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水際の正体<初めより前に>
目の前のことではなく 別の場所に意識が持っていかれてしまう状態が 日常化していくと 空気の暖かさや木の香り 目の前で語りかける身体さえもが アクリル板で隔たれた 向こうの世界の出来事のように感じられる 身体感覚の何かが失われて "わたし"というものが ひどく曖昧になっていくようだ 洪水のように日々流れていく たくさんの情報の中に埋没した 幽霊のような〈からだ〉たちを 肉付けすることを試みる 身体の実存性を 線のような物体としての輪郭ではなく 生命の気配そのものを 実体として捉えたい 曖昧で、けれど確かにそこにある 波打ち際のように 例えば、枯山水を見るような 思考と身体の速度が乖離することのない時間に 心を寄せる
水際の正体<初めより前に> ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 817.6
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-04-02
コメント日時 2025-05-06
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
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| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
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| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


枯山水。 見事です。 花咲き乱れる庭よりも、 こころに沁みます。
0読んでいただき、ありがとうございます! 花咲き乱れる庭も好きですが、 外からの多大な情報に溺れてしまいそうになるので 自身と、その外とのことに思いを巡らせるなら 枯山水だろう、と。
1気配と言えば、妖怪でしょうか。生命の形は様々ですよね。
1読んでいただき、ありがとうございます。 なるほど、妖怪というのは全く考えていませんでしたが、それはアリかもしれません。 視覚からの情報はとても大きいものですし、特にデジタルデバイスの普及によって、 昨今では視覚的インパクトのある表現が好まれているように感じています。(あくまで個人的な感覚ですが) そのこと自体は否定しませんが、音、香り、質感、皮膚感覚・・・、 もっと身体全体を使って世界を受け取りたい、と感じています。
1私の好きな哲学を持っていそうな方だなと、もう一方の詩も読んでみて思いました。 意識的かどうかはまだ分かりませんが、ずっと皮膚感覚、触れることに重きを置きながら、「思考と身体の速度が乖離することのない時間」という理想、真理というものには「寄せる」としていて、諦めと希望が入り混じっているように思います。もう一方の詩でも、輪郭をなぞり、内側を「見つめる」だけで、主体はその「触れること」の不可能性や限界に気づいているようです。どう頑張っても、近づくところまでしかできない、と。 私も同じような諦念に今纏わりつかれていて、だからこそこの詩の最後の希望には少し私の意地が悪くなってしまう。 意識が別の場所に持っていかれてしまうのは、目の前にあるものの存在を意味づけるためだと思います。目の前にあるものが、実存という飢えを訴えているため、遠くに言葉という獲物を狩りにいく。第一連に書いてある意識の動きは、立派な一種の本能であると思うのです。しかし、何も持ち帰って来れないことがある、ということも第一連では示されているのでしょう。無力感。 もちろん、目の前にあるものの「生命の気配」も軽んじてはいけないのは確かです。それは、「目の前にあるものは本当に飢えているのかどうか」という判断を正確にすることでしょうか。 「たくさんの情報の中に埋没した 幽霊のような〈からだ〉たちを 肉付けすることを試みる」 とありますが、その肉付けの方法は「捉える」や「枯山水を見るような」見方と書かれていきます。アタッチメントを踏みとどまる。気配のうねりを観察する。それが一見矛盾するようで、生命に「触れる」ことにつながる……と、綺麗にまとまったようで、おそらくその先にはまだ難しい問題が立ちはだかっていそうです。 もう一方の詩でレモンさんが言っていた、切れ味の鈍化というのは、一つ、土俵を変えることなのかなと思います。形而上的な場所で紡げていた言葉が、現実に降りた時に同じような効力を持てるか。自分の信じていた光が鈍くなる世界(=想像と現実の混じった世界)に立ち向かう、「妥協」とは真反対の難しい挑戦です。 熱くなってしまいました。 良い詩でした。
1読んでいただき、ありがとうございます! <もう一方の詩でも、輪郭をなぞり、内側を「見つめる」だけで、主体はその「触れること」の不可能性や限界に気づいているようです。どう頑張っても、近づくところまでしかできない、と。> おっしゃる通りです。ただ同時に、その不可能性こそが他者と自分の、あるいは自分と世界の境界線として必要なものなのではないか、とも思っています。 まさに諦めと希望ですね。 実は私は身体表現をしていて、そのため”皮膚感覚”はとても大切にしています。 身体表現は(当たり前ですが)視覚的な表現ですが、私自身は見て分かりやすいものよりも、視覚以外の感覚を揺さぶられる作品にいつも感動してしまいます。 とはいえ、目で観ているからこそ、視覚以外の感覚も研ぎ澄まされていくと言うことも理解しています。 その矛盾のようなものを抱えたまま”生命の気配”について自分自身に、そして他者に問うことをしてみたい、と思って創りました。 一見矛盾している正反対の事象は、実はとても遠い場所では=で繋がっているではないか、と思います。 「意識が別の場所に持っていかれてしまう」ことと「目の前の生命の気配」に対峙することは、もしかしたら同じベクトルで起こることなのかも知れません。 それは熊倉ミハイさんの仰る<「目の前にあるものは本当に飢えているのかどうか」という判断を正確にすることでしょうか。>に繋がっていくように感じます。 <切れ味の鈍化というのは、一つ、土俵を変えることなのかなと思います。> もしかしたら、紡ぐ世界についてある一定の視点ではなくて、見る場所や方向性を変えてみることで何かが生まれるような気がしました。 本当に嬉しいです。 ありがとうございます。
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