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DO_NOT_CROSS_THE_BORDER
《くは》と呼ばれる《くま》がいた。《くは》と呼ばれるには理由があった。動物分類学上は《くま属》でありながらも、《くま》としての特徴が皆無であったのだ。はちみつは好きでなかった。むしろ、冷奴などのあっさりした食べ物を好んだ。シャケは好きでなかった。むしろ、とりあえずビールを頼みたがる習性があった。人を襲うことはなかった。むしろ、強者には揉み手する一方で、弱者には踏ん反り返る傾向があった。珍奇な《くは》を見世物にしたいという声もあったが、テディーベアを好むタイプの《JK》からは、「競馬場とかによくいる類の、小汚いハゲオヤジにしかみえない」とウケが悪く、女性客を取り込みたい昨今の動物園に受け入れられるはずもなかった。 《はんだ》と呼ばれる《ぱんだ》がいた。《はんだ》と呼ばれるには理由があった。《ぱんだ》としての特徴をすべて兼ね備えていながら、動物分類学上は《ぱんだ》ではなかったのだ。《ぱんだ》ではないのに、笹しか食べることができなかった。《ぱんだ》ではないのに、繁殖力に難があった。《ぱんだ》ではないのに、白黒の体毛があり、《ぱんだ》の代わりに動物園に置いても、誰も異変に気づかなかった。よって、《リンリン》とか《ランラン》といった通名を付与されることが多かった。本当は《ぱんだ》じゃなくて《はんだ》なんです、と言ったところで、動物分類学者以外、誰も信用することはなく、《はんだ》としての珍奇さで、世に訴求することは不可能であった。 《くは》と《はんだ》を掛け合わせたらどうなるか。奇書《ダーウィンの悲劇》により、動物分類学の草分け的存在となった半田熊雄氏の考えそうなことである。《くは》と《はんだ》を分類したことで名を馳せた半田氏ではあったが、《マッドサイエンティスト》としての側面を持つ半田氏は、《くは》と《はんだ》を交配し、血統を根絶やしにしてみたいという誘惑に打ち勝つことができなかったのだ。《JK》のポニーテール用の紐を窃盗した上で、色、サイズ別に分類する趣味など、《異常性欲者》に属する半田氏ではあったが、菩薩のようなベビーフェイス、反社勢力との黒い繋がり、スカトロ男優としてのカルト的名声、潔癖症ゆえのパニック障害、などにより、動物分類学会の中では畏怖される孤高の存在であった。であるからして、半田熊雄氏が、《くは》と《はんだ》を交尾するか死ぬかするまで、小部屋に押し込んでみたい、と主張したところで、反対できる者などいるはずもなかった。 しかしながら、主として、繁殖力に難のある《はんだ》のせいで、交配は難航を極めた。そうこうするうちに、ストレス性胃腸炎を拗らせて、《はんだ》は死んだ。いくら競馬で借金を拵え、反社勢力に追われる身とはいえ、《くは》と呼称され、《ぱんだ》との性行為を要求されるのは、《ヒト》として耐えられない、と言い残して、《くは》もストレスで死んだ。理由は良くわからないが、半田熊雄氏もストレスで死んだ。「すべての動物はどうせ死に絶える運命にあるが、だからこそ分類し、記録することに意味がある」という半田氏の遺志を引き継いだ弟子の盤田氏によって、《シンダ》という名の新種が分類されたとの報告がある。その《シンダ》も死んだとの報告が上がっているが、真偽のほどはわからない。《シンダ》が死んだところで、《ナンダ》というのだろう。
作成日時 2017-06-02
コメント日時 2017-07-11
DO_NOT_CROSS_THE_BORDER ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 637.6
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
項目 | 全期間(2022/05/21現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
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可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
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構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
読み落していました・・・ループ詩、と呼ぶには「起承転結」の色彩が濃いですね・・・。音の(音読の)面白さよりも、ナンセンスな理屈っぽさの方に重きを置いたのか・・・ おそろしく緩いカテゴリーを設ければ、その中に全てが包接されてしまって、差異や特質が見えにくくなる。 かといって、狭い範疇に絞っていくほど、こぼれ落ちていくものが多くなる・・・。個物の個性を認めようとすれば、必ずそこには、陰にしろ陽にしろ、他との比較が前提となる。他との具体的な比較をしないのであれば、抽象的な語彙のみで特質を述べる他はなく・・・個物の個性を明らかにしようとすればするほど、曖昧で抽象的な思考に頼るか、限りなく類似する他の個物との比較に頼り、細分化していく他はない・・・ 個物と個物とが出会って、化学反応を起こすように、あるいは「交配」「交接」「交歓/交感」によって、それぞれの特徴を融合させたり変容させたりしていく、そのことによって新たなものが生まれ出る可能性と・・・出会うことによって否定しあい、拒絶しあい、消滅していってしまう可能性と・・・シンダ、ナンダ、それがどうした。無理やり小部屋に詰め込んで、化学反応を強制する、これほど無意味で暴力的な行為はないですね。 風の吹き通う平野のような場所で、自由に訪れ、自由に去る。その中で出会い、惹かれあい、なにか新たな「いのち」が生まれ、それがまた空に帰っていく、そんな景に憧れます。
0くは は自分のことじゃないかと思うほど引き込まれました。ひともそのかたちだけで生きているんじゃないなぁ とか、堪能しました。
0>まりもさん レスつけてくださりまして、ありがとうございます。自分で言うのもあれですが、どうしようもない一作なので、大変レスをつけるのも、評をつけるのも、厳しい感じの一作だったのではないかと申し訳なく感じております。私は、ハードテクノとか、ハードハウスとか、ノイズ音楽とか、どうしようもない感じの音楽とも言えないようなサウンドに耽溺してきたような人間ですので、この手の、どうしようもない一作しか書けないというのが実情です。ものを書くと言うのは、差異を演出していくことでもあるかと思うのですが、このご時世に、ものを書くという行為は、差異のないところに無理やり差異を生み出したり、差異しかないところで、差異がないと言い張ったりする行為に似ているような気もしている次第です。
0>仲程さん お読みくださり、ありがとうございました。そうですね、キャラクター、と言う言葉は、半ば、和製英語となっていて、私はこういうキャラなんで〜とか、あいつはああいうキャラだから〜とか、よく使ったりしますが、ある種、キャラという枠に人間を分類しているとも言える気がします。良くも悪くも、分類に基づかないと、コミュニケーションが取れなくなってきているというか。最近、分類することの中身の無さについて、考えたりします。お褒めの言葉頂戴し、嬉しく思いました。
0こんにちは。 湾岸戦争からそれはどたっていない頃だったと思うのですが、四元康祐さんによる「世界中年会議」という詩集が世に出ました。 私自身が、若い衆から『おつさん』に脱皮というか變態というのか、変わりつつあったころで、カフカや安部公房とともに、おっさん化の美学について私が考えるとき、必ず立ち戻る地点となりました。 ひとは乙女というくくりで人間を束ねることに対しては、流されるなり、反抗するなり、積み重ねがありますが、おっさんでくくられることにはまだ慣れていません。 ビンラディンも、ミックジャガーも、駅員も、(もしまだ存在してるなら)イエスも、おっさんであることの悲哀において同質であり、それをカテゴライズすることは、世界には非おっさんなものもあるけど、吾はおっさん道を征くしかあるまい的な諦めを私にもたらすのですが、悪くないですね。 この詩には、それがそこはかとなく漂うのを感じ、愉しみました。死して屍ひろうものなし。それがおっさんの生きる道、なのである以上、半田も熊も我等の同輩です。
0ボルカさん、コメントありがとうございます。お読みいただき嬉しく思います。まるで落書きのように、詩情を込めず(あるいは込めること叶わず)、書き散らかした拙作に比べて、ボルカさんのレスは詩情がありますね。詩力の差を感じました。多謝。
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