いね。恋人同士でも、こころが通っていないことってあるものね。それも、あとになってから、そのことがわかるっていう怖さ。深さだな。深い一行だなって思った。 『金子光晴詩集』を読む速度が落ちてきた。詩句の中味が違ってきているのかな。この詩集って、出た詩集の順番に詩を収録しているのかな。しだいに詩句にたちどまるようになってきた。『死』の最終連・第一ー二行である。「しつてくれ。いまの僕は/花も実も昔のことで、生きるのが重荷」こころに沁みる二行だ。なにか重たいものが胸のなかに吊り下がる。「花も実も昔のことで、」という詩句が、ことに胸に突き刺さるが、ぼくにも切実な問題で、56歳にもなって、独身で、恋人もいない状態で、ただ小説や詩にすがりつくことしかできない身のうえの自分に、ふと、自己憐憫の情を持ってしまいそうになる。でも、ぼくはとてもわがままで、どれほど愛していると思っている相手に対しても、すぐに癇癪を起こしてしまって、突然、いっさいの感情を失くしてしまうのである。こんな極端な性格をしている人間を、だれが愛するだろうか。ぼくでさえ、自分自身にぞっとしてしまうのだから。一生、ひとりでよいのだ。 二〇一七年四月二十六日 「ぱんぱん」 いま日知庵から帰った。きょうもヨッパ~。すこぶる気分がよい。これからクスリのんで寝る。寝るまえの読書は『金子光晴詩集』。付箋しようかどうか迷った箇所を見つけたい。やっぱ、ちょっとでも、脳裡にかすめた個所は付箋しなきゃだめだね。帰りの電車のなかで探したけど、見つからない。ふにゃ~。 夢を見た。悪夢だった。気の狂った弟がたこ焼き屋さんで順番待ちしている女子高校生たちの順番を無視して割り込んでたこ焼きを注文して文句を言われて、その女子高校生のひとりを殴ったら女子高校生たちにぼこぼこに殴り返されている夢だった。とても現実感のある夢であったので、じつに情けなかった。 きょうも仕事がないので、夕方まで、『金子光晴詩集』を読むことにする。 付箋しようか迷って付箋しなかった箇所の詩句「深みから奈落が浮かび上がってくる」(だったのだと思う)が、3、4回繰り返し読み直しても見つからなかった。ぼくが勝手にイメージしてつくった言葉なのかな。「僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、」(『寂しさの歌』三)からの。 これから読むのは、岩波文庫の『金子光晴詩集』295ページ。『くらげの唄』から。これはアンソロジーで読んだような気がする。夕方までには最後まで読めるだろうね。夥しい付箋の数。西脇順三郎を読んだときより多いかもしれない。めっちゃ意外。おもしろさの種類がちょこっと違うような気もするけど。 363ページに、「なじみ深いおまんこさんに言ふ」(金子光晴『愛情』46)とあったので、すかさず付箋した。 465ページに、「イヴの末裔はお祖々をかくし」(金子光晴『多勢のイヴに』)という詩句を見つけた。「おそそ」というのは、「おまんこ」のことである。ぼくの父親の世代(いま80歳くらいのひとたち)で使われていた単語だ。めっちゃなつかしい。数十年ぶりに目にした言葉だった。「おそそ」 かといって、同じ詩のさいごの二行はこんなの。 核実験は夢のまたゆめ どこまでつづくぬかるみぞ。 (金子光晴『多勢のイヴに』最終連・第三―四行) ようやく、岩波文庫の『金子光晴詩集』が読めた。後半、付箋だらけ。これから、もう一度、読み直す。よいなと思った詩篇を。 先に、コーヒーをもう一杯、淹れよう。 鼻水が出てて、それがどこまで長く伸びるのかなって見てたら、その鼻水の先っちょが『金子光晴詩集』のページの耳のところに落ちてしまって、4、5ページにわたって鼻水が沁み込んでいた。すぐに気がつかなかったからなんだけど、すぐに拭いてても悲惨なことになっていたような気がする。しょんぼり。いったん詩集を閉じて、コーヒーを飲んでいたので沁み込んでいたのだね。いまそこのところを見直してたら、ぼくの表現がおかしいことに気がついた。4、5ページじゃなくて、4、5枚ね。表裏に沁み込んで、その部分波型になっているし。落ちた場所なんて、ひっぺがすときにちょこっと破れかけてたし。ああ、でも、ぼくは、こんなささいな、ちょっとしたことでも、人生においては、大事な成分だと思っているし、そのちょこっと破れかけたページや、波型になってしまったページの耳をみるたびに、自分の失敗を思い出すだろう。以前に、ページのうえにとまった羽虫を手ではらうと、羽虫の身体がつぶれて、ページの本文の詩句のうえを汚してしまったことを、いつまでも憶えているように。たしか、夏に公園で読んでいた岩波文庫の『ジョン・ダン詩集』だったと思う。これは、2度ほど詩に書いたことがある。河野聡子さんが編集なさったご本に、「100人のダリが曲がっている。」というタイトルで掲載していただいたはずなのだけど、ちょっと調べてくるね。(中座)二〇〇九年十二月六日に発行された、『ジャイアントフィールド・ジャイアントブック』という、とてもおしゃれな装丁とカラフルなページのご本でした。ぼくの「100人のダリが曲がっている。」は、26ページに掲載していただいている。 あつかったコーヒーが少しさめてぬるくなった。ちょうどいいぬるさだ。岩波文庫の『金子光晴詩集』の気に入った詩を再読しよう。音楽といっしょで、よいなと思うと、繰り返し読んでしまうタイプの読み手なのだ。小説でも、ジーン・ウルフとか、フランク・ハーバートとか、3回以上、読み直ししている。 そいえば、きのう、日知庵で、ぼくが読んでる『金子光晴詩集』に収録されている詩のなかに出てくる「ぱんぱん」という言葉について、えいちゃんに、「えいちゃん、ぱんぱんって言葉、知ってる?」って訊くと、「えっ、なにそれ。」という返事がすかさず返ってきたのだけれど、カウンターのなかで洗い物をしていた従業員のいさおさんが、「売春婦のことですよ。」と間髪入れずに答えてくれたのだった。すると、えいちゃんも、「思い出した。聞いたことがあるわ。」と言ってたのだけど、ぼくは、「そうか、ぼくが子どものときは、よく耳にする言葉だったけどね。あの女、ぱんぱんみたいって言うと、パン2つでも、おまんこさせるって感じの尻軽女のことを言ってたんだけどね。」と言うと、いさおさんが、「ぼくは違うと思いますよ。パン2つで、じゃなくて、これですよ、これ。」と言って、洗い物をやめて、くぼめた左手に開いた右手をあてて、「パンパン」って音をさせたのであった。「そう? 音なの?」って、ぼくは、自分が聞いた話と違っていた説明に、「なるほどね。セックスのときの音ね。気がつかなかったけれど、なんか納得するわ。」と言った。どちらがほんとうの「ぱんぱん」の説明かは知らないけれど、終戦直後にはよく街角に立っていたらしい。つい最近もツイートで、写真をみたことがある。ぱんぱんと思われる女性が街角に立って、ちょっと背をかがめて、紙巻たばこを口にくわえて、紫煙をくゆらせていたように記憶している。ぱんぱんか。ぼくの父親は昭和11年生まれだったから、じっさいに、ぱんぱんを目にしていたかもしれないな。いや、きっと目にしていただろう。文学は記憶装置だと、きのうか、おとついに書いたけれども、じっさいに自分が目にしていなかったことも、それは写真などで目にしたもの、書物のなかに出てきた言葉として記憶したものをも思い起こさせる記憶装置なのだなって思った。いさおさんが、日本の任侠映画にも出てきますよと言ってたけど、日本の任侠映画って、ぼく、あまり見た記憶がなくって、はっきり思い出せなかったのだけれど、そう聞かされると、数少ない目にした任侠映画に、ぱんぱんという言葉がでてきたかもしれないなあと思った。これって、なんだろう。はっきりした記憶じゃなくて、呼び起こされた記憶ってことかな。わからん。 いま王将に行って、遅い昼ご飯を食べてきたのだけれど、そだ。きのう、日知庵で、金子光晴の詩に「ぱんぱん」という言葉がでてきて、そのこと、きのうしゃべったぞと思い出して、帰ってきたら、ツイートしなきゃって思って、王将でペンとメモ帳を取り出して、記憶のかぎりカリカリ書き出したのだった。いや~しかし、いさおさんの説明、説得力があったな。「ぱんぱん」という音がセックスのときの音って。音には断然たる説得力があるね。パン2つでという、ぼくの説明が、しゅんと消えちゃった。まあ、そういった音も、ぼくにかぎっては、ここさいきんないのだけれど。さびしい。なんてことも考えてた。まあ、また、いさおさんが、洗い物をした直後で、まだ水に濡れている手で、「ぱんぱん」という音をさせたので、おお、そうか、その音だったのだって思ったこともある。あのいさおさんの手が濡れていなかったら、あまり迫力のない「ぱんぱん」という音だったかもしれないので、状況って、おもしろいね。いま何日かまえに見たという、ぱんぱんの画像をツイッターで調べてみたんだけど、数日まえじゃなくて、10日まえの4月16日の画像だった。記憶ってあてにならないね。あ、あてにならない記憶って、ぼくの記憶のことだけどね。ぴったし正確に憶えていられる脳みその持ち主だって、きっとたくさんいらっしゃるのだろうしね。56歳にもなると、ぼくは、自分の記憶力に自信がすっかりなくなってしまったよ。付箋し損なったと思っていた金子光晴の詩句だと思っていた「海の底から奈落が浮かび上がってくる」も、金子光晴の『鮫』三にある「おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。」という詩句か、『寂しさの歌』三にある「僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。」という詩句から、ぼくが勝手につくりだしたものかもしれない。うううん。こんなことがあるあら、ちょっとでも意識にひっかかった個所は、かならず付箋しておかなけりゃいけないね。ほんと、うかつ。これからは、気をつけようっと。 ぼくが金子光晴の詩を、この岩波文庫の『金子光晴詩集』から一篇を選ぶとしたら、まえに引用した、あのうんこの詩「もう一篇の詩」か、つぎに引用する「死」という詩かな。 金子光晴 「死」        ━━Sに。  生きてるのが花よ。 さういつて別れたおまへ。 根さがりの銀杏返し 痺肩のいたいたしいうしろつき。 あれから二十年、三十年 女はあつちをむいたままだ。 泣いてゐるのか、それとも しのび笑をこしらへてゐるのか ああ、なんたる人間のへだたりのふかさ。 人の騒ぎと、時のうしほのなかで うつかり手をはなせば互ひに もう、生死をしる由がない。 しつてくれ。いまの僕は 花も実も昔のことで、生きるのが重荷 心にのこるおまへのほとぼりに さむざむと手をかざしてゐるのが精一杯。 うんこの詩もすばらしいが、この実存的な詩もすばらしい。岩波文庫の『金子光晴詩集』は、清岡卓行さんの編集が入っているので、その目から逃れた詩篇についてはわからないけれど、「もう一篇の詩」か、「死」のどちらかが、ぼくの選ぶ「金子光晴ベスト」かな。 これからお風呂に入ろう。それからコーヒーを淹れて、ちょっとゆっくりしよう。 コーヒーを先に淹れた。 遅がけに、日知庵に飲みに行くことに。10時くらいに行くと思う。きょうは、自分の鼻水で遊んでいて、岩波文庫の『金子光晴詩集』のページを(耳のところだけどね)傷めてしまって、自分で自分を傷つけたことにショックを受けたけど、いい勉強になった。自分の鼻水では、もうけっして遊ばないこと。 二〇一七年四月二十七日 「金子光晴の詩」 きのう、岩波文庫の『金子光晴詩集』で、付箋した箇所をツイートしてみようかな。こんなの、ぼくは選んでるってことで、ぼくの嗜好がよく出ているんじゃないかな。まあ、いろいろな傾向のものが好きだけどね。きょうは休みだから、ひまなんだ。 金子光晴 「章句」F 落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる 落葉は今一度青空に帰らうと思つてゐる 金子光晴 「渦」 馬券をかふために金のほしいやつと 金がほしいために馬券を買ふやつとの 半分づつの住居なのだ。 金子光晴 「渦」 あゝ渦の渦たる都上海 強力にまきこめ、しぼり、投出す、 しかしその大小無数の渦もやうは 他でもない。世界から計上された 無数の質問とその答だ。 金子光晴 「路傍の愛人」 危い! あんまりそばへ寄ると 君は一枚の鱗(うろこ)を残して、姿を消してしまふかもしれない。 金子光晴 「路傍の愛人」 だが、彼女はしらない。彼女の輝やくうつくしさが、 俺のやうなゆきずりの、張(ちやう)三(さん)李(り)四(し)の、愛慕と讃嘆と、祝福とで、 妖しいまでに、ひときは照りはえたあの瞬間を。 金子光晴 「航海」 彼女の赤い臀(しり)の穴のにほひを私は嗅ぎ 前(ぜん)檣(しやう)トップで、油汗にひたつてゐた。 金子光晴 「南の女におくる」 人は、どんな小さな記憶でも、摑んでゐるわけにゆかない。 金子光晴 「夜の酒場で」 ながれ汚水。だが、どこかへうごいてゐないものはない。私はひとり、頬杖をついて、 金子光晴 「おっとせい」二 (…)やつらは、みるまに放尿の泡(あぶく)で、海水をにごしていった。 金子光晴 「泡」三 (…)らんかんにのって辷りながら、おいらは、くらやみのそこのそこからはるばると、あがってくるものを待ってゐた。 金子光晴 「どぶ」一 ━━女ぢゃねえ。いや人間でもねえ。あれは、糞壺なんだ。 金子光晴 「あけがたの歌」序詩 一  どつかへ逃れてゆかうとさまよふ。  僕も、僕のつれあるいてゐる影も、ゆくところがない。 金子光晴 「落下傘」一 おちこんでゆくこの速さは なにごとだ。 なんのあやまちだ。 金子光晴 「寂しさの歌」三 僕らの命がお互ひに僕らのものでない空無からも、なんと大きな寂しさがふきあげ、天までふきなびいてゐることか。 金子光晴 「蛾」一 月はない。だが月のあかるさにみちてゐた。 金子光晴 「子供の徴兵検査の日に」 身辺がおし流されて、いつのまにか おもひもかけないところにじぶんがゐる 金子光晴 「女たちのエレジー」 (…)釦穴にさした一輪。あの女たちの黒い皺。黒い肛門。 金子光晴 「女の顔の横っちょに書いてある詩」 三十年後のいまも猶僕は 顔をまっ赤にして途(と)惑(まど)ふ。 そのときの言訳のことばが いまだにみつからないので。 金子光晴 「[戦争が終ったその日から]」 ぱんぱんはそばの誰彼を 食ってしまひさうな欠伸をする。 この欠伸ほどふかい穴を 日本では、みたことがない。 金子光晴 「くらげの唄」 僕? 僕とはね、 からっぽのことなのさ。 からっぽが波にゆられ、 また、波にゆりかへされ。 金子光晴 「ある序曲」 すでに、僕らは孤独でさへありえない。死ぬまで生きつづけなければならない。ごろごろいっしょに。 そして、真似なければならない。することも考へることも、誰かにそつくりゆずりわたすために。 金子光晴 「太陽」 濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる ……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。 暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の 居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。 金子光晴 「太陽」 濡れた舌で、草つ葉が、僕の手をなめる。 ……土管と、塀が、一つところに息をあつめる。 暗渠のなかでころがり廻る白髯の太陽の 居どころをしつてゐるのは、僕より他にない。 金子光晴 若葉よ来年は海へゆかう」 海からあがってきたきれいな貝たちが、若葉をとりまくと、 若葉も、貝になってあそぶ。 金子光晴 「愛情」8  なにを申しても、もう 太真はゐない。  あのお尻からもれる 疳高いおならを、  一つ、二つ、三つ、四つと そばで数取りしてゐた頃の 万歳爺々(くわうてい)のしあわせは 四百余州もかへがたかつた。 金子光晴 「愛情」29  〝唇と肛門とは親戚だ〟と、 いくら話しても、その男には分らない。 金子光晴 「愛情」46  みんな、ばらばらになるんだね。 もう、洋服もつくつて貰へなくなるね。 ジョーさんよ、いづれは皆さやうならだ。 太陽も、電燈も、コップの水も。  みんな君が愛したものだ。酒も、詩も、 それから、大事なことを忘れてはいけない。 君だけをたよりに生きてきた奥さんの なじみ深いおまんこさんに言ふ        サンキュー・ベリマッチを。 金子光晴 「海をもう一度」  あくと、あぶらと、小便で濁つた海は 海亀と、鮫と、しびれえひしか住めない。 金子光晴 「女の一生を詩(うた)ふ」 それは、男と女とは、人間であることでは平等だが、 おなじものを別の感性で受けとり、 おなじことばで、別のなかみを喋(しやべ)る。 金子光晴 「雨の唄」 君のからだのどのへんに 君がいるのだ? 君を見失ったというよりも 僕はまだ、君をみつけなかった。 金子光晴 「雨の唄」 僕の胸のなかに這ういたみ それが、君ではないのか。 たとえ、君ではないにしても 君が投げかける影ではないか。 金子光晴 「雨の唄」 君は単数なのか。複数なのか。 きのうの君ははたして、きょうの君か。 いつともしらず、刻々に蒸発して 君の若さは、交代してしまう。 金子光晴 「短詩(三篇)」B  人間がゐなくなつて、 第一に困るのは、神様と虱だ。 さて、僕がゐなくなるとして、 惜しいのは、この舌で、 なめられなくなることだ。  あのビンもずゐぶん可愛がつて、 口から尻までなめてやつたが、 閉口したことは、ビン奴、 おしゃべりで、七十年間、 つまらぬことをしゃべり通しだ。 金子光晴 「短詩(三篇)」C  そして、僕はしじんになった。 学問があひてにしてくれないので。 ビンに結んだ名札を僕は、 包茎の根元に結びつけた。 金子光晴 「そろそろ近いおれの死に」 詩だって? それこそ世迷ひごとさ。 金子光晴 「反対」 人のいやがるものこそ、僕の好物。 とりわけ嫌ひは、気の揃ふといふことだ。 金子光晴 「反対」 ぼくは信じる。反対こそ、人生で 唯一つ立派なことだと。 反対こそ、生きてることだ。 反対こそ、じぶんをつかむことだ。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」A 枝と枝が支へる沈黙のほか からんとして、なんにもない。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」E  健全な白い歯並。こいつが第一だ。ぬれて光る唇。漆戸棚のやうな黒光りする頑丈な胃。鉄のやうなはらわた。よく締まつた肛門。  さあ。もつてらつしやい。なんでもたべるわ。花でも、葉でも、虫でも、サラダでも、牛でも、らくだでも、男たちでも、あしたにならないうちに、みんな消化して、ふというんこにしておし出してしまふから。  そんな女に僕は、ときどき路傍ですれちがふんだが。 金子光晴 「短章(二十三篇から)」W  冒頭もなく、終もなく、人生はどの頁をひらいてみても人生であるやうに 僕らはいつも、路の途中か、考の途中にゐる。 一人の友としんみり話すまもないうちに生涯は終りさうだ。 そののこり惜しさだけが霧や、こだまや、もやもやとさまよふものとなつてのこり、それを名づけて、人は〝詩〟とよぶ。 金子光晴 「そ ら」 生きてることは せうことない 肌でよごす肌 ふれればきずつく心 金子光晴 「多勢のイブに」  イブの末裔はお祖々をかくし 棕(しゆ)櫚(ろ)の毛でぼやかしてアダムを釣り 沼辺の虫取りすみれを植ゑて アダムの塔をHOTHOTさせる。 金子光晴 「わが生の限界の日々」  四十、五十をすぎてからの日々の迅速さ。 メニューを逆さにして下から上へと、 一度抜(ぬ)けたら生え替(かは)らないこの歯ぐきで 人生を味ひ通す望みがあるか、ないか、           炎天下で、垂氷(つらら)の下で。 4月28日締め切りの原稿も彫琢しまくって、ぴったし制限文字数で書いたのだが、これから王将でお昼ご飯を食べに行って、帰ってきたら、もう一度、原稿に目を通して、思潮社の編集長の高木真史さんにワード原稿をメールに添付して送付しようっと。 もういま、完成した原稿を高木さんに送ったので、きょうはもう、することがない。金子光晴の詩句をルーズリーフに書き写そうかな。それとも、ちょっと休んで、横になって、本でも読むか。まず、とりあえず、コーヒーでも淹れよう。 送った原稿にアラビア数字が漢数字に混入していたので、訂正稿をいま送り直した。どんだけ間抜けなのだろうか。文章の内容ばかりにとらわれて、文字の統一を失念していた。まあ、その日のうちに、気がついてよかったけれど。送ってからでも原稿の見直しをしてよかった。というか、推敲を完璧にすべき! 晩ご飯を食べに出る。イオンで、チゲラーメンでも食べてこよう。 焼き飯も食べた。 ルーズリーフ作業終了。これから寝るまで読書。さて、なにを読もうか。ディックの短篇集『ペイチェック』に入っているものを読もう。さいきん知ったコメディアン二人組「アキナ」がおもしろい。直解主義的な言葉のやりとりが見事。 きょうも文学に捧げた一日であった。おやすみ、グッジョブ! 二〇一七年四月二十八日 「毎日のように日知庵」 これからお風呂。そして仕事に。 あしたも日知庵に行くと思うけど、きょうも、10時くらいに行く予定。飲んでばっかりや。ちゅうても、きょうも授業の空き時間は読書。ディックの短篇の再読。 二〇一七年四月二十九日 「きょうは、ひとりじゃないんだよ。えへへ。」 日知庵に行くまえに、ジュンク堂で、現代詩手帖の5月号の「詩集月評」を見た。ぼくの詩集『図書館の掟。』(思潮社オンデマンド・2017年2月刊行)の評を、時里二郎さんが書いてくださっていた。詩句の一行の引用もなく。というか、詩句のひと言の引用もなく。まあ、いいか。採り上げていただくだけでも。ね。これが無名の詩人のさだめかな。 いま日知庵から帰った。ひとりじゃないんだよ。えへへ。 二〇一七年四月三十日 「ゲイルズバーグの春を愛す」 ジャック・フィニイの短篇を読もうと思う。きのう、フィニイの『ゲイルズバーグの春を愛す』のトールサイズの文庫をブックオフで108円で買ったのだった。ほとんどさらの状態。 フィニイの短篇集、会話がほとんどなくって読みにくいけれど、このあいだ現代日本の作家の小説を開けたら会話ばっかりだったので、それも勘弁してほしいと思った。適当に、まぜまぜしたものが読みたいと思うのだが、極端な作家が多いのかな。 イオンでチゲラーメン食べてきた。これから読書に戻る。フィニイ。 二〇一七年四月三十一日 「ほんとうに文章って、怖い。」 いまも原稿に手を入れていた。いったん高木さんにお送りした原稿なのだけど、書き直しをしているのだ。さっき完璧だと思っていたのに、まださらによい原稿になっていく。怖いなあ、文章って。ちょっと休憩しよう。セブイレに行って、おにぎりでも買ってこようかな。 原稿、まだ手が入る。ほんとうに文章って、怖い。 ちょっと休憩しよう。言葉を切り詰めて切り詰めていると、頭がキリキリと傷む。とても単純なことを書こうとしているのだけれど、それがひじょうにむずかしいのだ。



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作品データ

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作成日時 2022-01-03
コメント日時 2022-01-03
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2024/04/19現在)投稿後10日間
叙情性00
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エンタメ00
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叙情性00
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2024/04/19 22時19分09秒現在
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