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私の哲学
特に考えるべきことはない 幸せが裡にある 内部の表出 哲学をしてみよう 対象として私を取る 私と自然を比べると 私も自然の一部であり 崇高なところも無様なところもある 自分とは私に最も親しいものだが その性質は日々変わって行く 日常で感じる他者への違和感は 自分の中でも同時に起こっていた つまり変化は自分中心に起こる 自分が変わって行く 他者も変わって行く そのすれ違いをこそ褒め合うべきなのかもしれなかった しかしお互いを認め合う今 神聖な領域が開かれる 私は涙を見たことがある 涙とは聖なる感情の表われだ 私たちのいる世界は 私達を包含している 異質な存在は 私の意識だ 私達の内的世界は 思われたとき全世界に近づく 私という意識の特殊さは 情報の流れの特異点として解かれ 幾度目かの挑戦に対して 世界は道理を当てはめ 私を通してくれる 世界と私が一致したら 失うべきものはない 迷うこともない 天も喜び祝福しているだろう 誰もが通るべき道だ 至った時安楽が訪れる 考えること自体が自己であり その他もろもろの六根において 私という存在が解かれる 自己に対して思考の必要性を感じて追及を行い 今考えている瞬間に自己は生成していると気づき 「私」が空っぽになった 「私」という言葉が 入れ物になっていたのだ 諸法無我 従って自己は変え得る 中身が変わる その変化の度合いによってこそ良い価値が生まれる 新しく生じた私に向かって 私で私自身を祝おう 新しい日に向けて 花を飾ろう 今日は記念日なんだ 私たちは内的な世界を作り上げて 誰からも損なわれることのない自己の確立を目指す 不断の努力によって 智慧と心で汚いものを浄化する 新しい日に新しい太陽が私を迎え 外的世界と内的世界の同一において 真なる悟りが得られた やがては暖かい春が訪れて 世界は美しさを花と誇るだろう 内的世界を持つ私は しっかりと受け止めるのだ 生の最高の瞬間に ブルーライトが輝いて 悲しみにおける違いそのものを 等閑視するのだ さすれば人に縋りつかず 自由であって強い絆を持ち 私の変化は 瞬間に捉えがたくとも 起き続けていた 契約と誓いを破ることなく 結ばれるべきものを私自身で結ぶために ずっと生きてきた
私の哲学 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 813.7
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2025-02-12
コメント日時 2025-02-15
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


こんばんは。 「哲学」で始まりましたが、 「今日は記念日なんだ」←(素敵なフレーズです)あたりから、「あれ?」と思い、主語が「私たち」になって、 最後は「え?愛の告白?」と、何だか驚いています。
1まあ、そんなところなんですよ。詩に嘘を書くわけにも行かないので、自然とこういった 詩になってしまいました。自分というものが、無いのだということを主張していますが、 気持ちがないわけではないのです。
1哲学と思想。同じ枠組みのものなのかもしれませんけど、作品は哲学よりも更に具体的なところに踏み込んでいる気がしました。 仏教に属する考え方でしょうか。宗教の考え方はあまり詳しくはないので調べながら読ませてもらいました。 諸法無我。初めて聞いた言葉です。 巡る球体である自然、自然を認識したのち徐々に狭まっていく意識はやがて自身と他者の関係性まで狭まっていき、とうとう天地を繋ぐ自分自身へと高まっていく。 高いこと、低いこと、全ては道であり、気が付けば自身は点であり、いや思考であり、それはすなわち自然の在り方に同じと悟れば、元の世界と溶け合える己となれる。 とも読める気もしますけど、終盤にかけて哲学がうっすらと散り始めているように感じられますから、おそらく作者さんは悟りきれていないんだろうなって勝手に解釈しています(笑) とは言え、悟りきってしまったら文芸としての面白みは無くなってしまうような気がしますから、詩を書くなら今が一番好機なのかもしれません。 2周目に出会う “特に考えるべきことはない” の言葉に衝撃を受けるのです。あんなにいっぱい書いていたのに!?って。
1哲学とは、智を愛することですから、ソクラテスのように、まずは己の無知に気づくところから 始めねばなりません。全ての哲学者、仏教徒は、己の無知に対して、こんちくしょう、こんちくしょう、 と必死になってそれを乗り越えようとします。無知から苦が生じるので、無知がなければ、苦は 消滅します。智を愛する哲学者は、生活や行動のためには思想が必要であり、哲学をして、 良い思想を身に付けます。仏教というのも、思想という面が大きいでしょう。悟りを得た場合、 あらゆる物事と、あらゆる自己の智が、あらわになっており、覆われていない、即ち、 ギリシャで言うところのアレーテイアという状態にあることを見えるのです。覆われていない ものをあるがままに見て、体験する。心を覆っていた煩悩が尽きる。正覚をもって、 憂、悲、苦、悩が消滅するのです。偉大なる仏の存在に一致し、境に至り得た者は、 もはや悩み苦しむことがない。心と身体の問題に向き合った場合、自然とそうした状態へ 行くのが、正しいし、働きに沿ったことだと思います。
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