お前は詩人ではない。ただの社不だ。 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

わたしがいのることは

とても重い

みんな経験したことがあるであろう、とても重い"ちょっと"が詰まっている。

錠9

生きる

声なき声を拾いたいと思ったことはあるか

わたしは、ある。 あなたの胸を叩き 何故なのかと問いただしたい そう呼び止められた時 わたしは何と答えられるだろうか。 静かにだが確かにこの詩からは 張りつめた足音が聴こえる

ぼんじゅーる

天皇陛下万歳

知的破産者及び愚昧界の金字塔

平成天皇と存命中に呼び不敬を極め、大正・令和を外す選別賛美。明治から平成まで乱暴に万歳する時代錯誤と挑発精神が光る奇作。

大人用おむつの中で

好きです。

切れのいい、知性あふれる現代詩だと思いました。

ことば

ことばという幻想

純粋な疑問が織りなす美しさ。答えを探す途中に見た景色。

花骸

大人用おむつの中で

すごい

これ好きです 世界はどう終わっていくのだろうという現代の不安感を感じます。

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)



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お前は詩人ではない。ただの社不だ。    

子供の頃、勉強は大嫌いだった。中学1年の時すでにして打ち込んでいることの馬鹿加減にうんざりしてしまっていた。社会の先生はそもそも社会人経験に乏しいし、数学の先生は己の数学センスのなさに絶望して数学教師になっているし、理科の先生は男は弱い生物であるという真理を教えてくれないし、国語の先生はそもそも必要なの?、それと、えーとあと、もう1教科ってなんだったっけ?なにもかもバカバカしいから勉強で悪ふざけをしていた。今でもハッキリ覚えているのは英語の授業で小テストが行われた際「between」を「ベッド・イン」と訳してどうでい?と得意になっていたら、先生がお前の隣の奴を見てみろというのでハッとして凝視したところ、学年一の不良だったA君がガチに解いていて尚、私とまったく同じ解答を書いていた。自分の考えつく程度のことはヤンキー達にとっては、なんの造作もない、ナチュラルでしかない、と。A君は数ヶ月に1回程しか学校に来なかった。教師達から「素人(...私らのことね)にはもう絡むなよ」と釘をさされていたからだ。言うまでもなく、義務教育の権利の侵害だが、彼がほかの生徒を凄惨な凶行と虐めにより何人も不登校にしたり転校させてたので、しかたがない。まさに暴力のエリートであった。A君にまつわる奇妙な現象がひとつ。彼が学校に来るときまって火災報知機が鳴るのである。教師達もA君を真っ先に疑いこそすれ、証拠がないから糾弾するわけにもいかず。度重なる椿事に、ついに教師たちも業を煮やし、火災報知機が鳴るたびに全校生徒が運動場に集められて、校長が全員を説教するという事態に発展した。A君に罪悪感を植えつけるための教師どもの作戦だったのだろうが、本人は終始ヘラヘラしていた。結局この現象、卒業するまで終息しなかった。ちなみに私はA君が犯人じゃないことを知っている。何故って?(お察しください)このA君ともう一人、サッカー部にゴリラーマンみたいな顔をした「学年最強候補」がいて”2強”と囁かれていた。中学2年生の3学期あたりにこの二人のケリをつけるタイマンが勃発するのだけれど、そのファイトもあとで話を聞くところによると実は1学年上の元老院どもが裏で糸を引いてるのであった。すごいなと。エテ公のくせにプロデュース能力はフィクサーさながら、イッチョ前だから。近所に県一番のでっかい市場があって同じ地域内にマンモス団地がある。町全体が荒くれ者のゲットーみたいな場所なのだ。TSUTAYAが不良のたまり場になっていてDVDを返却しようと立ち寄った際、店の斜向かいにある80年代の化石のような「嵐」ふうのヘンピなゲーセンの辺りで不特定多数の若者どもがエキサイトしていた。心優しき小市民にとって、このおぞましい紛争の醜悪さは我慢ならないほどの光景であった。よく見るとどうやら一人、とんでもないならず者がいるようでそいつが近くにある、ほっかほっか亭の前に立っている旗なんかをぶんぶん振りまわし、その取り巻きはそれを必死に制止しているようであった。このような場面に出くわしたならグズグズせずにさっさと立ち去るのが定石である。しかしどうしたことかこの野猿と眼が合ってしまったのであった。「なに見てんだごらぁぁ」と、あろうことかこっちに襲いかかってきたのである。ファッションセンターしまむらでも売られていないような小汚いトレーナーを着た、絶対にアレを注射しているであろうケミカルな人相をした猿野郎が、身に憶えのない悪意を剥き出しにつっかかってきたのである。いわれもない暴力に仏の心を持つと揶揄される私も、さすがにぶち切れそうになり、これは修羅場は避けられまいと覚悟した刹那、間一髪で助け船が。その白痴の取り巻き数名が「すんませんっ!」とこの猿をなんとか取り抑え、事なきを得たのであった。この善良な奴らが手振りで「早くあっちいって」的なジェスチャーを発しこの場から速やかに立ち去るように促してきたので、ありがたく離脱。急ぎ足で退散。そのあとこいつらがどうゆう経緯をたどったのかはよくわからない。私は変わり者なのでいつも地元のヤンキーのターゲットになっていた。ドブに落とされたり、殴られて、ツバを吐かれてるなんてのは日常茶飯事。強制的に暴走族のタイマンに参加させられて、十余名に囲まれた状況の中で、もちろんボッコボコにされた。ばあちゃんの財布から金を抜き取ってこいと脅されて、いくら巻き上げられたかわからん。塾に通っていたのだが、毎度帰りに一味が待ち伏せしてるとか。いつもそんな感じ。飼っていた犬を殺されて朝に死体を抱いて慟哭したこともあったな。こんなくだらねぇ話ならいくらでも書けるわけで、思い出はプライスレス。当時、地元に半世紀以上続いている、超老舗の学習塾があった。今も続いてるのかは知らんけれど。私は小学1年生から中学3年生になるまで、いくどかの転塾と中断を経て、なんやかんやいって塾に通い続けていた人間である。塾でなにを学んだということもない。ただ惰性で通っていただけだ。親としては、あまり利発な子供じゃないことはとっくに分かっている。つまり、端から期待なんぞしてないが、行かせないよりはマシだろ的なまさに田舎の親特有の雑な考えのもと送り込まれていた。で、その超老舗の塾には中学2年の時から通っていた。A、B、Cクラスと序列があって当然のぶっちぎりでCクラスへ直行。だからA、Bクラスにいる子たちはほとんど顔すら見たことが無い。Cクラスは授業中、できない時に顔面にチョークを投げてくるマントヒヒ爺みたいな講師がうけもっていて。ひたすら張り詰めたような雰囲気の中でドリルのプリントを解かされた。逆にいうとそれだけ。「劣等生は人間ではなく動物だから動物扱いして反復練習するのがよろし」って方針だったのだろう。いちおう脳トレにはなったかもだが、もとより学習能力が低く意欲もなくうえに、学力的に自立していない劣等生に意欲の向上を促すような効き目があるわけじゃなし。偏差値が高くて優秀な子供ならガンガン勉強して、そのままエリート街道を邁進してほしいけど「スカ」の方にそのまま偏差値を適用するのは、どうかと思うよ。だからと能書き垂れても仕方がないが、実際いっさい成績はあがらなかった。その頃、他のところで深刻な問題が起きていて。塾じゃなく学校の方で。勉強どころではなかったのである。一個上の学年にいる○○組ドラフト一位候補みたいなやべぇ悪童に目をつけられてて、ずっとつきまとわれていたのである。塾は勉強するのではなく避難所みたいな場所だった。やがて万事うまく行くように収まればよかったのだが、と言いたいところだが、残念ながらそうはいかなかった。で、この老舗の塾、googleマップで確認したらとっくの昔につぶれて、もうなかった。完全に畳んだか移転したか。マップを検索したらだいぶ離れたところに一部同名の塾があったのでもしかするとそこでほそぼそと継続しているのかもしれない。あそこでは代数学や英文法や生物の知識を教わった。のみならず受験に必要な知識をひととおり教わったはずだけど、なんで勉強をしないといけないのか?という肝心かなめの点はついぞ教えられなかった。ずいぶん昔に流行った「ドラゴン桜」で伝説の教師(阿部寛)が言い放ったエポックメイキングな科白「自由に生きるためだ!」とは、いみじくも言ったものである。当時、私はあのシーンを眺めて只々素直に感動していた。けれども、これはべつに三田紀房先生に喧嘩売りたいわけではないのだけど、あれから無駄に歳をとり、あれこれ世間のことを知って、ほとほとうんざりしている今となっては違和感を覚える。自由ってのはノージックやらロールズやらを引き合いに出すまでもなく複雑、かつ多くの矛盾をはらんでいる危険な概念だ。ひとたびその言葉を口に出したからには”義務”を果たさなければならなくなる。いいかえると、おのれの身が社会的幻想の恐怖に囚われること、原則的な極端な厳しさと不可分になることを意味する。その重圧とひきかえの、自由。だからといって何だが心のどこかに「勉強したからって自由には全然ならんよなぁ?」とみっともなくヤジを飛ばしている自分がいる。まず、勉強して得られるものがあるとすれば、あくまでうまくいけばの話だけど「寄辺」(よるべ)であろう。大学にしても高度な専門職にしても、それなりに勉強しないと入れないわけで、またそこに帰属するためにはさらに勉学を積む必要があるわけで。しかしそのような努力の末、ご待望の自由にまで到達できるのか?というと、それなりにYESの部分もあるのだろうがNOの方が部分的に大きいはずだ。...本筋の話に戻すと、寄る辺の一員になる過程で社会の一員としてのさまざまな”義務”を果たすことが求められるわけだ。私は外野から眺めているだけだが、経済人にしろ議員にしろ大学教授にしろ社会のお偉方ほどみんな各々の想い描く自由を行使するために、命を削ってその義務を果たしているように見える。しかもこれですら勝ち組での話なのだから恐れ入る。もしこれが自由なのだとしたら自由は凡人には耐えられないものである。凡人、つまり残り大半の寄辺なき者たちの事情はもっと悲惨だ。犬のような底辺同士の争いの日々がある。だから、やっぱり勉強は自由に生きるためにするものではないのだ。そうではなく大半の人々にとっては生き残りたいのなら最低限勉強くらいしなきゃダメってことなのだ。たぶん。気づけば机の上に読まねばならない本が山積みで、やり残した勉強が雪崩を打つ。今さら何をして生きてきたのかと呆れるが、死ぬまで退屈はしそうにない。ふと、小学校の寂れた校舎を Google Earth で眺めた。6年間通い詰めたあの場所は何も変わっていない。ここで学んだことは、礼儀やチームワークと言われたものも含め、今になってみれば大半がゴミだった。小学4年の時に担任だった暴力教師からは、毎週のように髪をひっぱられたり、ビンタを撃たれたりした。シャープペンを使っただけで授業中に立たされていきなりビンタを撃たれた。「えんぴつを使え、カッコつけるな」と。私だけではなくほとんど毎日誰かがこのビンタの犠牲になった。結局その人は奥さんが殺人事件を起こして、三学期を境に学校に来なくなった。「因果応報」を子供に教えることもカリキュラムにあったのかもしれない、ともかく当時の教育の場には異常な暴力が蔓延しており個人主義的な態度を見せたもんなら厳しく叱られた。もっとも、だからといって社会性やチームワークが向上したとも思われない。ただひたすら独善的な暴力を受け続けただけだった。本物のチームワークを学びたいのなら自衛隊に入隊したほうが100倍マシである。さっさと上京して起業したほうが1000倍マシである。もはやワザと日本人を弱くするために、あんなクソみたいな教育制度にしているのではないかとすら思う。じつは協調性もなく、じつはたいして勤勉でもなく、ひたすらに臆病で。キョロキョロとまわりを見るだけが取り柄の、現実の方ではヘコヘコしてて、ネットではイキリ散らしているだけのクッソダサイおっさんと爺らを生み出しているのはこのクソみたいな学校である。


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作品データ

コメント数 : 2
P V 数 : 384.0
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2025-10-03
コメント日時 2025-10-08
#ビーレビ杯不参加
項目全期間(2025/12/05現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
可読性00
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叙情性00
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2025/12/05 19時57分38秒現在
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コメント数(2)
紅井ケイ
紅井ケイ
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(2025-10-08)

社不とは「社会不適合者」のことなのですね。 前作同様、自伝的要素の濃い作品がマイブームなのでしょうか。 中学時代の思い出話から急に哲学的な話となり、 「本筋の話に戻すと」と言っておきながら、ぜんぜん本筋に戻らない。 笑いました。

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おまるたろう
おまるたろう
紅井ケイさんへ
(2025-10-08)

紅井ケイさん、ありがとうございます。寝る前にfacebookにパコパコと文字を打って適当な文章を書くのが癖になっていて、知らない間にゴミのような文章がたまっていくのです。これは、それをツギハギしたら出来たという代物でした。なんか楽しんでもらえたようなので、よかったです。

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