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わたしの龍   

作成日時 2019-05-06
コメント日時 2019-05-15

わたしが知らないおじさんに出逢ったのは、七年位前のはなしで、わたしは道端で拾われたみたいなものだった。 おじさんは流れ者で、大阪から千葉に身ひとつでやってきたと言っていた。 わたしには家族がいなかったからとてもちょうどよくて、そのおじさんと家族になった。 あまり人に懐かない性格のわたしが、なぜかおじさんには懐いた。 暫くしておじさんは、わたしの家の近くに引っ越してきた。おじさんがよく話すから、わたしもよく話した。わたしの人生の中で一番話をしたのがおじさんとだと思う。 そのおじさんが死んだ。 焼かれた骨の匂いが、おじさんの最期の匂いだった。 わたしはいつも街でそうしていたみたいに、死んだおじさんの骨のあとを付いて火葬場の中を歩いた。 おじさんは綺麗な昇り龍の入れ墨をしていて、「これはいいもんや、死んだらあんたにあげるから、剥いでもらって額になおしとけや。」とよく言っていた。 最期は死んで、龍ごと焼かれた。 喪失。 最期におじさんを見たのは病院だった。 あんなに我が強かったおじさんが、この日は入院生活の苦労を口にはしなかった。 別れ際、夕飯だからと食堂に行き、車椅子ごと無造作にテーブルの前に並べられたおじさんは、病気でやせ細った手をずっと振りながら、わたしが見えなくなるまでこっちを見ていた。それが死ぬ三日前のおじさんの姿だった。 おじさんが手ばなさなかった携帯電話は、なぜか通話ができない状態になっていて、何度も病院に呼びつけたくせに、ただ一度の今際にはわたしを呼んでくれなかった。 あまりに急に心臓が止まり、誰もがおどろく呆気ない最期だった。けれども、長い入院生活を予期して不意にいなくなるその潔さが、もっともおじさんらしくてやりきれなかった。 わたしは何かできたのだろうか。もうなにもかも、嫌になったりした。霊安室の外、冬になりかけている空が高くて青かった。このときに、それでもこの日を生涯忘れてはならないと強く思って、空の写真を撮ったりした。 骨になった知らないおじさんは、なぜかわたしの家にきた。納骨までの間、わたしと過ごすことになった。わたしにはもうこれがあのおじさんだという気持ちもなくなって、そもそも赤の他人の、しかも骨だなんて、わたしにはどんな意味があるのだろうかと思った。そういう訳で部屋の片隅に荷物みたいに骨壺を置いていたら、主人に諌められた。そこで、かけがえのない人であったことを思い出した。だから骨になった今、無縁のわたしの家に来ている。そういえば、おじさんはこの半年で二十キロくらい痩せたのだった。そのまま死んだのだった。わたしはおじさんの死後、人前ではあまり泣かずに過ごしていたのだけれど、おじさんの好きなおまんじゅうを「棺おけに入れてもいいですか?」と葬儀屋の係りの人に聞いたそのときに、ポロポロと涙がでたのだった。入院中はカステラとりんごジュースをほしいと言っていたけれど、病気だからと最期まで食べさせられなかった。いま、わたしの家ではおじさん専用のとてもよい場所をもらって安置されている。食事のときは一緒にごはんの湯気をたべている。「死んだ人間は湯気を食べる。」と聞いたときに、なんでそんな酷いことをと思った。病気が治るようにと神社にお守りを買いに行ったときに「病気が治ったらお守りを納めに来てください。」と言われて、悔しくて泣いたこともあった。 現実がどこからかどこまでかわからなくて、わたしはずっと浮ついている。 「しっかりせえよ。」と、よく言われた。「あんた、しっかりせえよ。」と、よく言われた。春には春を教えてくれた。夏には夏を教えてくれた。秋も冬も教えてくれた。わたしには春も夏も秋も冬も、もうずっと来ないのかなと思ったりする。こういうときに「しっかりせえよ。」と、言ってほしいと思ったりする。 声が聞こえればいいのにと思ったり、むかしそのように言われた声が、はっきりと頭の中にあったりしている。


項目全期間(2019/07/20現在)投稿後10日間
叙情性190190
前衛性1111
可読性11451145
エンタメ2525
技巧2626
音韻11
構成103103
総合ポイント15011501
 平均値  中央値 
叙情性11.92
前衛性0.70
可読性71.61.5
 エンタメ1.60
技巧1.60
音韻0.10
構成6.41
総合93.811.5
閲覧指数:2111.0
2019/07/20 14時58分15秒現在
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コメント数(17)
鈴木 海飛 (2019-05-06):

誰かが死んだとき。 その死んだ人が自分のなかに生きるなんて言葉は映画の台詞で使いふるされてきたかもしれませんが、 この「体験」がなぜ廃れず、続いてきたのか ふと、昔かんがえたことがあります。 いや、嘘つきました。読んで今考えました。でもなかなかの自分を納得させる言葉なので続けます。 私のまわりも結構人が死にます。 そんなとき死を考えると 死のイメージは膨大で自分の手には収まることも いや、視界にもおさまりきらないほど大きく、重たくのし掛かってくる空みたいなもんでなかなか怖く、手強いですが 死んだ人の癖や言葉が映像と声で聞こえるとき 死が重たいとか膨大さ、恐怖を感じることは少なくなり、なんとなくつかみきれない死、恐怖もすくなくなります。突然だったけど、それはそれで良い別れかただったからかもしれませんがね。 今から書くことはものすごく分かりにくいですがなぜ死んだ人間がこころのなかにあると力が湧いてくるのかそれは謎でいいのかもしれませんが こんな風に思いました。 宇宙全体ほどのつかみきれない死が、誰かが死んだときに私の心で生き続ける死になって、 まるで自分の分まで死んでもらったかのように、死の大きさがコンパクトになった感じがあるのです。 まだつかむことも知りえることはないでしょうし、 コントロール出来ることも無理な死ですが コンパクトになった。 その体験は仕事では役にたちませんが生きる私にはずいぶん死によって活かされるときがあるのです。 いや、ほんと。

武田地球 (2019-05-08):

鈴木さんこんにちわ。長いコメントありがとうございます。まだ生きています。 わたしも死によって活かされることはあります。よくわかります。 さいきん、わたしにとっての死とは、重なったレイヤーのちがう世界にいったみたいなものに感じます。いまもパソコンを打っていますが、死んだ人はいるのです。わたしからはもう見えない。声も聞こえない。けれど、いるのです。となりにいるのです。いまここにいるのです。 たとえばいまわたしが泣いていたら、それを隣で見ているのです。二度とまじわらない。けれどいるのです。 投稿と関係ない返事になりました。そのうちまた詩を書きたいです。そのときはご指導よろしくおねがいします。

芦野 夕狩 (2019-05-08):

武田地球さんこんにちは。 >現実がどこからかどこまでかわからなくて、わたしはずっと浮ついている。 なんだかすごく懐かしい感覚を呼び起こされました。僕もずっと現実ってよくわからなかった。これ大袈裟な話じゃなくて、高校生のころ、つっても不登校で、なんかかっこいいグレかたを知っていたら良かったけど、特にそういうこともなく、とてもシンプルに引きこもりでした。一番ドラマチックではない感じで。その時って大袈裟じゃなく現実から(自分の身体の何かが)だらっとはみ出していて、朝、目が覚める意味が本気でわからなくって。 そういう時、拾ってくれるのって身内や、友人ではなく、他人だった。僕の場合も。 その人と会ったり、話すときだけ、なんというか現実にピントが合う感じがして、でもそれが今まで目を背けてきた現実とはまるで思えないくらい居心地が良くて不思議でした。 この作品でいうところの「しっかりせえよ。」 なのかもしれないなって。僕ら、実はずっと浮ついてて、誰か(きっとそれは他人が一番良い)というフィルターを通してのみ現実と繋がっていられるんじゃないか、って。そういう風にずっと考えてたこと、その人に感謝していたこと、その人がもういないこと、を思い出していました。 ありがとうございます。 あしや

花緒 (2019-05-09):

もはや現代詩への興味関心をほぼ失っている私ですが、そんな私でも、読んでみようかという気になるし、読んだら読んだで、しみじみする詩情を感得できたので、中々それは素晴らしいことなのではないかという風に思いました。 構成が良い、と思います。なぜ、みんな構成にポイント入れないんだろう。。。 今ここへの繋がりが希薄な、現在性が希薄な生を生きている作中話者を、しっかりせえよ。と叱る、おじさんには、龍の刺青があり、龍という今ここには絶対に存在しないものを刻印して生きているおじさんは、生きている時から、どこか社会から浮遊した存在なのかもしれず、その脱社会性が、作中話者を引き付けたのかもしれませんね。 というか、脱社会性を通じてしか、他者と繋がることを想像できない作中話者、と読むべきなのかもしれません。 作中話者は、家族はいない、と言いつつも夫はいるみたいだし、そういう感性に対して、全然、内省的な文が見当たらないことからして、「社会性を通じては、他人と繋がれないという矛盾。脱社会性を通じてしか他者とつながることを想像できないという矛盾、その矛盾を綴っても、詩にしかならない(物語にはならない)」みたいなことを思いました。

武田地球 (2019-05-09):

芦野夕狩さん おはようございます。 何かとつながることで、わたしはその世界の登場人物になれるような気がしています。 いつもとすこし違う冒険ができるような、そんな気がします。 頂いたコメントをよみながら、もしわたし高校生の頃の芦野さんに会ったら、コンビニエンスストアの新商品の話とか、とにかく本当にどうでもいい話を聞いてもらいたいとおもいました。 こちらは今日はすこし風が強いですが、これから暖かくなるそうです。 今くらいの季節、春と夏のあいだがわたしはすきです。ときどき誰かに教えられるようになったらいいなと、思っています。 芦野さんのエピソードを含め、コメントとてもうれしかったです。今度は詩を書きたいのでそのときまたお会いできるようにがんばります。

武田地球 (2019-05-09):

花緒さん おはようございます。 いつもながら花緒さんの分析や批評をよませていただくことで、自分としてもあとから気がつくことが多く、大変勉強になります。まずはコメントいただき、ありがとうございました。 (わたしにとっては)長い文章で、自分で読んでもひっかかりが無いです。その他とくに技巧といえる技巧は無い文章だと思います。 褒めていただいた構成については、あたまの中での時系列をできるだけ丁寧に順番にとりだして、そのまま並べました。詩情を感得できたと花緒さんが言ってくださったのが、何より嬉しいです。 それからわたしはこの文章を詩だとは思ってはいなかったのですが、花緒さんは詩にカテゴライズしてくれたのですね。 詩とは何か、物語と詩の違いは何かを考えてみたいと思いました。考える機会をいただけたことも本当にありがたいです。

佐久 乱 (2019-05-09):

武田地球さんの言葉には、どんな形であれ詩情に包まれていると感じます。 過剰な飾りが一切なく、誠実な言葉だと感じます。 無邪気さと冷静さを併せ持ち、そこに離人感が混ざり、「わたし」は物事との距離を縮めたり離れたりする。 私にはその感性に、心を揺さぶられています。 >骨になった知らないおじさんは、なぜかわたしの家にきた。 ここで「わたし」が、スッとおじさんから距離をおく。 「わたし」にとって「特別」であった「おじさんの骨」なのに。 生きている「おじさん」と「おじさんの骨」とすぐにはイコールにならない。 これが入ることでこの詩は生身になっていると感じました。 私の欠陥脳では、分析なんてできないけれど、 つまるところ、私は武田地球さんのファンなのであります。

武田地球 (2019-05-10):

佐久 乱さん こんにちわ。 わたしはインターネットで佐久 乱さんの詩に出会ったときに、研ぎ澄まされた言葉がびっしりと間を置かずに並んでいてとてもとても美しいと感じました。こちらこそ、佐久 乱さんのファンです。ここでこうしてコメントを頂けたことが本当にうれしいです。 この文章は心の中にあるものをなるべくそのまま書きました。だからこそ読み手に取ってはおもしろいものなのかどうかもわからないのですが、何かを感じ取ってくれたならとても幸せなことだと思います。 いつまでも、わたしはわたしでいられたらいいと思うのですが、なかなかそれが難しかったりして、日常では離人感ばかり強くなってしまうことが多いです。なんとかテキスト上ではバランスを取れたらよいのですが、詩や文章もいつまで書いていられるかも全然自信がありません。 なので佐久 乱さんとお会いできたこともとても大事に思います。ありがとうございます。 頂いたコメント大切にします。

アリハラ(マッキンゼーアンドカンパニーの人) (2019-05-11):

散文詩を書く覚悟があなたには徹底的に欠如している。緊張感の弛緩した言葉によって日常から非日常への断絶をコントラストの効いた意外性と跳躍が一切垣間見られない。平易な言葉を用いて散文詩を書くなら、それを裏切るほどの強度のある場面展開が必須。とりあえず、身内からポイントを貰ってコメントで褒められることよりも芸術、詩の勉強を開始することをお勧めする。この日本的小状況、甘えの構造は端的に芸術を堕落させる。貴君の連なる言葉には強度がない。そこは反省すべき。ただ、ツイッターで繋がる仲良しと馴れ合ってる場合じゃない。真剣に詩を書きましょう。

帆場蔵人 (2019-05-12):

龍を背負っていたおじさん、という存在はすこし世間からは浮いた人生を歩んでこられだろうと思います。でもそんなおじさんも死ぬ、ということは変わりないし生きてきた、その証にしっかりせえよ、という言葉を語り手に残してくれた。焼かれたおじさんは本当の龍になって自由になれただなんて勝手な読み方かもしれないけれど、どうか許して欲しい。 すみません、ぼく自身の人の死に触れる機会が多くて読みながら非常に感情移入してしまいました。 この作品はエッセイだと感じましたが、散文詩だとがエッセイだとか枠組みを考えること自体に意味はなく、確かに詩情があり感傷的な部分はあるにせよ、1人人の人生と向き合われた作品だと思いました。ありがとうございます。

仲程 (2019-05-12):

そう、確かに詩情が、と帆場さんにのっかってしまいます。心の面からのリアリティっていう感じがします。

武田地球 (2019-05-12):

アリハラ・リョウさん はじめまして、こんばんは。コメントありがとうございます。 まずはじめに、真剣に詩を書く、それはわたしには難しいかもしれません。わたしは詩はそれなりにすきですが、周りにいる尊敬する詩人さんたちのように生きるつもりがありません。有名な詩集もわたしには必要ないし、詩を勉強しようという気にならないのです。 説明するのも躊躇われることですが、わたしは散文詩を書いたつもりありません。 去年の11月にわたしに起こったことをそのまま作文して投稿しています。 読んだ人を満足させるために書かなければいけないという規則があるなら、わたしが悪いと思います。ごめんなさい。人に見せられないようなつまらないものを投稿するな、というなら全くその通りですが、そこまで低俗無価値とは思ってはいないから投稿はご容赦ください。 ただアリハラさんのおっしゃっりたいことは、よくわかります。 ポイントについては、ある人物がひとりでこの投稿に1100点いれたとツイートしているのを、わたしはみました。 その時にわたしは大変にがっかりし、とても嫌な気持ちがしました。 今回頂いたコメントのようになるのが予想できたから、不安もありました。 その人物とは懇意にしておりますが、なぜそのようなことをしたかは、聞く気もないから知りません。 この文章に書いた通りに、わたしにとってはすごく大きな出来事でした。わたしにとっては、自分の気持ちを整理するために必要なことばでした。 わたしからみてもある種の理不尽なポイントにさらされたのは、わたしが詩人や表現者でないとしても、全く不本意でしかありません。 1100ポイントいれた人間にクレームを入れようと思ったこともありました。ただ、何かの思惑の場に引き摺り出されたくないから、それもやめました。 ビーレビのポイント制が現在の仕組みになっている以上、その人物だけを責めることもできないからです。願わくば、こういったイレギュラーな事例を踏まえて改善をしていただき、よりよい詩の投稿サイトになって頂ければと思います。そのためにはアリハラさんのような真っ当なご意見が必要だとも思います。 個人的には久々の投稿で、わたしもがっかりしてますので、これ以上はあまりはなせることはないです。 わたしはツイッタで楽しくやらせて頂いてますが、周りの詩人さんたちは詩に誠実で立派な方ばかりです。なので今回起こっている現象は、アリハラさんのコメント中にあるようなツイッタ上の詩人の馴れ合いどうこうというよりは、1人の人間の出来心か悪戯心だと理解していただきたいとは思ってます。 その他、詩や表現に関するアドバイスはわたしが本当に詩人や表現者を目指すそのときのために、ありがたく頂戴いたします。 おやすみなさい。

武田地球 (2019-05-12):

帆場蔵人さん こんばんは。コメントありがとうございます。 死に対峙されることがおおいのですね。 人間はいのちをめいっぱい、悩み苦しみ足掻き、最終的にはそれらから自由になるから、死ぬのはさみしいけれど、よいなあとは思います。 エッセイとか詩とか、枠組みはわたしにもわかりません。 ただ、ことばには何らかの価値があることを信じているし、歴史もそれを証明しているので、時間も空間も越えて、だれかに届いたらいいなあと思ったりはします。 共感してよんでいただき、ありがたいです。 少なくともこの文章の中でおじさんが龍になったこと、そのことに価値があることを、わたしも信じます。

武田地球 (2019-05-12):

仲程さん わたしは詩を書いたつもりはないし、この文章にはいわゆる解釈の余地とか、余白がないと感じます。 けれど詩情を感じていただけるならば、大変うれしいです。 夕焼けは詩を書きませんが、わたしには詩人です。その感覚を大事にして、これからも生活をしていきたいです。

武田地球 (2019-05-12):

追記 仲程さん コメントありがとうございました。

るるりら (2019-05-14):

思うままに感想を書かせていただきます。 この詩に「知らない おじさん」の知らないっていうことが どのような距離感について拝読しながら手探りで手繰り寄せながら読みました。 「知らない」と表記されている部分が 手探りの私には貴重な手がかりでした。 「知らない おじさん」と知り合いになり、「知らない おじさん」と家族となる。家族となったとき」 普通ならば、 知っている おじさんになるはずですであり、おじさんが 病になる。そのときのおじさんは 知らない おじさんのままであるはずはないけれど、おじさんは 自身の臨終に 話し手を呼ばなかった。話者は どうも別の人と結婚している。骨になった「知らないおじさん」のことを話し手は「知らない おじさん」と呼びつつも かけがいのない人となっている。 かけがえのないしらないおじさん。 知るとは、なんだろう。知るなんて限界のあることへのこだわりの向こう側に、ほんとうが ある。と、私はこの作品に 教わりました。 良い詩だと思います。計算できない人と人との心に支えられている深さが、この作品にはある。この詩が拝読できてよかったです。

武田地球 (2019-05-15):

るるりらさん いただいたコメントを読みながら、私は日頃、知ろうとすることばかりで疲れてしまうような、そんな生き方をしてしまうことがあるな、と気付きました。 空が青いのをみて、ただ空が青いと思いたいです。あれこれ考えるよりも、その一点を見つけたいです。 手繰り寄せながら読んだと書いて頂いたとおり、だいじに読んで頂いたのがよく伝わってきました。こうして、詩やコメントを通じて、何かを共有できることが、本当にありがたいです。

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