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ネット戦争の方法論
ネット上の論争は"好感度"の奪い合いであって、論理の正しさに価値を置かないことは みなさまはすでにご承知のこととおもいます。 つまり、学術的な討論はべつとして、いわゆるネット論争とは相手の欠点や弱点をみつ けて互いに罵りあうこと、 すなわち足の引っ張りあいであって、より強く足を引っ張ったほうが勝つのですが、 その足の引っ張り方が上品かつ優雅でなければいけないのです。 だから反論しないで黙っていることのほうがおうおうにして戦いに勝つことがある。 とはいえ、ここ、なかなか難しいんですよね。 わたしのような周囲の目線を気にする小心者は相手の言いっ放しを許せないというか そのまま放置したら閲覧者からバカにされるんじゃないかとおびえて いつまでも反論してしまう。 しかも相手がわたしと同じような小心者だと反論の連鎖が永遠につづくわけです。 でも、こうなってしまったら二人とも完全にネット民の好感度のアンテナから外されて しまいます。 要するに面白くもなんともない"荒らし"とみなされる。 たとえ論争相手がじぶんの急所を突く論理的に正しい反論を行ったとしてもぐっとこら えて(勇気がいりますが) 相手の傲慢さや居丈高さをそこに残し、あとは沈黙する。 すると黙っていてもどこからか助け舟が来ることもあるし、そうでなくとも 好感度は沈黙を守った方に傾くことがあります。 いくら理屈が正しくてもネット論争では、だれの目から見ても強引で傲慢な態度を見せ たほうが敗けです。 つまり言い負かしてやったと鼻の穴を広げていても、沈黙の声は「あいつはダメだ」 「あいつは相手にしちゃいけない」となる。 そういう特有の怖さとおもしろさをネット社会はもっている。 前回、Colabo騒動を投稿にあげましたがColabo側弁護団7人はみなさん自信満々だった。 おれたちは頭がいい、 専門知識もある、だから一素人市民など、おれたちが記者会見を開いて恫喝すれば一瞬に して吹き飛ぶだろうと信じ切っていました。でもこれが最大の敗因でした。 ネット民たちから総スカンを喰らった。 弁護団がもし、礼儀正しく愛想よく、暇空氏の疑念もごもっともです。今回の一件は Colabo側の説明不足が原因でございまして、これから暇空さまを交えて 暇空さまの得心をえられますまで丁寧にお話ししたいと思います。世間に向かって そのような低姿勢の声明を発していたら、 かれらは暇空さんに勝てたのです。ところがその逆をいってしまった。最悪の選択をしてしまった。 つまり暇空さんをバカにし、かつレイシストのレッテルを貼り、恫喝してしまったのです。 これ、最悪手です。 その結果どうなったか。 その寸前まで暇空氏は登録者数2百数十名でしたがあっというまにフォロワーが12万人 に増えた。 それどころか、暇空氏がこの弁護団との戦いのための寄付をネットにつのるとわずか24時間で カンパが数千万集まった。 最終的には7200万までいったとわたしは聞いています。 でも弁護団が腰を低くして、やさしく、親切に(たとえそれが業腹な忍従の演技であれ) 暇空氏に接していればこんなことにはならなかったのです。ネットの若者たちが暇空氏に味方したのは Colabo側弁護団の居丈高な態度への反発だった。 つまりColabo側弁護団は"好感度"についてまったくリテラシーがなかったのです。 この7名、全員、共産党系の自由法曹団を主体とする弁護士だったと聞いていますが、 これで共産党は多くの若者たちからの支持を失ったことは明らかです。 ひさしぶりにnoteというサイトを開いてみるといきなり「共産党にはもう二度と投票しない」 という記事にぶつかりましたから影響はかなり広範囲に広がっているような気がします。 しかし一向に、自由法曹団は自分たちの瑕疵に気づかず、2日前にはもっとひどい傲慢さで、 「レイシスト」「ナチ」などと、監査請求をしただけの一市民である暇空氏を罵倒しています。 さらに、21日には、なにひとつ事実関係を確かめもせず朝日新聞がColaboへの集団暴力と書いている。 もはや新聞テロの類です。朝日の記事は、 なんの根拠もないただのデマ、罵倒のたぐいなんですが、暇空氏のイメージを汚染できたかというと、 逆に、さらなる反発を招いてますます墓穴を掘っています。 「弱者救済支援」「貧困者救済」などといっているサヨク・リベラル系の思想をもつ方々に限って こういうキャンセルカルチャー(だれか憎い敵を定めると一切の対話を拒否し、いっさいの話し合いを拒絶して、 相手を人間扱いしないでシャットアウトしてレッテル張りをする)を平気でやらかす。 ふだん、やれアウシュビッツがどうの、アノルドがどうのといって、生命倫理などを語る方に限って 、その投稿にちょとでも批判的なコメントをすると 有無をいわせず対話を拒否し、熱いトタン屋根の上の猫みたいに毛を逆立て おれの作品にいっさい触れるな! おれの顔をみるな、おれに話かけるな、おれの作品の憶測も するな、おれの作品の例え話もするな!とわめきたてる。 あなた、それ憲法違反だよ、表現の自由への侵害ですよといってもケロンとしている。 普段すばらしい建前を語っている自由法曹団と同じく、この手の方々はいったん不快感をもてば 一切の対話を拒否して、デマを広め、即座に分断と対立を煽るのはなぜなのか? おそらく頭も良いし知識も豊富なのでしょうけど、残念ながら「ゆとり世代」にありがちな 幼稚性が原因なのじゃないかとわたしはみています。 精神的におとなになっていない。そういう人間が表面的には難解な詩の解釈をしてみたり、 かってに奥深く構えた詩を書いている。そういう時代になってしまった。 これは時代の癌のようなものなので本人たちにはどうしょうもなく、また救いようもありません。 どこまでも奈落に落ちていく仕組みがこの国にもう出来上がってしまっている。 ......脱線してしまいましたが こういうことはお恥ずかしい話ですが何度も転んだり、ぶつかったりして怪我の痛みを こらえているうちにわかってきたことです。 人道的にも正しく、論理的にも正論をいっているのに、なぜだれも聴いてくれないのだ。 なぜだれも味方になってくれないのか。おかしいじゃないか。おれは間違ったことなどいってない。 それなのになぜ人気がないのだ。その謎を探っているうちにぶつかった真理でした。たとえば こういうことがありました。 ある方に非常に辛辣できついコメントをしてしまった。さあたいへんだ、でも、もう書き直せない。 とはいえ自分では正しいことを論理的に書いたつもりなので相手から厳しい反論にあっても ちょっときついことをいいすぎましたと素直に謝ればいいだろうと考えていた。 ところが相手の方の返信はただ一行、 それはそうなんだけど、しかし...... だけだった。 これは、あっ、やられた。やっちゃったと思いましたね。 だれが読んでも閲覧者の好感度は柔軟な受け答えをしたこの方のほうに傾いたはずです。わたしがいくら 正しいことを論理的に言っていたとしてもわたしの完敗です。わたしもその返信をみた瞬間に 敗けたとおもいました。 基本的にはいつも柔軟な心をもってやさしく丁寧に相手に接していれば ネットでは支持者や味方が増える。 わたしはそういう策略をとったことはありませんが策を用いて相手をわざと怒らせたり わざと傲慢な態度にもっていくこともできるでしょう。そうすれば完璧です。 とまあ、 こういうことがわかっているのに、わたしはこのようなネット戦略をあまり使ったことはありません。 意識的に無防備になって 気の赴くまま相手に対応しています。 ときどき、ほんとうにときどきですが、相手が少し傲慢で横柄になったなと感じたとき、 持論のテストのつもりでわざと反論をしないで放置することがあります。 相手は反論できないわたしをやりこめたと満足しているだろうなと想像しながら じっと原酒が醸成されるのを待つように時間がたつのを待ちます。 すると、たいていわたしの味方が増えているのです。これ、ほんと不思議なんですよね。 ネットの動きというのはまるで霧や靄の予測不能な動きのように動いていきます。 ......こういうことがわかっていて、しかし、なぜわたしがいつも敗けを選ぶのか。 つまり戦略や戦術を使わないで裸のままのじぶんを押し出してしまうのか。 おそらくこうでしょう。わたしはサヨクリベラルのように正しいことが正義だとは思っていないからです。 わたしはあまり正しくなくとも弱いことが正義だと思っています。弱いといっては語弊があるかもしれませんが、 弱いところにいつも正義があるとおもっているのです。つまりわたしはいつでも少数者の味方でありたいと願っている。 かっこつけるなと批判されそうですが、これがわたしがわたし自身ではどうしょうもない 宿業のようなものだとあきらめています。 以上、このような文章がどうしてくろかみさまの批評文への推薦批評になるのか 首をかしげる方がいらっしゃるかもしれませんが、わたしなりにくろかみさまとコメントのやりとりを しているうちに、わたしの至らなさに気がついたことでございまして、 自己反省をこめて書いてみました。 乱文乱筆失礼いたしました。
作成日時 2023-01-24
コメント日時 2023-01-25
ネット戦争の方法論 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 511.3
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拙文への批評をありがとうございます。 国際関係がなければ国や政府は必要ないと思うのですが、また同様に皆が友なら自我も必要ないと思うのですが、そういうわけにもまいりません。 詩は文化なので、思想はあまり関係がないと思います。共に人気作品を目指して参りましょう! 思想について熱く語れる場があることは、本当に楽しいことですね。欄をお借りしました、ありがとうございます。
0くろかみさま、お読み下さりありがとうございます。 思想について熱く語れる場があることは、本当に楽しいことですね。 おっしゃるとおりです。同意致します。 ただし、思想学と思想とは違うと思うのです。 既存の思想家の思想を語るのは思想学であって、それは思想ではない。 思想とはその各々の方の思想を その各々の方々の経験や生き様を通して語ることであって、有名思想家の思想を 聞かされるようなことがあってはなりません。そういう思想学をわたしは必要としないし 興味も関心もないです。たとえどれほど稚拙であれ、ある人の生きざまや経験体験から 出た独特の思想なら たのしくお聞きしたいものだとおもっています。これは詩にも批評に対しても いえることで、既存の思想家の一視点をもってねじこむようなことは良としません。 そのかたの稚拙であっても独特の批評を聞きたい。わたしがもっている考えです。 黒髪さまも同じだとおもっています。どうかよろしくお願いします。
0平等という理念を達成できるようになるところに国家というものの意味があると思います。個人においては平等を実践できるのはほとけさまくらいです。平等からこぼれ落ちる人々は国民ではないのかもしれないです。富の不平等と財産権をどうするかというところ、経国済民の実践は、努力がいりますよね。
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