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作成日時 2018-03-10
コメント日時 2018-03-28

アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしているから、 私たちは詩を書こう それとも 聖母マリアを強姦しに行こうか 首を吊られたくなかったあなたが 首を吊りたくない私に 何かを語りたがる夜 私は雨に溶ける街を歩く 踏切の向こうを 轟音をたてて通り過ぎる列車の野蛮 それを送りだした勤勉な駅員の制服 小林多喜二が虐殺された時空で ジョバンニがカンパネルラに 思想とは無思想だと 無思想にしか思想はないのだと それでも無思想は思想なのだと打ち明ける だから私は 雨の夜、凍えながら 星の下を歩く


項目全期間(2019/11/18現在)投稿後10日間
叙情性55
前衛性00
可読性22
エンタメ11
技巧2020
音韻00
構成11
総合ポイント2929
 平均値  中央値 
叙情性55
前衛性00
可読性22
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閲覧指数:369.1
2019/11/18 08時51分27秒現在
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コメント数(14)
蛾兆ボルカ (2018-03-10):

注1)アウシュビッツ以後〜 あるテキストからの引用 注2)聖母マリアを〜 別のあるテキストからの引用

渡辺八畳@祝儀敷 (2018-03-10):

1は夜と霧ですかね。題名からもそうだし

蛾兆ボルカ (2018-03-10):

このテキストには出典が示されていませんので、このテキスト(注を含む)のその文が示していることの言語学的な解釈としては、他のあらゆるテキストが出典の可能性があると解釈するのが妥当と思います。 文学的には、その注1で示したのは「夜と霧」ではなく、他のテキストを指していると解釈するのが妥当なのではと思います。

藤 一紀 (2018-03-10):

アドルノ~。 と、とりあえず。

蛾兆ボルカ (2018-03-10):

そう解釈するのは文学史的に妥当だと思いますし、上述のとおりでして、詩のレトリックとして解釈する上では、作者からはなんとも言えません。

藤 一紀 (2018-03-10):

アウシュビッツ以後、特に21世紀以降は、9.11など想像を超える現実が外部からもたらされて、そうしたものの前に、詩のみならず、多方面で発言力が弱まったことを思い出しました。かつては詩作品が現実と拮抗するとか、詩人は予言するなどという言説を目にしたことがあったけれども、そうした想像が追いつかない現実が世界を覆ってしまった。となると、野蛮を認めつつも、というかむしろ、野蛮であるからこそ、詩を書くというその暴力性こそが、生きていく上で、外部からの力に易々と呑み込まれてしまわないための「抵抗」となりうる。その折れることを拒む強さを感じました。 それから、この作品でハッとして年譜を確認してみて、初めて知ったのですが、多喜二と賢治は、同年の1933年に亡くなっているんですね。文学史的に並べて語られる場面がなかったとはいえ、これには驚きました。多喜二を思想に殉じたと言っていいのかはわからないけれども、単なる思想ではなく行動によって殺されるはめになった。ジョバンニ(賢治)は「すべてひとのさいはひ」を口にしていて、このあたりはもしかしたら多喜二と思想的には通底しているように思えるけれども、多喜二は、拠って立つひとつの思想に身を傾け、賢治はそれぞれの思想がみんなひとつのところからくればいいと考えていて、そうとなれば、賢治の思想は、ひとつの思想に身を寄せない無思想ともいえるもので(宗教的思想ではあるけれども)、体制に対しては多喜二のように身を呈して抵抗するところはなかった。それでもそれだって思想なのさ、とジョバンニが語っているように感じられて、多喜二も救いようがなかったけれども、ジョバンニもまた救いようがなく思いました。 結局のところ、外部に対しては、思想も言葉も詩も救いようのないところまできているのかもしれないけれども、それゆえに《聖母マリアを強姦》するのと同等の暴力性を引き受けつつ書くことには、詩の現代的な意義や価値があるように思います。

蛾兆ボルカ (2018-03-11):

藤一紀さん ご批評ありがとうございます。 カンパネルラがザネリを救おうとして死亡するのは、事故です。 ですが、ジョバンニがカンパネルラに質問して、カンパネルラが、「お母さんに申し訳ない。でも許してくれると思う。」というようなことを語るシーンがあります。 深い解釈をありがとうございました。

るるりら (2018-03-19):

とても気になる詩文を拝読させていただきました。 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。」私にとって  この言葉は、東北の震災のころに 様々な形で目にした文言です。あのとき多くの人が言葉を失ったのだと思います。 今日散歩をしながら この詩のイメージを回想しておりましたら ペットの後始末をよびかける看板をみまして、戦後の後から始まった事柄の末を つい思い その場に立ちすくんでしまいました。累々と重ねられる大虐殺は ぬぐうことのできない傷を人々の心に追わせているに違いありません。聖母マリアを強姦しに行こうかとは また男性らしい表現をされているけれど、長崎の場合は実際に聖母マリアは黒焦げになりました。ほんとうに野蛮な20世紀です。 検索してみて気が付いたのですが、1933年は 小林多喜二と宮澤賢治が逝去した年であると同時にナチスが成立した年だと知りました。 小林多喜二が虐殺された年 1933年(昭和8年)2月20日 宮澤賢治が逝去したのは - 1933年9月21日  ナチ党政権下で初めて行われた選挙が1933年3月5日に行われて ナチス政権下で「民族および国家の危難を除去するための法律(全権委任法/授権法)」が施行されたのが1933年3月24日 野蛮としか言いようのないことがらであり、戦後何年経とうと 人々の心の傷は癒えていないとは思います。でも、それでもパウル・ツェランを 初めに 多くの詩人たちは詩を書き続けてきた。まるで、人々の精神を開墾しなおしてきたかのようです。 踏切の向こうを 轟音をたてて通り過ぎる列車の野蛮 それを送りだした勤勉な駅員の制服 ↑ この箇所では、アウシュヴィッツに運ばれる人々のことを想起いたしました。 フランスでは、ナチスの制服が茶色だったため茶色を 毛嫌いする風潮があるそうです。 フランク・パヴロフは『茶色の朝』という作品の中で、茶色のペット以外を殺す制度ができた話を書いていると ききました。 絶望的な過去があります。しかし、この詩には ちゃんと救いも用意してくださっています。 ジョバンニがカンパネルラといえば 銀河鉄道の夜ですね。  思想とは無思想だと 無思想にしか思想はないのだと それでも無思想は思想なのだと打ち明ける ↑ここが、 蛾兆ボルカさんの最も表現されたい部分なのでしょう。 ファシズムとか そのほかの様々なイデオロギーの否定。 銀河鉄道の夜といえば、タイタニック沈没の乗客も登場していました。 無垢な精神のジョバンニとカンパネルラの語らい。それが、無思想。 ブルジョワがどうのこうのという資本主義のもたらす闇のことも、 あるような気がしました。 無の心で 無垢な真摯な眼で 詩作するならば、 さいわいをもたらす方法は きっとあるのだと 私は思います。 蛾兆ボルカさん? 蛾兆さんは もっともっと書かねばならないです!

るるりら (2018-03-19):

あ。藤さんと 同じ考察をしておりました。重複し 大変失礼いたしました。

蛾兆ボルカ (2018-03-26):

るるりらさん ご批評ありがとうございます。 同人誌で付き合いのある先輩の詩人たちが、第二次大戦のことをよく話してくれるのですが、日本では一夜で変わったのだそうです。 その前夜まで横浜ではダンスクラブで男女が踊っていた。 だけど次の日から、誰も彼もがそんなことは知らなかったかのように、体制に順応した。 恐ろしいことです。 1933年、何があったのかを私はすつかり忘れていて、この詩を書きました。 でもたぶん知ってはいました。 日本人は、ナチスが全権掌握する前に小林多喜二を殺したのですね。ファシズム先進国です。 そのことを私は知っていた(だからこそこの詩が生まれた)のに、ご指摘いただくまで自覚しませんでした。 先に進めます。いろんなことが見えました。 ありがとう。

まりも (2018-03-28):

鮮烈な作品ですね。 聖なるもの、真善美の象徴であるかのような「聖母マリア」という・・・実体のない、観念のようなものを、言葉としては極めて「野蛮」かつ暴力的な表現、強姦しにいく、という表現をあえて用いる、ということ。そして、その用い方さえも、まるで日常用語のような(散歩に行こうか、というような)軽さで用いている、ということ。 言葉そのものを、(作品の中で)暴力的に扱う、ということの実際を示しつつ・・・一見、反論しがたいような「正論」「正義」「善」なるものに潜む暴力性を照らし出しているように思いました。 当事者でない者は、語るべきではない、それが「人間としての」道義である、というようなことがしばしば(震災の折に)言われましたし・・・震災をとらえて「機会詩」のように、それを詩作の素材、として用いることの道義性も、しばしば問われたけれども・・・その時に、確実に立ちふさがるものがあった。それは、正義、善、良心、といった言葉に還元される、~すべきではない、という観念、目に見えない圧のようなものでした。 当事者でなくとも、その時の心象を残しておくことに、記録としての価値がある、というようなことも議論されたし・・・震災前に、あくまでも「比喩」として用いられた「津波」(津波がわたしの心にやってきて、根こそぎ押し流していった、というような、失恋の歌)が、震災以降は(あの災禍を思い出させずにはいられないから)震災のイメージから離れて読むことができなくなってしまった、そうなると、軽々しく「津波」を用いることに懸念や違和感を感じる、といった「議論」もありました。「機会詩」で儲けることはどうなんだ、といった、ほとんどやっかみや嫉妬にも類する批判、非難も飛び交っていた・・・。 ボルカさんの「今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。」この一行は、とても重要だと思いました。私たちは、その時に「善」である、「正義」である、「道理」である、とされる目に見えない、大きな波に・・・ボルカさんの言葉を借りれば、「いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしているから、」押し流されていく、呑み込まれてしまうこともある。 開戦前後の『改造』などの記事を順に閲覧していて・・・欧米各国、特にアメリカは、太平洋の制海権を掌握し、アジアを経済的奴隷の地位に貶め、搾取しようとしているのを阻止しなければならない、という論理が、かなり説得力のある記事として、いわゆる文化人たち(インテリゲンツィアを自称し、国を導いていく立場にある、という矜持を少なからず持っていた人たち)を「侵蝕」していたことを知りました。賢治も、もう少し長生きしていたら・・・彼の信じるところに従って、現在であれば極右と呼ばれるような団体の中核で活動する思想家になっていたかもしれません。賢治の言う通りの施肥や作業工程を用いて農作業を改革しようとして、疲弊していった農民たちもいたこと(賢治の意図ではなかったにせよ)その矛盾についても、考え続けています。自分が正しい、善である、と信じる、そのこと自体を疑う視座を持ち続けることの、難しさ。 たかが詩、されど詩。これは真である、と他方で信じつつ、これは偽なのだ、単なる楽しみによる手すさびなのだ、という「うそぶき」もまた、詩作において忘れてはならない視点なのではないか、と思いました(と書いている文章自体が、~ねばならない、に支配されていますが・・・) 素直、と言う言葉が、日本では良い意味で用いられるけれども、英語に翻訳する時、ちょうどよい訳語がない、文脈によって「飼いならされた」「優しい」「柔軟な」などと使い分ける、という(アーサー・ビナードさんだったと思いますが)言葉を聞いて、なんとも言い難い気持ちになったことがあります。 様々なことを、考えるきっかけを与えてくれる作品でした。

エイクピア (2018-03-28):

前にもレスをしていたと思ったらして居なかった。アウシュビッツ以後云々の話はアドルノだと思ったのですが、パウルツェランも思い出しました。

蛾兆ボルカ (2018-03-28):

まりもさん ご批評ありがとうございます。 この作品では、普通の引用ではなく、サンプリングした文のあったテキストのもとの文脈を無視したコラージュをしています。 しかし、読む上で不便であることに気づきましたので、以下に自解します。 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である。そしてそのことがまた、今日詩を書くことが不可能になった理由を語り出す認識を侵食する。絶対的物象化は、かつては精神の進歩を自分の一要素として前提したが、いまそれは精神を完全に呑み尽そうとしている」 この部分は引用です。 「から、 私たちは詩を書こう それとも」 この部分は引用ではありません。 「聖母マリアを強姦しに行こうか」 この部分は引用です。 他に引用はありません。 通常の引用ではなくコラージュで示したのは、私(作者)の言葉として、作者の詩情のなかで語るためですので、まりもさんの解釈は嬉しいです。 ありがとうございます。 改造と、戦後における日本未来派に私も関心を持っていますが、不勉強で語れません。 また、宮沢賢治と土壌肥料分野の業績や限界については、準備不足で語れません。石灰肥料と窒素肥料のことで、また水稲の栄養生理を「やませ」対応を踏まえて理解することであり、準備すれば整理できるのですけど、今は語れずすみません。 結論だけ端的に言うと、賢治は土壌分析をして花巻の土壌マップを作った上で、当時の土壌学の先端から無理からぬ設計をしていたのですが、及ばぬところもあった、と私は思っています。 東北の稲作については、近年でも失敗を防げなかったことがあります。 それらの、頂いたコメントは今後のヒントにさせていただきます。 言葉そのものを暴力的に扱うことによりあることを示す、というご批評の趣旨、またそこからの展開については、作者ながら興味深く、また作者としてありがたく思います。

蛾兆ボルカ (2018-03-28):

エイクピアさん コメントありがとうございます。 パウル・ツアランの孤独について、また彼の薔薇について、私も時々考えますし、この詩を書いたときも考えていたように思います。

投稿作品数: 1