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美悠と愛果、夏の夢
1. 「白猫ちゃんど!白猫ちゃんど!」と美悠がはしゃぐものだから晶生は、 「てかなんで東北弁?」と笑いながら突っ込んでいた。 「なんとなく、出てきちゃったんだ」 「へーえ」 「白猫ちゃ〜ん」と美悠は手をひらひらと振る。白猫は石垣の上の草むらにいて、怪訝そうなその顔はちょうど美悠の胸の高さにあった。そうしていかにも怪訝な表情に変わった頃、クルリと身を翻して林の中へと隠れてしまった。けれど美悠は何も言わなかった。不思議に思ってじっと顔を見つめてみると、なんだか得も言われぬなごやかなトーンが滲み出ていて、気づけば包まれていた、秋口の湖面のような静けさに晶生はハッとする。 「どうした美悠。なんだかたそがれてるような顔してさ」 「ううん、ちょっとした考えごと」 それをたそがれるって言うんじゃないのと晶生は思うもなにより、余計な一言を差し挟んでこのトーンを台無しにしたくはなかった。季節は新緑の真っ盛りで、二人は木漏れ日うららな早朝の神社の、いまやくすみかけた鳥居の近くで佇んでいた。もしも誰か参拝しようという者が鳥居をくぐろうものなら、彼は一瞬目を見開き、あとは脇目も振らずに一直線に拝殿に向かうに違いない。 「ねぇ、この神社って大きい方なのかな?」と口を開いたのは美悠だった。 「どうだろう。小さくもなく大きくもなくという気がするけどね」 「いずれにせよ、世界の片隅の神社って感じがしない?ねぇあきちゃんわたし、この町に生まれることができて幸せだなって思うの」 ザーッと葉が揺れたものだから晶生は、なんだか青春映画のワンシーンを演じてるみたいだなと思う。 「健気に生きるうら若き乙女―そんなフレーズが浮かんだよ」 「アハハ、わたしもう21なのに、あきちゃんありがとうね?」 「わしは四捨五入すれば30じゃよ、えっこらえっこら」と晶生が腰をかがめて歩いてみせると、 「なんだろ、大げさすぎて逆におもろいみたいな」との美悠の温かいフォローだった。 その日は休日で、二人は夢ヶ丘にあるカフェに行く予定だったものの、朝一番の客になるのは恥ずかしいからと、晶生がお気に入りの神社へと美悠を連れていったのだった。 「満を持してのカフェだね」 「だね。回り道させて悪かった」 「ううん。早朝の神社なんてわたし、たぶん人生で初だったんじゃないかな」 神社から住宅路に出て、閑静な道を五分ほど歩いて県道に出る。歩行者ボタンを押すと、信号は少しの間を置いて黄色になり、そして予想通りのタイミングで赤になる。そうした一連の流れは晶生の胸を、夢見るようにやさしくさせた。流れのままに美悠の手を取ろうかと思うも、つかの間の逡巡はその勇気を萎ませてしまった。 バス停。美悠は作業所で働く折りのように耳栓をした。 「あっ美悠、ごめんな。ホントは県道に出た時から耳栓したかったはずなのに、僕が話すものだから」 「気にしないで。それにわたし母さんに言われたんだ。たとえ歩道でも後ろから自転車が来たりするし、横断のときにクラクションが聴こえなくなるといけないから、できれば耳栓を外すようにって」 「そんなことが」 「うん。だから今のは、そのトレーニングの第一歩だったってわけ」と美悠は笑った。 バスの到着時刻までは10分ほどあった。耳栓をした美悠が俯いてスマホを見始めたので、晶生はなにか急に一人になった心地がした。そこには心地よさを伴う孤独感があった。そこはかとない寂寞に、妙にしんなりとした優しさの入り交じった情感の最中を、愛すべき間隔を遵守するように軽自動車が過ぎ去ってゆく。そのシャーッという走行音を聴くたび過去が、お世辞にも恵まれていたとは言えない日々が慰撫されていたようだと、そう気づいたのは時間も中ほどを過ぎた頃だったろうか。 そんな風だったから、バスがその大きな体躯をのっそりと停止させたときにカランカランカランカラ―ンッ!と、あたかも祝福のベルのように音が咲いても晶生は驚かなかった。この今、たしかに僕は〈幸せ〉ってやつを手にしつつあるんだという実感が踊り出しているようだった。予想通りに美悠は耳栓を外してくれて愛おしさが溢れ出した。この町に湖があったら二人で湖畔を歩けたのにねと、軽口が美悠の可憐な胸の上を飛び回る。 「そうよね。この町は海にも面してないし」 「そうそう。水気と言えば川だけってのは寂しいよ」 「ねぇでもわたし、うら寂しいこの町が好きなの」 しかしバスが駅へとだいぶ近づいたあるポイントを過ぎると、風景はガラリと瀟洒なものに変貌を遂げる。そうして整然と並んだ新緑の並木道に迎えられたのだけど間もなく、枯れ枝のデザインの小さなバスとすれ違って、 「季節外れで面白くない?」と晶生は笑う。 「あっホントだホントだ(笑)あきちゃんよく見てるねぇ」 ……「よし、降りよう」 「うん」 そうして二人はきらびやかな街路に降り立った。夏至の近い太陽の気は急いていて、陽射しに浮かぶ互いの頬を2人は確認し合うことになった。 「ねぇ見て、このささやかでお洒落なケーキ屋さん、いいと思わない?」 「あっここね。バスからいつも可愛らしいお店だなとは思ってたけど、入ったことはないな」 「知ってた?ここね、作業所なんだ」 「へーえ、そうだったんだ!?」 「びっくりでしょう?」 「作業所にも色々あるんだね。僕らのとことは大違いだ(笑)」 「言い方(笑)」 そうして二人は左折したのだけど、二人の歩いている道はもはや並木道ではなかった。地面も地味なコンクリートに変わっていた。町の栄光は5分あまりの祝福を二人に与えるや、残り香をたなびかせつつもパタリとその幕を閉じてしまったのだ― ―「ねぇわたし、この通り歩くの初めてなの」 「なんだか急に寂しくなった気がしない?」 「そうね。でもここだって、この町をたしかに形作ってるんだから」 「美悠は人にはあまり興味がないのかな」 「人って捉えどころがないもん。まるきり興味がないわけじゃあ、ないつもりなんだけどね」 ……「ここだよ」 「うら寂しい街路に突如すぎるよ(笑)」 「びっくりだよね」 「ねぇ、今わたし興味がうなぎのぼりよ。愛果さんってどんな人かなってドキドキだよ(笑)」 「興味持ってもらえて何より。さあさあ、行こうか」 そうして二人は、白壁の麗しいカフェの扉をそっと引いた。 2. 愛果が歩いてくるなり、美悠の胸には〈安産型〉というフレーズが踊り始めていたのだった。そして帰り道、「ザ・安産型なお姉さんだね」と美悠から言われた晶生の胸では、〈恵体〉というフレーズが荒波のように打ち寄せた。クイクイッと美悠に肘を当てながら「あんなお母さんみたいな人が好みなの?」と言われるとあたかも、会い始めから母性を感じ続けてきたような気がして不思議だったけれど、「わたしなんだか、静かな浜辺にいるみたいな心地がしたわ」と美悠が言うと晶生は、"僕たちの受け止め方はまるきり逆なんだ"と更に不可思議な心地がするのだった。自室に帰ると、晶生は思案するように一人ごちた。"出逢った当初から愛果さんは、広大な世界を予感させる刺激的でミステリアスな女(ひと)だった。そして今や、彼女は悩ましくもある" そうしてしかし対照するように、晶生は美悠のことを想おうとした。町の片隅の小さな箱のような作業所の、その窓辺から絶え間のない牡丹雪を見つめていた。右端の美悠の左頬をちらと見ては作業に戻りを繰り返してたんだったな。夢を訊いたのはたぶんその日ではなかったと思うのだけど、記憶の中で美悠は、白のさなかに小麦色の頬を赤らめ言う―「慎まやかに、十年一日のごとく暮らしていくこと」 初めて美悠に会った折り、晶生は〈夢見る乙女〉を通して彼女を見た。どことなく幼い顔立ちの美悠にはそう思わせるところがあって、そのうえウグイスのように甘く伸びやかな声に、女性慣れしていない晶生はほとんど一目惚れしてしまったものだけど、そうして胸のなかの美悠はあらためて、アーモンド型の瞳を潤ませ彼に言うのだった―"わたし、胸のなかに海を抱いて、さざ波と戯れるように日々を織り成していきたいの" その頃美悠は……― ―「無理無理無理無理カタツムリよ!」 「そ、そんな頭ごなしに否定することないじゃない」 「あのねぇ美悠、パティシエなんてあんたにゃ不可能。あなた図画工作の成績どんなだったか覚えてて?」 「なんで図画工作!調理実習なんなくこなしてましたから!」 「あんなものはママゴトよ!パティシエは職人なの、しょ・く・に・ん」 「ダーッ、もうっ!いちいちゆっくり言わんでも分かるったら。ホント押しつけがましい!」 「とにかく分かったわね!?もうそんな寝言、言っちゃダメよ?せっかく作業所軌道に乗り始めたとこなのに、何言ってるのって口あんぐりよ」 ―チャリンチャリンチャリンチャリーン! 「あっ、お父さま〜!」 「美悠!…ほんっとにもう…」 「土曜出勤、ご苦労さま〜」 「どうしたんだ美悠、歩きながら肩叩きしてくれるなんて珍しい」と父は笑う。 「あのねあのね、わたしパティシエを目指したいと思うの」とヒソヒソ声で。 「へえ、そりゃまたどうして」 「ちょっと話は長くなるんだけど、さっき母さんにそのことで怒られたから、母さんのいないとこで二人きりで話したいの」 「分かった。なんとか時間と空間を作れるよう、頑張るよ」との言い方に苦笑いの美悠だった。 ……「あなた、美悠から何か言われたでしょう?」 「ん?何か?言われたというより肩を叩いてもらってな、ありがとうって返したんだよ」 「あの子って昔からそう。一つのことに捉えられると、もうそのこと以外には目がいかなくなる」 「若い時分の良子にそっくりじゃないか(笑)」 「そんな軽口叩いてる場合じゃないのよ、ホント」 良子は春夫が"何かあった?"と訊いてくるのを待っていた。しかし良子は、春夫がその魂胆を認識しつつあえて聞かないでいることに思い至らなかったわけではない。むしろ鋭い夫が気付かないわけがないと分かりながら、しかし自分から言い出したら負けのような気がしたのだった。春夫の方は、しかしもっと余裕があった。仮に今晩美悠の夢を良子の口から告げられなくたっていい、それこそ、互いに知りつつ表には出ないという状態でずっと推移しても構わない―そう思える程度に春夫は柔軟な性格であり、美悠に直接"母さんとはその話はしないでくれ"と言われたわけではないにせよその、水面下に沈んでいるだろう思いを汲むことを忘れない程度に誠実だった。そうして春夫は美悠にメッセを送る―"ゴメンなちょっと、今夜は時間と空間が(笑)取れそうにない。明日どこかの喫茶店とかで話さないか?" 3. 翌朝目が覚めると、晶生の胸はスッキリとしていた。ほとんど本能のように昨日の反芻を始めると、愛果のあの土偶のような肉体が、しかし胸にひんやりと浮かんできたものだから、彼は今こそ集中的に、愛果さんについて思い巡らせなければならないと襟を正した。美悠の言葉に引っ張られるようにしてさながら、海辺のカフェに立ち寄っていたかのように記憶が上書きされているようで、それでいながら愛果は、いやだからこそ愛果はますますその、香り立つような誘惑の気配を流し目に強く宿していた。 なんだか可笑しいと彼は笑う。三年間の京都生活から地元に帰ってきて、もう都会への憧れは灰になっているはずだった。それが愛果に逢って以来、またぞろチリチリと燻ぶり始めたばかりか、今度はもっと大きな街をと、それこそTokyoを眼差しすらしている自分に呆れながらまた笑って。 今愛果はさながら、Tokyoからやって来た神秘的な抽象画家のように彼を誘惑するのだった。パステルカラーの奇怪な描線をじっと見つめると、浜辺らしき風景が朧に浮かんでくるのだけれど、よく見ると無数の穴が空いていて、それらはコンクリートの洞穴なのだった。その中で裸になった男女を思い晶生は身震いした。わずかに3,4歳上に過ぎない愛果が20も上に思えてきた。もちろん身体はそのままに20年を余分に生きているような気がしたのであり、晶生はその夢幻のような愛果との距離に目眩のする思いがした。 居ても立ってもいられなくなってリュックの中身を確認する。財布にお金はしかとある。そうしてあたかも乗車時間をすっ飛ばしたような時間感覚のさなか晶生はカフェの前に立っていた。グイと扉を引く。するとちょうど先客にコーヒーを出している愛果の臀部が目に飛び込んできて、"世界遺産級だな"と胸にごちる― ―「いらっしゃいませ〜」とスタスタ寄ってきて、 「今日は一人?」 「あっ、はい。そうなんです」 「ねぇ昨日の女の子彼女さん?すーっごい可愛いねぇ」と悪戯っぽく笑う。 「……」 「あれ、違うん?ゴメンねとりあえず、あちらへ〜」と愛果は人差し指をさす。 晶生はスタスタと案内された席へと歩いたものの、初めてカウンター席に案内され心臓が飛び出すんじゃないかと思っていた。 「今日は何にするん?」といつになくノリノリお姉さんな愛果だったものの、逆にかえってその裏が予感されて仕方がなかった。 「愛果さんって絵とか描きます?」と口を震わせながら晶生が言う(しまったなんとも不自然だった!)と愛果は深遠を垣間見せるようにアンニュイになる、 「わたしが、絵を描く女であってほしい?」と真っすぐに見つめられてもう鼓動の音しか聴こえなかった。 「愛果さん、冬枯れの絵なんか上手そうだ」と口が勝手にしゃべっていた。 「アハハハ、なんかひどくない?」 「でもですね、枝にちょこんとハクセキレイがつがいでとまってこっちを見てる、見る人をハッとさせる絵なんだ」と晶生は止まらない。 「ねぇもしかするとその絵は、晶生くんが描きたかったりする絵なんじゃ、ないのかな?」 愛果はけっして、そのつがいが晶生と美悠の象徴だとは言わなかった。単に思っていたものの言わなかったということでもないはずだと、晶生はハムを口に運びながら反芻した。もしかしたらたしかにそうなのかもしれないと留保しつつもそうした枠にはめ込むことはしない―愛果がそんな女性であることに彼は気づいていた。明朗な語り口でありながらあらゆることに断定ということをしないんじゃないかとさえ思われて、愛果といると晶生は夢を見ているような気さえすることもあった。 …"わたし、美術の授業ちょくちょくサボってたくらいに絵が苦手なんさ"と愛果は言った。そうして"案外近いところにいる女(ひと)なのかも"と今度は、微睡みのような親近感があふれ出してくる晶生だった。 カチャリと触れ合っただけでなにか、重厚な貴金属同士の触れ合いに思ったのはきっと、目の前の厳しいスーツの質感がお皿に転移したためだろうと美悠は思う。町随一の高級ホテルに行くからにはと、"なんだか恥ずかしいよ"と美悠が言っても春夫は譲らなかった。フロアには男女ともにいかつい白人カップルがいたこともあって美悠は、〈健気でしおらしい日本娘です〉というプレートをぶら下げているような心地がしたし、「お冷やでございます」と水が来てもシャンパンなんじゃないかと勘ぐりかけてしまう程度には緊張していた―"父さんと二人きりなんて、何年ぶりかしら…?" …「ねぇ父さんわたし、エビがホントに大好きなんだ。このプリプリとした質感…」と言いかけてハッとする― ―「ん?どうした、美悠」 「あっ、ごめんなさいっ!そのやわらかい質感が好きなんだ、わたし」 「分かる。それでいてしっかり弾力もあって、食べ応えがある」 「そうそう!父さんのボンゴレビアンコはどう?」 「やっぱりアサリが最高だね。美悠みたいに可愛らしい(笑)」 「じゃあなんで食べちゃうのぉ?(笑)」と返すも内心は冷や汗ものだった。 ……「それで美悠、パティシエの件についてだけど」 「うん」 「一応確認なんだけれど、今すぐに、という話ではないんだね?」 「……」 「その様子だと、迷ってるのかな…」 「ねぇわたし、作業所の作業がつまらないの」 「まぁたしかに、ウキウキするような作業とは思えないな」 「でしょう?なんだか哀しくなってくるの。わたし、貴重な時間をこんなことに費やし続けていくのかって」 そうして春夫は腕組みをして斜め中空を見やった。いかにも"わたしはあなたのことを思いやっています"というポーズのようだったけれど、美悠は逆にそのありふれた単純さが好ましい。 「…ただ正直、パティシエにしても、作業内容が天と地ほど違うわけではない気はするな」 「ドングリの背比べってこと?」 「さすがにそこまで言おうとは思わないかな(笑)ただ、どちらも黙々作業であることには変わりないからさ」 「でもね父さん、なんといっても自分の精魂込めて作ったものが、すぐ傍のショーケースにたしかに並ぶんだよ?」 「そうして、ケーキを買っていく人たちのほころぶ顔が見たい?」 「アハハ。基本厨房だろうしどれくらい見られるかは分からないけど、でもたとえば朝、そんな人の顔を一度でも見られたらわたし、終業までフルスロットルで頑張れる気がするな」… …「肝心なことが後回しになっちゃってたけど、美悠はそもそもなんでパティシエになりたいって思ったの?」 「ちょっと話は長くなるんだけどね…」そうして彼女は愛果のカフェの話を始めた。愛果に逢って少し話をしただけで、さながら潮が満ちたかのように、わたしの胸は憧憬でいっぱいになってしまった。不意を突かれるような折りでも、けっしてやさしい揺らぎのようなリズムを崩すことのない女(ひと)だった。それに比べてわたしはホントに小娘のよう。そんなわたしも7年経てば、今の彼女の歳になる。ちょっとややこしいことを話すとなると詰まってしまうようなわたしは、彼女のように優雅にはなれそうにない。ならばせめて仕事は、さざ波寄せる彼女のカフェに負けないくらいの、そんな気高い誇りを持てることをしていたい―そう強く思ったんだ。 4. 「すげぇ、喫茶店がまさかの高級ホテルになるなんて」 「ホント、びっくりだよ」 「美悠、おやじさんに好かれてんじゃないの?」 「ちょっとやめてよ」 「冗談だよ」 それは作業所の帰りだった。 「でもホント、美悠が作業所に来てくれてからすべてが上手く回り出したなぁ」 「そうなの?そんな話聞くのは初めてだな」 「いやホント、感謝してもしきれないってくらいなんだ。冗談抜きに、美悠が来るまでさ、僕はほぼ竹本さんとしか話してなかったっていうくらいなんだ」 「言われてみれば、今でもみなとはわりとあっさりしてる感じではあるよね」 「でしょう?でも、美悠と話してると銘々がカットインしてくるってパターンが確立しつつあるじゃん?」 「カットイン(笑)パターン(笑)」 「でもまさしくいっつも割り込んでくる感じでしょ?みんな可愛い美悠と話したくって仕方ないですって顔してさ(笑)」 「あきちゃんも、わたしのこと可愛いって思うの?」 「もちろん、もちろん」と晶生は胸を叩いて応えた。 「ねぇあきちゃん、わたしでもね、遠からぬ将来にってことなんだけど、作業所辞めるつもりなんだ…」 「へえ、そりゃまたどうして?」 「わたし、パティシエになるの!」 "ジャンジャカジャーン!"と音が鳴り響いたかと晶生は思った。 「なかなか、一筋縄ではいかなそうだね」 「どうして?」 「たとえばほら、ミキサーの音とか、大丈夫なのかなって」 「ちょっとのあいだの辛抱よ…と言いたいとこだけど、うん。それも含めて、不安いっぱいっていうのが正直なとこなんだ。音だけじゃなくて、作業のレベル自体もこことは雲泥の差だと思うから」 「そうだよね、今日もなんだか虚ろだったもんね」と言おうとして、止める。"虚しいのか、なにか哀しいのか、ともかくその感情を僕の胸に預けてくれよ!"と高ぶる気持ちを抑えていた。 バス停。 「ねぇ、前から思ってたんだけど…」と美悠が言うや期待値は遥か青まで一気呵成に駆け登る。 「この、停車駅の書いてある円の標識、可愛いくない?」―ガックリが止まらない晶生だった。 「…あっ、なんか分かる。この波みたいな模様オシャレだよね」 「そうそう!なんだろ、わたしこの標識を見るとね、まるでそよ風が町を泳いでるのを見つめてるような、そんな微笑ましい気持ちになれるんだ」 家に帰ると、祖母の菊恵がテーブルでみかんを食べていた。 「ただいま」 「おかえり」 「ばあちゃんホント、みかん好きだねぇ」 「ほほっ。ホンマは年中食べ続けたい思うんやけどな、夏になると由依がモモやらぶどうやら買ってくるから、いやでもみかんから離されてしまうんや(笑)」 自室に上がるといつものように15時だった。晶生はあらためて美悠を思った。車中で美悠は、まるで遠い丘を見やるように愛果への憧れを語った。あどけない美悠のままでいいのにと思うや、でも凛と気高いような美悠も見てみたいなと思ったりと、なんだか落ち着かなかった。もう一度下に降りてばあちゃんと話そうと思った。 …「こうしてばあちゃんとみかん食べてると、なんだかもう冬が来たような気がするよ(笑)」 「みかんラブでも冬は好かん!(笑)」 「はっきり言うね(笑)」 「やっぱり今かのう。花粉は去り、季節も夏へと向かっとる。その前の梅雨もなかなかに、風情があってよろしい」 「梅雨ってなんだか、つかの間の季節の休息って感じがするよね」 「上手いことゆうやないか」 「ちょっとは詩作の効能が出てきたかな?」 「おおそやったのぅ。ホントに、そうやって日々に彩りを添えることができるっていうんは素晴らしい!」 「いやホント、楽しめてるんだ。でも疑似恋愛ばっかしてるから、あとは現実の彼女ができれば言うことないんだけど(苦笑)」 「あきちゃん今24?」 「25になりました」 「25か25か。まだまだよ。ホント、まだまだよぅ。あきちゃんな、ドッシリと構えとったらええでな。焦ったらアカンよ?」 「そこは、石橋を叩きすぎて壊しちゃうくらいの男だから(笑)」 「カーハッハ、上手いことゆうわ」 …「そうだばあちゃん、なにか手伝うことはない?」と訊いて晶生は仕事を見つけた。激落ちくんスプレーを使ってキッチン回りをとことん綺麗にしてくれとのこと。ガス回りシンク回り、冷蔵庫、それからレンジ。ほとんど無心になって作業していると、こういうスキマ時間の作業はどうしてこうも充実感があるんだろうと初めて考えが浮かんできて、そうだスキマ時間というキーワードでもって細分化されているだろうパティシエの作業を語ってみようかとワクワクしてくる。ずーっと判で押したように同じ作業ばかりと嘆いていた美悠の顔を、輝く明日で染め抜けるだろうと思うとスキップしそうになった。けれどそうして自室に戻ると、待てよ、すると僕と美悠は離れ離れになっちゃうじゃないか(!)と現実がせり上がってきて頭を抱えた。健気な女騎士がカーテンの向こうに立っていて、しなだれる枯れ枝を背に海を見ているような気がした。 5. 季節は梅雨になっていた。晶生は漠然と、梅雨になれば半ばこもりきりの生活を送ることになるような気がしていたのだけど、いざ突入してみると予想を超える憂鬱に、"雨の休息"を見つけてはせっせと外出することになったのだった。晶生の住まいは閑静で広々とした住宅街にあって、さすがに駅前ほどではないものの瀟洒な雰囲気すらあった。晶生は、そんなさなかに整然と設えられた公園を訪れては、寄せては返す灰色の波と戯れていた。それは晶生の半ば嗜癖のような習慣で、彼は折りに触れては、自分と過去という名の岩盤を野太いロープで繋ごうとせずにはいられなかった― ―と目前の道をバラ色に染め上げるチャンスが到来しているという事実が稲光のように胸に瞬き、静かに消え去り、そうして新緑に巻き戻されたような煌めきとして舞い降りた。 彼はその鮮やかさを愛した。梅雨のジメッとした憂鬱はひとえに、カラッと鮮やかな美悠と対照を描くために存在していた。自然と思いは愛果へもたなびいていったものの、今や彼女は、それこそ雌豹のような存在に過ぎないように思われた。彼女はたしかに艶めかしい。けれどそれはもはや肉体に関わる形容にすぎなかった。気恥ずかしくて行かなくなったからか、あるいは美悠の決意を目の当たりにしたからかは分からない。でもそんなことすらもうどうでもいいような気がした。甘やかな笑顔を思い返すとどうでもいいことにはしたくないと思ったものの、何はともあれさざ波に溶け入ってしまったのだと思うとじんとして、余韻だけ、朧な微笑だけ、それさえ抱ければ愛果さんと出逢った意味はあると空を見た。 そんな晶生だったから、もしも運命の女神の杖の一振りでもなかったら今頃、愛果のことさえとうに忘れ去っていたかもしれない。 その書店は十字路の角にあり、晶生は時折、思い出したようにそこを訪れていたのだけど悩みがあった。いくら美悠を誘っても一向に書店には来ようとしてくれないのだった。彼はその件についてはすでに諦めモードに入っていて、「今日は一人で帰るよ、ちょっと本を見ていきたいから」と言って別れたところだった。車の音がやたら耳障りに感じられて美悠を思った。書店とは内面と向かい合うところだとするならば、これはあなたとはそこまでの深みには降りていきたくありませんというメッセージか!? 彼は牡丹雪を思っていた。雪玉の一つ一つにはささかな記憶たちが込められているようで、ではどんな記憶なのかと自問すると分からない。けれどなんとかそうした、ありふれた切なさのようなものを通って深みまで… ―「晶生くん!」 愛果の声は遥かなる草原から響き渡ってきたようだった。 「あっ、愛果さ〜ん」と晶生はふやけた豆腐のような声を出していた。 「仕事帰り?」 「はい、正確には作業所帰りですけど(苦笑)」 「なんていうかさ、もっと自信ってやつを持とうよ」と左肩に手を置かれていた。 「あっ、なんかごめんなさい…」 「ホラ、そういうとこ」 「謝らなくていい…」 「うん、もちろんよ。ねぇ晶生くん、わたしは晶生くんに、もっと強くなってほしい。社会って荒波を威風堂々と漕ぎ回っていけるようにさ(笑)」 …「そうだここは書店だったよね」 「そういえば(笑)僕もなんだか別の 場所にいるような気がしてました(苦笑)」 「話が話だっただけに、ね?(笑)」 「ハハッ(笑)」 「どんな本が好きなのかな?」 「いつもは、こういう風な考え方をするとよい、みたいな、とにかく考え方についての本を読んでました」 「自己啓発ってやつやね」 「あっ、そうだそうだ、名前が出てこなくって(笑)もしかして愛果さんも読まれますか?」 「う〜ん、わたしは正直そういうの、あんまり好きじゃないんだよね」 「押しつけがましい感じですかね?」 「んー、というよりなんだろ、一個人の考えってやつにあんまし興味持てなくって。それよりも小説が好きなの。それも小難しいのじゃなくって、ひたすら美しいような小説が好き」 「あっ!実はその、先の話には続きがあって…いつもはって言ったけど正確には今まではって意味で、はい、ホント嘘言ってるわけじゃなしに僕も、ちょうど小説読み始めたんです!」 晶生は顔が上気しているのが分かるほどに高揚していた。その勢いのままに、 「あの、よかったらこの本」とリュックから『冬の夢』(スコット・フィッツジェラルド 村上春樹訳)を取り出しもうほとんど押しつけるように愛果の胸の前に差し出していた。 「あっ…」と愛果はさすがに驚いている風。 「ごめんなさい、でも愛果さんになんとしてでも読んでみてもらいたくて」 「…うん」としおらしい少女のように愛果が言うや脳が丸ごとバニラアイスになったかと思う。 「分かったわ。絶対、読むから。安心してな?」 「はっ、はい。ありがとうございます!」 自室でも鼓動は太古のビートを刻んでいた。はち切れそうなホットパンツと黄緑のシャツに視界は占領されていた。そうして晶生は愛果の変貌に呆然としていた。けれどそこには得も言えぬ恍惚があって、それはいわば流転そのものの快楽とでも言うべきものに思われた。晶生も愛果も変わってしまった。気高い女騎士は装備万端(ハイヒール!)で現れて彼を、せわしなくも胸の高鳴る舞台へと引き上げた。そして…彼はほとんど愛の告白のような応え方をしてしまった(!) 爆発するような悦びと気恥ずかしさのアマルガムに彼は身体をよじらせた。二度三度とよじらせると少し落ち着き、今度は二人の立場が逆転する。"わたし難しいことは分からないの"とあどけない愛果の前で晶生は論理学者になり、高級スーツを身に纏っての個人授業をおっ始める。もちろん指導に邁進できるはずもなく… 一息つくと薄緑色のカーテンを開けた。梅雨時の日暮れは遅く時が止まっているようだった。急に現実感がなくなった。彼女とどんな風に語り合うというのか?雨でも降ってくれればと彼は思う。そうして時を流してくれさえすれば僕も、同じように明日へと踏み出すことができる気がする…ぬかるんだ小道が愛果の肌と重なった。雨靄のさなか愛果に溺れられたらと、胸にごちた。 6. アイリーン・シアラーという9文字が、晶生の胸に哀しげな女性の象徴のように瞬いていた。『冬の夢』において彼女は、主人公のデクスターに裏切られる。ひときわ哀切で感傷的なこの小説において、しかし彼女の物語は描かれてはいない。デクスターの模範的な伴侶としてさらりと描写されるに留まっているのだけど、晶生はしかし彼女の登場にいたく関心をそそられて、後のしっとりと甘やかな家庭生活や、あるいは浮つく夫との確執が描かれることを期待していたのだった― ―「どうしたの?なんだか今日はぼんやりしてるね」 「なぁ美悠、いくら性格が良くても異性に好かれるとは限らないのかな」 「えっ、えっ?あきちゃんのこと?」 「あっいや、そうじゃなくって」と否定するや"大チャンスに何やってんねん!"とのもう一人の晶生のツッコミだった。 「ホント深い小説を読んだんだよ」と言い直さない自分に驚く。 「えーあきちゃん、深い小説なんて読むんだ意外(笑)」 「何を隠そう人生初の純文学だったってわけ(笑)」 「なるほどね(笑)」 「あれ?美悠?」 美悠は付けかけた耳栓を外し、 「あっごめんね。やっぱり、しばらく努力してみたけど音、ダメだったんだ…うるさいうるさいうるさーい、よ(苦笑)」 「そっか。付けないのが当然みたいな態度で申し訳ない」 「ううんいいの。いきなり説明なしに付けたわたしも、わたしだし(笑)」と美悠はふたたび手を耳に持っていった。 そうして美悠がアイリ―ンにしか見えなくなった。 バス停―ゴーッと黒ずんだトラックが通り過ぎてゆくと、ひらり、美悠のいたいけな睫毛の一つが舞う夢を見た。 バスがのっそりと訪れると、晶生の右手は美悠の右肩へと伸びていた。美悠は吸い込まれるように左を見上げた。晶生は化石になってしまった。 車内の左隣では仄かに濡れたピンクのシャツが誘惑していた。びしょ濡れよりどれだけ迫り来るものがあるかをなぜか愛果に力説していると… ―「あきちゃん大胆ね」とその声色は雪景色の丸太小屋を結像させ、美悠は北国から来た乙女になった。 「美悠って雪好き?」 「うん、大好き!」 「やっぱり!」 「えっ、どゆこと?」 「さっき、美悠が雪の町に佇んでいる白昼夢を見ていたんだ」 「へーえ…」 「なんか物憂げで、たそがれちゃってさ」 「なんなの、なんなのぉ(笑)」 「その町には湖があってね、冬にはカチカチに凍っちゃうんだ。そして美悠は、幼い頃におやじさんとスケートをして遊んだ思い出に浸りながら、小さいけど頑丈な丸太小屋の傍に佇んでいて」 「ロマンチックだけど、でもちょっと寂しいかな。枯れ枝から、愛らしい青い鳥にでも見つめられたいな」 「すごい!なんだか画面が急に生き生きとし出したよ(笑)」 「わたし、詩人になろうかなぁ(笑)」 「実は僕、趣味で詩を書いてるんだ!」ともう喉元から出かかっていたもののまたも… 「あれ、滑っちゃった?(笑)」 「いやいや、詩人なんて、素敵じゃない」 「そうだあきちゃん!お互いに詩書いて、見せ合いっこ、しない?(笑)」 晶生は雷に撃たれたようになった。離れていったはずのチャンスは瞬く間に戻ってきて、そうして今目と鼻の先にしかとあった― ―「いいね!やろうやろう(笑)」 「うふふあきちゃん、どんな詩を書くんだろう(笑)」 無邪気な雪玉遊びのように二人の掛け合いは続いた。 自室に帰っても晶生のホクホクは止まらなかった。あまりにホクホクしているものだから、自分はサツマイモになってしまったんじゃないかと思えてきた。もちろん熱々のサツマイモであり、彼はこの熱々のままに自分を誰かに差し出したい衝動を覚えた。すると愛果のけしからんお尻が迫ってきた。考えてみればサツマイモとお尻はどこか似ている。 一転、晶生は晩秋の湖畔で美悠と仲睦まじくサツマイモを食べていた。しかしまたも愛果が―やはりハイヒールでお尻を強調しながら―木立の合間から現れて、 「ちょっとちょっと、アカンやろー?わたしにナイショでそんなことして」 切れ長の瞳は"わたしは全部お見通しです"と澄み渡っていて、湖面よりも綺麗だ(!)と思いながら、晶生はどうしようもなく浸されてゆく。愛果が『冬の夢』のヒロイン(?)、"始末におえない唇"のジュディ・ジョーンズと重なってもう離れない。自嘲してはブンブンと首を振るもそうするほどに、切ない吐息はさながら絡まる蔦のように晶生に纏わりついてきた。いつしか林は南国の密林になっていて、奇怪な鳴き声のなか愛果の胸は影のように揺れ動く。気づけば愛果は身体中を蔦を巻き付かせていて、あまりに豊かなその乳房はついに月に照らされた―一対の弾丸に睨まれたようで彼は震える。パーン(!)とベルトを壁へと投げ飛ばした。"落ち着こう"と彼は言った―"とにかく僕は、落ち着かなくちゃならないんだ" コンコン!― ―「あっ、はい」 「あきちゃんゴメンな、ケーキでもどうかと思ってなあ」 「いいね!何ケーキ?」 「その名も、季節外れのモンブラン!」 「ハハハ、悪くないね」 「じゃあ待っとるよぉ」 「はーい、ありがとね」 "こんちくしょー!"と晶生は胸に叫んでいた。 寄せては返すさざ波のように、菊恵自慢のアールグレイは二人へと香り、晶生はつかの間愛果の肉体を忘れるのだった。 「ありそうで経験したことない食べ合わせだよ」 「ほほっ、わしも紅茶淹れたん何年ぶりか、もう忘れてしもとるくらいやでの(笑)」 「ハハッ、ばあちゃんらしい」 「ゲンコツ一丁!」 「あひぃ〜」 「さあさあきちゃん、日頃の疲れをゆ〜っくり取っておくんな」 「ありがとう、ホントほっこりする香りだ」 「アールグレイかダージリンかで迷ったんやが正解やったなぁ」と豪快に笑って、 「真面目な話なんやけども、病状はどうや?」 「うん、それこそ詩を書き始めてから、少なくとも鬱にはなってないんだ」 「ほぅ、やっぱりええんかいな」 「まぁ今になって、なんとかカタチになってきたって感じで。その、投稿する詩のスタイルだとか、他の利用者さんたちとの距離感だとか」 「感想が来たりするん?」 「うん、それはもうしょっちゅう。で、なんて返そうかとまた頭を一捻りってわけ」 「すごいのぅ。わしなんか絶対できん。めんどくさいめんどくさい」と菊恵はハエを払う仕草を繰り返した、 「ばあちゃんらしいや(笑)」 「どや!季節外れのモンブランちゃんは」 「言うね(笑)。でもおいしいよ、ホントおいしい。またアールグレイと最高に合うね。甘みに舌が慣れそうなとこで渋み溢れる紅茶にスイッチ、今度は逆に渋みに慣れたら甘みにスイッチ、もしモンブランがたくさんあったら三個はいっちゃいそう(笑)」 「でもあきちゃん、京都おるときは5個店で頼んだんやろ?」 「あのときはホント病気だったから(苦笑)」 「もういっぺん聞くけれども、今はホンマにええんやね?」 「うん。ばあちゃんに嘘は言わないさ」 「そかそか。なら一安心やな」とニカーッと笑って。 「でもこうして振る舞ってもらって、なんだかコーヒーを思い出したよ。あの頃僕はコーヒーばかり飲んでたんだ。それに硬いベーグルをべとって浸けてね。コーヒーとベーグルが友達だったような気がする(笑)」 でも話はそれきりになってしまったのだった。"コーヒーとベーグル〈だけ〉が友達だった"と強く言えば違ったかもしれないと思うも遅かった、"菊恵は"ニカーッ"の延長のように軽やかな語りを継いでいた。 自室に戻るとしかしなんとも爽やかな心地で、身体が洗われているようだった。晶生は自分がジェット機のコクピットにシャンと座っているのを感じていた。密林はもうかなり遠のいていたが、旋回すればまた訪れられるだろうことが彼を不思議と安心させた。一人前になった証だろうかと晶生は思い、次の瞬間には"妄想お疲れ!"ともう一人の自分に突っ込まれる。でもそんな一連の思いの流れが愛おしかった。"なんにせよ僕は"と晶生はごちる―"『冬の夢』と詩について考えさえすればいいのだ" 7. 微睡みのなか、二つの北国が順を追って揺らめいた。大聖堂の構える大きく厳しい街で、七色のステンドグラスが朝日を浴びて名残り雪と戯れていた。すると人魚見つめる閑散とした海辺の町に場面は変わり、愛すべきおじいさんはその朝も人魚の像を訪れた。じいさんは、海に面したその公園の左端から妙齢の女性が歩いてくるのを見つめていた。彼女は左の海を見つめては下を向いたり落ち着かない。やがて中ほど手前あたりでクルリと右を向いて、心持ち右斜めにじいさんの方へと歩いてきた。 「おはよう、お嬢ちゃん」 「おはようございます〜」と彼女は淑女のようなしとやかさで。 「昨夜はえらい雪でしたな」 「でもそのお蔭様で…」と彼女は左腕を回転させて白銀の大地を慰撫するように… 晶生はそうして目を覚ました。不思議な不思議な夢だった。彼女は美悠とも愛果とも異なる得も言えぬ雰囲気だった。そこにあるは愛果の底知れなさでも美悠のあどけなさでもなかった。そして彼女はちょうど、愛果と美悠の中間のような美しいボディラインをしていた(なぜだか彼女はレモンイエローのワンピースを着ていた)。晶生は忘れないようにと、詩作用ノートに"◯月◯日の夢"と題して書き留めた。 愛果さんなんかいかにも大聖堂が似合いそうだな。その意味では夢の彼女は美悠寄りなのかな。雪に閉ざされた町で蝶のように華麗に生きる彼女を思った。その笑顔の振りまく煌めきの粒子を思った。それこそ大聖堂の街でだって彼女は輝けるだろう。けれど彼女はあえて町に留まる選択をしたのだ。暖炉の火が彼女の飼う聖獣のように思える。しかし日々その身体に纏われ続けているしんなりとした静けさの意味を、ほんとうの意味で理解しているのは彼一匹にすぎない。その事実がときに頬を翳らせる。 8. 蝉時雨のなか、晶生は一人あの日の神社に向かう。もっとにぎやかな"友"は今朝はいない。道すがらじんとなっていたのは、『冬の夢』の余韻に浸され、そしてそれを共有してもらえたことでなにか、自分のささやかな生もまた物語のような気がしたからだった。 愛果もまたアイリーン・シアラーに思いを寄せ、そればかりかフィッツジェラルドに対して憤りさえした。そこから愛果は晶生にとって〈実直な姉御〉になったのだけど、根が実直になったことでふしだらな胸は究極のギャップになって彼に迫った―"ず、ずるいよ愛果さ〜ん…" ふやけた身体で歩いてもうすぐ鳥居だった。夢の彼女がまたも胸に漏洩した。遠い遠い冬の町の祈るような日々とこの町を、一体どんな風に結んだらいい?くすんだ紅が雪に染まりでもすれば…―柱は斜めの陽に淡く染まっていた、最近しゅんとしている美悠が雪の町で満ち足りてある絵が、ぼうっと浮かんでは消えていく、見渡すかぎり白猫はいない。 パンッパンッ、パンッ―鳥居を潜るや半ば衝動的に手を三度叩いていた。とにかくシャンとしたくて仕方がなくて、"Tokyoの次は夢の町か?"とあまりにふやけている自分からまた離陸したくて。するとおおらかな風が吹き渡ってきた。でもそんな質感に反するようにせり上がってきたのは、自分には何もない、まだ何もないのだという痛感だった。 もう逃げないと晶生はクルリと背を向ける。そうしてもう一度愛果さんに会うんだ。この前案外あっさり終わってしまったからって、それが一体なんだってんだ。 震えるような静けさのうちに、扉はそっと開かれた。一転、にぎやかな下町が波のように押し寄せてきた。相変わらずのお尻が今度は宙を踊っていて、さらにはラテンの国へと様変わり。と思うやインテリ風の眼鏡の男が話しかけるのを、彼女は椅子に手をかけ腰を落としてしんみりと聞き始める。なにもかもが詰め込まれた夜のような世界でただ、悩ましい唇をぞんざいに呼び出す夢に憑かれていた。 …「おはよう!」 それはしかし施しのように彼の胸にもたらされた。 「お久しぶりです!」としかし彼は目一杯の力強さで。 「この前はありがとうね。『冬の夢』もう一遍読み直したらさぁ、ようやくジュディが可哀想って思えてさ、なんやろ、遅ればせながらホントの意味で理解できたのかなぁって」 「そういう風に読まれましたか!今日はお客さん多いですけど、またちょっと話できたらうれしいです」 「あっ…うん。後でまた来るね」 彼の胸にマグマが轟きそれは爆発寸前だった。しかしもちろんまだ夢の端緒が開かれたにすぎない。 なんとはなしに頼んだアールグレイが香っていた。表面を見つめてみると当然ながら澄んでいた。それとなく顔をかざしてみると、しかしその自分は自分でないなにかのようだった。発作のように"すべて茶番だったのだとしたら…"とごちていた。美悠に送った詩の写しをくしゃくしゃにしてしまいたかった―"僕はそもそも彼女と手を繋いだことさえなかった。でもこの胸は荒波のように揺れ動き続けてきた。だからそんなドラマを信じてもいいはずなのだけど…"愛果はいまだ訪れない。 自分がなにか哀しいピエロに思えてきた。僕は恋を演じたかっただけなのかもしれないと思う―"いいや"と首を振る。睫毛がひらりと舞ったあの、仄哀しくも愛らしい情景は胸を今でも。 夜の海を泳ぐ人魚のように、彼女は腰を夢見るようにくゆらせながら、やさしい倦怠を振りまくようにやって来た― ―「おはよう!あらためて」と芳香のような笑顔が咲いた。 「ずいぶんと待ちましたよ」 「うふふ、今日はなんだか堂々としてるね」その言葉は胸の最深部を光の速度で打ち照らした― ―「愛果さんの前ではカッコよくありたいんだ」と口が勝手に。 「えっ!?あらあら、あらあ(笑)」 そうしてふっと思う。この朝もまた、いつの日にか茶番だったと振り返られることになるのかと。そうだとしても―
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美悠と愛果、夏の夢 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 99.4
お気に入り数: 0
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2025-12-17
コメント日時 3 時間前
| 項目 | 全期間(2025/12/18現在) |
|---|---|
| 叙情性 | 0 |
| 前衛性 | 0 |
| 可読性 | 0 |
| エンタメ | 0 |
| 技巧 | 0 |
| 音韻 | 0 |
| 構成 | 0 |
| 総合ポイント | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


すいません、訂正です。8章なんですが、なんだかゴチャゴチャと分かりにくいと思い、また、なぜ神社を訪れたかということについては、物語の骨格なので素朴に書いた方がいいと思い直しました。結果、以下のようによりシンプルになりました。 8. 蝉時雨のなか、晶生は一人あの日の神社に向かう。『冬の夢』の余韻を共有してもらえたことでなにか、自分のささやかな生もまた物語のような気がして、もう一度辿りたくなったのだった。かつてのあれやこれやを。 もうすぐ鳥居だった。しかしそこで、先ほどから胸を浸しつつあった夢の彼女がとうとう胸に溢れてしまった。遠い遠い冬の町の祈るような日々とこの町を、一体どんな風に結んだらいい?くすんだ紅が雪に染まりでもすれば…―柱は斜めの陽に淡く染まっていた、最近しゅんとしている美悠が雪の町で満ち足りてある絵が、ぼうっと浮かんでは消えていく。見渡すかぎり白猫はいない。 パンッパンッ、パンッ―鳥居を潜るや半ば衝動的に手を三度叩いてた。"Tokyoの次は夢の町か?"とあまりにふやけている自分をシャンとさせたくて。するとおおらかな風が吹き渡ってきた。でもそんな質感に反するようにせり上がってきたのは、自分には何もない、やはりまだ、自分には何もありはしないのだという痛感だった。 もう逃げないと晶生はクルリと背を向ける。そうしてもう一度愛果さんに会うんだ。この前案外あっさり終わってしまったからって、それが一体なんだってんだ。 ☆ 長いものをお読みくださり、ほんとうにありがとうございます(!)実は文学賞に応募できたらなあ〜と、そう思って書き始めたんですが、字数少なく終わってしまい、また少し経つと、あまりに素朴すぎて箸にも棒にもかからないだろうと冷静になれました(苦笑) でも、素朴ながら(素朴だからこそ)大切にしたいもののありったけを込めることができたと感じていて、その意味でホント思い入れのある作品になりました。そんな作品をお読みいただけたこと、ほんとうにうれしく思います☆♪
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