別枠表示
甘やかに震える、夏の夢のような
1. 〈しっとりと降る雨〉というフレーズこそが、あるいは問題なのかもしれない。欧米のようにも南アジアのようにも見える、黒ずんだレンガ造りの建物が雨に洗われるなか、彼女は物憂げに佇んでいる。いや、佇んでいるようでその実、何やら両手を動かして作業をしている。何の作業をしているのかは分からないのだけど、なぜ分からないのかと考えてみるに、そこにはどうやら、情景をあえて曖昧なままにすることで、茫漠たる、もっと言えば悩ましい夢のような、そんな情感を醸し出すことが求められているのだと気づいた。もちろんそれを求めているのは他ならぬ僕自身であり、まるでそのためには諸々は、〈しっとりと降る雨〉というフレーズよりも"目立って"はならないかのようだ。そんななか、控えめな胸に黒く強い瞳を持った彼女だけが、あたかも紅い花をその胸に隠し持っているかのように、世界への挑発的な意志を仄かに宿していた…というのはもちろん(?)、美悠をいくばくか誇張したニュアンスではあるのだけど。 その休日の朝もまた僕は、夢見るような曲線の並木道を歩いていた。なだらかと言えるとは思うのだけど、たとえば、〈緩やかな並木道〉などと言うのはいささか的外れであり、なによりそんな怠惰なレッテルを貼りつけてしまった暁には、並木道から—彼女に心があれば、ということだけど—抗議の意志が届きかねないと僕は思う。というのはちょうど中ほどのところで僕たちは、さながらレーシングコースのカーブのように逞しい曲線に迎えられることになるからだ。 そんなことを考えていると、車の免許のことがぼんやりと浮かんだ。そしてそれは、もっともっと甚大なことまで連れてきた。アイツ(美悠)と生きていけたらな。この町で、この山間の小さな町で美悠と、つつしまやかで、それでいながら朗らかな日々を、たとえばそう、遠いとおい明日から振り返る折りに、木々や鳥たちの住まう記憶の森から顔を出す、愛らしいドングリのような滑らかさの。 そう思いながら僕は茜色の空を見ていた。5月の陽射しはそんな気持ちを嘲笑うように眩しく、そしてひたすらに陽気だった。 店に入るとばあちゃんがいたからたまげてしまった。僕はスーッと吸い込まれるようにばあちゃんに訊きたくなってしまった—"人は、哀しみをくぐり抜けることで初めて、真に朗らかに生きられるのではないでしょうか?" …「おうい、あきちゃん。聞いとるかい?」 「あっ、ばあちゃんごめんな。つい考え事、しちゃってて」 「へーえ。午後には雪でも降るんかのぅ」 「お久しぶりです、ツネさん」と美悠が来ていた。 「おう美悠ちゃん、相変わらず爽やかやのぅ」 「あはは、毎日笑顔の訓練、させてもらってますから」と、なんだかやけにサバサバした美悠だったから僕は、先の逡巡が成層圏外へと吹き飛ばされてしまったような心地がした。 「…このクッキー、や、何と言うんやろな、可愛いいのぅ」 「あっ、〈沖の小石〉ですね。でもそうだな、カテゴリーは…」 「ほうほう、沖の小石ゆうんやなぁ」 「あっ…」 「ん?どした?美悠ちゃん」 「あっ、いえ、何でもないです」 美悠らしいやと、舞台を移した甘やかな夢に僕はふたたび釣り込まれていた。今すぐにでも彼女の手を引きドアを開いて、幾万の粒子煌めく大地の大気をともに目一杯吸い込みたかった。 しなやかな背はきらびやかな黒いアクセントを戴いていて、彼女が一回り低いという事実を忘れそうだった。それはそのまま澄み渡った水色の海に届くかのように思われた。 しとやかで気品ある小ぶりな胸が、ささやかながらもたしかな力でシャツを"グイッ"と引っ張った。まるで薄紅色の川のさなかのありふれた岩のようで、その存在をさりげなく訴えかけてくる様が切なくて、亜麻色の髪がなびくとそれは頂点にまで高められた。 外に出るとやはり夜らしく静まり返っていた。まるで巨大な洞窟に包まれてるようだと、風のない冷気に触れてなおのこと思う。輝く星は何か未知の鉱物の発光のようで、僕はそれこそ空に乞うように雪を想った—でもそれは先のばあちゃんのからかいを思い出したからではない。口をすぼめたばあちゃんの悪戯な表情は、遥かなる過去から木漏れ日に護られるようにして浮かび上がった。あれから1年の歳月が流れていた。 とはいえこうも、膨大な歳月が流れたように感じるのはなぜだろうとまた星を見た。すると視界の右側でスーッとたしかに、左から右へと一本の線が引かれたようだったけれど、相変わらず、何事もなかったかのような無機質な点滅を眺めていると、僕は愛果さんに吸い込まれるような気がして武者震いした。 …「どう?」と愛果さんは、顔を向かって右側に傾けながら僕をまっすぐに見つめた。ドキドキしながらもその黒光りする瞳に、まるで美悠のお姉さんみたいだなぁと関係のないことを思ってしまった。 「いやホント、お上手で、、なんというかびっくりしてます」 「ウフフッ、可愛いのね」と今度は逆に顔を左側に傾けた彼女は、僕をじっとりと見つめたままに右側の口角をクイと上げた。絵にはどこかで見たことのあるような、石段に沿って鳥居が連なっていく情景が描かれていて漠然と、この女(ひと)はどこに行こうとしてるんだろうと鳥肌が立ったような気がした。 それでいながら不思議と冷静で僕は静かに胸を探った。やはりこの町にはそんな情景はなかったろうと思い大都市・大都のささやかで小さな山頂を思った。 …「愛果さんは大都、行ったことありますか?」 「あ~、大都ねぇ。でもどうして?」と"でも"と"どうして"の間がないどころか駆け抜けるように切り返されて、 「あっ、すいませんっ…」 「えっ?えっ?なんで謝るのぅ?」 「それはっ……」 「ねぇ晶生くん、もっと寛いじゃって、いいんだよ?」と愛果さんは顔をグッと近づけ僕を覗き込んだ。"寛いじゃっていいんだよ?"と一息で言わなかった理由なんて一つしかないだろう。けれど、一抹の可能性は僕を活動を活発化させた活火山のようにしてしまった。 帰路では霧に包まれた熱帯夜を歩いてるような心地だった。夏の夜の霧のさなかを愛果さんが、屋台から屋台へと半ば虚ろに歩いては人々の視線を集める情景を見ていた。そこにあるのは途方もないトロフィーであり、彼女のためならある富豪は豪邸だって投げ出すんじゃないかといった想像は僕を震えさせた。 彼女はそんなことにはそれこそ一抹の関心すら示さないだろうことに胸をさらに掻き乱されては、あのまるですでに100年の時を生きて来たかのような視線に、クタクタに疲れ切った末の得も言えぬ安らぎのような澄んだ瞳に、雷に撃たれたような抗いがたさで包まれてしまった。 2. その夏の朝公園に行くと、右手のクスノキの下に自転車が止められていた。乗車人はいないようだった。でも、どこかにはきっといるのだろう—風がヒューッと吹き抜けた。 …そんなはずはないのに彼女の、艷やかな黒髪は腰あたりまであるようだった。 「あっ……取ってくれない?」と彼女は何か挑むような視線を投げかけてきたのだけど、その直前の間はそれがある種のたくらみの結果であることを証していた。 「僕には取ることはできない」と僕は言った。その瞳はまるで黎明が朝に切り替わるようになだからかな円へと移ろった。 「僕はもう、あなたに付き合うことはできない」 「ねぇ、わたしたちまだ手を繋いだことすらなくってよ」と黒いフリルから白い左手がニュッと伸びるように差し出された。羞恥が吹き上がり、そしてそれは瞬く間に狂おしい溶岩の流れとなった。 「っ…!」 「あっ、ごめんなさい…」 大地は急転し雨にぬかるんでいたけれど、僕はいわば水たまりに隠れて今度は救いの手を待った。そのときこそは禍々しい一対の余分な区画へと手を伸ばして、その秘密を掴みたかった。 そうして彼女はシロクマの話をしたのだった。"わたしのこと、考えまいとしたって無理なんでしょ?"なおのこと熱く、考えてしまうんでしょう?"「打ち込める趣味でも見つけることね」と彼女は言った。 ……ほんっと安らげる公園だよなと、クスノキの深い夏蔭に抱かれていると惑星を思った。幼い頃に行ったきりの大都は実は別の惑星にあり、愛果さんを乗せた銀河鉄道は車両のトラブルにより砂漠の惑星に着陸した。"かったるいけど、仕方ないわね…"とのアンニュイな彼女はやがて、"なんてったってこんなにも待たされるのよぅ(!)"と地団駄を踏むヒステリックな女性に変貌する。 …「私っていつもこんな風だって、晶生くんは思うかな?」と愛果さんは珍しく俯いたままで。 コーヒーの湯気に紅葉を透かし見たような心地がして、遅れてコーヒーの表面が湖面になったようだった。 「下手なこと言ったら怒られると、思っちゃってるね?」と今度は黒い光さえ淡くなるようなしとやかさで。 「……」 「ねぇ、私しゃべらない男の子、好きよ」 「あっ、はい…」 「ベラベラしゃべる男は嫌い。大嫌い」… …僕は残り香を目一杯吸い込むように大気を吸って、左隣の図書館へと歩き出した。図書館の前には公園を望むささやかなベンチが並んでいるのだけど、まるで寂しさがちょこんと座っているかのような気がして、薄緑色の精霊のような瞳を閉じた彼を見ていた。左隣に腰を下ろすと、また強い風が吹き抜けていった。 3. 「わたし、大都に行ったことないの」と美悠が言うと僕の胸では愛おしさが爆発した。大都近郊の中核都市から移り住んてきた美悠だから、大都にはそれこそ10回は行ってるだろうと高を括っていたから奥深くの熱いハートが丸ごと弾けた。 「だって人混みってホント、ゴミゴミするんだもの」 「そりゃ人"混み"だからね」 「センセ—、おなじ"ごみ"でも意味が違うと思いまあす(笑)」 「美悠、冴えてる(!)」 そして頭に垂直に降ってくる可愛らしい握りこぶしだった。 …「このクッソ熱いなか神社に行くの?」 「わたし、田舎の神社に興味があるんだ」 「ん〜、あんまし変わらんと思うけどなぁ…」 「あっ、でもさ。たとえばそれこそね、神社の端っこ、つまり神社と家々の境なんかに佇んでみたら、神社の厳粛な雰囲気とセットになることで、田舎の家々の素朴な感じがより引き立つような、そんな気がするんだぁ」 「分かったような、分からないような(苦笑)」 …「まさかばあちゃんが付いてくることになるなんてね(笑)」 「ねぇわたし、今なんだかとても幸せよ」遥か右から透明な川が家々を通り抜け目前に流れ来ては去っていった気がした。 「おおい、こっちこっち。いつまでも熱くやっとらんと」 …「えーっ?…」 「どした?美悠ちゃん」 「いやわたし、てっきり、というか当然のように何て言うの?、地続き?、その、家々と同じ高さでスッと足を踏み入れることのできる神社やって思ってました」 「あっ、つまり石段なんかないと思とったいうことやな?」 「あっ、ハイ」 「美悠ちゃんの言い回しは面白いのぅ(笑)」 「ハハハ」と僕も笑いながら、右斜めに上がっていく頑強なそれを見ていた。てっぺん—つまりは神社の境内—まではたしかにささやかな距離だった。でもどうしてだかその間には遥かなる隔たりがあるような気がして、レモンイエローのシャツから覗く美悠の鎖骨にふっとミイラを思ってしまう。 一つ、また一つと石段を昇るごとに黄褐色の美悠の肌が、彼女の故郷の雪に洗われていく情景を見ていた。 牡丹雪は徐々に激しくなり、ついには隙間を探さなくっちゃならないくらいに激しくなった。最初雪は彼女と戯れていて、その頬に愛らしい紅みを授けた。しかし激しさが極まる頃には、彼女の頬はさながら雪の女神のように蒼白になり… まるで、そんな明日を回避するかのように彼女はこの南の町に越してきたのではないだろうかと、彼女の故郷の人魚の像を思った。 …「狐じゃけん、キツネじゃけん」 「はっ?美悠なんで九州弁?(笑)」 「驚きを表現するためのチョイス、よ」 「またまた、分かるような分からんような(笑)」 「ホンマに可愛いやろう?それこそ全国でもここくらいっちゃうか、こんなおっきな狐の像がある神社なんて」 「ホント、なんだか家々が小さく見えますね」 「美悠、どう?田舎の神社、体感できてる?」 「うん、心から(!)」 「そりゃ良かった」 「でも、お蛇さんがいたら、もっと良かったなぁ」 「お蛇さん(笑)」 「うふふ」 「美悠ちゃんはすごい女の子やのぅ、蛇が好きなんてなぁ」 「もちろん小さい子限定です(!)(笑)」 そうして美悠は水筒の水をガブガブと飲んだ。その口の動きから僕は南国の黄色い鳥を連想した。北の少女が南に行って逞しくなるストーリーが瑞々しく踊っていた。たしかに美悠はでっかい狐見守る南に来たのだ。 道はとくに楕円を描いているわけではなかったけれど僕は、美悠のパティスリーへの並木道のようにグイッと回り込むような帰路を漠然と思った。一つの旅を終えた勇者たちの"凱旋"にはそれがふさわしいような気がして。 「もう帰っちゃうのかよ。泊まってけよ」—そうちょいワル風に言いたい衝動が渦巻いていた。 「あー、なんか今になって疲れが来たわ」 「まだ四時だぜ」 「どうしたの?カッコつけちゃって」と髪を分けながら言ったもんだから、 「そんな美悠こそなんかイケてる女風じゃね?」 「えっ?あっ、これはその…」 —「えっ!?ちょ、ちょっと…」 僕は美悠の背に手を回して強く抱き寄せていた。出逢って8カ月のその夜、僕は初めて美悠を抱いた。 今も美悠は、あの山間の町で朗らかな日々を送ってるんだろうなと思っては自分の、あの日の衝動を思っていたたまれなくる。僕にはもう美悠はいない。もちろん愛果さんもいない。 身勝手な哀しみを潜り抜けて手にしたのは朗らかさなんかじゃなく、ましてや強さでもない。今朝も僕はこの大都のオアシス(と僕は呼んでいる)に来て、草原のように伸び広がる緑地に立っては、左隣からカラッとした瞳で見上げてくれる愛果を、そしてまた、ちょっと遠い右側の木蔭から流し目を送ってくれる愛果さんを、ともに、胸の隅々まで目一杯に染み渡らせる—そんな腑抜けた夢を見ている。 そんな甘い夢だけを見ている。
ログインしてコメントを書く
甘やかに震える、夏の夢のような ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 396.0
お気に入り数: 0
投票数 : 1
ポイント数 : 80
作成日時 2025-11-01
コメント日時 2025-11-09
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 40 | 40 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 10 | 10 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 5 | 5 |
| 音韻 | 5 | 5 |
| 構成 | 20 | 20 |
| 総合ポイント | 80 | 80 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 40 | 40 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 10 | 10 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 5 | 5 |
| 音韻 | 5 | 5 |
| 構成 | 20 | 20 |
| 総合 | 80 | 80 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


おはようございます。 詩的な表現と小説のような形式がジグザグと組み込まれている印象です。 >>そんな甘い夢だけを見ている。 全文読んだ後に、 ラストがどうも切なく乾いて響いて来ました。
1大作ですね。 この作品は、時間と記憶、そして愛と罪悪感の交錯が精緻に描かれていて、読んでいると「雨」「並木道」「大気」「雪」「神社」といったモチーフが何層にも響き合っているように感じます。 >先の逡巡が成層圏外へと吹き飛ばされてしまったような心地がした という一文ですが、これは美悠との再会で、心の迷い=逡巡が一瞬で消えてしまった、つまり理屈よりも感情が勝ってしまった瞬間を示しているように思えました。 そして「しっとりと降る雨」や「並木道」は、その感情の移ろいや揺れを包み込む“心象風景”として機能していて、外の情景と内面の心象が絶妙にリンクしています。 雨が「しっとり」なのは、激情ではなく「抑えきれないが、表には出せない」想いの象徴なのではないかと思いました。 「大気を吸う」という表現が何度も出てくるのは印象的ですね。作者にとって大気とは、生命を実感すること、あるいは「相手と同じ空気を共有すること」であり、精神的にも肉体的にも交わる行為のメタファーのように見えます。愛果さんとの場面では、それがやや官能的に、そして「現実的な関係」として描かれています。 一方で美悠との間では、「純粋で理想的な空気」として描かれているのが対照的です。 「雪を想った」からの「牡丹雪」は、美悠との関係の「純粋さ」や「儚さ」を象徴しているようです。牡丹雪は、美しく大きいけれど、すぐに溶けてしまう。彼女への想いがいかに深くても、それは現実には続かない、消えてしまう夢のようなもの。 それに対して愛果さんは現実であり、彼が罪悪感を抱えつつも逃れられない「肉体と現実の象徴」として描かれているようにみえます。 最後に、なぜ美悠ではなく愛果への想いで終わるのか。これは彼が「現実に戻ってきてしまった」ことの表れなのでしょうか。 美悠は理想・夢・清らかな関係の象徴であり、愛果は現実・欲望・生の証。 「大気を吸う」描写に包まれた終幕は、理想を追いながらも最終的に生きることそのものを選ぶ姿なのかもしれません。 美悠と愛果という二つの存在が「理想と現実」「純粋と欲望」として対照的に描かれているので、最後に愛果で終える構成にも深い余韻があります。 雨・雪・神社といったモチーフが、時間と記憶の中で静かに響き合うような、美しくも切ない作品でした。