オー　バイシクル！

花粉と血にまみれた長靴型の国は、五百年前もやっぱり長靴の形だった。フィレンツェかミラノかもう忘れたけれど、そのような街の一角で、ある晴れた秋の日、一人の男があり合わせの紙に走り書きをした。夢見る少年の眼差しをした左利きの中年男。器用に二つの輪を描き、三角形や菱形でその輪をつなぎ、座席やハンドル、それにペダルのようなものまでつけた。名付けて「ビチクレッタ」。風を切って軽やかに走る、人力走行二輪車。もう馬も輿もいらない。これぞ人類理想の乗り物、そう思ったけれど、夢見る男はやがて空飛ぶ機械に夢中になり、その二輪車のことはすっかり忘れてしまったそれから三世紀余り。幾多の動乱をくぐり抜けて、世の中が少し平和になったころ。人々の頭の中でぶくぶく発酵し続けていた理想の乗り物は、突如形を得て世界中に広まった。不滅の諮問探偵は美しい自転車乗りの謎に挑み、ネオリアリズムの巨匠は自転車を盗まれた親子の一日を描く。ロックのキングもクイーンもバイシクルをこよなく愛し、銀行強盗だって、そうさ、雨に濡れても二人乗り。かくして人力二輪車は、二度の悲惨な大戦を、流体化革命やオイルショックを、エレクトロニクス時代を、あっさりと駆け抜け、満月の空に高々と舞い上がる。馬車とベンツは紳士の乗り物。裸馬とフェラーリは戦士の乗り物。そして自転車は、詩人と恋人たちの乗り物。だから今日も風の中へこぎ出そう。次の角を曲がって東へ、陽のあたる川岸へ。それから黄昏の迷宮へ。懐かしい匂いをたっぷり吸いこんで、いま一度、新たな物語の始まりへ。

オー　バイシクル！　ポイントセクション

作品データ

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作成日時 2019-03-30
コメント日時 2019-03-30

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