お知らせ

ノーカントリー   

作成日時 2019-05-29
コメント日時 2019-06-11

詩、 のようなものを書いていたときがありました。詩のようなもの、というのは、詩ではないことを知っていたからで、詩のようなものを書くようになってから、いくつか、詩を読んでみたことがあって、そうです、私が読んだのは、イエイツの「ピザンチウムの船出」という詩だったと思います。  それは老いたる者たちの国ではない。  恋人の腕に抱かれし若者たち  樹上の鳥たち  その唄と共に、死に行く世代たち、  鮭が遡る滝も、鯖にあふれた海も、  魚も、肉も、鶏も、長き夏を神に委ね  命を得たものは皆、生まれ、また死ぬのだ。 そういう風にはじまる詩で、この詩を読んだことで、私は、私の書いている詩のようなものが、詩ではなくて、詩のようなものでさえきっとなくて、詩とはつながっていない、本当は、詩と似ているとさえ考えてはいけない、詩とは全く違う、何か詩とは別のものでしかないことに気づかされたのでした。 それなのに、どうしてだろう、私は詩とは似つかない、詩のようでさえない詩のようなものを、インターネットで投稿するようになってしまっていたのです。私は詩は書けないし、私が書いているものは詩に似ている何かでさえないし、詩とはどういう風にも繋がってはいないし、そう思っていたから、詩人と呼ばれる人たちに声をかけて貰えたときはうれしかった。本当のことを言うと、詩人と呼ばれる人たちが書いていたものはとても難しくて、それが詩であるかどうかさえ、私にはよく分からなかったのだけれど。  朗読の会に来ませんか? その誘いを断る理由なんて私には何一つなくて、朗読のことはさっぱり良く分からなかったけれど、みんな、とても楽しそうで、なんだかとてもあたたかい雰囲気があって、それから、代表の方に話しかけて貰えたんです、詩を教えてあげますよって。私はとても嬉しいけれど、私は詩人じゃないし、詩は書けないし、詩を書けるようになるその途中にいるわけでもないから、私とても場違いなんです、だから申し訳ないですって答えました。 そうしたら代表の方は、どこかで聞いたことがあるような話、そうだ、私もずっと、自分は詩人じゃないって思っていました、でも今になってみれば、詩人じゃないと思っていた時が、私は一番詩人だったかもしれない。だから、詩人か詩人じゃないか、そんなことはぜんぜん気にすることじゃなくて、そうだ、毎週、私と会って話せばいいです、そうしたら詩が書けるようになりますよって。 でも、私は詩を書きたいのかどうかさえ分からなくて、私がやっていることは詩と似ている、でも詩とは似つかわしくない、何か詩とは別のことなのかもしれなくて、会って話すと言われても、とても光栄なことだけれど、かえって申し訳ないというか・・・・・ 大丈夫ですよ。会って、思ったことをそのまま話すんです。思ったことそのまま・・・・・そうです。思ったことをそのまま私に話せばいいんです。今、少しやってみましょうか。え、でも、私どうしたらいいか・・・・・難しいですか。それでは、まず、私が見本を見せてみましょうか。ええぜひ・・・・・  別れた妻にとてもよく似ている えっ・・・・・驚かれましたか?そんなこと言うべきじゃないって、そう思われましたか?確かに、まだ会ったばかりの若い女性に言うべき言葉じゃない。でも思ったことをそのまま言ってみたんです。それがあなたにどう響くかなんて、考えてみることもせずに。 ほら、感情を解放してみる、ということ。そこからしか詩ははじまりません。でも、私、そんなこと言われてもどうしたらいいか。私、いまとても困っています・・・・・そうです。いま思ったことをそのまま言ってみたのでしょう?困っている、なんて言えば、それが私にどれだけ失礼に響くか、考えてみることもせずに。ほら、でも大丈夫。今、思ったことをそのまま言えたから、詩を進めていけますよ。じゃあ、ほら、もう一回言ってみますね。  別れた妻にとても良く似ている。 ほら、どうですか。最初に言われた時の感じと、2回目の感じ。感じ方が少し違っていませんか。どういう風に感じ方が変わったか、それを教えて。ほら、自分の感情の中を潜っていくのです。いえ、その、確かに、感じ方は、変わったと思うのですけど・・・・・うん、だから、どういう風に変わったか言ってみて。 いえ、その、慣れていないんです。なんというか、詩の話、ですよね。詩の話をしているのですよね・・・・・ええ、私たちはいつも思ったことをそのまま話さない。思った通りに話さないから、言葉がほら、詩から遠ざかっていくんです。だから、思ったことをそのまま話してみるということ。抑圧を解きはなつということ。 ほら、あなたは別れた妻にとても良く似ている。あの、やめてください・・・・・やめてくださいっていうのは、それは、あなたが本当に思っていることですか。それとも、そう思わなきゃいけないと思って言ったことですか。君が本当に思っていることを言ってみて。ほら、別れた妻にとても良く似ている。私、嬉しくないです・・・・・嬉しくないってどういうことですか。そうか、嬉しくなりたいんだね。私の別れた妻とは違う特別な女になりたいって、今そう思ったということかな。 大丈夫。今、あなたは、僕の目の前にいます。僕の目の中にあなたがいて、そう、僕の目の中を覗き込んでみて。ほら、僕の目の中に、あなた自身が映っているでしょう。 そう、僕の身体を触ってみて。ほら、いま、あなたの右手が僕の胸に触れています。そう、それから胸から肩、肘、腕を触っていって。ほら、僕の太ももを触ってみて。僕の太ももって、案外大きいでしょう。太ももと太ももの間を触ってみて。ほら、ここ、そけい部って言うんだよ。面白いでしょう。そけい部。変な名前だよね。それから、ここの名前はなんていうか分かるかな。えっ。だから、詩の話をしているんですよ。安心して、詩の話、詩の話なんだよ、これは。詩が現在性から生まれるって話を君のためにしてあげているんじゃないか。 今、君は僕の目の前にいる女で、僕は君の目の前にいる男だ。君は別れた妻じゃない。僕の別れた妻じゃない女になりたいって、ほら、さっき、そう思ったんだろう?ほら、ここ触れよ!なあ!ずっと口で咥えたかったんだろう?思ったことをそのまま言ってみせろよ!いいか、どうしてお前が詩に関心を持ちながら、詩を書けないでいるか分かるか?文字は権威だ!お前は権威に受け入れられたいっていう欲望に向き合えてないだけなんだよ! ほら、俺のやつを咥えたかったんだろう?これを咥えたくない女なんていないんだろう?なあ、そうなんだろう?抑圧を解きはなてよ!なんだ、まだ抵抗するのか!じゃあ、俺が思ったことをそのまま言い続けてやるから、その間に、特別な女になるための言葉を見つけ出してみせろよ!分かってるだろう、これはハラスメントなんかじゃない。互いの合意に基づく、詩のレッスンなんだよ。  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  別れた妻にとてもよく似ている  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・  ・       それは老いたるものたちの国    恋人たちは不信に塗れ    鳥たちは唄を忘れ    失われた何かに似ることのない言葉だけが反復する    生を忌避する時代に    詩に似ない詩を詩と見紛うこと勿れ


項目全期間(2019/06/18現在)投稿後10日間
叙情性21
前衛性1211
可読性1010
エンタメ139
技巧21
音韻11
構成1615
総合ポイント5648
 平均値  中央値 
叙情性0.20
前衛性1.31
可読性1.10
 エンタメ1.40
技巧0.20
音韻0.10
構成1.81
総合6.25
閲覧指数:1624.6
2019/06/18 00時07分36秒現在
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コメント数(22)
哀愁亭 (2019-05-31):

とても興味深く拝読しました。 冒頭のイエイツの詩に加え、語り手の独白、「別れた妻にとてもよく似ている」という一行、そして最後の詩のような部分、恐らくそのすべてが本質的な意味での「詩」ではない(イエイツの詩ですら、多分それはかなり「詩」に似ているものであるけれど「詩」ではない)のだろうと思いました。そうすることで見えてくる、というよりもそれは決して見えないと意識せざるを得ないものとして「詩」を描いている。私たちは誰も「詩」など書けない。私たちが書けるのはただ「詩に似たもの」でしかなく、その差異によって、それらが「詩」になり得ないことによってしか「詩」を感じることはできない、と。 でも同時にこの作品は、そのような文脈でこの作品を語ること自体が作品内で描かれたパワハラクソ野郎と同じであり、そこから始まる会話などはすべてポルノ小説のような、あるいは意味のない一行の反復のようなものだ、ということでもあると思いました。お前はここから何かが見えるつもりか?と。 それは、差異をどれだけ反復しても見えてくる本質などはない、という叫びのように感じました。 この作品には何もコメントしないのが正解なのかな、と思ったのですが、なぜかコメントしているのは、多分、結局僕がこの作品に描かれたクソみたいな恥ずかしい「詩人」とそんなに「差異」がないからだと思います。

秋良秋良 (2019-05-31):

 >失われた何かに似ることのない言葉だけが反復する ぐさり、とささりました。 衝撃的でしたので、感想にもなりませんが、ささりました、と伝えさせてください。 ありがとうございました。

survof (2019-05-31):

コーエン兄弟は「ファーゴ」しかみたことがないのですが、あれを見た頃は、ブラックユーモアというのがよくわかっておらず、ただ絵がきれいだな、って感じで、結局雪の白い景色をただただみるために見てたんだな、、とそんなことを思い返しました。うん、多分私の感性は当時とあまり変わっていないし、それにしてもやはり、ブラックユーモアっていわれている作品ってユーモアっていうより、ただ単にブラックの極みですよね、そしてそのブラックをユーモアとするその感性がもう、ただただひたすら底知れず徹底的に何から何まで腐ったヘドロのようにブラックですよね。しかも理性的に理知的にインテリジェンスな抑制が効いていると、なんかもうブラックを通り越して徹底的に虚無です、もう食べ物が砂と石しかありません。読後感が砂利のようです。

花緒 (2019-05-31):

>哀愁亭 さん お読み頂き、批評頂きありがとうございます。感謝しております。 私は、現代詩に関しては、ほとんど関心も興味もなく、それならば、なぜここにいるのかと問われると、作中話者のごとく、なんとなく詩じゃないことを自認しつつ投稿を続けてしまっているという体たらくであります。まあ、あえて、自分を正当化しようとするなら、詩ではないけど、強いていうなら詩に似ている雑文を書くカルチャーがもっと根付いたら、この場はもっと面白くなるんじゃないか、というスタンスでいます。 現状、雑文を楽しんで書く人に対しては、詩に似ているから詩を学びたまえ!という善意のプレッシャーがあるような気がしており、本当に、詩に向かう以外の出口がないのか・・・?などと思ったりしているのです。

花緒 (2019-05-31):

>秋良さん お読み頂きありがとうございます。好意的なコメントを頂戴し、嬉しく思っております。 投稿してから、最後の六行が決定的に失敗しているのではないか、違う処理の仕方があったのではないか、とはたと思うに至ったので、最後の部分への好意的な評を頂き、少しほっといたしました。

花緒 (2019-05-31):

>survofさん お読み頂き、コメント頂戴し有難うございます。示唆してくださった通り、コーエン兄弟のノーカントリーから本作、一部アイデアを拝借しています。読後感が砂利のよう、というのは嬉しい評で、ほくそ笑んでしまいました。ノイズ音楽のような雑文を綴りたいものだと常々考えています。ノイズ音楽は、音楽に似ていないし、少なくとも狭義の意味では音楽じゃないように思われるのと同様に、詩に似ていない、詩じゃないものを書き散らかしていきたいものです。

エイクピア (2019-05-31):

何か、違う領域を繋げる手法を想起しました。ふと、詩と言うものは繋げ難いものを繋げて成立しているのではないかと思ったのです。

柴田蛇行 (2019-05-31):

花緒さん、こんばんは。 ひさびさに花緒さんの作品が読めて嬉しかったです。 どうして嬉しいのかな?と考えてみたのですが、 それはやっぱり花緒さんは既存の詩っぽい感じがしないからなんですよね。 よくあるメンヘラ的なわたしの気持ち聞いてくださいみたいな感じとは違うし、 自然を感じて季節を黄昏れる感じでもないし、 もうわけわかんなくなってる現代アートみたいな感じでもない。 それって「文字の権威」に屈せず、ちゃんと花緒さんが詩ってなんだろうって自問自答している証拠だと思うんですよね。 そういうところがとても良いと思うし、だから嬉しいんだなと思いました。 前置きが長くなってしまいましたが、さて、この作品、まず他人の詩の引用から始まっているんですね。 イエイツさんという方(ごめんなさい、知らないです、なぜ花緒さんがこれを読んだのか教えてほしい) らしいのですが、こういう詩の引用って地獄だなと思うんですよね。 自分の作品と否応なしに比べられるし、ある意味食われちゃうこともある。 この作品はギリギリ、食べられない位置にまで持ってきているとは思うけれど、引用がけっこう作品を引っ張っていっている感は否めないですね。 こういうの、普通の人はビビッてやらないと思うんですよね、でも花緒さんはやる。 そういうチャレンジャーというか、いろいろやってみよう!っていうところがとても良いなと思いました。 さて、中身に関してですが、この男性から女性に対する誘導の文章はまさに真骨頂だなと。 十八番持ってきたなとニヤニヤしながら見てたんですが、このあたりのコミュニケーション方法というか、交渉術というのは本当に面白い分野ですね。 (勘違いしないでいただきたいのは、それは花緒さんがハラスメントをするような人物だ、と思っていないことはちゃんと分かっていただきたいです。) >今、君は僕の目の前にいる女で、僕は君の目の前にいる男だ。君は別れた妻じゃない。(事実) >僕の別れた妻じゃない女になりたいって、ほら、さっき、そう思ったんだろう?(感情の誘導) >ほら、ここ触れよ!(行動の誘導) >なあ!ずっと口で咥えたかったんだろう?思ったことをそのまま言ってみせろよ!(行動の誘導) 事実と誘導を並べると一見筋が通っているように見えますが、事実と誘導に何ら因果関係がないんですよね。 でもちょいちょい事実を入れるとそれっぽく見えてしまう。 しかも誘導の順番を感情→行動にするといかにも論理的っぽく見えるんですね。 単純にこの洗脳らしき何かの構造を見て楽しんでいるんですが、こういうのを詩のなかでサラッとやってしまうところがクールだなあと思います。 さて、ここからはちょっとわたしも言及しづらいところを頑張って話そうと思います。 この手の作品、もし仮にハラスメントを受けた方が読んだらどんな気持ちになると思いますか? わたしはハラスメントを過去に受けたことがないので、そういう方の気持ちは想像することしかできない立場にあります。しかもその想像が当たっているとも限らない。 たぶん、たぶんね、花緒さんはハラスメントという行為に対して怒りを感じている方だと思うんですよ。 だから、読む人によっては、この文章を読んで気を楽にする方もいるかもしれない。 もしくは自分の体験を思い出して、気分が悪くなってしまう人もいるかもしれない。 でもそれって、ハラスメントに関する文章に限らずおおむね全ての文章に言えることですよね。 そういうリスクをどれくらい回避しながら表現していくかっていう線引きってとても難しい。 ここで、わたしの立場をはっきりと言っておくと、基本的には「書いちゃいけない文章なんてない」と思っているんです。 だから、こういう文章を読んだら傷つく人がいるから書くのをやめましょう、だなんて言うつもりは毛頭ない。 けれど、書いた文章の意図が読み手にすべて伝わることなんてないわけですから、少なからずそう言われる方って必ずいるんですよね。 そのあたり、自分自身でも話の落としどころが見つからなくて、花緒さんに逆に聞いてみたいなと思うところでもあって。 まあもっと言ってしまうと、わたしは福祉を学んできた人間なので、ハラスメントを行う人間も受ける人間も、両方とも救う対象になってしまうんですよね。 つまりは、両者とも社会的には弱者であり、わたしはどちらも糾弾できない立場にある。 幼少期に公園で遊んでいて、知らない間にたんぽぽがたくさん咲いているゾーンに足を踏み入れてしまったことがあって、母親に名前を呼ばれても、たんぽぽが踏めなかったので、どこへも移動できずその場で泣いていたことがあったらしいのですが、 性格ってそうそう変わらないもので、ハラスメントをする人間も受ける人間も、それを看過しているバカな人間たちも、誰も悪くなくて、全員ただただちょっとずつ弱いっていうだけで、そう思うと、足元たんぽぽ状態で何にも書けなくなってしまうんですよね。 そういう、誰も踏めずにただ泣いているところから生まれる詩情って、どんなものなのかなとも思います。 それよりも、リスクをとってちゃんと何かを言及する今回のようなものこそが詩なのかな、とも。

かるべまさひろ (2019-06-01):

柴田蛇行さんのコメントに触発されてコメントします。 つくる人は(概ねになりますが、)いわゆる「当事者」がどう思うか、って想像すると思うのです。 実際、この作品はハラスメントを受けた方がどう思うか、ということは想定してつくられていると読めました。 ここからは感想ですが、 花緒さんの文体はいつも平べったい(意味や想定が、筆者の張った網の外には行かないように調整されている)と感じるのです。 結構、僕もですが、言葉を放っぽる作者は多いのですが、 花緒さんの言葉は手放されていない。 ある意味でコントや漫才ネタのような洗練された言葉だと感じています。 ここで読者がこう感じる、と狙っているように、 丁寧に分析できる構造です。 だから僕は上質なエンターテインメントだと思っています。 (語弊はないはずです) 〜〜〜〜〜 「リスクをとって」「言及する」必然とは何か、は常に考えています。 僕の背景を共有すると、 死刑賛成で生きてきたのですが、秋葉原の殺傷事件で 大学の先輩が殺害されてから、その自身の意見の出自がよくわからなくなり、 それでも僕はRADWIMPSの「五月の蝿」が発表された時、 この歌詞を発表まで運んだ人たちの 「想定」を思うと、複雑に受け入れる感情のファンクションでした。 当時のライブで感じた個人的な思いもありますが、 「つくる人が想定をしていない」ことだけはないと思いました。 僕がどのノンバーバルから、それを感じるのか、それを考える必要が確実にありますが… 〜〜〜〜〜 僕はこの作品から、 あーそうそうハラスメントってこれこれ、みたいなあるある感を覚えました。 読者として僕ができることは、 これを発表する必然に対して思いを馳せることです。 REIWAビーレビCUPに参加する名目は建前で、 純粋に構成などの現時点での評価を確認したかった、のではないかと読みました。 構成力にこだわる理由だけがわからないのです。 以前から構成は優れていて、この作品も優れているから(構成に必然を感じるから)です。 新しいことをしてほしいなという読者優位のわがままではなくて、 朗読会の話が出たところで、あぁ花緒マジックだなという 劇団四季を見に行く気持ちになってしまったので、 なんとなく、最初3行とイエイツとそぐわない気がしました。それは伝統芸能として。 伝統芸能の道で後世に残る新作をつくるのは茨の道なので、 小手先のスパイスではなく、 徹底的に構成を鮮やかにした先に新作があるような気がしました。 これは読者優位のただのわがままです。 ただ、この前ずんの飯尾さんのインタビューを読んでいたのですが、 同じことを徹底的に続けたほうが時代がたまたま追いつくらしいです。 時代に合わせて小手先を変えるよりも、 とても潔くて花緒さんの作品は好きです。

まりも (2019-06-01):

こんにちは。 「現代詩」と呼ばれるものを書いていると思う人たちの中に、相変わらず「古典作品は無条件に素晴らしい」「名作は尊敬されるべき存在である」という思いがあることや、「作中話者」は作品の「著者自身」である、もしくは、「著者の真実」の投影である、という根強い幻想のようなものがあって、私小説と垂れ流し的自分語りが混在していること・・・等への、洗練された皮肉が効いていると思いました。 作中から押し寄せてくる言葉の総量が過剰であるという印象があり、比喩的な言い方になりますが、濃厚なベタ塗りの絵画が壁のように迫ってくる感覚がある。過剰であることが与えるエネルギーも作品の性質なのだと言えるのでしょう。 情景の再現性や作中人物の心理の追体験などにも細やかな「誘導」があり、逃げ場のない作品となっていることが、多くの自認詩人たちが書いている「余白の多い」「風通しのよい」「自由な想像の余地のある」作品と袂を分かつ部分であると思いました。

花緒 (2019-06-01):

>エイクピアさん コメントありがとうございます。月末になって、エイクピアさんが登場されるとなんだか安心します。

花緒 (2019-06-01):

>柴田さん 有難うございます。一つ一つ返レスをさせて頂きます。 (1) 既存の詩っぽい感じがしない。ということなんですが、多分、それは私が詩について誠実に考えているから、では毛頭なくて、正直ベースで書くと、単純に現代詩というジャンルへの適性がないからだと考えています。適性がないことを逆手にとって、既存の詩っぽい感じがしないことを肯定するかのようなロジックを入れているので、まあ、あざといですね。最近よくシナリオを書いているのですが、シナリオだと、いとも簡単に、基本に忠実なものを書けるし、書いてしまうので、単純に適性の問題と捉えています。 (2) イエイツは相当有名なネームのはずなので、以前、読んだことがあったのですが、コーエン兄弟が監督した映画「ノーカントリー」で、まさしく当該詩がネタに使われていて、それで改めて読み返してみて、甚く感動したのですね。中途半端に他の詩を引用している作品って大抵面白くないと相場は決まっているわけで、まあ、本作もその例に漏れてはいない気もしますが、私の書いているものは詩じゃない、ときっぱり言っているようで、権威に弱い(有名詩人の作を引用し、理由を明示せず、これぞ詩と言う)という感じも出してみたかったのですね。 ー あと正直に言うと、シナリオ的な、セリフを重ねていく技術だけを使って、且つ詩を引用する、ということをやってみたかったのです。 (3) 代表の詩人のセリフは、私の理解では、交渉術のソレでは実のところ無いですね。カウンセリングテクニック的なものを中途半端に学んで、気持ち悪く使っている感じ、を出したかったのです。例えば、催眠誘導で、「私の声を聞いていると、だんだん眠くなってきます」みたいな文章がよくありますが、ご指摘の通り、冷静に考えると、私の声を聞いていると=事実、と、眠くなってきます=誘導したい内容、って何の論理的連関があるのか、全く謎なんですけど、文章として繋げてみると、多少なりとも連関があるかのような効果が生じてしまっています。使い方如何では、こういうのって気持ち悪い感じがするのでは無いかと思ったのです。 (4) 最初、この作を書き終えた時に、これをビーレビューに投稿したら、「私はここに書いてあるのに似たようなハラスメントを受けたことがある、これを読んでフラッシュバックしてとても嫌な目にあった、投稿を消してください!」みたいな批判が入って、場が荒れかねないのではないかということを思いました。 これに対して、私は下記の3つの返答を準備しています。 <1> 社会的に慣行として許容されている。 ・元ネタにした事象が全く無いというと嘘になるが、フィクションとして書いている。 ・元ネタの有無に関わらず、また、元ネタの凄惨さに関わらず、フィクションとして書くことは一般に許容されている (ex. 現実に起こった殺人事件をネタにした映画、小説などごまんとある。それに対して、被害者の遺族が見たらどう思うかね?などという批評は通常目にしない) <2> むしろ作品化すべきである ・腹立たしい事象、許せない体験、そういうものこそ、作品や批評などの形で表現し主張すべきである ・私自身、詩に纏わる事柄のくだらなさを、掘り下げて、作品の形で、批判している ・本作で傷ついた、というなら、批評として批判するなり、返詩でも書けば良い ・この場の作品を読む人間は多かれ少なかれ表現を志している者であるはずで、であるなら、安易に、傷ついただとか、投稿を消せだのと言わずに、しっかり批判し、言論として提出すべきだ <3>ハラスメントされる側を揶揄するような作品ではない ・被害者側にも非がある、とかそういうセンスの話は一切書いていないはず ・ただただ、加害者側を気持ち悪く書いているだけだ ・むしろ溜飲を下げて欲しい 想定される批判に対しては、この上記3つの論理でほぼディフェンスできるはずで、議論になっても負けないだろうなあ、とは思っているのですけれど、とはいえ、これでは、柴田さんが聞いていることに対する回答になっていない可能性を感じます。 要するに、他者にとってどう説明できるか、ではなく、あなた自身にとって、どう説明しているのですか?と聞かれているように感じるのです。 社会的に許容される理由、じゃなくて、あなた自身にとって許容される理由、を問われれば、下記のように回答します。 <4>知るか! ・ネタにしていいかどうかは私個人の倫理観で決める ・私の個人的な倫理観なので、他に説明する必要はない。  他との関係については、<1>社会的に慣行として許容されている、に戻ってくれ 何か書いているようで、実際には何も書いていないような対応をしている気がするので、柴田さんのアナロジーを使うと、私は、被害者と加害者には格差があると思っているし(タンポポの間には区別がある)、もっと言うと、タンポポを踏むタイプの人間。私の思う優しさは、タンポポを踏まないこと、ではない。一本のタンポポを守るために、残りの草全部を無慈悲に焼き殺す、ことの方が、私の感傷には響く。 私にとって、ハラスメントされる側の人間、は特別なタンポポじゃないんですね。無駄に揶揄したり、矮小化したりしたいとは思わないし、ハラスメントする側の人間とは明確な峻別があるけれど、作品を発表する中でさえも、特別な保護を要するとは考えていないのです。

花緒 (2019-06-01):

>かるべさん コメントくださりありがとうございます。 荒れかねない作品投稿として、叱られることも想定していたし、その場合はすぐさま引き下がろうと思っていたので、有り難く思いました。 (1) 文章が平べったい、文を放っていない、というのはまさしくその通りで、これはもう、意図してやっているというよりは適性の問題ですね。私のような人間が文を放るためには、自分とは違うキャラクターを出してきて、キャラクターに話させるしかない。脳の構造が現代詩に向いていないのだと思っています。 コント、漫才ネタのよう、というのはとても嬉しい褒め言葉です。ありがとうございます。 (2) 公表する必然、ということなのですが、秋葉原の事件は、まさしく人が理不尽に殺されており、どんな手段を持ってしても取り返しがつかない話で、ハラスメントとは、重さが違う話だという気がするので、そのアナロジーの中で語ることは私の手に余る所でもある気がしています。ちょっと違う角度から話をさせてください。 私はツイッター上などで、よく三浦さんを指して、女性問題みうら、などと呼び、イジっています。自分のことをDV花緒と呼んだりして、ネタ化していますし、DV花緒と呼ばれることもありますが、にこやかに対応しています。これはギャグとして、笑いとしてやっている部分もあるのですが、こういうのって必要なんじゃないかなあとも思って、確信犯的にやっているところもあるのですね。あらかじめ、そういう感じの奴なのかも、と分かっていたら、避けられるし、ビックリする量も多少は低減します。例えば、本当のところ、三浦さんは、そんなに「女性問題」みうらじゃないのは私はとてもよく知っているのですけれど、こういう風に言い合って、弄れなくなったらお終いだとも思っているんです。本物の女性問題野郎は、自分のことを、女性問題みうら、と呼称させることを許容しないはずだからです。 この作品に書いているハラスメント者は、あくまでフィクションの存在ですが、もし真にこういうことをしかねない人間がいたら、一番近しいところにいる人間が、セクハラ詩人、とでも呼んで、弄ってあげるべきだというのが私の考えです。それが本人のためにも、周囲のためにもなることだし、そういう弄り方ができないのだとしたら、それができないことに、問題の本質があるように思うわけです。 要するに、作品化したりネタ化したりすることで、予防になったり、いざことが起こった時に、ショックが緩和されたりする効果があるのではないかということなんです。ビーレビにいる人たちは、作品を書き、表現する立場の人が多いわけだから、作品にすることの効能を安易に低く見積もってはいけないと考えています。 (3) 構成力にこだわる理由、なんですが、基本的に、(1)につながるのですが、できることの引き出しが多くないのですね。久々に投稿しているので、以前と明確に違うことができればよかったのですが、好む好まざるとにかかわらず、単純にあんまりできることが多くないのですよ。こだわっている、というよりは、これしかでけへんねん、まあ許してくれ、という感じです。

花緒 (2019-06-01):

>まりもさん コメント有難うございます。批評のほど、有り難く思います。現代詩じゃないし、現代詩に似つかわしくないし、どう考えても現代詩とは繋がっていないけれど、強いていうなら現代詩に似ている雑文としてのクリエイティブ・ライティングを提唱しているところです。これに対して、「現代詩に似ている。現代詩の書き方を学びたまえ」と仰らないまりもさんに感謝します。本音をいうと、正統的とされる現代詩もちゃんと読んだり書いたりできるようになりたいのですけれど。

羽田恭 (2019-06-01):

前半の私小説的な詩と後半のある種の心境が表現されているのかなと思いました。 詩から離れたということを以前おっしゃっていた気がしたので。 それでも詩人や数多くの詩と付き合っていたために、思うところが残っていたのが現れたのが前半。 心のどこかが拒否を示したのか、秩序めいたものを壊そうとしたのが後半。 あってはならないだろうハラスメント場面と、ゲシュタルト崩壊させるかの様に同じ文を延々と続けるのはそういう意図もあるかなと。 そう読みました。 余談ですが。 自分は現代詩を書いている人間に分類されるかもしれませんが、自衛隊と酪農の経験に仏教(しかも原始仏典)に突発的な妄想めいた発想、イメージをもって書いているだけの、完全無手空拳の人間です。 しかも肉体労働の仕事しか就いたことのない、一応理系(食品科学)の。 詩どころかまともに文学すら学んだことありません。教養程度です。 マナーを守りつつ好き勝手書いていけばいい気はします。 深く考えるのが花緒さんのやりかたかもしれませんが。

花緒 (2019-06-02):

>羽田さん コメント、批評ありがとうございます。私は少し現代詩というものに対して意識過剰であり過ぎているのかもしれませんね。羽田さんのコメントを読んで、そのようなことを改めて気づかされました。もう少し、爽やかなものが書けるといいのですけれど・・・。

taishi ohira (2019-06-02):

夏は数字の4と関係しています。 冬 5 7  春 3 夏 4 8  秋 6 という季節の法則があります。

花緒 (2019-06-02):

>taishi ohiraさん 貴殿の書いた季節の法則とやらと、本作がどう関連しているがご説明願えますか? 説明がなければ、荒らしコメントとしか感受しえないのですが。

ふじりゅう (2019-06-09):

拝見しました。 久しぶりに花緒さんの作品を読めて、やはり嬉しい、という感情がまず沸き起こりました。 内容ですが、主人公は女性であり、かつ詩、のようなものを書いてはいるが自身は詩っぽくあるだけで詩ではないのだ、という感情を持っていると分かります。これは花緒さんの、自身の作品は詩ではなく、新しいタイプの文章なのだ、とする価値観と似ている気もします。 続いて朗読会の男が現れ、主人公へ、朗読会へ出席してみないか、と持ちかけます。ここまでは普通です。 そして男の話しぶりが、内容がどんどんとめちゃくちゃな方向へと進んでいくのですが、この描写の切迫感、読者を圧迫する、押しつぶすかのような圧力を表現している所が流石だな、と感じました。 男の言っていることははっきりいって暴論であり、めちゃくちゃであるのですが、妙な説得力と言いますか、納得させられている、心を操作されているような感覚さえします。それは一体何故なのだろう。 イエイツの詩を最後に持ってきているのが、主人公がパワハラを受け、自分が思う詩へ逃げ込んだかのようで面白い表現だと感じました。楽しく読ませて頂きました。

柴田蛇行 (2019-06-10):

追記します。 >私にとって、ハラスメントされる側の人間、は特別なタンポポじゃないんですね。無駄に揶揄したり、矮小化したりしたいとは思わないし、ハラスメントする側の人間とは明確な峻別があるけれど、作品を発表する中でさえも、特別な保護を要するとは考えていないのです。 花緒さんのこの文章に一定の理解を示します。また、 「つまりは、両者とも社会的には弱者であり、わたしはどちらも糾弾できない立場にある。」と記載しましたが、「弱者である」というのは私の完全な偏見であり、事実とは異なることを明記しておきます。 ハラスメントに関しては、加害者でも被害者でもありませんが(今回のコメントで、傷つかれた方がいらっしゃったら加害者となっている可能性はありますが)、そういう事象が実際あるということに関して、非常に心が痛み、苦しみ、困惑し、現在進行形で悩んでいるため、考えがまとまらない状態でのコメントとなりました。非常に配慮に欠けたコメントとなってしまい、不快に思われた方がいらっしゃたら大変申し訳なかったと、ここにお詫び申し上げます。

花緒 (2019-06-11):

>ふじりゅうさん ありがたいお言葉を頂戴しております。ありがとうございます。ツイキャスの方も聞かせていただきました。とても嬉しく思っております。 詩のような、でも詩じゃないものとして書いている、というようなことを言うと、なぜそんなにひねくれているのか、素直に詩を書こうとすればいいじゃん、という批判や反発、たしなめの対象になることも多いのですが、 詩のような、でも詩じゃないものを書いている、って結構、素朴に誰でもそう思うことのような気がしています。その旨を作中話者に託して、主張してみたいと思った次第です。 また、そのような素朴な考えを、捻くれているとしか感受しえない感受性を、コントロール系パワハラ野郎に託して書いてみました。 カウンセリング・テクニックをすごくいい加減に悪用して使っている感じをお褒め頂き、嬉しく思います。

花緒 (2019-06-11):

>柴田さん 追記くださり、有難うございます。本作については、私は批判の対象となって当然と考えています。 弁明するチャンスを下さったこと、感謝しています。 私は上の通り、この種のことはガンガン作品化すべきと考えており、そうすることが、箱庭療法的に自分を癒したり、抗議・批判・決別の意をもっとも強くあらわすことになると考えていますが、他方、批判の対象となって然るべき、という考えも持っています。

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