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犬(いぬ)論
わたしは本を読まないから 世間が「反知性主義」をどのように語っているのか知らない。 わたしの「反知性主義」はたぶん独特の偏見をもっていると思う。 知性というものを基礎づける源流は古代ギリシャの思想哲学にある と考えられている。 実際そのとおりで大雑把にはギリシアのイデア主義=知性といっても いいとおもう。 その流れが現代にも続き、 広汎かつ膨大な観念の産物=西洋の哲学思想が生まれた。 しかしギリシャには奴隷がいた。 農民であっても土地を持つ一握りの人たちが"市民"と呼ばれ、自由な日々を満喫し 演劇や哲学思想に惑溺していたが、 プラトンらの理性が奴隷について倫理的に考察した記録はない。 では知性の埒外に捨て置かれたギリシアの奴隷たちは自分たちの苦悩を どう表現しただろう。 今と違って知能の選抜試験などなかった時代だから奴隷のなかには知能 優秀な奴隷もいたし、 感性の豊かな奴隷もいた。かれらはかれらの抑圧され。収奪された命の日々を どう表現しただろう。 読み書きはできなかっただろうから、かれらの苦悩の表現はおそらく歌や踊りに 向かったのではないだろうか。 つまりそこに芸能の発生が推測できる。 もっといえば歌と踊りの源流は奴隷や下層農民漁民や流浪非人という存在から 始まったと考えられる。 プラトンとそれにつづく中世から近代までの哲学思想家、ルソーだのカントだのがどれほど立派そう なことをいっても、 イデア主義は観念の世界に向かい、 しょせん、他者の痛みに目を向けることはなかった。 とはいえ、知性の始まりがギリシャであるとするなら反知性主義もギリシャから始まっている。 それが侮蔑的に"犬儒主義"と呼ばれる哲学思想、つまり、他者に思いをよせない 頭でっかちのプラトンらを批判して 自ら乞食や奴隷に落ちぶれた賢人たちである。 かれら「犬」と蔑すまれた賢人たちの思想をみれば「反知性主義」のすべてを 語り尽くしているといってもいい。 (とはいえ、犬儒主義者たちの行いも、結構演劇的であって王の歓心を買って悦に入っていた というイデア主義者側からのフェイクがあるがわたしはそういう逸話は信じない) わたしにいわせると犬儒主義者の彼らこそ知性の人であり思想家だった。 とはいえ哲学思想は知性つまり知的能力にすぐれた特権的な階級の人々の独占的な専有領域であったから 世界の賢人たちはじぶんたちを批判する勢力を怖れ、かれらを犬扱いした。 ほんとうの倫理学はかれらこそが生み出したのに、イデアしか語らないプラトンらが 奴隷の立場や苦悩をかえりみず頭だけで「倫理」を語るなど、 まさに笑止であった。 考えてみれば詩とは本来、イデア的なものではなく犬儒主義を背景にした血と汗と肉が地に根をはやしたところから 生まれたものであるはずだった。 「一本の木にも流れている血がある そこでは血は立ったまま眠っている」 寺山修司のことばだが、詩とは本来、イデア的なものではなかった。詩とは地に根を張った生まみの血なのだ。 詩はむしろ過剰な知の侵犯(「イデア主義」の侵入)を怖れるべきであった。にもかかわらず 戦後の日本の現代詩は東大卒や有名大卒の詩人たちによって どこまでもイデア的な知的過剰によって大衆庶民からかけ離れていった。 あろうことか、難解な数学的、推理的な知的アクロバットがまるでなにか高尚な詩の条件のごとき錯覚を生み出し、 また知的な詩人たちがそれを自画自賛するという隘路へ自ら落ちていった。 (「詩は知的ゲームだ」) わたしが、そういう詩はコロナ─ウクライナ以後、もう破産したのだよというのは つまり時代遅れだよというのは、そういう詩の背後にいたはずの知性つまりイデア主義が 現実の前に無力どころか、コロナ─ウクライナでは、自ら殺戮や犯罪に手を貸して、 知性というものへの信頼があとかたもなく徹底的に壊滅してしまったからだ。もう、あなたがたには出番がない。 いまも知性が詩を専有していたむかしを愛おしんで、とうに破産した古びた難解詩に小さな自己満足の灯火を得ている人々がいるが わたしは哀れと失望を覚える。 もう地球はそんなところにはないのだ、 これが、わたしの反知性主義、犬の思想の大雑把ですが。なんの参考文献も見ず、 十分程でなぐり書きしたものです。でも、 だいたいはこれであっているとおもっています。
作成日時 2022-12-21
コメント日時 2022-12-25
犬(いぬ)論 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1123.2
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
項目 | 全期間(2023/02/09現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合ポイント | 0 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 0 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 0 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0 | 0 |
総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
追記 『アメリカの反知性主義』という素晴らしい本があります。 古いですが見事な洞察に頭が下がります。丹念に読めばわかるのですが ここで著者のリチャード・ホーフスタッターは米国中南部の農民たちが 知性に反感を覚えているとはいってません。 生き馬の目を抜く東海岸のこすからいインテリにだまされつづけてきた 農民たちは知性を否定しているわけではなく「あなたがたのはほんとうの知性じゃない」 といってるのです。つ つまり反知性ではなく非知性主義です。知性を否定された非知性側の方が 知性を擁護しているとすればそれは噴飯というものです。笑 あの良書の一部それも数行だけを抜き取って知性の擁護なども噴飯というものです。
0澤さま 澤さまがTwitter上でわたしがこの投稿作品について 間違ったことをツィートをされておられますのでご指摘させて頂きます。 わたしについて澤さまがTwitter上でどんな悪口を書こうと罵倒しようとわたしはまったく気にしておりません。 また、そのことについては基本的に粘着するつもりも読む気も返信するつもりもありません。 そうではなく このサイトへ投稿した作品について事実とは違うことを書かれている場合にのみ この場を借りてご指摘をっせていただきたいと思います。 知り合いからの連絡を受けて今朝、拝読しさせてもらったのですが それは以下のツィートです。 Pinned Tweet 澤あづさ @adzwsa ・ 9h わたしに粘着してる罵倒家が、わたしのRTをもとに詩を書くというきもい趣味を始めたので、 わたしが「反知性主義」についての雑文『犬』を投稿したきっかけは 三浦果実さまの 批評投稿作品『村上すうというすごい投稿者を発見した』における 三浦さまとのやりとりが起因です。 「反知性主義」についてわたしが根をつめて考え抜いてきたことを ざっくばらんに表明しておいたほうがいいと考えました。 投稿したあとに澤さまがTwitter上で「反知性主義」について ホッパーの労作の断片だけを切り取った文章を載せておられていたので わたしのほうこそ逆に澤さまはいまだにわたしを注目されているのかと、 思ったくらいです。 まさか人さまのTwitter上でああだこうだ と反論するほどわたしは非常識じゃありません。 もともと澤さまのツィートをみたのは、連絡を受けて今回が初めてで、 澤さまを粘着もしておりませんし、興味もありません。 澤さま、わたしについてどのような悪口を書かれても構いませんし、 そのことに一切、反論するつもりはありませんが、 投稿作品について事実とは違う話を拡散しないでくださるようお願い申し上げます。 おそらくわたしの投稿のほうが早いはずです。 わたしは澤さまにはまったく関心がないし粘着もしておりませんことを ここに表明しておきます。 できればわたしの『犬(いぬ)論』投稿時間と澤さまの当該、 「反知性主義」に関する都合のいい切り取り断片の リツィートとの時間を確認ください。 おそらくわたしの投稿のほうがはやいはずです。この件については 以上です。 フォーラムに投稿しようと思いましたが反映されなかったので やむをえずコメントしておきます。
0読ませていただきました。浅学なのですが、勉強になりました。学問から詩に傾斜する、というのは私には難解で意味不明です。芸事、教養的遊びの一つなのでしょうか。実人生のほと走る心を載せる、そこに真実や善や美を寄り添わせたい、という気持ちはありますが、事実として、願望として、ですね。理想主義で詩を書くのも好きです。言行一致は難しくても美しい真意を目指す、という心映えで、綺麗なことを書くのが詩だと思っています。汚いこと、醜いこと、ただの矮小な悪は、人が顔を顰め不味いものを食ったみたいな嫌悪を呼ぶようなのは駄目だと思います。
2ビーレビみたいな場所へ作品投稿したりコメントを書いたりしてる人達は自覚していて私がいう大嫌いなエセインテリアではなかったりする。私が嫌いなエセインテリアは常に安全地帯に居て、自身が賢者と言われたいがために、そう言われることのためだけに労力を使い、評論家みたいに上からの目線で、時には自身の茶坊主を使って讒言をDMなどを使ってやる。私はそういうエセインテリア達よりも賢いから、関わることをしない。けれども、室町さんは私みたいにずる賢いことをしないしから、罠にはめられる。私は今回、室町さんだけがイエローを受けたことで賢人が室町さんだとよくわかった。マナーが悪い人だけれども、良い人だね。私は申年だけれども。私もオレンジカード受刑者である。犬ではない。
1運営不在月間。実の荒らしが炙りだされ、自作自演者が室町様ではなかった事実に拠り、確信を致しました。 この御方は、正直過ぎる為に荒らしや、その他の標的として狙われ易い御方なのだと。 先日の遣り取りの結果、手札が切られた訳ではございますが。傍から見れば何方も何方。喧嘩両成敗でなければおかしいと、思っております。 何処か室町様に、シンパシーを覚えます者として(創作動機等、等)今後の応援も含めまして、一票を。
0人の陰口を安牌そうな人にひたすら吹き込んで回る腰抜けキョロ充くんってのも、エセインテリアを笑えないクソ安全圏だと思うんですが。いかがなんですかね。 わたしは運営から来たDMに「室町氏の処罰は望まない、かれは優秀な評者だし、有益な参加者だ。」と返信した。だからイエローカードは残念だけど、わたしは運営と癒着してないからなにもできない。まぬけな陰謀論はご勘弁くださいよ。 そんなに不思議なのかな、あなたのアカウントから出てきたあの匿名の詩をあんなに歓迎したエセインテリが、室町氏の一切を拒否するというのが。あなた女の子に「彼氏にセックスさせてるんだからおれにもさせろ、でないと不平等だ。」とか言っちまうタイプなの? あなたが澤あづさをいびり抜かれて当然のゴミと値踏みしてるように、わたしもあなたがたを、それはもう腹黒く品定めしている。だから言ってんだよね、表現は根本的に暴力だって。それ以上の暴力はもうごめんだ。ここは文極じゃないし、わたしには罵倒耐性がない。ちな作品にコメントしないのは年末だからだ。きよしこの夜になにやってんだろう。 ※室町さん、お邪魔しました。これきり二度とお邪魔しませんので、迷惑は宣言なさらずとも大丈夫です。
0私は、ツイッターのタイムラインにて、室町様を罵る(といっては、過言かも知れませんが)澤様のツイートを拝見いたしました。 私には、何方の御方がダブルスタンダードなのか、理解が及びません。只、人物が他者を表する時、その表現は自分自身の姿を指摘し、体現している、とも考えて居ります。 復、表現が暴力となる為には前程条件の様なモノが存在するのでは、とも考えて居ります。 蛇足が過ぎました。 どうか澤様に於かれましても、落ち着きに為られ、冷静に為られて下さいませ。 以上、 頓馬の独り言です。 どうぞ哂って遣ってくださいませ。 不安定なる安全地帯より。
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