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ペペロンチーノ・半熟目玉焼きのせ   

作成日時 2017-08-05
コメント日時 2017-08-10

スパゲッティを食べながら、高校生になった息子が 文学館で始めたサークルを「流動的読書会」という名前にしたのだ と、言った なんで? と、訊くと 「知性には流動的知性と結晶性知性があるんだ。」 と、生意気なことをいう 息子殿によれば、 結晶性知性は経験によって得られるから、歳をとっても 衰えない場合があるが、 流動的知性は若い人が優れるのだという 「流動的じゃ、やわなんじゃないか。 ハードボイルドは、君たちにはまだ早いってわけかい?」 と、笑うと、 「集中力とか会話に必要な知性さ。創作も流動的知性なんだよ。」 と、まじめに教えてくれた そういえば 小さな子どもから教わった知識は、裏を取らずに 信じることにしてきた 子どもは テントウムシの冬眠のこととか 花豆の模様のこととか ドングリの中にいるゾウムシのこととか はんてん木(ぼく)の葉っぱが、印半纏みたいだということとか いろんなことを私に教えてくれた それらはみんな私の中で、 ゆっくり結晶化していきながら いろんな堅さの 考え方だの 生き方だの 勘違いの思い込みだのになったのだった 「結晶は奇麗だよね。」 と、横でスパゲッティを食べていた妻が言った テーブルの向かいでは (きれいなだけじゃ、駄目でしょ。) と、息子氏が 思ったっぽい、生意気な顔をして さらに生意気にも、それを口にしないで スパゲッティを食べる 私たちの前には、まだ山盛りのスパゲッティが湯気を立てているが 冷蔵庫には、妻が買ったプリンがあるはずだから それがデザート 初出;「焔」109号


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2019/11/18 08時53分49秒現在
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コメント数(11)
竜野欠伸 (2017-08-06):

家庭での子供と大人の人物対比がとても愉快で心地よいです。流動的と結晶性を主眼とした知性を囲む料理の話し。確かに、流動的が優勢に推移する物語詩の落ちもわかりやすい。デザートが柔らかいプリン。時間軸は流動的。空間軸は結晶性という背景描写が、舞台設定とも了解出来ます。なお家庭における、柔らかさは、料理にもあり、硬さは、秩序が垣間見える。対比的な描写が細かくなされている。特徴的なのは、開放的な団欒が印象的でもあります。素敵な詩をありがとうございます。

まりも (2017-08-07):

にんにくのうまみ とうがらしのからみ  まろやかにからむ きみの味わい 唐突に始まる大人への背伸び 階段を上るきみの姿は まぶしいほどに危なげだけれど 自信にあふれて下を見ることはない 硝子の階段は きみにだけ見えている 湯気がまだ消えないうちに きみとの思い出をのみこんでいく 背中に30年前の記憶を 重ねるのはもうよそう きみのくれた無数の核が 心の中にちらばっている そのまわりに 少しずつ こんぺいとうのように 光が結晶化していく 僕が死んだら このこんぺいとうを空いっぱいにばらまくよ きみがそれを口に含むかどうか そんなこと、ぼくはしらない しらないほうが、いい 冷たいプリンの甘苦いのどごし 今日は生きるのに もってこいの日だ。 (返詩です)

花緒 (2017-08-07):

初読の印象がすごく良かったです。流動的知性・結晶性知性という対比が冒頭に提示されますが、本作品の底流に流れるロジックは、流動性知性と結晶性知性という二項対立ではなく、また、そのハイブリッドとしての中間でもないような印象を受けます。では、そのロジックは何なのか、と問われると単純に叙述できるものではないように感じるのですが、しかし、強度のある第三の論理を感得しうる作品であり、であるがゆえに、ポエジーが溢れているのだと感じました。

仲程 (2017-08-07):

いいですね。 僕はいい父ではなくて、こどもからの情報を結晶化できてなくて、いまさらながらしまったなぁ とぼやきそうです。 そんな抑えぎみの素敵なながれで、最後の着地もいい感じです。

ハァモニィベル (2017-08-09):

言語というのは面白いもので、文字は音符であったり、語句は記憶の映像であったりする。 そして文章は、新しい様式であろうと、古い様式であろうと、それは結局、優美な舞踏である。 巧い下手は別にして、そういう面があるものだから、中身よりも躰の外側を色々と無駄に動かす工夫に腐心したりするひとが後を断たないが、しかし、核心がない表現というのは読んでいてひどく退屈である。 核心があるなら、やさしい文で書けばよく、核心がないのを隠すために文を妙にひねり回して難解を衒う必要はない。 下手な描写というのは取捨選択がされていない。 「雪が降っている」という一般的な表現を、 「悲しみの雪が舞う」と表現し直すことが文学でない以上、 描写論の問題は形式論に尽きたりはしない。安易なものの多くは 「さらさら降」ったり「激しく舞」ったりと書かねばならない必然が 問われていない。 以上の観点からすると、 本作品は、冒頭から終わりまで必然で貫かれています。 流動的知性を担って登場するのは生意気な息子でなければならず、最後に平和な家庭で待っているのは、(柔軟性をもった個体である)プリンでなければならない。 ちなみに、 「プリン」を化合物として化学的に連想すれば、酸性やアルカリ性だとすぐ溶けてしまうが、 中性の環境には溶けにくい、といった暗示も含んでいます。 よって、本作品は文学的な作品として(私は)評価しますが、 小説か詩かという問題を孕みます。それについて積極的に述べると、長くなるので、別の機会に譲り、 ここでは、消極的なようですが簡単に、これもまた自由詩であるとしておきます。

蛾兆ボルカ (2017-08-10):

ご批評、ご感想、そして返詩、ありがとうございます。 最初、なかなかレスがつかなかったものですからドキドキしておりましたが、好評を頂きとても嬉しいです。 また、しっかりした解析によるご批評や、深い味読を反映した「讃」のような返詩を頂き、光栄です。

蛾兆ボルカ (2017-08-10):

(アーティストステートメント) 「私は「荒地派」っぽくありたい」 私は詩のことを殆ど何も知らずに詩を書いていたのですが、いや、今もそうなので、先輩諸氏や研究熱心な若い方々に、非常に多くを学ばせて頂いてきました。 ある時期、詩学社社長の寺西さんに、それこそ「詩学(エチカ)」手ほどき連続講義みたいなことを、(振り返れば)していただいたなあ、と思います。 と、言っても、今にしてみれば講義だったと思うだけのことで、その時は酒を呑んでいただけのことだったのですが。朗読会の隅っこなどで、私などは親しくしてくれる人もなく、一人で呑んでいる。すると、いつから居たのか、いつの間にか寺西さんが横に居るんですね。 せっかくね、色んな人がくる夜会に来たわけですから、僕だってホントはイカス美女さんとかと知り合いたいわけですよ!まあ、そんな野望は潰えて、独りで飲んでるわけですが、寺西さんが横に居るのに気づくと、なんだよー、と思うわけです。 だけどそういうとき、あの人はとっても良い笑顔をしてるんですね。しょうがないんで、会場に生じた別空間に入るみたいな感じで、二人で呑むのですが、私があまりにも無知だから話ははずみません。お互い、ポツン、ポツンと話すのでした。 印象的なのは、当時の私は、「四季派」を知らなかったですね。ポエニクを主催していた「いとう」さんが、その頃、何かの弾みに四季派の話をして、私は知らなかったので、知ってるふりをしたのを覚えています。 荒地派は、もっと赤面エピソードで、寺西さんが私に、黒田三郎を読むよう薦めてくれたんですね。私は知ったかぶりをして、実は黒田も知らなかったんですが、 「ああ、黒田イイですよね。あれが詩だよナー。やっぱ四季派じゃないですよ。」みたいなことを言いました。 寺西さんはそういうとき、ニコニコ笑って黙って呑む。そういう人なんだよね。 後日、焦りながら黒田を読んで、僕はほっとしました。ホントに黒田が良かったからです。 後年、私は結晶性の高い詩、という言い方で一部の詩を呼ぶようになりました。これは黒田の紙風船を念頭においています。 (続く)

kaz. (2017-08-10):

返詩を書きます。 デザートのあと 僕は皿を片付け 妻は布団に入る 僕たちのつつましやかな生活のなかで 子どもは新しい懺悔の仕方を習う プリンは海洋動物なのだと 息子は知ったという 「あのまろやかな舌心地、 まさにアノマロカリスのものだ!」 というのが彼の理屈らしい という夢を、僕は見た 夏 電気羊がやってきて、 土地から電子を刈り取る

蛾兆ボルカ (2017-08-10):

Kaz.さん 返詩ありがとうございます。 アノマロカリス、私は知らなかったので、画像検索してみました。 これ、欲しいです。  https://goo.gl/images/i185Tg

蛾兆ボルカ (2017-08-10):

(ステートメントの続き) 黒田三郎を薦められてしばらくした夜、隣で呑んでいる寺西さんに、私は「紙風船」のことを聞いてみました。 荒地派とはこういうものだと語られていることと、「紙風船」の作風は、と、いうか黒田の他の詩の作風は、なんだかしっくりこないような気がしたのです。 「どうして書いたんですかね?」 と、聞いて、その答えに納得できず、また別の日に 「あれはどうやって書いたんですかね?」 と、聞き直したりしました。 寺西さんが何て答えたか、思い出せなくなっちゃったんですが、 「ふと、書けてしまったんやろね。」 とか、 「降りて来たんやろね。」 みたいなことを、ぽつんと言ってました。 黒田を知ってからもしばらく、僕は荒地派とは、コウチハだと思っていました。 何ヶ月だかわからないけど、気づくまでそう発音していました。だって、アレチなら「荒れ地」と書きそうなものではないですか。 でもアレチ派が正しいですね。 インターネットは荒地だ、と私は思います。 (ツヅく)

蛾兆ボルカ (2017-08-10):

続けようと思ったのですが、このステートメントはここで終わりにします。 急いで一つ記すなら、私は結晶のような詩を志向しながら、それに反する詩論を我が詩論としたい。と、思っています。 それが、荒地にいると思いつつ書く者には、適しているのではないか、と。(ステートメント終わり)

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