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ジョナサンとタニア
ねえ、ジョナサン、私、カナヅチの才能があるわ。とタニアが言った。このころのジョナサンはまだ、彼女のことをそんなに意識してなかったと思う。家が割と近くにあって、お互いの親同士が同じ高校の同級生だったことから、僕らも生まれた日にお互いのことを知っているような気持ちがあった。だからといって学校では目立つようには話さなかったけれど、いつも教師の質問に答えるときのタニアの声は立ち昇る白煙のようで、彼女の灰色がかった瞳と良く似合っていたし、どこか気だるそうで、それでいて好奇心を穴の開いた洋服に勝手に縫いつけてくれるような変質的な魅力があった。単に僕にそういう気質があっただけかもしれない。まあ、そこんところ言葉を濁しておくよ。さて、ここのプールはいつも空いていた。真夜中に死んだ人が泳いでいたとか、鼻をつまみたくなるくらい塩素臭い水のせいだろう。実際プールの水はきれいで透き通っていた。だからってわけじゃないけれど、二人より先に蟻が飛び込んでて、つまみ上げられるのを待っているような目をしてこちらを見上げた。僕らの出方を伺っているかのような自信や余裕が、小さな黒い命となって、掬い上げた眩い水の上で踊っている。水のはられた壁面はごく普通、塗料がはがれていたり、もちろんコンクリにヒビが入っていたりするわけもなく、プールの管理者曰く、よく手入れが行き届いているらしかったが、おかげさまでこうして、ほとんど貸し切りのような状態であったため、タニアの叔父さん(プールの管理者)、しかしどこに住んでいるのか知りもしないのだが、には惜しみのない感謝の念をときたま送っている。ここにくるときは、そう、青色のバスに乗った。バスは、ご丁寧にも運転席側を除いた全ての窓ガラスが取り外されていた。おまけに前後とも車輪がだいぶ錆びてきていて、おそらく車軸も。こちらから見えない側もそうなのだろう。ブレーキが踏まれるたびに嫌な音を鳴らした。僕とタニアは、あいにくバスに乗っている乗客は僕らしかいなかったのだが、赤信号になるたびにその音を聞きたくはなかった(タニア曰く、耳の葬式)から、まだ遠路の目的地にたどり着くまで、ギーと言ってやり過ごすのがお決まりの儀式、しかし途中からどちらが早くギーと言えるかの競争、となった。途中、バス停までの道すがら、そこには草が生えっぱなしの公園があって、草の公園って呼んでいる、そこで朝からタニアと待ち合わせて、彼女は濃紺のシャツに白くて短いスカートを合わせた出で立ちで、サンダル履きに帽子なんてかぶってきてて、そこに太陽の光が程よく降り注いで、帽子に収まらなかった髪の毛を輝かせてみせた。妙に魅力的だったというか、そこからタニアのことを少し意識するようになったと思う。バスの扉が開き、吸い込まれるように僕らは車内に入ると、生ぬるい空気がすでに小さな扇風機でかき混ぜられていて、先にお金を払うように、と若い運転手に促された。このバスはいつも、プールにしか行かない。だから運賃を先払いするシステムになっているのだ。今日の日のために親にもらった、せっかくの紙幣を崩したくはなかったが、ついでにタニアの分の運賃も僕のおごりで支払い、出てきた小銭を掬い取り財布にしまう。タニアが窓際に座り、僕はその横に腰を下ろした。バスの後方は常にエンジンの熱で暖められていて、座席がしばしば熱くなった。そういったことを避けるために、しかし後方を嫌う理由はいくつかあったのだが、今回は割愛させて頂く、僕らは前方に陣取った。やがてバスがゆっくりと出発をする。暖かい屋根色で統一された町中を寒冷色のバスがすり抜けていき、ジョナサン、幽霊って見たことがあるかしら、とタニアの声がして、いつの間にか僕は眠っていたらしい、こんなことが前にもあった気がするな、しかしタニアの声、というよりも幽霊という響きに目を覚ましたのかもしれないな、ギーと言うのも忘れて。でも、赤信号なんてあったか、いや、確かに僕はギーと言ったはずだよ、バスは同じところをぐるぐるといったりきたり、そのつど赤信号で引っかかり、ギー(今のはタニアの勝ち)、だから目的地にはいつまでたってもたどり着かず、ギー(今度は僕の勝ち)、ふざけて何べんも手を左右に揺らしながら、何かを思い出しかけながら、その昔、僕ではない僕、それは私かもしれないし、俺かもしれないし、君だったのかもしれない、そういったありとあらゆる呼び名だったとき、それが終わってしまったとき、つまり幽霊だったとき、その時間がちゃんとあったはずなんだけど、タニアは遠回しにそのことについて聞きたかったんじゃないかと思った。ギー(二人とも勝ち)。まだ寝ぼけまなこの頭でそう考えた。大体、幽霊は人の姿をしているけれど、それって魂の形じゃないんだ。だってそれはまだ、身体なんだから。つまり僕たちの本物の姿を、幽霊って呼ぶんだと思う。そして幽霊は、人の目に見えちゃいけない、僕たちが幽霊って呼んで怖がっているやつは、きっとまだ半人前に過ぎない。結局一人前になるために、僕らは生きている。生きることで、幽霊に近づいていく。大切なのは、それを知り、理解することなんじゃないかって思うんだ。タニア、君はどう思う。しかし実際、それを全部言葉にすること、説明するのがとても難しく、をしたわけじゃなく、さもなくば幽霊っぽく僕は、代わりにそのほとんどを“視線”にしてタニアに送った。幽霊として僕の形が変形し、彼女の灰色にされた瞳の奥に小さな石となって投げ込まれる。瞳のプールが、同心円状に波打っているような気がして、何だか僕は、少し安心した気持ちになれた。バスはいくつかの坂道で飛び跳ねるようにバウンドをして、それでも何とか道の上にとどまり続け、しまいには目ぼしい建物もなくなり、どこか物憂げな、木々が鬱蒼と生い茂ってきて、暗い歌でも聞こえてきそうな森の奥に入り込むと、ゆっくりと速度を落とし、そのまま壊れるみたいに停車した。運転手の短いアナウンスが車内に響き、鼻にかかったような声の、独特の聞き取りにくさがある、バスの扉が開くと、そこには水がきらめいていた。プールへと続く道は石段で繋がれていて、その脇に、土に滲まないようにこじんまりと点在する花壇が見えた。植えられているのは鮮やかな黄色の、たぶんマリーゴールドかもしれない、というのも僕の父が小さな花屋をやっているので、その近くで花切りを見ているのが好きだった。大小の、とりどりの花の茎が尖ったナイフで切り分けられたあと、花たちは何も言わずに水中に飛び込んで、たっぷりと水の入ったバケツの水を吸い込み、深く沈む。タニアが後ろから急かす。飛び散る汗と、もつれる足で石段を駆け上り、僕たちは一緒に水の中へ飛び込んだ。プールの長さは50メートルくらいあって、この前きたときに数えてみたけれど、どうやら僕は息継ぎを11回しないと向こうへはたどり着けない。つまり1回の息継ぎに進む距離は、およそ4.5メートルってわけだ。ということをそばにいるタニアに話すんだけれど、彼女はそんなことどうでもいいと言いながら、太陽に向かいあう格好で、ずっと上手に動くのを諦めているし、さらに遠くから僕ら以外の子どもの声がしている。50メートルより遠くで。
ジョナサンとタニア ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 510.5
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-07-21
コメント日時 2025-07-22
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


さわやかな夏、言葉を読む快楽、一人前になるために生きているという思想、キャラクターの魅力、叙景の美しさ、ストーリーライン。すべてそろっていますね。まったく崩れないところは、1.5Aさんの性格でしょうか。それとも、愛の形?
0こんにちは。 詩を書かれるのだなと、少し意外な感じがしました。 (コメント専門の方かと思っていました) 読後感は色つきの水晶がきらきらしている感じです。 不思議な印象の文体です。 単語とか、一文とかが、たこのぶつ切りのように、読点で句切られているし、 倒置法がけっこう使われていて、素直にさらっと読ませてくれないのですが、 それが妙に癖になるような感じです。 具が大きすぎる料理とでも言いますか、 怯まずに食べてみると、素材の味も感じる良さがあると思います。 ただ、この手法は、諸刃の剣という印象で、難しいことは書いてないのですが、 読むひとを選ぶのではないかな?と思いました。 ありがとうございます。
1こんばんは。 >>二人より先に蟻が飛び込んでて、 の連が興味深かったです。 蟻視点とか、虫視点ってなんか好きなんですよ。 カナヅチの才能があるわ。 というのもユニークなフレーズですね。
0愛の形、実はよく分かっていなくて、それは、ほんの少し誰かのことを大切に思うこと、そのほんの少しの度合いが形として顕在していくように思います。コメントを頂き、ありがとうございました。
0コメントを頂きありがとうございます。読むひとを選ぶのではないか? という問いかけの部分、大変興味深く読ませて頂きました。これからも精進致します。
1大人になると小さな虫が見えなくなるんですよね。でも見えなくなるのではなく、目に入らなくなるというか気がつかなくなる。思い出すのはやめますが、そんなふうにしてきたことが一杯あるように思います。コメントを頂きありがとうございました。
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