phosphorescence - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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phosphorescence    

[line] 彼女が不可思議な行動を見せるようになったのは僕たちが同棲をはじめてから数ヶ月ほど経ったころだった。ある朝、肌を逆撫でるような寒気に目を覚ますと、あけっぴろげにされた窓からあざやかに燃えひろがる暁がのぞいていた。窓は閉めて寝たはずだが、寝苦しくなった彼女が開けたのだろうか、などとそのときは特段気にすることもなく、隣で熟睡する彼女が起きてくるころには窓のことなどすっかり忘れていたのだけれど、次の朝もその次の朝も、ひらかれた窓辺には白いレースカーテンが踊っていた。彼女もまったく覚えがないというし、さすがにちょっと気味が悪くなって、四日目の夜、背合わせで彼女が眠りにおちたあとも、僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。 背越しの物音に半睡から覚醒する。彼女が身を起こしたようだ。衣擦れの音がきこえ、それからしばらくして彼女はベッドから降りる。気付かれぬように様子を窺うと、全裸の彼女がおぼつかない足取りで窓辺へと歩いていくのが見えた。彼女のあまりの異様さにしばし声をかけるかどうかの逡巡がうまれ、そのうちに窓をあけた彼女はするりと滑るようにベランダに出ていってしまう。ここからでは外の様子を確認することができない。しかしなぜか、見てはいけない、知ってはいけない、そう思って、どうすることもせずに僕はひとりのベッドのなかでつめたい石彫刻のようにかたまりつづけていた。すこしばかり経っただろうか、ふいに窓の外からぽつりぽつりとちいさな水音が聴こえてきたかと思うと、ささめきはすぐに陶器を叩きつけるようなかしがましい蝉騒へと変わる。驟雨が降りだしたらしい。全裸の彼女がはげしい雨に打たれる姿を想像する。彼女の腰ほどあるゆたかな黒髪は水のながれを宿し、みずみずしい曲線はおそらく、打ちつけられる強さをもってつぶてを押しかえすのだろう。 とてもながい時間が経って、ようやく部屋に戻ってきた彼女は不思議なことに少しも雨濡れしていない。窓の向こうの雨音は彼女が戻ってくると途端におさまり、すぐに未明はもとのしじまを取り戻した。何事もなかったかのように寝巻を着てそのまま眠りについた彼女はやはり夜のことをなにひとつ覚えてはいないだろう。朝のニュースはどの局も歴史的干魃による水不足の話題で持ちきりだった。 その日から毎晩、彼女はこの街に雨を降らせつづけた。そして、彼女に呼応するように世界は乾きつづけた。 [around] 飲み会が終わったあとの自宅への帰りのバスのなかでうっかり寝過ごしてしまって、目を覚ますとさっぱり見覚えのない薄暗い山道を走っていた。とりあえず聞いたこともないような名前の停留所で降り、iPhoneで地図を確認するのだけれど、そこにはいくつもの線が波紋のように広がっている不思議な図形だけが描かれている。手持ち金もわずかばかりしか残っておらず、仕方がないからバスが走り抜けていった方角と逆方向に歩きはじめる。はじめはどうしようもなく憂鬱な気分だったのだけれど、眼下に海が望める崖沿いの緩やかなカーブや、蔦に侵食され罅割れたアスファルトを踏みしめるうちにだんだん朗らかな気分になってきて、路傍の小さな草花を摘んでみたり、スキップしながら鼻歌をうたってみたりした。月はまとわりつくような群雲にしずみ、わずかばかり漏れだした光が植物のつややかな暗緑色を濡らしている。 とちゅう、人のかたちをした幽霊とすれ違った。軽く会釈を交わしてから自宅への道を尋ねると、幽霊は何も言わずにみずからが歩いてきた方角を指差す。彼の輪郭は絶えずほころびをくりかえし、眼孔にはひとみのかわりにいくつもの語彙が渦を巻いていた。生の幽霊なんて都市部ではなかなかお目にかかれないし、物珍しさから、写真を撮ってもいいですかと聞いてみるが反応はない。きっと沈黙は承諾のあらわれなのだと解釈し、iPhoneのカメラ機能を使いふらふらと風になびいている彼を撮影する。しかし撮れた写真のどれを確認してもそこに彼の姿は映り込んではいない。とても残念だったけれど、彼をこれ以上引き止めるのも失礼だと思い、ありがとう、と礼を言って別れてから、彼が指し示した方角へと歩きつづける。 それからしばらく歩いたのだけれど、いっこうに人里は見えてこないし、もはやどれくらい歩いたのかすらわからなくなってきて、もしかしたら歩いているのではなく止まっているのかもしれない。しだいに体が金属のように重くなってきて、仕方がないから、ふらつくたびに身につけていたものをひとつずつ捨てていった。廃棄をくりかえし、風とおなじくらいのかるさになったころ、ふたたび人のかたちをした幽霊とすれ違う。軽く会釈を交わしてから自宅への道を尋ねてくる彼に、僕は歩いてきた方角を指差す。これから撮影されるたくさんの写真。そして僕は映らない。映ってはいけない。それが決まりごとなんだ。 [bunch] 暗室のなかで現像液を吸いあげる花々は撹拌と停止の指揮にあわせて示されたかたちを繕ってみせる。点を隠すなら点のなかなんだよ、と花が言って、言ったそばから花は他の花に覆われすぐに見えなくなる。群生する花々はたがいの弾力をおびやかしながら触角を絡めあう。点描の線がするすると延びていく。線はしだいに屈曲し円をかたちどるだろう。地面に散乱する不揃いな極彩色の果実。どこからともなくあらわれた鳥が、むすばれたばかりの果実のやわらかさへと嘴を埋める。いつしか暗室のなかをたくさんの鳥が飛び交い、机に無造作に積まれた写真の束が彼らの羽撃きに巻きあげられてぱらぱらと宙を舞っていた。果実へと群れる鳥たちの集団はまるで合一したひとつの球体のようにうねり、撹拌と停止を指揮する人影の手には猟銃が握られている。やがて銃声が響いて、血の流れない淘汰がおこなわれるとき、線と線の交錯でことづけられた記号のおおくは奥行きを取り戻しながらみずからの重みに沈んでいくだろう。風にあそばれるたくさんの写真は刈りとられたシーンたちをこま送りのように明滅させる。ゆらめく人影の耳から色とりどりの歓声が勢いよく噴きだし、投げ捨てられた猟銃の銃口からたちのぼる硝煙が、抜きだされた景色と景色のあいだの余白を埋めるようにたちこめる。そして、結びには表題への解答として、発作的な暗転に取り残された人影だけが、屠殺した鳥たちの骸を抱えて黄みがかった現像液のなかへ溶ける。 そうして、かたどりだけがのこされた、 かたられるはかたるのかたちからはぐれ、ここにはなきがらばかり、 [(ref)line] 延びあがった影はやがて斥力に耐えかねて湾曲する。かさなりを拒む乳房のみずみずしい弾性。彼女のしろい乳はどこまでもたかく噴きあがり、なぐりつけるようなはげしい驟雨となって街を濡らす。山々の稜線をしろくなまあたたかい川がくだり、まるで彼女の髪のようにしなやかなながれを汲みあげては、いにしえから雨乞いをつづけていた人々はめいめいのながい乾きを癒していく。そうして、街はいちめん白に染まり、うるおいにひとみを焼かれた人々の眼孔からは次々と煤けた詩句がこぼれおちる。軽い挨拶を交わすたびに、ひとみをうしなった彼らはひとりずつ白の溟い渦のなかへと飛びこんでいくだろう。干からびて使い物にならなくなった文法だけが、ただそこに遺されて、降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩えつづけていた。


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作品データ

コメント数 : 15
P V 数 : 941.1
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-03-12
コメント日時 2017-03-28
項目全期間(2024/04/19現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性00
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2024/04/19 11時21分29秒現在
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    作品に書かれた推薦文

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コメント数(15)
右肩ヒサシ
(2017-03-12)

からむくろまさん、こんにちは。 これは間違いのない傑作ですね。といっても、僕にはっきりわかるのはそこまで。非常に綺麗な文法でクリアに描かれているにも関わらず、きちんとした受容ができないのは僕の未熟でしょう。 その未熟な読解では、これは言葉と世界、あるいは実体との関係を示したもの、その解説書のように読めましたが、いかがでしょうか。 一見ばらばらな三つの部分と、[(ref)line]と題された(「refrain」と「line」の複合された造語?)第一連と関連する最終連の記述から成っていますが、どれもイメージが言葉と実体との間を往き来しているように思うのです。そのフォームが既に美しいのですが、単純な言語的陶酔に留まらず、言葉が実体との関係に持つ明確な虚偽と幻想性にもきちんと目を配っているように思えます。 雨乞いのスタイルは色々あるのでしょうが、女性(巫女)の肉体を通過した呪言によることが多いというイメージがあります。当たり前のことですけれど、雨乞いは単なる科学的誤りではありません。合理性の枠外で、社会的仕組みとして機能し続けてきました。言葉が現実の降雨とシンクロすることもあれば、降雨の幻想を呼んで人々の脳裏に雨を降らせることもあるはずです。幽霊との会話の体験や写真の中での狩猟と同じですね。作者はこれを詩として作品の中に蘇らせ、追体験させようとしているのではないかと思いました。 最終連は、ちょっと前に呼んだ吉増剛造の初期の詩篇(題名を忘れたのが残念ですが)を思い起こさせました。自然現象と人の生理が分かちがたく結びついた詩でした。 見当外れだったらごめんなさい。また語句に十分即した上での全部分の読解もできませんでした。でも、面白かった。他の方の読解を待ちたいものです。

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紅月
(2017-03-13)

右肩さん、こんにちは。コメントありがとうございます。 >これは言葉と世界、あるいは実体との関係を示したもの、その解説書のように読めましたが、いかがでしょうか。 私たちがなにかを喩えるとき、言葉を尽くして事物を理解し形容しようとすればするほどに本質から遠のき、書きおろされたものは最早虚飾ばかりの形骸でしかないのではないか、そう思いつつも尚書いてしまうのは一種の病のようなもので、ならばいっそ開き直って、右肩さんの言を借りるならば世界、実体とのあいだにある断絶にも耐えうるような言葉を書いていきたいと、最近はそう考えています。今作においてそれがどの程度成功しているのかは分かりませんが、そういった思想が話者の眼差しとしてあらわれているというのはあるだろうなと思いました。 儒教において雨乞いに携わる巫女は雨乞いの儀式よりもむしろ葬儀を執り行うことで生計を立てていたようですね。もともとシャーマニズムやアニミズムは日本に深く根差した文化でもありますし、歴史において祈りや信仰といったものがどれだけ史実に力を及ぼしてきたかを考えれば、祈祷が雨を降らせるくらいのことをやってのけても何ら不思議ではないと思います。あるいは錯覚し、錯覚させる共同の幻想の中にどうしようもなくどうしようもない言葉が生まれる瞬間へと目を向けていきたい。それが目下の理想なのかもしれません。上手く伝えられなくて申し訳ないです。 そういえば、吉増剛造も恐山へイタコに会いに行って感銘を受けたというような話をどこかでしていましたね。機会があれば自分も話を聞いてみたいところですが、これまで一人旅をしてまともに目的地にたどり着けたためしがないので、きっと私は詩の書き方よりも地図の読み方を覚えるべきなのだと思います。

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もとこ
(2017-03-13)

夢遊病というのはただフラフラ歩き回るだけでなく、けっこう細かい作業とかもやる場合があるらしいのですが、本人はまったく憶えていないそうです。坂田靖子の「水の森綺譚」というマンガでは、主人公の1人である青年が真夜中に起き出して自分でサンドイッチを作って食べるというシーンがあります。それくらいなら微笑ましいのですが、この詩における「彼女」は真夜中にベランダで不可思議な行動をとります。雨の音がしたのに、彼女は濡れていない。ファンタジーやオカルトめいた展開に、読者は引き込まれます。その次は夜の山道を歩くうちに幽霊になり、少し前の自分と出会う男の話。それから写真の中の花と、それを啄む鳥たちと、猟銃を持った指揮者。そして最後に再び夢遊病の女性が登場するのですが、何と彼女は自らの乳で街に雨を降らせていたことが判明します。 この詩において、風景は常に闇の中にあります。真夜中の部屋、夜の山道、暗室。しかし最後の話において、彼女の乳房から吹き出した白い雨が街中を染めていきます。おそらく、雨という名の光を待ち望んでいた人々の目にその白は眩しすぎて、彼らは詩句をこぼしながら「白く溟い」という矛盾した渦に吸い込まれていく。この最終連においてすべての物語がつながる訳ですが、iPhoneによる撮影と昔ながらのフィルム式の写真の対比など、詩に限らず様々なイメージのとらえ方、解釈の仕方、保存の仕方などの違いも、この作品を解読する上で重要な手がかりなのかなと思いました。

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紅月
(2017-03-14)

もとこさんこんばんは。コメントありがとうございます。 夢遊病はストレスが原因で発症することが多く、ほとんどが大人になるにつれて自然と完治するそうですね。昔テレビで夢遊病の特集を観たことがあって、たしか真夜中にふらふらと散歩に出かける女性の話だったのですが、女性の旦那さんが「妻は意識がないのにきちんと化粧や着替えなど外出する支度を済ませてから出かけるんです」というようなことを言っておられたのがすごく印象に残っています。 >この詩において、風景は常に闇の中にあります。真夜中の部屋、夜の山道、暗室。 夜明けからはじまりましたから、やはりおわるときも夜明けが自然なのかなと思いこうなりました。基本的に私は夜型の生活をしているのでその影響もあるのかなと思います。たまの休日に昼間から外出したりすると日光のあまりの眩しさに目がくらんでしまってそのまま溶けてしまいそうになるので、おそらく私の前前前世は蛞蝓や椎茸であったに違いないと推察しています。 花緒さんこんばんは。コメントありがとうございます。 今作は前作に比べてしっちゃかめっちゃかしてますので、どう読まれるのだろうというのが非常に気になっていました。 皆さんからのレスは作者にとっても大いに参考になるのでとてもありがたいです。 >詩想と断絶が生じた状態から、詩想が蘇るまでの一連の流れを記述した、ビルディングスロマンのような構造が読み取れるように思いました。 おそらくメタ詩として読む方もそうでない方もいるとは思うのですが、どちらで読んだとしても無理なく読める作品であれたらなと思います。個人的に、花緒さんはそのあたりの距離のとりかたが巧い書き手だという印象がありますね。

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葛西佑也
(2017-03-16)

長いのですが、読んでみれば、長さを感じさせない魅力のある作品で、久々にネット上の詩で、ゆっくり繰り返し読んでみようと思えたので、出来ないなりに簡潔ではあるけれども、コメントをしてみようかと。 なぜ、惹かれたのか、いろいろあるのですが、冗長になってしまってはいけませんから、三点に絞って。 まず、各段落で文体の違いがあり、それによってそれぞれがきれいに分かれつつも、同じ一つの詩として示されるだけの説得力を保っている点。 つぎに、かなのみで書かれている部分や、ところどころのかな遣いが、単純に私の好みである点。 第三に、官能的な表現がちりばめられているが、いやらしいものではなく、非常にシャープでクールでカッコよくまとめられている点。 少し優等生すぎる気もする出来映えなのが気になりました。

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紅月
(2017-03-18)

葛西さん、こんばんは。コメントありがとうございます。 >久々にネット上の詩で、ゆっくり繰り返し読んでみようと思えたので、出来ないなりに簡潔ではあるけれども、コメントをしてみようかと。 詩歴(?)がおそらくとても長いであろう葛西さんにそう言っていただけて嬉しいです。 >なぜ、惹かれたのか、いろいろあるのですが、冗長になってしまってはいけませんから、三点に絞って。 >まず、各段落で文体の違いがあり、それによってそれぞれがきれいに分かれつつも、同じ一つの詩として示されるだけの説得力を保っている点。 >つぎに、かなのみで書かれている部分や、ところどころのかな遣いが、単純に私の好みである点。 >第三に、官能的な表現がちりばめられているが、いやらしいものではなく、非常にシャープでクールでカッコよくまとめられている点。 1点目と2点目に関してはとても意識した部分ですので上手く作用しているようで安心しています。特にかな書きについては、よく「あざとい」とか「意図がわからない」とか言われたりするのですが、字面や音の響き(平仮名と漢字では音読した印象がだいぶ異なると私は思っています)がどうしても気になってしまうので、結構時間をかけて調整しています。 3点目については私の弱点ともいえるところで、どうしても詩作品として完成させるうえで生身から離れようとするきらいがあって、いつもこういう記号的な表現になってしまうんですね。葛西さんの作品のように生理的なうつくしさや醜さを描き出すことがあまり得意ではないのです。それが葛西さんのいう「少し優等生すぎる気もする出来映え」という評に結びついているのかもしれません。

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kaz.
(2017-03-19)

何よりもまず声にして出した時の感覚を一番大事にするべきではないだろうか。『とりろーぐ』の頃のあなたは、どちらかというと声の感覚に拘泥していたというか、ライミングやフロウの感覚を強く意識して保持していた。しかしながら、昨今のあなたの作品を顧みると、少しばかり時代の感性に遅れている(詩を書くことが時代遅れかもしれないという指摘はこの際無視しよう)というか、物語〈ナラティブ〉を小説化ないしは私物化している。ここで断っておきたいのが、私が語ろうとしている物語というのが、あくまでハンナ・アレントの『全体主義の起源』にあるような全体主義的世界観では、もはや考えられないということだ。物語をめぐる情勢は既にカオス化しており、ここでいう小説化ないしは私物化とは、言ってしまえばナラティブの可能性に目覚めて詩人としてのアプローチを見失うことを指している。ならばと腹を括って、物語を書かずにリズムを書いて、つまりピコ太郎の「I Love You――アフリカの風」の如く「ウガタボンボンビィヤ」みたいな詩を書いてはどうですか、というのがわたしの言いたいことなのだけど。

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紅月
(2017-03-19)

kaz.君、こんにちは。コメントありがとう。 時代の感性に遅れている、か。なんとも辛辣な批判ですね。kaz.君の言う「小説化あるいは私物化」の定義がよくわからないのでなんともいえませんが、詩人としてのアプローチというものの解答がピコ太郎であると言うのなら、(たとえそれが時代の希求であろうと)そのような言語遊戯に興じるつもりは今のところありません。シニフィアンに傾倒した表現を否定するつもりはないけれど、評価するつもりもない。もっと言えば、私の考える「私物化」とは、たとえば朝倉ユライさんやいかさんなどの内輪でしか通用しないような記号を翫んだりする手つきのことを言います。 しかし、随分前に書いた作品を気に入ってもらえているというのはやはり嬉しいことですね。あの頃の純粋な言葉への信仰心というものが今の私には欠けている。いや、箸にも棒にもかからない状況から脱却するためにあえて切り捨ててきたといったほうが正しいかもしれません。それが今になって「昔の作品のほうがよかった」と言われるのはなんというか、皮肉だなあと思わずにはいられませんね。もう一度考えてみます。ありがとう。

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kaz.
(2017-03-19)

からむくろまさん 返信ありがとう。多分これからの議論は胸熱になってしまうと思うので、運営さんはカードの

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紅月
(2017-03-20)

kaz.君、再びこんばんは。 今朝から一日中色々考えてみたのですが、やはり今の私には昔の自分のような書き方はできない/採らない気がして、それは何故なんだろうと考察した結果、評価に対して臆病になってしまったことが原因なのかもなあという結論に至りました。kaz.君が褒めてくれているとりろーぐもレス欄で「歌いだした途端につまらなくなる」と批判されたし(今でも覚えています)、実際に月間優良にすら選出されなかったので、当時の評価に飢えていた自分にとってはこういう書き方は間違ってるよと言われているように感じられてしまって、どうにも耐えられなくなったのでした。ちょうどとりろーぐを投稿した頃は評価というものに対して色々こじらせている時期だったので、批判を恐れるあまり、どう書けば前作のような罵倒を受けずに済むだろうかと、まるで叱られることをこわがる子供のような気分で詩作をしていましたから、自分の感覚というものにそれはもう一切の自信をなくしていたんですね。今は正直評価されようがされまいがどうでもいいやという楽観的な気持ちで書いてはいるのですが、あの頃に痛感した自分の感性の乏しさというのは相変わらずで、kaz.君の言う「何よりもまず声にして出した時の感覚」を表出させるということが私には怖くてたまらないのです。 関係ないですが先程のレスで、 >私の考える「私物化」とは、たとえば朝倉ユライさんやいかさんなどの内輪でしか通用しないような記号を翫んだりする手つきのことを言います。 と書きましたが、語弊を生みそうだなと思ったので、 >私の考える「私物化」とは、たとえば「朝倉ユライ」や「いかいか」等の内輪にしかわからないような名詞を詩句として作中で翫んだりする手つきのことを言います。 と訂正しておきます。kaz.君にはちゃんと伝わっていただろうけど念のため。 ああ、でも、あなたの新作にはうつくしいなと感じたフレーズがいくつかありました。時間があったらレスをつけたいなあと思っています。

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kaz.
(2017-03-20)

なるほど。そういうことか。あれ(私物化云々)は私の作品について暗に言及するレスポンスだったんですね。なるほど。 まあそれはさておき、私がどうして声に出したときの感覚を大切にするべきだと思うようになったのかというと、多分昔の貧弱な音楽観のまま物事を考えていたからなんですよね。あのレスポンスを付けたとき、私はグレングールドもディヌリパッティもフルトヴェングラーも知らなかったし、聴いてはいたにもかかわらずカラヤンやホロヴィッツ、マイルス・デイヴィス、メイナード・ファーガソンやチックコリアの偉大さもわからなかった。ケンドリック・ラマーも般若も知らなかったし、音楽的な感性も貧弱だった。だから、ああいう形で(批判する)言葉が出てきたんだと思います。実は、紅月生誕祭のときにあなたの「とりろーぐ」を推挙したのは他ならぬ私です。多分受容するのに時間がかかったんだと思います。トラウマを植え付けてしまって本当に申し訳ない。

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紅月
(2017-03-21)

ひとつの話題で何度も作品をageるというのも心苦しいのでこれっきりにするけれど、「歌いだした途端につまらなくなる 」という批判をくれたのはkaz君ではなかったと思う(君から批判された覚えは確かにあるけれど)。まあ、もし仮にその発言をしたのが君であったにせよ、君が謝る必要は一切なくて、そもそもあそこは批判や罵倒が容認される場所なのだから批判を軽く受け流すことができなかった自分の弱さに非があると考えます。ただなんかすごく気を遣わせちゃったみたいで本当にごめんなさい。(関係ないけどチック・コリアいいですよね。そのチック・コリアが天才と評したアビシャイ・コーエンを最近良く聴いていたのだけど、よかったら聴いてみてください。) それから、君の新作にレスを入れたいなあと思っているので少しお待ち下さい。3月は繁忙期なのでまとまった時間が取れずになかなかここの詩を読めていないのだけれど、君の言うとおり読むという行為も詩を書く糧になるだろうからがんばって修行していこうと思っています。どうもありがとう。

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百均
(2017-03-26)

この作品をどう読んでいくか、というと、なかなか難しくて、一つは思う事がありすぎる、というのと、ありすぎて何をどういったらよくわからんという気持ちと、実は読んでて4連と3連の最後の平仮名以外はようわからんという気持ちと、そんでもって付いてるレスとかTwitterでの感想とかをみると見方が一気に変わって自分の読みがガンガン裏切られたり、例えばタイトルの意味を調べるだけで語句から色々な物が吹き出してきたりする。どんどん最初はなんとも思わなかった文章に色がついていくような作品で、いい悪いというよりは、器が大きすぎて手に追えない作品かなぁとおもってます。それで、少しづつ小皿に分けて読んでいく読み方が適切かなと今は思っています。  という訳で、どういうレスをこの作品に付けていくと面白くなるか、という点で僕が感じた面白いと思った所を羅列していく方針でいきたいと思います。 ①4連のミルク ミルクが付け足されるだけで、なんでこうも繋がってしまうんだろうか、とおもいました。ミルク最強ですね。上の三連に描いていきた女のイメージ+、、、なんでしょうね。ミルクっていうのは、やっぱりパンチのある飲み物なんだなと思わされます。この感慨をどう表現すればいいのか本当に難しいのだけれど、雨乞いする人々の上にミルクが降るっていうだけで、雨がミルクに読み替えられるだけでこんなにも脳内の映像の質が変わるのかって思うんですよね。ミルクというのは多分哺乳類にとっては一番最初の食事になるのかなと思うんですが、その血は女の乳房、[bunch]から出てくる雨であって、血であるということですよね。それが大地に降り注ぐ雨に重ねられる。そんでもって大地っていうのは二連で地図に置き換えられてるのでそう考えると、母なる大地みたいなものに繋がっていく。ということや街中をミルクで満たしていくイメージや、挨拶に絡めていくと、、、なんとも壮大な下の話にすり替えていくことも可能だなぁ、、、、ということを考えながら、、、   ②[line]と[(rif)line]    、、、、一連目の女と雨の描写を振り返ると、最初は訳わからなかった一連目の[line]が[(rif)line]に滅茶苦茶かかってきているのが分かる。()に閉ざしてるだけなのに、更に「ライン」が「レイン」になるのも凄い。何十にも意味のくくられ、そして断絶された(rif)としかしそれでも繋がってるんだよ、例え読み方が変わったとしてもという意味としての()、それから「繰り返す」というフレーズにもかかってくる。更に繰りかえされるのは呼吸なんですよね。で、呼吸は >僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。 にかかってくるから、多分タイトルの燐光、もしくは青白い光の部分に関わってくるここから3連に飛躍させていくと、、、とたったひとひねりの工夫が軽くなされているようで、ここが必殺すぎて笑えないですね。高等テクニックすぎる。ここまで全部僕の中でつながってしまうんですから。 ③文法  ここも必殺で、乳は白いから、白い文法なんだなと思うと、紅月さんの作品の中に思い当たる作品が出てくるなと思いつつも、そこまで手を出したらレス終わらないと思うのでやめますが、何故か、文法がいきなり飛び出してくる。これはなんでなのか。そこで、少し詩を遡って読み直すと、気になるのが「地図が読めない」みたいな話で、地図もある意味文法の塊みたいなもんかなと思うことにします。(ここの理由付けについては飛ばします)そういう所に考えていくと、「地図」を「女の体」に読み替えられるのかなぁとか、 >蔦に侵食され罅割れたアスファルト >iPhoneで地図を確認するのだけれど、そこにはいくつもの線が波紋のように広がっている不思議な図形だけが描かれている。 が、 >干からびて使い物にならなくなった文法だけが、ただそこに遺されて、降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩えつづけていた。 ここに呼応してるのかなと思ったりする。地図に書かれるまっすぐな線っていうのは例えば緯線経線かなと思います。それらが狂ってしまうと自分の位置っていうのは把握できなくなってしまうわけだから、文法が罅割れてしまうとコミニケーションが取れなくなってしまうように地図が読めなくなってしまう。それが、女の体という曲線という不可解なものに重ねられていくのかなぁと。。。 >降りそそぐ線の集合のふたしかさを距離に喩え る、とはどういうことか、この「距離」というのが難しいのだけれど、今の所僕の考えですが文法というのは一つの理解であり一つの断絶でもある。そこにある文法を把握できなければ僕らはそれを理解することが出来ない。まっすぐじゃないと読めない物が曲がっていたとしたら、それらを読むためには、曲がってるのをまっすぐにするか、まっすぐなのを曲げるしかない。ということなのかなぁ、 で、そこから語り手は多分まっすぐな文法しか読めない。というふうに仮定して読んでみる。 まっすぐ同士の文法(線=line)っていうのは並行だから交わることがない。でも曲がってる文法は絶対にどこかで交わることが出来る。つまり、まっすぐな文法が交わる為には曲線がないとだめだし、曲線から働きかけないとダメ。という意味で、女の子の気持ちが語り手にはわからない。だから干からびているし、故に相手が自分の交わってくれるのを、いつの間にか集合してくれるのを、待つしかないみたいな感じなのかなぁとその待ち時間のlineが距離なのかなと距離が時間に比例しますからね、、、という事をおもいました。

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百均
(2017-03-26)

コメントして気がつきましたが、「四日目の夜」なんですよね。。。色々仕込まれてるのかなぁと今更ながらに気がつき、これを最初にレスに書くべきだったと後悔しました。燐光が光を溜めて暗闇に青白い光を跳ね返すような感じで、なんともしてられたような感じです。今更ながら修正かけるとこれまた延々と終わらない感じがするので、簡単な付記を最後に付けさせて頂く感じで一度レスを閉じさせていただきます。グダグダとどうしようもないレスになってしまいましたが、それだけ感じる事を言葉に出来ない詩であり、正に食えない詩ですね。他のみなさんの読みがもっと見てみたい。

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紅月
(2017-03-28)

百均さん、おはようございます。 基本的に私は詩の読解に正答などないというスタンスなので、読み手の数だけ読み方があると考えるし、百均さんのコメントはいつも誠実なので書き手としてすごく参考になります。器が大きすぎて手に負えない作品と評していただきましたが、その「器の大きさ」が解釈の幅の広さへと結びついてくれていれば嬉しいところです。 この詩は一応聯ごとにそれぞれが小話としても完結するような体裁をとっていますが、あくまで全体としてひとつの作品たりえるようにと書きました。「雨」「夢遊病」「酩酊」「幽霊」「写真」「雨」といった詩句による聯の連なりの中で、意識的情景と無意識的情景の錯綜を各々の詩句が持つイメージ(意味)と文字(形)に擬えながら表現しようとしたのかもしれないなあ…などとめずらしく自己解説まがいのことをやってみようと思ったのですが恥ずかしくなってきたのでやめます。 >②[line]と[(rif)line] シャッタースピードを落としたカメラで雨を撮影すると雨が線のように写ります。たくさんの点の集合が線になるんですね。私は定点カメラの写真なんかも結構好きなんですよ。星空が円を描いている写真なんかは百均さんもご覧になられたことがあると思います。 >僕はサイドボードに置かれた青いLEDのデジタル時計の点滅を眺めつづけていた。彼女の呼吸と電子的な明滅のテンポは隔たりと交わりを繰りかえす。繰りかえす。 「隔たりと交わりを繰りかえす」というのも、言い換えれば「距離」ですね。ちなみに物体が燐光を放つ現象のことをフォトルミネセンス(photoluminescence)というのですが、なんでフォト(photo‐graph[写真])とついているのだろうと思ったら、photoの語源がギリシャ語のフォートス(photos[光])だからなんですね。LEDの発光は正確にはフォトルミネセンスではなくエレクトロルミネセンスと呼ばれるようです。 >感じる事を言葉に出来ない詩であり、正に食えない詩ですね。 それでも百均さんが感じたことをこれだけきちんと言葉にしていただけたこと、感謝しかありません。 丁寧なコメントありがとうございました。

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