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片隅の、真んなかで
中途覚醒を繰り返させるトラウマの喘鳴と、 海馬体の後ろから削れていく記憶に咲いた、 希死念慮とやけっぱちな生への執着の沙羅双樹や、 畏怖と夢想が交互に足踏みする初夏の寝室は、 朝が来るたび、 時が止まったように微動だにしない昨日を引き受け、 全身がどろりとした澱みで満たされて、ぼくはまた目を覚ます。 どうしようもない日々だって、 無駄じゃないと信じたくて、 昨日も一昨日も同じ夜を過ごしたもどかしさも、 ちゃんと'強さ'の一つだと、ただ誰かに、 受け容れて欲しかった。 不和感の水槽で嵩を増した放心の上辺を、 誰に愛されずともたゆたう、泣き虫たちを排して退けたがる、 心ない人間たちの思う壺の中で、まんまと溺れて、流されて。 無精髭に囲まれた口元から流れ込んだ、幼い頃の約束が、 肺で溢れて胸が痛い。 陽の光を拒んだ水底の部屋は、窓も扉も、 その水圧でびくともしないから、 明日も明後日も、行方不明になる計画は、きっとまた延期だ。 感情論を下敷きにした筋書き通りの下書きを、清書するだけの日々は、 情報だけが最も現実に近いという教典(おし)えこそ、最も真実から遠い、 という事実を、 気後れしたモラルの傘の先で掠めながら進む。 棚に敷き詰められた読み古しの大学受験参考書が、 詰め込むように真昼の自答を問いかけてくる声を、 この部屋の規模感にぴったり、しっくりくるまで遮断してくれる、 型の古いヘッドホンのノイズキャンセラーで耳を貫く。 所詮は、こんな狭すぎる自世界で看取ってきただけの、 風音より微かな呻きほどの日々だから、 過去を一つ美化する為だけに掻き回される空っぽな頭で、 仕方なく今日も生きている口実をこしらえている。 縋り付く誰かを、渇望しているだけのその感情の裏腹を、 自分自身にさえ見透かされている事など、百も承知で。 見過ごしていたかのようで、見なかった事にしていた、 脆くて惰弱なセンチメンタルが、 隙間だらけの体から漏れ出て、曇った眼鏡の黒縁から床に垂れ落ちるまで、 天井の傷を睨み続けていた、その倦怠感の中に、 僅かでも、希望の在り処を探していた。 誰かに笑われている声が聞こえた気がして、 不愉快な汗でびしょびしょになりながら目が覚めるから、 朝が嫌になった。 尻のポケットで鬱陶しいニュースの通知音と共に、 冴えない寝癖頭を掻きむしって玄関を出て、 予定のない日の日課だった買い物も、ゴミ出しも、 何するにせよ億劫になって、 貴重な日々の凪をジャミングする存在を締め出した無菌室で、 無為に、無駄に、過ごしてきた時間があれば、 およそ何だって出来た、何にだってなれた。 それなのに、何もしなかったぼくには勿体ないくらいに陽気な、真っ昼間の青空より、 張り裂けそうなこの胸にしっくりくるのは、 街に灯が点くまでの空に横たわる人工照明代わりの市民薄明。 最終日の仕事に向かおうとして、十八時半の玄関を開けた先のそんな吹き曝しには、 東京中に蔓延する破滅願望と、 報復感情を吸い上げて黒ずんだ、暗雲が立ち込めていた。 相変わらずなのろのろ蛇行の運転では間に合わず、 降り始めた生血の雨に打たれて、定期駐輪場へ向かう途中の僕は、 今日も今日とて、駅から繁華街の方角に飲み込まれていく、 孤独なナイトワーカーだ。 改札は退勤客や若年自由業者、仲睦まじいカップルとか学生の集団を、 ごった煮で吐き出している。 歩幅歩調を一にする気忙しい雑踏は、 親とはぐれた子供が泣き叫ぶ姿と、 古新聞を被り、ロータリーのベンチに寝そべる家のない人々を不憫そうに見つめ、 瞼の端では憂いて見せても、 関わり合うつもりは毛頭ない、群れ沿う白い羊たちだ。 生き残る為に拒むわけにはいかないから、 薄汚れた手と手を取り合って持ち堪えている、それでも、 死なない為には無分別に疑い合わなくてはならない、 その手の、'差出人'を。 背に腹はかえられぬ板挟みで、斜め上下左右に手足をばたつかせながら、 遠目からその人いきれの足取りは、かろうじて一途だ。 半ば力ずくに結び付けられた宇宙大の'命運'で、この時代に生き合わせたぼくらは、 元を辿れば、たったひとひらの海の子。 抱きしめ合う時の腕力と、好意を交わす為の言葉の意味は、 ヒトの合理的な進化の経過速度が、 他者の思いを感受できる共感量の臨界点を追い抜くにつれて、弱まる一方でも、 人類の心層は、互いを必死に分かり合おうとしてきた。 孤独と孤独は一つになれない事を遺伝子に刷り込まれて、 送り込まれたこの人間社会でぼくらは、 大盤振る舞いの幸福を、これでもかと喰らい漁ってきたけれど、 誰かの喚き嘆く声は今夜も、一言ずつ響き渡ってくる。 *************** 夜勤明けの静謐な駐輪場の向こうでは、 鈍重な雲に塞がれた朝日が、東の空に未練がましく漏れていた。 いよいよガタが来そうな自転車に跨り、見納めの仕事場からの帰路につく。 咽せかえりそうな夏の朝方に通り雨を浴びたのは、 道草した霞ヶ関のいけ好かないビルの合間。 昨晩のデモの余韻を残す車道にばら撒かれた、ビラやチラシが、 フルスモークの公用車の風圧に舞い、 空を切った。 役目を終えた熱狂と連帯の破片や、 緊縮する声々の合唱と、 緩和しない奇襲団の声明が衝突して出来た、 革命未遂の残骸が、 七月の熱波に焦げ付いた歩道に運ばれていく労務者たちは、 食い荒らされ、投棄された情報のデブリを掻き分けて、 海底を泳ぐ熱帯魚のようだ。 三十を目と鼻の先に控え、定職の足場から転げ落ち、 ひとまず、生活の収拾がつく予感の欠片もない前途を思うと、 汗まみれのハンドルを握る手が自然と力む。 ずっと叶えたかった人生が他の誰かに更新され、 数多の記事の渦に埋もれ、やがて忘れられていく。 割れた画面をスワイプする指先から、黒々とした血が垂れて、 跳ねた雫を浴びた腕時計の針が、右回りに文字盤を塗り潰していく。 その一周りを見送るにつれ、薄まりゆく血の気、 ふと、長かった自由時間がもうすぐ終わる、 そんな気がした。 油まみれのくたびれたスニーカーを脱いで、 私生活に戻るぼくを部屋で待っているのは、 誰も待っていない、という無言。 誰一人招き入れた事のない、小汚いこの木造ワンルームも住めば都で、 二十余年の月日を、兄弟、肉親と暮らした実家や、 最後まで、青春なんてなかった教室の隅でも、 'ここに、自分の未来はない'って気がして、 新卒を名乗れるうちにどうにか飛び乗った元勤め先の職場や、 沈黙でさえ挨拶代わりにして、気の置けない同人たちが少なからず集った、 オンラインのクローズドサークルでも、 'ここに、ずっと居ては駄目だ'とか何とか。 屁理屈と正当化が飽和する部屋から放り出された路上では、 気を抜けば、現実がふとこっちを見て笑う。 そういう時には決まって、誤魔化して、はぐらかして、 見て見ぬ振りをした。 不貞腐れて、閉じ籠りたくて、また鍵を閉めて寝転んだ、かび臭い部屋で、 四六時中読み漁った小説のプロットなど、 ゆうに越えて複雑な人間模様が広がる、騒々しい朝靄のしんとした街角から、 「こっち。おいで、おいで」 真っ赤に腫らした目で手招きする声の、気が触れて、 風は揺れ、 お前誰。 想像力だけで社会との接続を試みた当然の副作用か、 あるいは、 調剤袋の能書きを無視して、十数錠を一気に飲み下した眠剤の効き過ぎか。 体を治す為の薬で壊れた心が連れてくる、 朦朧とした幻惑を断ち切りたくて鋏を探せば、 言葉もない、暗い海の水面のようなカーペットに、 残り僅かな眠剤のPTPシートと、 青と赤の蓋が固く閉められた2本の瓶には、 それぞれの蓋と同じ色をしたカプセル状の錠剤が密閉されている。 青い錠剤を飲めば、瞬間、意識は肉体を離れ、 最後まで何もなかった人生への、 悔恨と無力感の下り坂を滑り落ちた奈落で、 地の底から噴き出す涙の逆流と併走するように上昇し、やがて、 天国に届く。 赤い錠剤を飲めば、無自覚に受け容れさせられた、 この歪な社会構造への違和感が覚醒し、 何もできなかった人生への自暴自棄な自爆の果てに、 地下牢を経由して地獄行きも叶う。 自壊も破壊もどのみち、それなりの覚悟や苦渋が伴う。 統治不全な心は、ゆえにその選択の波間に揺られ、 流入する海水の重みに耐えきれず、沈みかける。 それでも、ぼくだけが漕げる'ぼく'だけは、 この'船'だけが、 たとえ座礁の末に難破した沈没船となっても、 波の方向へ共に行方を任せ、立ち寄った港々で、 出会いと別れにただ泣いて、笑った、腐れ縁のツレだから。 税金にも税金を課してみてはどうか、と、 へらへら流れてはそうのたまう昨今の雲行きと、 いっそこの皮一張羅の命、丸ごと通報対象にされそうな、 嫌な胸騒ぎの只中、 少しずつ心、消耗させ、自意識を削るように生きている、 こんな毎日だって当面は投げ出せそうもない。 リビングで首を吊って死んだところで、大家が迷惑がるだけだろうし、 波風立てるな、とすごむ強迫観念だけで一夜を働き切って、 黄ばんでしまった視界を横切る故郷の幻が、 苔生すベランダを飛び降りて、 藁人形と五寸釘を手に裏庭の倒木にしがみ付き、 陽の出から狂ったように釘打つ音でがなりたててうるさい。 布団に潜り込む微睡が無造作な寝返りを打って、 やがて、人知れず白昼にいびきをかく'垢'となったこの既死感を、 住宅地の直射日光よ、陽の入りを待たずいっそ、 一思いに焼いてくれ。 睡魔の奥へとぼくを押し込んだ時と、おんなじ造作で。 さもなくば、ぼくがやる。 送り返された履歴書の山と、不採用通知をすし詰めにした、メールボックスのゴミ箱は、 忘れられたふりで、お行儀良く無言を決め込んで、 傍目からは仮死状態でも、生きている事は瞭然たる現実だ。 朝早く起きるのが辛いとか、昼夜逆転は体を壊すからとか、 明日からはそう呑気に言っていられない、瀬戸際の完全失業者だ。 *************** ぼくはまた、ヘッドホンで耳を塞いだ。 独立と脱落を取り違えた人々の羨む声がうるさいから。 掛け布団の中に潜れば、誰にも見つからない。 自分の姿さえ見失うほどの暗闇にくるまれるから。 座卓の上で薄明かりを放つスマホが、 煙草のヤニで煤けた天井の傷をあからさまにする。 起動中のチャットルームには、もう長らく受信履歴はなく、 時系列順で並べられた名前の、直近の会話相手は、 同じ地元で育った旧知の友人だった。 やり取りの経緯を記憶から掘り起こす為に、 半透明で表示されている最後の日時を見るにつけ、 ぼくは不確かな追憶の焦点を、 2年前まで遡らせる必要があった。 プロフィールの背景画像では、 君と、 君の横でその満面を嬉々とさせ、君を見つめる一人の女性が、 互いの両腕で、二人によく似た子供を抱きかかえていた。 かつては、青春の立役者になれなかった者同士、 昼の光を避けて、日陰で共に延々つるんでいたあいつも、 今では立派な父親の顔だ。 あれから幾歳月が、いたずらに過ぎ去るのを見てきた。 カメラマンに指示された通りの無表情で写る、 個人写真とまるで変わらない面持ちのぼくらは、 あの年の三月、冬眠を終えた木々のアーチをくぐり抜け、 個人的内紛の古傷に褒賞を授ければ、 十代は過去になった。 別離にまつわる諸感情が爆発上限界を突き抜けた校庭で、 小振袖とブレザーの襟に張り付く名残り桜の花弁と、 舞い上がる砂埃を絡め取って張られた、 無数の絆の糸に揉まれながら見ていた、 無知ゆえに無敵の旅人らを新天地に運ぶ線路が、 西へ東へと延びるターミナルへの道半ば、 ぼくらの命運は分たれたように思う。 あれから君は一度でも、ぼくを思い出した事があっただろうか。 あの古ぼけた体育倉庫の裏に置き去りにした思春期が、 心因性のダークファクターとなってぼくの精神世界に根を張り、 暗黒の性格特性を形成している。 心ならずとも蓄積させた日々の違和感が育てた、フラストレーションの瑞々しい萌芽は、 やがて、歯止めの効かない破壊衝動を生む。 歳月だけを幾重にも積んだ人生の、未だ報われない処遇の責任は、 全部、この社会に負わせてやる。 いつか帰るべき故郷を転々と探し続ける旅路にあって、 不適合な胸の内に耳障りな都合の悪い現実は、 全部、この時代のせいにさせてもらう。 ぼくの気が済むまで。 朝刊配達のバイクが夜の殻に亀裂を切り込み、 そこから無理矢理に生まれ出ようとする朝日が、 高層雲の向こうで星々を押し上げ、 家々の灯りは、宙吊りの夢と共に塵となる。 尿瓶代わりのペットボトルを便所で空にして、 軽食を買いに行ったコンビニ帰りに飲む、 生温いコーヒーの空き缶を捨てた自販機のゴミ箱には、 濡れてふやけた雑誌の束と吸い殻。 仕事がなくなって、退去通知にせっつかれるように日々は過ぎ、 独り佇む暮らしの舞台袖は暗く、 思考は、放っておけば沈む一方の泥濘だ。 伸ばした指先を掠めていく刃は、 'もしかしたら、このまま...'という耳鳴りだ。 たゆまぬ涙を、思い出に拭わせながら生きる事に嫌気が刺して、 カーテンの隙間から恐る恐る窺う窓の外は、 こんな日に限って、生憎の雨だ。 しばらく先まで余白のスケジュールと、 呑み残しのポケットウイスキーが、 ぼくの生きる現実の全体重だ。 独りの部屋に迷い込んだ蝉が、仰向けに床で死に絶えて、 いよいよ惨めだ。
片隅の、真んなかで ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 364.6
お気に入り数: 0
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ポイント数 : 0
作成日時 2025-10-01
コメント日時 2025-10-04
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


おはようございます。 >>昨日も一昨日も同じ夜を過ごしたもどかしさも、 >>ちゃんと'強さ'の一つだと、ただ誰かに、受け容れて欲しかった。 そうですね、こんな気持ちになる事が必ずあるのですが自分が踏ん張っている期間(他者から見たら何も進んでいないようにみえる) そのために上手く理解されなかったりするのですよね。 その期間を強さ、と表現されたところに暖かさを感じました。
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