書斎は寒かったが、ユウスケは籠城を決め込んで小説を書く事にした。何が彼をそうさせるのか分からない。しかし、ここ数日、彼は小説の習作ばかり書いていた。しまいには昨日、ブックオフで小説を十冊ほど買い込んできた。湊かなえ著『人間標本』というミステリー小説は妻への手土産で別に買った。妻のカナは『人間標本』の扱いに困った。ミステリーが苦手、だったのである。その代わりに彼女は、田中慎弥著『孤独に生きよ』をくりかえし、くりかえし、スマートフォンで言葉の意味を調べつつ読んでいた。ユウスケは孤独を肯定する内容と、どこか自己啓発本に近しい内容がカナの求める所だったのだ、と想像した。
カナは自己啓発書を好んで読んでいた一時期があった。そしてそれらの書物を仕事に活かそうとしていた節がある。自己啓発書は、カナの一面を主張する者に変えてしまったような気がユウスケにはしていた。丸みを帯びているべき所が角ばっている。しかし、それも彼にとっては愛らしかったのであった。
カナも書斎に来てノートパソコンを立ち上げた。
「ねえ、昨晩、残しておいたパン食べた?」
「昨日は夜更かしして、そのときに食べてしまった」
弱々しくユウスケは応えた。彼は全くその事について、今、反省していた所だった。と云うのも胃の調子が悪い。朝から何種類もの薬を、カクテルに飲んでいるせいというのが日頃の不調の見立てであったが、今日の見立ては昨晩のパンの暴食であった。
カナが彼に今書いていたパソコン上のテキストを見せてくれた。理想の死、についてのテキストであった。人生の華々しい時期に死にたい、落ち目のときに死にたくない、ひとに見守られながら死にたい、天国に行きたい、旨、書いてあった。
「ユウちゃんはどう思う?」
なんでこの妻は死について書きたがるのだろうかと思いつつ、ユウスケは応えた。
「これはね、カナさん、カナさんが僕より先に死ぬって言っていたじゃないですか。そうなると、自然、僕は孤独死の割合が高い」
カナはちょっと考えて
「そうね」
と一言、言った。ユウスケは加えて、自分は死ぬような事も常に考えている。考えて鬱になるほどだ。しかし精いっぱい生きた結果の無様な死だ、と言おうとしてやめた。
土曜日であった。年金支給日は、日曜日に当たるので、昨日、金曜日に振り込まれたかもしれない、とユウスケは思った。そしてその確認をしにいかなければならない、と彼は考えた。そのときカナが言った。
「ドラッグストアに行ってきます」
カナはパッと又吉直樹著『火花』を机の上に置いて行った。ユウスケは『火花』を既に読んでいたが、その文庫に収録されているエッセイ『芥川龍之介への手紙』は、未読であったので、手に取った。
カナが準備を進めて、書斎の内、外を行ったりきたりする。ユウスケはカナに告げた。
「障害年金はもう支給されているんだよね?」
「そうね、十五日が日曜だからもう入っているね」
「じゃあ生活費をまとめてS銀行のカードに入れに行くか」
「コンビニに寄るって事?」
「そうだよ、それからドラッグストアについてゆくから」
カナは障害年金こそが、この病弱な夫に安心をもたらすものなのだと思ったが、それはじぶんにとってもそうだった。彼女はもうこれでは厳しいから働きに出ようと最近考えを巡らせていたのだった。しかし、地方の文芸誌で彼女の小説は奨励賞を受賞した。その事実は天啓のようだった。彼女は小説を沢山読んで書いた。いつしか作家になりたいと願うようになっていた。
そんなカナをみて、ユウスケは感化された。
カナは学園ものもハードボイルドもお手の物だった。しかし、先に奨励賞を受賞した作品は私小説だった。ユウスケは何を考えたか、「私小説でなければならぬ」と頭から自身の創作の方針を決めてしまった。
ユウスケは最初、段落分けもどうしたらいいのか分からないほどだったから、細かい所はすべてカナに訊いて覚えた。
「ちょっと待ってて。靴下履いてくるから」
とユウスケは告げて、一階書斎から二階に向かった。靴下を穿いて、まだ外は寒いと思い、紺色のセーターを上から着た。
ふたり小道から幅の広い道に抜け、更に大通りに出るとすぐ、コンビニがあった。
ふたりATMでマネーロンダリングじみた事をした。只生活費用のカードにお金をまとめていただけであったが、男が一人列を作って順番を待っているので急いてしまって、ユウスケは手に汗を握った。
「お疲れ様」
カナはユウスケにコーヒーを買って渡した。そのコーヒーはちょっと値が高いので買うに躊躇する商品だった。ユウスケはありがたく頂いた。
二人ドラッグストアに向かい、カートはユウスケが押した。彼は内心、客の多さに驚いていた。しかし、ドラッグストアの需要は伸びているし、ここ数年でこの地域の「うまくいっているところ」はドラッグストアだと分かっていたので、当然とも思った。
レジでの会計を待っていると、ユウスケは前の客のカゴの中が全部お酒である事に気づいた。なぜか彼は愉快な気持ちになった。お酒の悲惨さは重々承知の彼であったが、思考が自動思考になっていた。彼はコンビニに戻って、安いウイスキーの小瓶を買おうかな、とも思った。しかしそれが実際に行動に移る事は無かった。帰宅して彼はノートをひらいたら、やはり「断酒、禁煙」と筆ペンで大きく書いてあった。
カナは買ってきた日用品をせっせと片づけている。ユウスケはカップラーメンなどの食品を片づけた。
ユウスケは芥川龍之介が気になっていた。昨晩、彼は夏目漱石の『こころ』を一気に読んだ。圧倒されもしたが、『先生』から送られてきた最後の手紙が長すぎる。原稿用紙換算で二百枚はある。そんな厚い手紙を容易に扱う『私』はおかしいと思った。ここでユウスケは変な事を考えた。つまり、小説は小説として、破綻をきたしてしまってもいいのだ。結果、失敗してしまってもいいのだ、という事だった。しかし『こころ』は時代を越えて読まれる力のある作品だ。それに対して芥川龍之介はどうだろうかと思った。何か時代を超越する事を自らやめてしまって、それをもって彼は自らに「敗北」の印をつけてしまったように思った。ユウスケは遺作である『歯車』が好きだった。筋がバラバラになっているようで、しかし筋と問題提起は依然としてある。
この『歯車』を書いた後、芥川は致死量の睡眠薬を服したのだった。死は仏陀が「無記」とした如く、永遠の謎である。永遠の謎は、永遠の力を持っている。そう考えていたユウスケも、一方でもっと冷えた見方も同時にしていた。それは「死ねば伝説」という人物が、彼の眼前に多すぎた為であった。
書斎の窓の向こうを、キラリと光りつつ乗用車が走り抜けていった。
ユウスケは一人、それを見ては、じっとその方向を眺めて続けていた。
日記に、今日のあらましを書いていた所だった。ユウスケは数時間前、自分の死についてとても容易く扱って考えていた事で不快になった。
自分は死ぬような事も常に考えていると。考えて鬱になるほどだ。しかし精いっぱい生きた結果の無様な死を想っていると。
こんな事を志向する程、俺は頑張ってもいないし、張り切ってもいない。只、苦しんでいるだけだ、とユウスケは思った。書斎のカーテンを開けて、窓を開けひらいた。
この思考の種は?カナの文章であった。彼は自分が身の程をわきまえず、また感化されやすい性格である事を自覚した。
とおく青空を眺めていると、書斎にカナがやってきた。手にピンク色の袋を持っている。
「はい、バレンタインデー」
「あ、ありがとう」
ユウスケはカナからその小さなピンク色の袋を受けとった。
「ホワイトデー、今年はあるのかしら」
「ホワイトデーなぁ、ある、ある」
「お義父さんにも、渡したいんだけど」
「じゃあ手紙を書いてくれる?午後イチで俺、実家まで原付走らせるから」
五年前、ユウスケは大手企業の障害枠で働いていたが、大変痩せてしまって、退社した。
できない事はできない事を、身を持って知った。その経験は彼から闘争心のようなものを奪った。彼は去勢された雄猫であった。
その癖、できもしない夢を語る事が多くなった。遂に脳病が悪化して、脳がショートしているのかも知れぬ。ポーズを、格好をつける為に彼は、私小説を要求しているに過ぎないのかも知れなかった。
この日ユウスケは求人情報を見つけた。
近くの打ちっ放しゴルフ場の清掃の仕事であった。しかし勤務時間を見ると午後の四時から夜の十時、という事になっていた。
ユウスケは、上手くいかないようになっているなぁ、と呟いた。
作品データ
コメント数 : 2
P V 数 : 232.3
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2026-02-14
コメント日時 2026-02-14
#縦書き
| 項目 | 全期間(2026/02/15現在) |
| 叙情性 | 0 |
| 前衛性 | 0 |
| 可読性 | 0 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 0 |
| 音韻 | 0 |
| 構成 | 0 |
| 総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:232.3
2026/02/15 11時27分43秒現在
※ポイントを入れるにはログインが必要です
※自作品にはポイントを入れられません。
すでに自伝的な方法論を確立しているようで、読ませるなと毎回感心もするのだが、なにかが足りないような感じ。もっと学識があれば周作人のような格調高さも出てくるだろうし、化物じみた記憶力があれば中村稔(この人はいつ死ぬのだ?)がずっと書き続けてるやつのように記録的価値が受容されるんだろうが、そういった決定的因子が欠けているので、どう扱っていいものやら、、。例えば、この調子で今後50年くらいずっと書き続けていったら評価が変わるのかもしれないが。あとこんなことも思ったのですが、本来なら、若くして脳病で年金で暮らしている男(いちおう妻帯者)として、いろんな弱者属性で武装している生活者としての「厭らしさ」みたいなものをもっと前面に出せるはずで(批判に飢えてる自称文学者みたいなキャラで)そこで一気にスパークする可能性が秘められているように思うのですが。いつもながら勝手なことをいってすみません。
1おまるたろうさん、コメントありがとうございます。ほぼ高卒なもので、学識はありません。ストレスマネジメントの一環として、寝て、忘れるがモットーです。「厭らしさ」ですか。多分、周囲の共同体というのが本格的に崩壊していたのです。私は馬鹿なのでその事に気づかなかったのです。まるでこの町はゴーストタウンなんじゃないかと思います。「厭らしさ」はきっとまるで今日も元気に生活している事を装っている事でしょうか。しかし、それを見る目が周辺に何も無いのです。私は段々怠惰になってゆきました。今はまだいいでしょう。しかし私の生活は、じき、破綻します。実は、その為に来週の火曜日、役所に行くのです。私の市では役所が企業と提携して、仕事を紹介してくれるのです。しかし私はなぜ自分がそんなことに応募したのかからきし、納得はしていないのです。しかし、じき、破綻するのは確実なのです。だから応募しました。しかし、心は空洞なのです。気力が無いのです。若いといっても、脳病になったのは18か20そこら。もう今年39になります。ただ、39になったらば、道が拓けるとも思っているのです。それは落ちてゆく体力に精神が慣れるからです。胃もほとどよくなりますし、もっと伸び伸び文章が書けるようになり、仕事を心地よくできるかもしれないと思っているのです。ともかく今は駄目な時期です。批判も駄目です。胃が悪くなります。現場からは以上です。インフルエンザにお気をつけください。
0