夢の織物 〜夏へ〜 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

わたしがいのることは

とても重い

みんな経験したことがあるであろう、とても重い"ちょっと"が詰まっている。

錠9

生きる

声なき声を拾いたいと思ったことはあるか

わたしは、ある。 あなたの胸を叩き 何故なのかと問いただしたい そう呼び止められた時 わたしは何と答えられるだろうか。 静かにだが確かにこの詩からは 張りつめた足音が聴こえる

ぼんじゅーる

天皇陛下万歳

知的破産者及び愚昧界の金字塔

平成天皇と存命中に呼び不敬を極め、大正・令和を外す選別賛美。明治から平成まで乱暴に万歳する時代錯誤と挑発精神が光る奇作。

大人用おむつの中で

好きです。

切れのいい、知性あふれる現代詩だと思いました。

ことば

ことばという幻想

純粋な疑問が織りなす美しさ。答えを探す途中に見た景色。

花骸

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)



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夢の織物 〜夏へ〜    

第一章 1.  その朝は、この町にはめずらしく雪が積もっていた。前夜には夢見るように牡丹雪が舞い降りていた。そして、朝起きると静寂が夢を見ていた。慎まやかながらもしっとりと、たしかに象られたムースに見守られながら美悠は、冬の精のように澄んだ、そんな微笑を晶生に投げかけては、愛らしいスニーカーを雪粉に包みながら近づいてきた。もしも誰かが二人のあの日を見ていたならば、愛らしい子熊たちが雪明かりのなかじゃれ合っているのを見るかのような、そんなほっこりとした気持ちになるだろう。それは二人が子熊のようだというよりは、まるで二人は子熊たちとすら戯れ合っていたかのような、そんな微笑ましさが似合うのだ。  牡丹雪の前夜に、晶生は日課である腕立て伏せをしていた。身体を沈めるごとに、彼はなにか冬の底に降りていくような感覚を抱いていた。愛らしいトナカイの時節はすでに過ぎ去ってしまっていた。冬は年を跨いで寒さを研ぎ澄ましていき、2月にもなると晶生は女神に思い馳せさえするようになった。そして1週間と少し経ったその土曜の夜に、女神のしとやかさや艶めかしさは頂点を迎えた。彼女は、彼がそれまで見かけた女性たちやグラビアアイドル、あるいはゲームのキャラクターたちを彼なりに融合させた天上的な女性だった。美悠とのデートの約束を翌日に控えながら彼は、その夜の底で、この肉体にはそんな女性でさえ抱き得る力があるのだと、そう打ち震えるように高揚した。  「おはよう!わたしに逢いたかった?」  「そりゃもう、ウズウズしてたさ」  「さっ、さっ、パティスリー開店まで、女子会女子会」  「なんか女の子にされちゃった(笑)」  「でも真面目なハナシ、あきちゃんってなんだか女の子っぽくて、わたしそこに惹かれたんだよ?」   「そ、そりゃどうも(苦笑)」  すると晶生の右前の小枝で、一羽のハクセキレイが楽しげにスキップしながら二人を見下ろしている—  「美悠、左後ろ!」と指を指して  「あらぁ鳥ちゃん!チューチュー」—  バササ……   「…」  「行っちゃったね」  「可愛げな〜い」  けれど澄んだ風を心おきなく感じられると、晶生は清々しい心地を抱いていた。  「なんだかしょっぱなからしくじった気分よ」  「美悠」  「なに?」—  「ちょ、ちょっと朝っぱらから?(笑)」  晶生は美悠をぎゅっと抱き締めていた。美悠が向かって右に顔を逸らしていたので、その頭の後ろから包み込むように晶生は、逞しくなりつつあった胸に美悠の顔を埋めさせた。チリンチリーンと鳴らされる自転車のベル。晶生が冷やかしかな?と思って左斜め前方を見やると、作業着を着た壮年男が犬の散歩で道を塞いでいたらしい、ふくよかなばあさんに対して鳴らしていたらしかった。顔を埋めていた美悠も気になったらしく少し遅れて彼らの方を振り返る。壮年男は過ぎ去っていてばあさんがニカーッと笑っていた—「お兄ちゃんたち、朝から熱いねえ」  「わたし、いきなり抱きすくめられたんですー(笑)」  「よかよか!青春、がんばりや〜」    風がビューッと吹いて晶生は氷を思った。目の前にはほんとうに愛らしい冬の精がいる。けれど、と彼はばあさんの連れていた、こちらをじっとりと見つめていたシベリアンハスキーを思った。この世界にはもっと厳粛で、高貴でそして悩ましい、そんな極限なまでに澄んだ女性が潜んでいるはずだった。彼は風や雪といったものに彼女の気配を感じられる気がすることがあり―  「…ねぇ、聞いてる?」  「なぁ美悠、美悠はさ、僕のこと、世界で一番イイ男だって思ってる?」  「アハハハハ!どうしたのあきちゃん(笑)、あはは、あは、あはぁ…」  「そんな受けなくても(笑)」  「だって、だってですよ」  「じゃあ質問を変えるね?美悠は僕のことを、世界で一番自分に相応しい彼氏だって、そう思ってる?」  「ねぇ、なんてこと聞くのあきちゃん!もちろんそうに決まってるわ」  「美悠あのさ、僕はさ、美悠のことね…」と晶生は続きが出てこない。  「実は」―  「言わないで!!」  「っ……」  美悠の目は潤んでいた。晶生はもちろん察知した。美悠は後ろで手を組んで、行きつ戻りつし始めては、何かに焦がれるように彼方を見やる。それが二人の明日のようで晶生は苦しい―  「やめよ、やめ!」と彼女はふたたび語気を荒げて、  「わたし、もう帰るわ」と引き止められるのを待っているかのような弱々しいトーンで言った。でも晶生は引き止めることはできなかった。  「なんやぁ、あきちゃん、机で目開けてうずくまるあきちゃん、初めて見たよぅ」  「美悠と喧嘩したんだ。もう、終わりかもしれない」  「なんやぁ、そんなことかいな」  「そんなことって!…」  「まぁまぁ、そうカリカリしなさんな。わしはどうでもいいなんて思ってゆうたわけやない。そやのうて、そんなすべてがお終いみたいな顔せんでも、いくらでも解決策はあるやろうと言いたかったんや」  「でも、朝パティスリーに行く予定だったんだけど、相当語気を強めてやめよ、やめ!って、ホント一方的に言われたんだ」  「ほんとお。でもそもそも、何がきっかけやったんやろ?」  "実は…"と胸のなかで言いかけて止めた。さすがの祖母でもフォローしてくれそうになかったから。  「…ばあちゃん、こんだけ話聞いてもらってるのにごめん。そこはちょっと、込み入っててさ(苦笑)」  「いやいや、ええ、ええ」と祖母は言った。   「その分やと相当訳ありやな。ただな、わしのごくささやかな経験から言わしてもろてもな、諍いの後っていうんは、こっちから進んで勇気を出して歩み寄って、そうしていったん頭を下げさえしてしもたらな、後はそれこそ、ほれ、あきちゃん小さい時分に、よく一緒にスキーしとったやろ。頭下げてしもたら、それこそ後はな、坂降りてくみたいに、綺麗にスイスイ行けるもんや」  そうして晶生は自室に行った。まるで冬の底にいるように静かだった。普段ならすぐにスマホで曲を流すところだけれど、"今の自分の仕事は〈そこ〉に留まることだ"と、自身に箴言を言い聞かせるように彼は思った。先の祖母の丸眼鏡が、あたかも遠い昔のことのように浮かんできた。それはなにやら靄(もや)に包まれているようで、そして彼女の語ってくれた喩えに反して、あたかも梅雨時のようにじっとりとしていた―  ―「カランカランカラーンッ!」とベルが鳴り、「ただいま〜」との母親の声が聞こえてきた。晶生はすぐにでも母のもとへと行きたい衝動を感じたものの、やはりとふたたび自らへと降りて行った。すると、しっとりとした小雨のさなかに若かりし母が佇んでいる情景が浮かんできた。華を添える紫陽花の、ほんのりと哀しげな水色にゾクッとしては、首を振るようにフェードアウトしていったものの、その水色の残り香は去らないのだった。  そんな自分から逃げるように晶生は、亡くなった祖父の部屋に行こうと階段を降りた。  「あら晶生、ただいま」  「おかえり母さん」  「晶生ね今日ね…」  「ごめん母さん、ちょっとじいちゃんの部屋に用があるんだ。本、読ませてもらおうかなと思って」  「へぇ〜、今日は雹(ひょう)でも降るのかしら(笑)」  外に出ると夢見るように清らかな世界に迎えられて、晶生はまるで、そのとき初めて美悠が、切なくしんなりとした朝の底から歩み来たったような気がした。  2.  その三日後の朝、晶生は祖父の部屋で借りた『冬の夢』を読み返していた。アメリカのジャズ・エイジの小説家、スコット・フィッツジェラルドの著書を、村上春樹氏が翻訳したものだったのだけど、晶生は三日前の朝、あのじいちゃんが、こんなロマンティックなものを読んでたのか(!)と衝撃を受けたのだった―ピッ、ピッとトイレットペーパーが切られる音が響いていた、どういう流れかはとうに忘れたのだけどともかく祖父は彼の大に付き添っていて、そして"長すぎるから短くしろ!"と幼い彼を叱り飛ばしたのだった、まだや、まだ…なんて言うのはけれどもう、それこそトイレットペーパーみたいに薄っぺらい記憶になっていて、それよりと晶生はカチャリという食器の音を思い出す。食器同士の思わず触れてしまう音ですら角の立つ、あの日々の食卓ではそんな空気が流れていた。それはひとえに祖父の厳しい所作から醸し出されていたのだった。晶生はそんな祖父と母との静かな確執を思い出して、あらためて苦々しい気分になった。祖父に好かれるには、母さんは少しばかりしとやかにすぎたのだと彼は思った。『冬の夢』のヒロイン(?)ジュディ・ジョーンズのふしだらな笑みが、慇懃な祖父をもとろけさせる図に思いを馳せた。じいちゃんはばあちゃんにさえ甘えることがなかったなと、彼はなにか祖父の哀しみに触れたような気になりながら、祖父は自分にたけにはどうしてだかやわらかだったよなと、とくに足が悪くなってからの祖父が、自分に菓子パンをねだる折りなんかによく見せた、その悪戯な表情にしばし憩っていたのだった。  パンッ、パンッと律儀に手を合わせて美悠は、あの夕刻じいちゃんの遺影に、深い青を背景にした遺影にお祈りしてたんだったな。ホント、可愛いちょこんとした正座に見えたんだ。「わたし数珠持ってるわ」ってポッケから小さな透明の玉の数珠を出して、どうしてだか僕は貝殻を思ったんだ、美悠が貝殻を持って、祈ってるって。「ねぇ晶生くんのおじいさんって、やっぱり優しい人だったの?」と美悠は言った。そうあの頃は、まだ僕はくん付けで呼ばれていた。そして美悠はごく慎まやかな紺のワンピースを着て、あの長い睫毛をひとえにその、卵のように滑らかな瞳が、決して主張を始めないようにと、斜め下への張り詰めた傾きを凛と守りながら、頬を紅く染めつつ歩んできたんだ…  晶生は半ば陶然となりつつ美悠を思った。カーテンを開けると朝がふたたび開かれた。思わずクスッと笑ってしまう。三日前美悠はパティスリーに行こうと言った。けれど美悠はパティシエ見習いとして働いていて、それは言うなれば他店の偵察のようなものじゃないか(!)と、今更になってジワジワ来ている晶生だった。『冬の夢』の影響で、今や女ハリウッドスターの風貌が加味された女神が切ない吐息を漏らすたび、美悠は赤リボンを揺らして"わたしじゃダメなの?"と俯くのだけど、そのトーンは今や、あの初々しかった頬の紅みは通り過ぎ、さながら晩秋の湖面のような底知れなさをその瞳に湛えていた。それは愛らしい道化師がふいに見せる得も言えぬ寂しさのようなものであり、ひとたび垣間見てしまった晶生はもう、美悠への恋情と同情を区別できなくなっていた。  そろそろ朝食かなと階下に降りると、母はちょうどミルクを注いでいるところで、それを見るなり足指をさざ波に洗われたような心地になって。  「勉強は捗ってる?」  「あっ、それは…」とやはり馬鹿正直な晶生だった。  「ねぇ晶生、わたしたちにそんなにお金のないこと、もちろん分かってくれてるわよね」  「申し訳ない、ホント申し訳ないです」  「そんなに謝らなくたっていいわ。遊び盛りの20歳だもの…」  晶生はなんだか自分が小さなアマガエルになったような心地がした。彼は感じていた、僕はただこの実家という、大きく温かな葉の上に佇んではひとえに、目の前の女(ひと)の施してくれる親愛の雫を待っていればいいのだと。  「美悠ちゃんとは、どう?上手く行ってる?」  "っ"と胸で詰まるも表に出さないよう今度こそは抑えて、   「うん、新幹線の走行みたいに快調だよ」と笑ってみせると、陽だまりのような懐かしい笑みがしんなりと咲いた。  「わたしもぅホントに、あの子のことが可愛いんだ」と言い、  「ごめんね何回も、この話してるよね」と苦笑いの後、うっすらと笑みの余韻のたなびく瞳で真っすぐに見つめられた。後ろめたさと気恥ずかしさが混じり合って高揚は狂おしく高められた。  …自室に戻ると、晶生はベッドに仰向けになった。天井までほんのわずかな距離に感じるなと思っていたら、いつの間にか逆に遠大な隔たりを感じていて、まるで木目の惑星を眺めているような心地がした。おおらかで果てしのない川の底で全裸になっているようだった。もちろん晶生は夢を見た。それは夜の夢よりもよほど甘くありながらまた、しなびた寂しさに満ちていた。ひとえにみなを抱きすくめていた。 3.  その知らせが祖母の菊恵に届いたのは、彼女が朝、鳥居の近くで白猫に餌をやっている折りのことだった―「菊恵さ〜ん!」と、孫の恋人は石段をスタスタと登ってきた。  「菊恵さん、ねぇ菊恵さん」と美悠はいかにもうれしそうだ。白猫はクルリと身体を翻して茂みに隠れてしまった。  「あぁ、白猫ちゃ〜ん…」  「美悠ちゃん、何かええことでもあったんか?」  「はいっ!晶生くんと、大都の水族館まで行ってきたんです!」  「ほぉ、それはご苦労やったなぁ」  「それでですね」と美悠はバッグをゴソゴソとして、  「これ、晶生くんと二人で選んだんです」  「ほえ〜」  「あ、れ?まずかったでしょうか?…」  「あっいやいや、そやのうての。ホンマ可愛いジュゴン、かいな?」  「はい、ジュゴンなんです」  「そのな、可愛いジュゴンや思うけども、なんで晶生に渡させやんだんや思うてな」  「あっそれはですね、晶生くんが、美悠が渡したほうがばあちゃんは新鮮味を感じると思うからって」  「そうじゃったか、そうじゃったか」と頷きつつも"一本取られた!"と歯ぎしりした菊恵だった。  「それはそうと、先の白猫、可愛いかったですね」  「そやろぅ。この神社に、どやろ?、もう五年前くらいからおるんちがうかな?」  「なんだか、わたしたちを見守ってくれてるみたいですね」  「ほっほっほ、その発想は浮かばんだわい。なんや、逆にこっちが見守ったっとるゆう意識ばっかでな」  「では、職場に行ってきます」と美悠が去ると菊恵は、"晶生はホンマにええ子を彼女にしたもんやのぅ"としみじみとした。あらためてキーホルダーのジュゴンを見つめてみると、それはまるで天真爛漫な美悠そのもののようだった。それでしかし(だから?)菊恵は、いつだったか美悠が、いかにもモジモジとしながら、「わたし、もっと…」と、ポンポンッと自身の胸を叩いて、「おっきいのが欲しかったなぁって」と今度は紛らわせるように笑ってみせた折りのことを思い出していた。はて何と答えたのだったかとしばし考えるも、あんだけ明るかったらええと目を細めるのだった。  「ジャーン!わたしの勝負服!」と美悠が言うや、晶生の視線が、胸を見たくてしょうがないけど露骨には見れませんといった風に彷徨っているのを、彼女は素早く見て取った。  その折りのことを晶生は、勉学中のはずのこの今でさえも思い出すことを止められない。腕も脚も厚手の衣装に覆われる中、やたら紅く塗られた唇と一体となって美悠は健気に発熱していた。親しげに寄ってくるジュゴンのでっぷりとした体躯は、そんな彼女の"可憐な発熱"と対照を描くためにこそ存在しているような気がした。  急に抱きすくめられた折りはもちろん、美悠は恥ずかしいことこの上なかった。けれど、晶生の厚い胸板に自身の胸が押しつけられると、後はただもうなるようになれといった気になった。「美悠、好き」と言うごとに彼は彼女を抱き締めたので、シャツがずれて胸がはだけないか気が気でなかったけれどと、それを振り返りながら美悠はしかし、まさに作戦はズバリ成功したのだと有頂天になりながら、勤務先のパティスリーへの並木道へと差し掛かった―「チャリンチャリーン!」との自転車のベル。けれどそれはもはや祝福の音色でしかなかった。    なにやら思い詰めた様子で晶生が、モジモジと、もっと言えばなんだか女々しい所作で食卓の回りをフラフラしているものだから、晶生の母・愛果は「何かあったの?」と聞いてみた。「ずっと昔に見せてもらった母さんの二十代の頃の写真、もう一度見せてもらいたいんだ」とやたらかしこまって言われた愛果は、"わたしのS字のプロポーションに夢中なのかしら?"となんとも軽やかに考えた。  晶生は襟を正して待っていた。あの日美悠にはちゃんと謝り一応、彼女は引き下がったけれども胸の底から納得したわけではなかったからこその水族館での勝負服だったのだろうし、そしていじらしい意気に打たれての再三の抱擁だったのだけど、あの"朝の夢"がそう簡単に去るわけもなく。  菊恵は少し遠方への通院でいなかったものの、平日朝の時間はせわしない。だから手早く言わないとと準備していたものの結局寄り添ってもらうことになったことで、またその心はググッと愛果に傾いてしまった。  「あれぇ〜どこ行ったんだろう?ちょっと来て〜」と愛果の書斎から声が響いてくるなり晶生は、途方もないことが現に待ち構えているような気がして武者震いした。  駆けつけると母は、ちょうど本棚の上部に手をグッと伸ばしたところで、それにつれて身体が伸ばされることで逆に悩ましい湾曲は強調された。  「晶生く〜ん、お願〜い」と呼ばれて晶生はもう、母が素なのかからかってるのかすらも分からない。  「あ、あったあったー!」と少女のように悦ぶ母から手渡された写真を見るなり自分の顔から血の気が引いていくのを感じた気がした―  ―「そんなにお父さんのこと、気になる?」と背中に手を回されていた。   「あっ、母さ…」  「わたしも、わたしもいつも、こうされてたんだったな…」  "ぼ、僕を舐めないでくれ…僕だって男だ!"と、今にも叫び出しそうだった。 4.  季節は春に差し掛かっていた。あれから三日、もとい一週間が過ぎても晶生の煩悶は解けなかった。まだまだ肌寒い外気で頭を冷やそうと庭で佇んでいると、  「おうおう、よう来てくれた!」と菊恵の声。  「ほんとうにお久しぶりです〜」  祖母より二回りほど若いだろうか、それで晶生は時折来られる元生徒さんの一人かなと思う。   晶生はそれとなく話を聞いていたものの、それはやがて夢の中の人物たちの話し声のように朧になっていった。   「…そやそや、"ふきのとう"みたいに、のぅ」との菊恵の声にしかし晶生は夢から覚める。  「はい、はい」  「花が咲くまでもうほんの少しやろ。でもふきのとうはの、ここいらのとはちごうて、雪の多いとこほど強なるそうや。アンタもきっと、強なれるて」―  その言葉をまるで自分へのメッセージのように感じた晶生は、発作のように歩き出していた。生徒さんの返事を聞いてはならないような気がして、耳を塞いで裏口へと回っていった。  カチャリとノブを回すとトントントン…愛果が昼の支度を始めていた。  「晶生、捗ってる?」  「うん、いい休息になったよ」  晶生は愛果の悩ましい曲線をチラと、しかし把握しきるようにしかとその目にカチリと収めた。それを題材に僕は考えなくちゃならない。女という存在について。そしてまた、女を求め、女に悩む、男という存在について。    さてどこから考えようかとぼんやり思っているとふと、あの写真で父が少し、いやハッキリと母よりも高い、向かって左上の位置に腰かけていた事実に突き当たった。そしてそう、右の母さんはそんな父にしなだれるように左に身体を傾かせながら紺のシャツを膨らませていたけれど、それはまるで何かのたくらみのようだった―あれ?そういや母さんは笑ってたんだったか?…いやさすがに無表情なんてことはないはずだから、やはり笑っていたんだろう。僕はつまり、あのボディラインにまさしく目を奪われていたことになるな。ふきのとうが清らかな乳房なら、母さんのそれはなんだか禍々しかったように思う。禍々しい乳房を欲している?けれども僕はそもそも清らかな女神を求めてたんじゃなかったのか。  ……そうして晶生はふたたび夢を見る。美悠のパティスリーへの並木道の、そのなだらかな右回りの曲線に、若かりし愛果と晶生は10mほど離れて相対していた。道は浜辺の砂で覆われていて、むしろアスファルトはないのかもしれないと晶生は思う。貝殻が星のように散らばっていて、桜吹雪がゆるやかに吹いていた。いまにも波が訪れそうだな…  ―「汚い」  「えっ?」  「この美しい情景のなかで、目の前の女だけが汚い。あなたはそう思ってるでしょう?」  なら思いっ切り汚くなってくれと胸に叫ぶ。目の前の愛果の秘密がたとえば、それこそ猛るような黒で覆われていたりでもしたら自分には、ここが天界であろうが下水道の中であろうが関係なくなるに違いないと確信しながら。半袖シャツの深い紺はもう、ひとえに黒への目慣らしのために湛えられているとしか思えなかった。 5.  もちろん胸のうちではということだけど、それ以来晶生は、愛果のことを"母さん"ではなく、そのものズバリ"愛果"と呼ぶようになっていた。  その朝彼はパティスリーへの並木道にいて、ポッケに手を突っ込んでは、まだまだ肌寒い大気に進んで身を晒していた。若かりし愛果と相対したこの場所こそが、少し進めば美悠に出迎えられるだろうこの場所こそが、二人について思い巡らせるのに最も適しているように思われた。いや彼はもうほとんど発作のようにして、ここに来ないわけにはいかなかったのだった。  "こらっ、ポッケから手出しなさい"と愛果の声。けれどそれは今の愛果で、瞬間いくばくかの残念感がせり上がってきて晶生は笑う。  歩くのを止めて佇み始めると、コツ、コツと音が聞こえてきた。右を向くと並木道の前方左を、杖をついたおじいさんが向かってきているのだった―そのシルクハットに若かりし頃の洒脱を思い寂寞が胸に広がった。  …右に寄りスマホを触っていたものの親指を左右に振り続けてるだけで。  「おはようございます」となんとも慇懃な挨拶が聴こえてくる。  「あっ、おはようございます!」  「お花見ですか」  「ハハハッ、ちょっとまだ、早いんじゃないですかね」  「そう思われますかな。でもわたしはな、ちょうど今くらいが一番好きなんです」  「初々しい感じがするから?…」  「ざっくり言うと、そんな感じですかな」とおじいさんは笑って晶生の正面をしかと向いた。  「やっぱりお兄さんは、満開が好き?」  「あっ、満開ももちろん好きなんですけど、でも一番好きなのは、やっぱ散り桜のときですね」  「おうおう、若いのに素晴らしい!」とじいさんの頬はほんのりと紅く。  「おじさんは、どうして今が?」  「小さく膨らんどる蕾が見えるでしょう?それがなんとも初々しゅうてのぅ。それにちらほら咲いとる花やな。満開の時分の花はな、わしにはなんや、みんな一緒くたになってしもとるように思うてしまうんや。今はちょうど、ひと花ひと花を愛でることができるでな」とじいさんは笑った。  「なんというか、人の好みってホントそれぞれなんですね、勉強になりました」  「ほっほっほ。お兄さんはまさにこれからの男やからの。がんばるんやぞ、色々となぁ」  「はいっ!どうもありがとうございました」と頭を下げると今度はカッ、カッと強く杖の音は響いて静けさのなか、なにか二人地下の反応を待っているような心地がしていた。  「今日はな、ばあちゃん、ほんとマジシャンみたいな、黒のシルクハット被ったじいさんと話してきたんだ」  「ほうほう」  「今の桜の蕾が好きで、それから、わずかに花が咲いてて、一つ一つがよく見えるから好き。そんなことを話されたんだ」  「わしとおんなじくらい?」  「そうだね、でも杖ついてて、気の毒だった」  「そやのう、でもなかなかに洒落たじいさんやない」  「うちのじいさんも、若い時分はお洒落だったんでしょ?」  「そやな。ただそれが行き過ぎてちょーっと堅苦しい思うときもけっこう、な」と菊恵はハッと愛果を見た。   …トントントン、調理する愛果を晶生もチラ見し、心なしかその頬が翳っているようだと思うも、こちらの投影にすぎないなと思い直す。  「そういやアキちゃん、アキちゃんも、もっとお洒落したらどう?」と菊恵はサッと話題を変える。当然のように愛果と祖父の確執を知る彼女のおもんばかりだったのだけど、"ばあちゃんは愛果に気を使いすぎなんだよ"と晶生は思う。  その夜、晶生は夢を見る。何月だろうか。晴れやかな光に照らされた透き通るような、小さな小さなカタツムリたちが道路を横断していた。すべて救うなんて無理だ。晶生は一匹二匹と、そうっとかつ手早くつまんでは、やはりそうっと道沿いの草むらに放っていたものの、三匹目をつまもうというところで青い車が向かってくるところだった。  「手のひらに載せて、一気に放てばええのに」と気づけば家の縁台で元気な祖父が笑っている。半袖シャツに、トランクスだから季節は夏か。気づけば吸い込まれそうなアブラゼミの合唱も聴こえてきた。そこへ愛果が、若かりし愛果が紺のシャツから、雪枝のように切なげな腕を見せつけるように盆を持って来たものだから、晶生はすっかりたまげてしまった。「どうぞ」と緑鮮やかな抹茶が、召し使いのように従順な所作で置かれていく。   「どや!ええ女やろ?」  「はっ?」  「あれはな、わしの孫なんや」  「は、はぁ」  半ば覚めつつあった晶生は夢だということが分かりつつあった。そうして彼は愛果の耐え抜いてきた歳月を思った。そして張り詰めた日々のさなかのあまりにも豊かな肉体の、その隠しきれない発熱を思いゾクゾクした。  目が覚めると喉が渇いていた。それはそのまま自身の渇きのようだと晶生は思った。女神とは若かりし母だったのではないかという、そんなうすうす感じ始めていた疑念は今や、静かで深い確信に変わっていた。そうして彼は自嘲した。僕は女神のことを、さながら天女のように感じてきたんだったな。それはきっと自分をごまかしてたんだ。自分を綺麗な存在だと信じたかったのかな。でも、もう目を逸らすことはできない。 第二章 1.  予想されるように、来たる梅雨にも、いや梅雨時だからこそ晶生はますます、悩ましい日々を過ごすことになったのだけど、もしも水の女神というものが存在するならば、彼女は彼に、そんなありふれた日々を与えるだけでは満足しなかったらしい。  朝になると、晶生はまずカーテンを開けて外の様子を確認した。それからスマートフォンを起動させて天気の最終チェックをする。そうして雨マークがなかったなら、彼の朝のウォーキングが始まることになるのだけど、途中自販機で水を買うための小銭をいつもポッケに入れるのだった。けれどその朝は、たまにはジュースもいいだろうと500円玉を持っていった。それが功を奏して、ささくれ立った湖面にやさしい雨はそっと触れることになったのだ。  「ねぇ一体、晶生は何が不満だっていうの?」と愛果はめずらしくカリカリしていて、けれどもどこにだって捌け口はなくってただ、その身を強い陽射しで紛らわせていたあの新緑の昼下がりが、パッと燃え尽きる寸前の蝋の火のように瞬いたとき、晶生は沙和の前に座っていた。「ほんとうに美女フリークなんやね」と沙和はなごやかに笑った。すると晶生は「ひひっ」と引きつった笑い声を漏らしてしまった。  …「おそろしく恥ずかしいことではあるんですが」と彼は切り出していた―「僕は、若かりし母のような女性が眩しくって仕方がないんです」  「どんな人やったん?」  「とにかくプロポーションが抜群なんです」  「ほお」  「でもそれだけじゃなくって、少し抽象的になってしまうんですが、なんというのか、いつも何かを湛えているような雰囲気がある。気品というのとも違う、もっともっと深くて、決して人に譲られることのない、、」  「うん…」  「えっと…決して人に譲られることがなくて、それを外から見たときには、あたかも彼女はそれを守ることで彼女たり得ているのだと、そんな風に見えるものを彼女は、まるで仄かなほのかな吐息のように漏らし続けている……僕が若かりし母に見ているのは、そんな、まぁ一言でいえば、悩ましい女性ってことになるんですかね」と晶生は笑う。  「それを具体的に言ってみるとよ」  「はい」  「なんやろ、ごくかる~く誘惑するようなサインを出しつつ、でもいざアクションを起こされると撥ねつける、みたいな感じかな?」  「あっ、そこなんですけど、僕はそこを逆に感じてるんです。まさにポイントだと思うんですけど、その、彼女はアクションを起こされたとしたら、存外すんなりと受け入れちゃうんじゃないか。そんな女性なんじゃないかって、そんな風に僕は彼女のことを感じてて。しかし、それでいながら、まさしく彼女の大切なもの、守っているものは、決して男に譲られることはない、分け与えられることすらないかもしれない……そんな感じなんです」  「お高くとまってるようで弱さも感じつつ、でもやっぱり強いみたいな」  「だいたいそんな感じかもです!沙和さんすごい(笑)」  「いやあなんか、青春ですなぁって思うわ」  「ハハハ(苦笑)」  「そんな人以外はもう、からきし興味はなし?」  「それが……」…  場末の喫茶店といった雰囲気もあったのかもしれない―そう後に晶生は振り返るのだけど、沙和を初めて見た折り、彼は思わずしなびた茶色の枯葉を連想したのだった。それでいて彼女は、あの日のジュゴンのように愛らしいふくよかさに満ちていたものだから、晶生にとって沙和はさながら"ちょっぴり寂しげで包み込まれるようなジュゴン"だった。  その日晶生は、通い出してから初めてミルクを注文した。  「めずらしいやん?」  「ミルクを注いでる沙和さんを見たかったんです」  「あら、あらあ」  「ごめんなさいなんか、変なやつみたいで(笑)」  「でもなんで?気になる(笑)」  「フェルメールって画家をご存知ですか?」  「あっはいはい。振り返った女の子の絵の人やんね」  「そうです、そうです。で、フェルメールさんの絵に、〈牛乳を注ぐ女〉という、あらゆる絵のうちで僕が二番目に好きな絵がありまして」  「なるほどね。そういう構図にこだわりがあるんやね(笑)」  「恥ずかしながら(苦笑)」  「近くがいいよね?」  「はい、できるだけ」  「付いてきて」と沙和は言って歩き出した。彼女の背丈は10cm以上低いもののなにか満ち上がってくるような感覚があって、すぐに自分は海原を見ているのだと晶生は気づいた。  「どうでしょう?」  「様になってる、素晴らしい!」  「お世辞でもうれしいわ」  「いやいやとんでもない。でも、当たり前かもですけどミルクの流れは速いですね(笑)」  「やよねやよね(笑)わたしもさぁ、普段そんなことまったく意識してなかったけど、こうして注いでみると、ミルクはええよって(笑)」  「ホントです。僕に絵心があれば、躍動感溢れる沙和さんの注ぎ姿を描けるんですが(笑)」  「美悠ちゃんにも注いでもらったら?」と沙和さんは晶生を伺うように。  「ちょっと熱い時期は、過ぎちゃってるかなっていうか」   「…なんか可哀想だね」  「あっ、僕の言いたいのはそういうことじゃないというか…つまり、あらためて付き合い初めの頃みたいなことするのは恥ずかしいかなって、そういう…」  「でも晶生くんはスーパーモデルな彼女が欲しいんでしょ?」と沙和は止まらない。   「……」  「わたしは、そういうのは不誠実だと思うな」と沙和はピシャリと言う。   「正直言うと、迷ってるんです。まったく逆に、美悠こそが僕の求めてる女かもしれないって、そう思うこともホントにあるんです」  「う〜ん…」   「実は、若かりし母のような人への思いが、それこそ8割ほどは幻想かもしれないと思うときがあるんです。もしも、その思いが幻想だと気づくことがあるのだとしたら、そのときには美悠が、美悠こそが、神秘と夢に彩られた唯一無二の女として浮かび上がってきて、そうして僕たちは、あたかも初めてのような一夜を明かすことになるんじゃないかと」   そうして晶生はその朝、なんとも微妙なままに沙和と別れた。完全に自分の世界に入り込んじゃってるなと自嘲したのだけど彼は、沙和という女性との恋愛の一部始終を体験した後、つい今しがた破局してしまったかのような錯覚を抱いた。夢の中にいるようだった。どうしてだか並木道の杖のおじいさんを思い出していた。"シャンとせい"と言われたようで背筋を伸ばした。  家に帰るといつものように菊恵がいて瞬間、しなびたものを感じ取ってしまったのだけど、すぐに家の小綺麗なフローリングへと注意は移って、喫茶店よりうちのがお洒落なんて可笑しいなと笑う。マスターが風邪で休んでいたとき、わたしはね、と沙和は言った。わたしはね、自分に自信がなくって、言い方は悪いけれども、こんなうらさびれた店を選んだんだ。ここじゃお客さんは、主に中高年でしょ?わたし、とくにお洒落な同世代や若者なんかが来たりすると、たちどころに緊張しちゃうんだ……逆に中高年、特に男性が苦手な晶生は、マスターに話しかけられどもりがちになってしまったのだった。それを心配そうに見守ってくれているようだった沙和の視線を、彼は何度も反芻した。自分はまた夢を見ているのかなと思う。もちろん、喫茶店に入ったからこそ僕は沙和さんと出逢った。けれど心の現実でいえば、沙和さんは気づけば僕の胸を訪れていた。まるで、どこでもないような場所から大気のさなかを泳いで来たかのようで、それでいて川のさなかの逞しい岩のように、この胸の濁流にだってビクともしないんだ。沙和さんの肉体は悩ましいとは言えないと思う。だけれども感じてしまう吸引力は何なのだろうか。 2.  「おはよう、愛果」  「えっ、えっ?どうしたの、晶生。今朝はやけにワイルドじゃない」と愛果は言うのだけど、そこにはなにか、ホントは不安でしょうがないんだけど必死で余裕装ってます感があって、晶生は胸に"シャーッ!"と快哉を上げる。  「ハハッ」とあくまで余裕の笑いを見せて、  「なんだろ、これからは男らしく行こうかなーっと」  「ねぇわたし、女の子みたいな晶生の方が好きよ」―それは深部千キロメートルの胸の底まで光の速度で到達したー  「な、なに!?」  「母さん、ありがとう」と晶生は愛果を抱き寄せるというか、さすがに胸こそ掴まなかったものの両肩をガシッと鷲掴みにして揺さぶっていた。  「はぁ…」  「ホント、ありがとう母さん…」  「うん…」  「やっぱり根本のところで自信、なかったんだって、さっきの言葉でそういうとこが一気に見通された感じがして、そうして同時に絶対的に肯定されたっていうか…」  「うん、うん。分かるよ、どこか無理してたんだね」  「うん、でも正確には、無理したがってたって感じかな。満足に無理できてなくって、だから本格的に無理しようとしてて、でもうすうすその痛々しさに気づいてて、そうしてそのタイミングで母さんに好きって、言われたから(苦笑)」  「晶生…」と愛果は晶生の頭をそっと下から包み込んで唇が近い位置に来たものだから、彼は思わず右を向いてしまった。  自室に戻るやもう反芻祭りだった。もし右を向かなかったらと思うと、まるで映画のワンシーンのように仄かにたしかに、近づきつつあった愛果の唇に心臓が飛び出るようだった。愛果のしなびた寂しさがまた狂おしく、晶生の胸を掻き乱し始めていた。それでいながら彼は彼女の庇護下にあって、彼は男になりきれない未熟で女々しい少年として彼女に対した。"静かになさい"と愛果は言う。片隅の空き地の土管でのことで、鼠色のべったりとした彩色の円筒のさなか、彼女は彼の頭を微睡みながら膝に乗せる。晶生は何かのサインのように、左頬を太ももにしつこく擦り付ける。そうして二人は静かに抱き合う。互いに手を背に回し、互いにその瞳を閉じて、そうして二人の夢を見る。    ……夢から覚めると、晶生は菊恵に会いに階下に降りることにした。土管の夢はほかでもなく、愛果がしかと授けてくれた、現実に戻るための最後の揺り籠であることを晶生は承知していた。いや―というよりもまさしく自分は、意志の力によってそれを最後にしないといけないのだと晶生は思った。やさしくもどこか不穏な海原を前に、襟を正し凛と立っているような気がした。    「ばあちゃん、美悠のことを教えてほしいんだ」  「へぇ?どしたんどしたん、またあらたまて」と菊恵は裁縫の手を止めた。  「おおすげぇ、ばあちゃんカッコいいね、一角獣なんて」  「たまには若い子のするような図柄にもチャレンジしてみよか思てなぁ」  「実は…」と、そうして晶生は話を始めた。とはいえさすがに(?)、若かりし愛果が欲しくて仕方がなかったなどとは言えなかった。沙和の言葉を借りて、とにかく自分はスーパーモデルのような女性しか頭になかったのだと言った。菊恵はやはり、つかの間呆然とならないではいられなかった。息を弾ませ駆けてきた美悠のしおらしい胸がしゅんとしていた。あの日わしは美悠ちゃんをジュゴンのようやと思ったんやった。やけど今思えなあの白猫のようでもあるなぁ。クルッと身を翻してあの子は一人になった。美悠ちゃんが同じように背を向けるときには雫が落ちる、轟音の滝を不覚にも漏らしてしもうたと一粒の雫を、静かにしずかに落とすじゃろうて。 3.  その翌日もまた、晶生は沙和のもとを訪れていた。  「昨日はごめんなさい。なんだか、ややこしい話になってしまって」  「いえいえ、こちらこそだよ」  晶生はあらためて沙和の所作を見つめてみる。"優美"という言葉がこれほど似合う人を、僕はかつて見かけたことがあったろうか。  「今日は何にいたしましょう?」  「それでは久方ぶりに、レモンティーをお願いいたします」―  そして二人の悪戯っぽい微笑み合いだった。  ……「今日は、沙和さんに美悠の店の話をしたいんです」  「あっ、パティスリーに勤めとるんやったね」  「そうなんです。もっと言うと、そこのケーキってかなり小ぶりなんですよね」  「美悠ちゃんの胸みたいに」  そして爆笑してしまう晶生だった。  「…はぁ、ホントもう。でもなんでそんなご連想を?」  「いやね、語尾に"よね"と付けたやん?そこがなんか意味深やなぁ〜って」  「いやいや、まさかまさか。まぁでも無意識って分からないですから、もしかするかもです(苦笑)」  「相変わらず大きな胸にこだわりがある?」  「押してきますね(笑)でも、今日の話はそれに関わるかもしれない話なんです」  「ごめんねなんか、先走ったようになってしまって」  「いえいえ」と晶生はあえてゴホンッと咳払いを入れて、  「それでその、美悠のパティスリーの話なんですけど、そこは先に言った小さなケーキだけではなくて、クッキーもけっこう揃ってまして」  「ケーキ屋ってクッキー、置いてそうでない店多いけど、いいね」  「ホントお世話になってるんです」と言うと、沙和がクスリと笑ったような気がするもそれはレモンの香りへと溶け。  「そのクッキーたちは存外大きめのもあるんですが、僕の一番好きな〈沖の小石〉は、ホント名前の通りホント小さなクッキーで、真ん中にはレモンの汁を固めたものが宝石みたいに象られていまして」  「あっ、だから今日はレモンティーを頼んだんやね(笑)」  「はいっ、それこそほとんど無意識のうちにですけど、振り返るとそやったんやろなあって(笑)」  「そしてその小石の可憐さは美悠ちゃんの可憐さに似ている」  「また先走っちゃってる(笑)でも、大正解です(苦笑)」  「やったー!(笑)」  「ちょっと重い話になるんですけど…」  「うん、うん」  「なんだろ、美悠に対して自分は同情してるだけかもしれないって、そう思ってたんです。つまりその、自分がスーパーモデルな女性の方角を向いちゃった場合の美悠の反応を思うと、ほとんど本能のように憐れみの情がせり上がってきて、そしてその瞬間に、その瞬間二だけ、美悠への思いが最高潮になる。そこから僕は思っちゃったんです。こんなのはほんとうの愛なんかじゃないって」  「はい…」とだけ沙和はやさしく。  「でもちょっと前に店で〈沖の小石〉を見た折りに感じたのは、小さいこと、しおらしいこと、そういったものそのものの持つ、いうなればそこから滲み出てきて、気づけば胸に溢れ返ってしまうような、そんな途方もなく澄み渡った瑞々しさだった」  そうして晶生はさらに話を畳み掛けた。けれども、それでもまだ"愛果の引力"からは逃れられなかったこと。そして昨日、愛果とともに一つになって夢を見る夢を見て、はっきりとキリがついたような気がして、彼女を巡る女性的なものから抜け出す決意ができたこと。そうして世界が、ありのままの世界が、美悠が、清らかな水のように胸に流れ込んできたことを。  まるで、星の海を泳いでいるような夜だった。「ねぇ、ちょっと寝っ転がってみない?」と美悠に言われると晶生は、サッと彼女の左手を引いてともに境内に尻もちをついた。「ワイルドね」と美悠にも言われたから可笑しかったけれど、でもいざ横たわるとなると美悠に負けじとしなやかにという、そんなスタンス。互いの呼吸が深くなってくると、愛果を思って侘しさへと溶けた"朝の夢"が思い出された。手がずっと繋がれていることにじんとした。愛果とのあいだには茫漠たる幻想が横たわっていた。しかし、右隣のうら若き女とのあいだに横たわるものなど何一つないのだ。ありのままの体温だけを握ってるんだと彼は思った。  「ばあちゃんにさ、ここの白猫の話を聞いたんだ」  「可愛い可愛い、白猫ちゃん…」  その声色はさながら二人の小舟を揺らす子守唄だった。  「美悠が白猫みたいだって、ばあちゃんはそうも言ってたんだよ」  「まぁ。ねぇじゃあ菊恵さんは、白猫ちゃんがわたしたちを守ってくれてるんやとか、そんな話はしてなかった?」  「へぇ、そんなことまで美悠には話してたんだ」  「ううん、わたしが言ったの。なんだか守ってくれてるみたいですねって。そしたら菊恵さん、その発想はなかったわって、あの人らしく豪快に笑って」  流れ星がなだらかな曲線を描いて流れて行くと、二人の笑いはしっとりとした。そうして互いの小指を絡ませ合う。夢であるように。


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夢の織物 〜夏へ〜 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 6
P V 数 : 390.0
お気に入り数: 0
投票数   : 2
ポイント数 : 0

作成日時 2025-11-16
コメント日時 2025-11-16
項目全期間(2025/12/05現在)投稿後10日間
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閲覧指数:390.0
2025/12/05 19時56分11秒現在
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夢の織物 〜夏へ〜 コメントセクション

コメント数(6)
おまるたろう
おまるたろう
作品へ
(2025-11-16)

昔のエロ漫画的な設定への違和感を慣らすのにひと苦労したが、その当のリビドー濃縮度が感じられ、個人的には評価高いです。ひたすらキモいマザコン男がなぜか女にモテるというお話。

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おまるたろう
おまるたろう
作品へ
(2025-11-16)

ひたすらキモいマザコン男がなぜか女にモテるという「不穏で不愉快な」お話。(二度言う)

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はちみつ
はちみつ
作品へ
(2025-11-16)

評価くださり光栄、、 だけどおまるさんの評価の理由(苦笑) 母的なものへの思慕≒母への思慕、であることを思えば、実母がめちゃセクシーだったり可愛かったりすれば惚れるなんて普通にあり得ると思ってたし、もしそういう男からそんな話を聞いても「へ〜、あなたたち面白い家族だね」とむしろ好意的に捉えるだろう自分はズレてるのかも(汗) 自分的には普遍的で、いうなれば醜くも美しいものを書こう、もっと言えばそれだけを書こう、書きたいと思って書いたつもりですが、単に醜いだけと思う人も一定数、いやむしろ多数いるのかもと、そう思い。 何が美しくて、何が醜いのか。品がある、品がないとは、どういうことなのか。 それは、もちろん書き手の感性如何とはいえ、数多の読書体験から、経験則のように浮かび上がってくる部分が相当に大きいのかもしれない。 遅れに遅ればせながら、そろそろ本を読み始めなければ。

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はちみつ
はちみつ
作品へ
(2025-11-16)

訂正 醜くも美しいものだけではなくて、醜くも美しいものと、ただただ美しいもの、でした。そして前者が後者を高めることを意図しました。 長いものをお読みくださりほんとうに感謝です!

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レモン
レモン
作品へ
(2025-11-16)

面白かったです。 晶生の想いが奔放なことばで描かれていて、あっちこっち飛び出して行きそうなことばなのに、よく制御できるなと思いました。 ただ、醜いとは思わなかったし、現実的でもないよな、と思います。 だいたい、この年頃だと、好みか好みじゃないかと直線的思考を辿りそう。 気になったのが、美しく綴りたいとの意図があったということですが、 晶生のキャラクターは、ご自身の想像ですか?それとも、ご自身の内なるものが反映されてたりするんですか? あと、敢えて申し上げるならば、登場人物の区別がつきにくいです。 なんか、みんな、奔放なことばで美しく綴られているので、もはや名前だけで区別しました。

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はちみつ
はちみつ
レモンさんへ
(2025-11-16)

とにかく普遍的というか、自分にとって一番本質的なことを書きたいと思っていました。その一つとして母的なるものへの憧憬があったわけですが、母的なものの最も純粋な存在とは母そのものだろうということで、上手い言い方になってるか分からないのですが、晶生の母にその象徴をまるっと背負わせてみた次第なんです。 そして、こんな魅力的でかつ優しい人が母だったらどんな心情になったろうと妄想全開で書いたので、それが奔放な表現に繋がったのかなと(笑) キャラ立ちに関しては、それこそ半分夢のような内面ドラマとして書いたので半ば意図的であり……というのは言い訳で(苦笑)、つまるところ女性一人一人の個性を見つめる文体、さらにその手前の眼差しみたいなものがまだ獲得できてないという、そういうことなのかなあと。 ご指摘いただきあらためて強く認識できました。次作はもっと現実感を出せるよう、幻想性と歩調を合わせ、結果としてリアリティと幻想性が響き合う、そんな小説を書ければと思います☆♪

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