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人生の残響
また、私の頭のなかに騒々しい無数の他人たちが蘇ってくる。声だ。たくさんの声。関係がない、たくさんの声。水を垂れ流す蛇口。馬の嘶き。株価の変動。今朝飲んだ睡眠導入剤。 歯を食いしばっている。俺は、歯を食いしばり、それから、食いしばらないようあんぐりと口を開けている自分を認識していることに気づく。夢のなかで自分の歯を噛み砕く。注射の針が腕に差し込まれたが、針が腕のなかに入ってくるのを感じるだけで、痛みはなかった。ただ、肉に針が食い込む感触が腕を通して、即物的に伝わってくるだけだった。 それから俺は街の上空を飛んだ。夜の帳が落ちた夜景の中を。ジャンプし、それから降下する。あの雲を突き抜けて遥か天にまでそびえる高層ビルの一階は、まるで東京の駅の中のように入り組んでいて広く、スーツを着た、身なりを整え、笑顔をこしらえたたくさんのスタッフたちが配置され、車のショーケースもあり、母の背中を追っている俺は、ここは縮図、この世界の縮図だと思った。なにもかもがここにはある。もう、ビルの外に戻る必要はないと。ここには地下もある。そして地下には、このビルに足を踏み入れる以前には、考えもしなかった、想像もできなかったようなものであふれている。俺は黒装束をきた、猛禽のような眼だけをフードの下から出している男と、階段で一度すれ違った。一目見ただけで、俺は彼が、決してビルの外には存在しないタイプの存在であることを見抜くことができた。8階では、なにやら偉い実業家の先生が、小さな部屋にぎゅうぎゅうつまった聴衆相手に、なにかを熱心に教え込んでいた。彼の熱烈な声は、部屋の外にも響き渡っていて、部屋の傍らを通る通行人の胸のなかをその都度熱くした。 2階には、広々とした、端の見えない食料品売り場。ここには全てがある。俺はそれを知っている。そういうことになっているのだ。俺はいつしか、ビルの入り口を見失ってしまっているのに気がついた。一階に戻る道がどこにあるか、わからなくなった。エレベーターは時折見かけたが、どのエレベーターも、一つ一つ止まる階が違っていて、あるエレベーターは11階には止まるが、12階には止まらず、あるエレベーターは38階のあとは急に96階にとび、地下ばかりに止まるエレベーターもあれば、一度は、25階と64階、95階にしか留まらない、殊勝なエレベーターも見つけた。けれど、どれひとつとして、1階に止まるものはなかった。 話したりないことがたくさんある。今朝のニュースが洪水を告げている。道路に氾濫する濁った汚水。川から飛び出し、大地を占領していく水の様子を、テレビの画面は流している。俺はテレビの画面を見続けている。箸を動かし、きゅうりの漬物を口に運ぶ。 言いたいこと、伝えたいことがたくさんあるのに、私の口から出るのはくだらない言葉ばっかり。私たち、いつからこうなっちゃったわけ? 蜂蜜をとってくれと言われて、俺はそうしてやる。テレビは相変わらず、荒れ狂った灰色の水の流れを映している。あの水がどれくらいの人間を飲み込んだか、当ててみようぜ、と俺が言う。やめてよ、何言ってるの、不謹慎なこと言わないで。 なにがだよ、俺は聞く。別にいいだろ、減るもんじゃないんだから。やめてって、そんなこと楽しむなんて、悪趣味、不謹慎よ。なにがだよ、俺は言う。別にいいじゃんか。なにをそんなに真面目になってんだよ。やめて、やめて。やめなさい。なんだよ、つまらない。つまんないよ、お前、いつからそんなつまんないやつになったんだ? がっかりだよ。ただの遊び心だろ、なんでそんなに真面目になってるんだよ。わたしはただ、そんなこととは縁を切りたいってだけ。そんなこと、おぞましいから、考えるだけでも、、、つまんない女だな、お前って。じゃあ、あんたは面白いわけ? なにをこんな言い合う必要があるんだよ? ちょっとやってみようってだけの話だろ。じゃあ、あんた一人でやって。わたしを巻き込まないで。巻き込むって、あのさあ、おまえはいちいちそういう仰々しいものの言い方をしてるから、なんでもないようなことまで深刻に捉えるようになるんだよ、言葉遣いを改めたほうがいいよ、おまえ。わたしのことは放っておいて。好きにしなよ。食い終わったら、俺はもっかい寝るから。行く前に食器をかたづけてよ。 まるで俺がいつも食器をかたづけてないみたいな言い草だな。俺は少しいらっとして、立ち上がったあと、そのままその場に立って言う。とにかく、片付けてね。今やろうとしてたところじゃないか、見てなかったのか?俺が立ち上がってそのままどっか行くとでも思った?そんなの、いちいち、、、いちいち見てないなら、いちいち口も出さないでほしいもんだね。いいから。なにがいいから、なんだ。言い出したのはおまえだろ。俺は言う。私、今日具合が悪いの、頼むから、もうこの話は終わりにしよう。始めたのはおまえだろ。俺は言う。おまえが始めなければ、わざわざ終わらせる必要もなかったんだけどね。俺は言う。ためいきをつくのは勝手だけど、自分から仕掛けておいて、相手のせいにするのはやめてほしいもんだね、そういうのは社会に出てないガキのすることだって思わない?どうしてそんなに喧嘩腰なの?どうして、そんなふうに私を追い詰めるの?俺は、、、私、なにか気に触るようなこと言った?そんなに私が嫌い?俺は言われたから言い返してるだけだろ、それがなんで嫌いってことになるんだ。私のことが嫌いじゃなきゃ、そんな言い方しないもの。 私を見て、私を感じて。パパは私の指を食いちぎった。私は彼が、私の指をとても美味しそうに食べているのを見ていたの。彼の口の中で、私の骨や爪がぼりぼりとくだかれるのを、彼の歯が私の骨を圧迫し、私の骨がついにそれに耐えきれずに、私の骨が彼の口の中で音をたてて破裂するのを、私の健気に固い骨に罅が入り、その罅が少しずつ広がっていくのを、私は感じていたの。おまえの指は美味しいよ、とパパがうっとりと言うのを私は聞いていたの。こんなに美味しい指は初めて食べた。美味しい、美味しいよ、おまえのいろんなところをもっと食べたいなあ。 ああ、頭の中がすっきりしてくる?人間を治療するのは言葉じゃない。言葉でついた傷は言葉じゃ癒せないんだ。だから私は、電気ショック療法を採用してるんだ。電流で、ちょいと頭の中の信号の流れを変えてやるのさ。思考だってね、やっぱり電気信号なのでね、私たちは電気によって動き、活動している。生命に生命を与えているのもやっぱり電気だ。私たちが都度自分のほうに振り返って、都度驚きの念を持って見つける意識というものも、やはり電気の働きで成り立っている。私たちは機械だとも。それを知ってるね?このご時世、知らないとはいわせないよ?わかるはずだよ、言葉よりもこのような電気の流れが重要だということを。10年にもわたる言語上の懊悩も、微弱な電流のひとながしで霧散してしまう。電気。精神の物理学!私の発見を、君はぜひ世間に広めてくれよ。 夕暮の光をウイスキーのグラスで透かしてみる。夕暮に飲む酒が一番うまい。 私のかき抱いた身体。私が熟れた果実を収穫するようにこの手で荒々しく揉んだ乳房。柔らかい木の幹のような腰。唾液に濡れた唇。染まった頬。酔い痴れた表情。覗き込んだ瞳孔の暗闇。快楽の声。二人きりの部屋。窓の外から差し込む夕暮。私の思い出はどこにいった?私の血に流れる記憶は?あれも、私の脳が創り出した錯覚に過ぎなかったのか?愛し合ったのは錯覚にすぎなかったか? 産まれてから私が生きてきた今日までのすべて、、、私はそれら全てを差し出して、ひとつの思い出を買おうとしたが、結局それは真夏の陽炎のようなもので、どのみち長く、いつまでも色褪せないものでなどありえなかったのだ。ずっと昔、私はもしかしたら、そのことも承知したうえで、思い出を買ったのかもしれない。10年の人生を差し出して、1か月の甘い夢を見られるなら本望だと、、、けれど、私は今や、あのころの青臭い私を殺したいほどに憎んでいる。あの若造の、一時の浅はかな考えのせいで、私はその後の人生の全てを台無しにしてしまった。今、私にはなにも残っていない。あるのは、この醜く、いかなる技術も身につけないまま老いさらばえた身体。私に残されたものは、残らないほうがよかったものだけ。
人生の残響 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 262.1
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投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-07-22
コメント日時 2025-07-22
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


こんばんは。 熱量を感じますね ゆっくりと噛みながら嚥下したい詩です。
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