カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便 - B-REVIEW
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エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

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それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

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あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

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yasu.na

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あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

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終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

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夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便    

カリブ界面にUganda(鉛風に) 紫陽花を積み上げては 降り頻る五月雨に ちゃんと青色がついたね 汚染される透明な紫式部 カルフォルニアには四季がないから 防人は暇人として年がら年中借り物を楽しんでるってさ -極楽浄土 -冬京に住みたいですか? -1本300円のお水がぶ飲みです ジュースのおかわりをする アルビノの河童 タンパク質分解酵素のおかげで膨らまない 食パン生地を鬱々と捏ねているみたい 指人形の和服がすり切れたから 洲村(しまむら)で洗濯しなきゃ 上塗りされた白色の 紫陽花、 ふりかけにされた スイカ味の河童肉 尻子玉が抜かれて ぺりかん君に運ばれて無理矢理海に放り出された 渡り蝶のように季節を横断したいね ボロボロの模様は海に巻かれた プランクトンよりも小さな鱗粉は マリンスノーとなって 海の奥歯近辺で分解されましたとさ 「深海のお水はミネラル豊富で 身体にとてもいいですから 生きてるだけで極楽浄土じゃんね」 -もう秋口は通り越して冬になるっぽい。 -アイスバー食ってる場合じゃないかも! -早く衣替えしなきゃて、カウポーイだしが慌て出したみたいだ -みんなでビバップしようぜ、ビバップビバップ -いいからとっととスウィングしろよ



カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 13
P V 数 : 2664.4
お気に入り数: 0
投票数   : 2
ポイント数 : 7

作成日時 2020-10-21
コメント日時 2020-11-02
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2024/03/29現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性11
可読性00
エンタメ11
技巧44
音韻11
構成00
総合ポイント77
 平均値  中央値 
叙情性00
前衛性0.30
可読性00
 エンタメ0.30
技巧1.31
音韻0.30
構成00
総合2.32
閲覧指数:2664.4
2024/03/29 02時12分11秒現在
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    作品に書かれた推薦文

カルフォルニア・スウィング/河童肉付きぺりかん船便 コメントセクション

コメント数(13)
ライ麦
ライ麦
作品へ
(2020-10-21)

逃げて楽しいですか?

1
stereotype2085
作品へ
(2020-10-22)

眺めているだけで楽しい。全体的な字面がよく可読性だけでなく漢字や熟語の密集度などにも気が払われている。やや厭世的で無関心を装う様も詩全体にリズムをもたらしていて軽快だ。「汚染される透明な紫式部」だなんて僕好みのフレーズで最高です。閑話。僕はこういう言葉や単語のトリッキーな繋げ方で心証を表すテクニックが好きなのです。「年がら年中借り物を楽しんでるってさ」も世事と離れる、だが完全に対象を見限っているのではない話者の視線が表されていてとても良い。無関心でありながら誰をも責めず攻撃せず、自身の心地良い場所を探す話者の心意気に満ちている。「プランクトン…」から始まる連はやや筆が乗りすぎた感もありますが次の連「極楽浄土じゃんね」でこの作品の主たるモチーフである話者の心証に帰り、無事収拾出来ている。「-もう秋口は通り越して…」から始まる最終練もこのリズミカルで比喩に富む楽園探しの締め方としてとても良いです。自分のポジションも分かっているんだぜというほのめかしも充分に伝わる。その点から自身を見つめるもう一人の自分がこの作品には存在していることも分かる。客観視出来ていて冷静なんです。話者もしくは筆者が。こんなに躍動してるのに。とにかくも今作はコロコロと読み進められて一見しただけで着想、発想にひらめきがあり、楽しい気分になれる作品であり、僕はとても好きです。 ということでここまで思いつくまま賛辞を並べましたが、ここからはちょっとした問題提起です。それはこのような作品を作った筆者様やそれがとても楽しいと思う僕のような詩愛好家詩と、それに対する詩に慣れ親しんでいないあるいは詩に関心がない方々とのある種の温度差、距離についてです。この作品は優れている、間違いないと思います。ですが現代詩やネット詩に慣れ親しんでいない方々にコミット出来る作風かと言えば、ポピュラリティ、平明さ、読解のしやすさという点でそうではない可能性があります。僕も以前この作品のように例えとほのめかしそして言葉遊びの連続で心証や世相あるいは世間を描く作風を好み得意としていました。ですから今話者がどこでどんな状況でその詩的思索、詩的感慨に耽っているのか、具体的に分からない作品がありました。だからこそ読み手には伝わりづらい一面もあったと思います。そこで浮き上がる問題とはこのタイプの詩の存在が暗に示すところである、詩に慣れ親しんだ人とそうでない人との隔たりについてです。これは現代詩読者の人口、あるいは現代詩の間口を広げるためにとても大切なことだと思っています。これは当作と僕がかつて好んで書いたタイプの詩だけに限定されるものではないとも考えられます。隔たり、溝を埋め、間口を広げるためにはどうすればいいか。考えどころです。それはクオリティの高い作品を作っていればそれでいいのさ、で完結するあるいはさせていい問題とも思えません。僕はこの作品と非常に相性が良く、また好みだったがために手放しの賛辞をおくったのですが、「隔たり」のある一般読者様にはどうこの作品が映るのか興味のあるところでもあるのです。あるビジネスマンは「ハンバーガー屋を営むとして成功するための秘訣は、商品の質をあげたりすることではなく、ただ腹を空かせた群衆の欲求に応えることだ」と述べたそうです。詰まるところ需要と供給。僕は間口は大きく広げた方が良いとの考えの持ち主です。でなければネット詩で細々と活動しあるいは詩誌に時折掲載されるだけで満足で終わってしまうでしょう。品質をひたすら上げる、マニア受けで満足するだけでなく、需要お腹を空かせた人々を満たすためにどんなアプローチをするべきか考えどころだと思うのです。その点百均さんにもお聞きしたいところです。以上で評と問題提起は終わりです。長文になってしまったのは失礼を。そして最後に僕はこの詩をとても楽しく読めたという点に改めて言及して、それでは。

5
ライ麦
ライ麦
作品へ
(2020-10-24)

良さが少なく小さい詩歌だと思いました。過剰にセンチメンタルであったり悪い意味で難解だったりしない普通の詩が読みたいです

1
百均
作品へ
(2020-10-24)

ライ麦さん 初めまして。百均です。 二回コメントをくださり、ありがとうございます。 数日くらいコメントについて考えていたのですが、返信するのが中々難しく、少し胡乱な回答内容になってしまう事を先にお詫び申し上げます。 >逃げて楽しいですか? 逃げて楽しいのかという問いについては、正直よくわからなかったです。自分で読み返していてこれがその印象につながったのかなと思われる箇所なんですけど、深海に逃げているという所になりますかね? 後は楽しいかどうかという所については、すいませんよくわからなかった! レスを頂いただけで単純に色々な物を頂いていると思っておりますので、こちらから逆質問してしまうのは申し訳ないのですが、もしよろしければ回答いただけるとありがたいです。今度の参考にさせていただきます。 >良さが少なく小さい詩歌だと思いました。過剰にセンチメンタルであったり悪い意味で難解だったりしない普通の詩が読みたいです この返信に対して僕から回答すると、結果的にこの詩をどういう意図で作成してどのように読まれる事を想定しているのか、あるいはこの詩をここに投稿する事によってどのような反応を得られる事を期待しているのかという事について開示する必要があるのかなと思ったのですが、取り合えず開示するかしないかの前段階の回答として述べさせていただきます。 まず、いただいたレスを読む限りの事実として「良さが少なく小さい詩歌だと思いました。」とライ麦さんに受け取られてしまった所については、僕の実力不足です。申し訳ない。次に、「過剰にセンチメンタルであったり悪い意味で難解だったりしない普通の詩が読みたいです」この点についてですが、本作が過剰にセンチメンタルな内容をはらんでおり、悪い意味で難解であると受け取られてしまった点については、これも僕の実力不足という事になります。申し訳ない。 「普通の詩が読みたいです」という指摘については、ライ麦さんの願望が混ざっているかなと思ってます。あと、多分僕とライ麦さんとの間に認識の乖離があると思っていて、というかこれについては多分人詩の定義自体バラバラなのではと考えております。という事で、これについてもなんとも言えないですね。(これももし宜しければご教示いただけるとありがたいです。)感覚的に日常的にやり取りされる言葉のやり取りを使って詩を書いてくれというオーダーだとしたら、申し訳ないのですが、本作でそれを達成することを、意図的に目指していないという回答になります。僕が今回試しにやってみようと思ったことは、平たくいうと、何が書いてあるか分からないけれども最後まで読んでしまったという感慨を読み手に持たせられるかという検証だからです。ただ、この試み自体は正直久しぶりに挑戦してみてるんですけど、中々難しいなと実感しております。 色々と、突っ込んだレスを書いてくださりありがとうございました。 今後の詩作の参考にさせていただきます。

0
r
作品へ
(2020-10-25)

うーんなんだこれは? というのが第一感。 ここに投稿される作品は、私にとって一読して意味がわからないものが多い。『点』という作品はその概念を少し変えてくれたというか、うまく言えないですが、意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。言い換えると、作者の意図はわかるが、意味はわからない。意味はわからないが、意図はわかる。 しかし百均さんの御作は、意味どころか意図すら掴めない。もし良ければ、創作というかこの作品の意図みたいなものをお教えいただけないでしょうか? 他でも書きましたが、私はこのサイトの感想欄で、疑問や批判も遠慮なく述べていきたいと思っています。

0
百均
stereotype2085さんへ
(2020-10-27)

stereotype2085さん 詳細なコメントを下さり、ありがとうございます。 >眺めているだけで楽しい。全体的な字面がよく可読性だけでなく漢字や熟語の密集度などにも気が払われている。やや厭世的で無関心を装う様も詩全体にリズムをもたらしていて軽快だ。「汚染される透明な紫式部」だなんて僕好みのフレーズで最高です。閑話。僕はこういう言葉や単語のトリッキーな繋げ方で心証を表すテクニックが好きなのです。「年がら年中借り物を楽しんでるってさ」も世事と離れる、だが完全に対象を見限っているのではない話者の視線が表されていてとても良い。無関心でありながら誰をも責めず攻撃せず、自身の心地良い場所を探す話者の心意気に満ちている。「プランクトン…」から始まる連はやや筆が乗りすぎた感もありますが次の連「極楽浄土じゃんね」でこの作品の主たるモチーフである話者の心証に帰り、無事収拾出来ている。「-もう秋口は通り越して…」から始まる最終練もこのリズミカルで比喩に富む楽園探しの締め方としてとても良いです。自分のポジションも分かっているんだぜというほのめかしも充分に伝わる。その点から自身を見つめるもう一人の自分がこの作品には存在していることも分かる。客観視出来ていて冷静なんです。話者もしくは筆者が。こんなに躍動してるのに。とにかくも今作はコロコロと読み進められて一見しただけで着想、発想にひらめきがあり、楽しい気分になれる作品であり、僕はとても好きです。 ありがとうございます。これがどう読まれたのかというのは、事実読者の方に具体的に感想を書いていただけるというのが、手っ取り早く知る事ができるので単純に嬉しいです。今度の詩作の参考にさせていただきます。 >ということでここまで思いつくまま賛辞を並べましたが、ここからはちょっとした問題提起です。 という訳で、ここからがある意味本題なのかなと思うので、お答えできる範囲についてですが、僕なりに回答させていただきます。 >それはこのような作品を作った筆者様やそれがとても楽しいと思う僕のような詩愛好家詩と、それに対する詩に慣れ親しんでいないあるいは詩に関心がない方々とのある種の温度差、距離についてです。この作品は優れている、間違いないと思います。ですが現代詩やネット詩に慣れ親しんでいない方々にコミット出来る作風かと言えば、ポピュラリティ、平明さ、読解のしやすさという点でそうではない可能性があります。 本作が単純に読みにくいか読みやすいかというと、読みにくいと思います。ただ、その読みにくさというのは意味として受け取った時であると考えてはいて、声に出して読んだ時や、フレーズを取り出した時のイメージの膨らみみたいな所だけ取り出してみてもらいたいなとは思っているんですよね。簡単にいうと、読んだという行為自体に体験が備わるような読書にもっていくにはどういうアプローチがいいんだろうかという点において、僕なりのポピュラリティの獲得は狙っている訳です。(っても最後の方で誤字っちゃっていたり、単語の使いまわしが雑だなと思う所があるので、そこは素直に反省点なのですが) 簡単に言っちゃえば「意味ではなくイメージや言葉の使われ方を楽しんでほしい」みたいな所がこの詩を書いた目的って事ではありますね。その点でstereotype2085さんからもらった感想って僕にとっては世辞抜きにしてマジで参考になります。これがどう読まれたのかって僕にとっては重要だからです。これは僕が思った通りに読んでもらった感想以外が邪魔だという訳では決してないです。 無論、一度出したものなのでこれが詰まらなかったり訳が分からなかったとなってしまったらそれはしょうがないことだし、これが読みにくい、人に受け入れにくい性質を持っているという点はある意味自覚していて(タイトルが過剰であることがその表れ)ただ、自覚した上で敢えて挑戦しています。その結果やっぱり色々爪が甘かったというのであれば僕の中で持ち帰って更に修練する必要があるなというだけであると思っています。 >僕も以前この作品のように例えとほのめかしそして言葉遊びの連続で心証や世相あるいは世間を描く作風を好み得意としていました。ですから今話者がどこでどんな状況でその詩的思索、詩的感慨に耽っているのか、具体的に分からない作品がありました。だからこそ読み手には伝わりづらい一面もあったと思います。そこで浮き上がる問題とはこのタイプの詩の存在が暗に示すところである、詩に慣れ親しんだ人とそうでない人との隔たりについてです。これは現代詩読者の人口、あるいは現代詩の間口を広げるためにとても大切なことだと思っています。これは当作と僕がかつて好んで書いたタイプの詩だけに限定されるものではないとも考えられます。隔たり、溝を埋め、間口を広げるためにはどうすればいいか。考えどころです。それはクオリティの高い作品を作っていればそれでいいのさ、で完結するあるいはさせていい問題とも思えません。僕はこの作品と非常に相性が良く、また好みだったがために手放しの賛辞をおくったのですが、「隔たり」のある一般読者様にはどうこの作品が映るのか興味のあるところでもあるのです。 あるビジネスマンは「ハンバーガー屋を営むとして成功するための秘訣は、商品の質をあげたりすることではなく、ただ腹を空かせた群衆の欲求に応えることだ」と述べたそうです。詰まるところ需要と供給。僕は間口は大きく広げた方が良いとの考えの持ち主です。でなければネット詩で細々と活動しあるいは詩誌に時折掲載されるだけで満足で終わってしまうでしょう。品質をひたすら上げる、マニア受けで満足するだけでなく、需要お腹を空かせた人々を満たすためにどんなアプローチをするべきか考えどころだと思うのです。その点百均さんにもお聞きしたいところです。以上で評と問題提起は終わりです。長文になってしまったのは失礼を。そして最後に僕はこの詩をとても楽しく読めたという点に改めて言及して、それでは。 この点については、そもそも詩は世界的に読まれていません。というのは多和田葉子が「エクソフォニー」という本の中で語に語っていたんですけど、客観的な事実として世界的に詩は売れておらず、また世界的に見ても売れる傾向にある詩集ってのは、少数言語で書かれた詩集らしいです。つまり、一部の言語マニアが言葉を保存する媒体として「詩」を重宝している。これが世界の詩事情におけるデファクトスタンダードだそうです。 まぁ、10年くらい前に出された評論なので今はどうかわかりませんけれども、今年のノーベル賞受賞者の詩の邦訳がないという時点で、詩がどれだけ世間に求められておらず、また日本の最前線の詩壇の力が弱まっているという事でもあるのかなと適当に言っちゃいますが。 という訳で、世界的に詩は読まれる需要がそもそもないので、詩に飢えている人たちはどこにもいないんじゃないの?というのが僕の一次的な回答になります。なので、そもそも詩をこうして掲示板上で投稿したり読んだりしている人は、誰にも顧みられる事のない詩という媒体を駆使してやり取りする事を楽しめるくらいには、言語に関心がある人だと僕は思うので、もう既に一種の言語のマニアだと思っています。だって自分の周りで詩を読んでいる人どれくらいいますか?って感じですね。僕はネット以外で詩をガチで読んでいる人はリアルの友達関係で一人もいません。無論、いわゆる「オタク」にも色々なレイヤーがあるように、全員がガチガチで詩歌が好きである必要性や必然性はどこにもないと思います。かくいう僕も、現代詩に出合うまではマンガとゲームしかしてきませんでしたし、今でも詩なんて一か月前までほんとに読んでなかったので、ぶっちゃけ詩について語れるほど僕は詩のマニアではないですね。一般人に比べて詩人名前は少しだけ知ってるかもしれないですが、読み切ったことのある詩集なんて数えるくらいしかないです。 ただ、これだと話が進まないので、じゃぁ需要を作っていけばいいじゃんって話をするのであれば、僕の考えではない需要を作るのって、かなり難しい事だと思うんですけど、現実的な線で考えてるのであれば、今は映像の世紀ですので、諦めて素直に他の媒体で表現する事しかないかなと思います。詩から離れずに、ポピュラリティを獲得するという事にガチで挑むのであれば、フィジカルを全面的にむき出しにして、ポエトリーリーディングするしかないんじゃないかなと思います。後は売り出し方(マーケティング)の問題かもしれないですし、詩人のフィジカルの問題かもしれません。それは、どれだけイケてる物つくっても知られなければ意味がないし、ビジュアルとして成立しない物に対して、明確なポピュラリティが獲得されないというのは、適当に世界を見渡した時に目につくとどうしようもない真実っていうのは、多分みんな知ってる事だと思います。(これはあくまで極論です) たが、ポエトリーリーディングガチでやればちょっとは獲得できんじゃね?と僕が言ってしまえる確証がある事の理由ですが、例えば、僕は米津玄師のFlamingo好きなんですけど、あれに深い意味があると思いますか? 言語的な遊びや、イメージの膨らみが異質だとは思いませんか? でも、滅茶苦茶色々な人に聞かれてるのはなんででしょ。とかkid furesino最近よく聴き返してるんですけど「何言ってるかよくわからんけど、聞いてるだけでかっこいい言葉」って沢山ありますよね。とか、Childish Gambino の「This Is America」が世界的に聴かれてる事実を見て、リリックの強っていうのは、「文化的な背景が読み取れなくても画面を通じて伝わってくる強度みたいな部分はありますよねとか」、世の中に自分の詩のスタイルを持って名声を獲得してる書き手や表現者は多数いるのは事実だと思います。 そして多分、真剣に向き合う努力を突き詰めていけば、ポピュラリティなんてものはおのずと手に入る物なんじゃないのかなぁ。まぁ、望んだポピュラリティを本当に書き手が獲得したいのであれば、それに足りうる努力を書き手側がしていくしかないので、まずは淡々と日々修練に励むことは鉄則で、それでも叶わない勝負を一生涯かけて挑んで、90%以上は割に合わないまま死んでいく。というかなり勝率の低い勝負だと思いますが。 なので、この作品がへたくそであることと、難解な詩は誰にも聞かれない読まれないというのは=で結ばれないと思ってて、まぁ簡単に述べるとしたらテキストベースで詩と呼ばれている言語の媒体は既に時代から取り残された文化の産物であって、今の時代にそもそも即していない事から、ポピュラリティを獲得するには結構きついんじゃないのというのが回答です。どうしても獲得したいのであれば、ラッパーよりも韻をなめらかに踏んで、イメージを膨らませながら音楽に負けないポエトリーリーディングを読み上げて、読み手をノリに乗せるか静謐さに沈めて、言葉そのもの自体を楽しませる、つまり詩を読み手に体験させるというアプローチで需要を生み出すしかないのかなって思いますね。っても詩はプラットフォームが世界的に死滅しているので、一人で頑張った所で誰にも知られません。 これは補足ですが、ラッパーって言ったのは例えば、R指定と呂布カルマの対決なんかわかりやすいんじゃないのかな。言葉遊びvsみたいな話はラッパー達の方が毎回disりあいしてる訳だから敏感かもしれないですね。フリースタイルバトルに出ているラッパーたちは自分の言葉が自分と観客に文字通りリアルタイムで判定される訳なので、常にポピュラリティと向き合ってるともいえるのかなと思います。 ただ、最近思うのは、現代詩を取り巻く環境って少しずつ良くなってきてると思ってるんで、何も悲観してないです。プラットフォームとして、昔は詩壇と限られた投稿サイトしかありませんでしたが、BREVIEWはもちろんの事、TwitterなどのSNSがいい仕事をしています。昔は、本当にネット上で詩や短歌を書いている人たちって見つけ難かったですけど、今はやすやすと見つかりますし、地方に居ても文章のやり取りであれば、滅茶苦茶見つけやすくなりましたよね。昔は1000pv行ったら普通にその詩は炎上してるか化け物みたいにうまい詩かみたいな感じでしたけど、多分BREVIEWでpv1000超える詩はざらにありますし、おそらく平均200は割らないですよね。また、拡散能力も昔と段違いになりましたし、今では連携したSNSで誰かが拡散すればそれだけで読者なんか簡単に増えます。(もちろん読んだ人たちがそれをどう判断するのかは別問題です) という訳で今の時代は詩人にとって優しい時代になってきたと思います。僕が高校生の頃のネット詩の界隈は、本当にマニアしかいなかったなという印象が強いです。後は一部の物好きくらいでしょうかね。かくいう僕もネット詩民としては、後発組の後発でしたので、そこら中で現代詩のマニア達が聞いた事もない詩人や評論家や小説家の名前や作品を提示しながら話しているのがわけわからなさすぎて、ずっと黙ってROMしていました。まぁ簡単にいうと文学やくざばっかりだったので、普通に怖かったし、今思うとみんなで協力して普通にがんばりゃよかったんじゃねって思ってるんですけど。 んで、色々行ってきましたけど、じゃぁ僕が今こうして掲示板で物を投稿している理由なんですけど、2ヶ月前までは本当に詩を書く理由だとか、読む理由なんてもうないなと見切りをつけていました。というのは事実としてあって、でも、最近思い直したのが「テキストベースで詩を読むことで受けられる恩恵を備えられたらまだやりようはあるかな」って所です。 本作で僕がやろうとしか事っていうのは、「読むという行為が体験」になるにはどうすればいいのかということ。それは、日常的な言葉のやり取りや、小説でやり取りされている言葉の往還とは別のアプローチとは別の方法でという縛り付きで、例えば読んだ時に広がる言葉のイメージだとか、映像に起こして味わうよりも言葉から広がる脳内のイメージの方が面白く感じられるような手触りの言葉の組み合わせだとか。敢えて行間の広い言葉を行訳で置く事によって、空想に幅をもたせられないだろうかとか。そういう事を、試しています。 ただ、今回はちょっと過剰にやりすぎちゃったなと思っているので、割としょぼくれています。 多分、タイトルは「カルフォルニア・スウィング」にするだとか、あまりにもイメージが跳躍している所はカットするとか、言葉の使い方の癖を素直にして可読性を上げるだとか、言葉の肌触りをもっとなめらかになるまで推敲するだとか、読み手に取って脳内で置換しやすい単語やイメージに置き換えるとか、もう少しマクロな飛躍ではなくてミドルレンジを狙ったイメージの跳躍にするだとか、例えば猫みたいな愛玩動物をガジェットとして置いて、読み手との距離感を近くする演出を加えるだとか、すればよかったのかなと思っていますけれど、それは次作以降の課題になります。 また、僕自身色々な人に自作を読んでほしいという思いはありますし、というか僕が何か物を書く時の発想は、読み手に感想になるような言葉を与えないくらいの言語的陶酔を味合わせて屈服させたいという欲がベースです。そのよくを理屈として成立できたら詩論になるじゃんと思って最近書いています。が、それは一人では達成できないので、独りよがりな作品にならないように、自分の作品を日々振り返って修正しつつ、100万人に読まれる詩を一本かけて、死ねたら悔いはないかな。そこまで行けるのかは毎日色々な事を試し続けて出し続けるしかないです。 最後に、この作品はゴールではなくて、やっぱり未完成品だなという事です。今度似たようなアプローチの作品を出すかどうかはわかりませんが、今回の反省をきっちり心にとどめて次作以降の作品は書いて行くつもりです。重しになりすぎたら忘れちゃうかもしれないですけど。 という訳で散漫な回答になってしまったかもしれないですが、要はFlamingo目指して頑張ります!という事です。そして、Flamingoになればポピュラリティは獲得できます。かなり難しいけれど。 以上になります。 ありがとうございました。

1
藤 一紀
作品へ
(2020-10-27)

こんにちは。 >カリブ界面にUganda(鉛風に) クスッとしました。「浮かんだ」(の訛り風に)と重なって。 >渡り蝶のように季節を横断したいね ここは安西冬衛の短詩を思い浮かべました。 全体としては気持ち悪かったです。像がつかめないでフワフワした浮遊感があって。そういう気持ち悪さ。あの、遊園地のバイキングとか絶叫マシーンで感じる胃が竦むような、何かに掴まりたい感じ。だから掴まり所を適宜置いてくれたらよかったなあ。でも、それがイイという人もいるかもしれないし、繰り返して読んでいるうちに逆にクセになる人もいるかもしれません。

0
エイクピア
作品へ
(2020-10-31)

最終連まで普通に読めたのですが、最終連のカウポーイだしがと言う表現が分からず、中途半端な感じがしました。

0
百均
さんへ
(2020-11-01)

沙一さん レスありがとうございます。 返信が遅くなってしまい、申し訳ございません。 >タイトルからしてああこれは意味不明な現代詩だと察せられる。さいごまで読んでもみても、やっぱりわけわからない。ただ洋風と和風のイメージが混淆していたりする言葉選びがおもしろいし、さいごまで読めばきっとなにかあるんじゃないかと思わせられたのは、本文だけではなく百均さんのネームバリューも大きかった。でもやっぱりわけわからない、読後にたいしてなにものこらない、いってしまえば虚無。現代の虚無にスウィングしてるような作品。 なるほど、stereotype2085さんの返信にも返しておりますが、単純にこれがどういう風に読まれたという所を単純に僕は知りたいと思っているので、とてもうれしい感想を頂けたと思っています。ありがとうございます。 >それはそれでいいのですけど、現代詩の〈外〉に訴求力をもっているかというと疑問で、いわば内向的な現代詩だと思われます。そのいわゆる現代詩の〈内〉にこもることを"逃げ"だとするなら、ライ麦の「逃げて楽しいですか?」という発言のニュアンスも読める気がしました。 この点については、stereotype2085さんの返信にも少し書かせていただいたのですが、見た目の現代詩っぽさ(っていうか僕はあんまり現代詩読んでないので、認識にずれがあるとが思うんですけど、一応同意はしておきます)が、トータルとして内向きの詩であることから抜け出せていないのだとしたら、作者としての僕が狙った方向まで作品は飛んでいかなかったという事だと思います。 その点は申し訳なく思います。内にこもる事を主眼としている訳ではなく、寧ろ内容に目がいかないように、見た目をコテコテの派手派手にして、意味内容の受け取り方にノイズをまき散らすことで、イメージの受け取られ方や、単語同士の音節の組み合わせで読み手に何かしらのインパクトを与えたかったというのがあります。 これは僕が最近書いていて思う事ではあるのですが、意味という物自体にあまり関心がなくなってきてしまったように思っています。 僕が本作にいただいた感想については、他作でも多くいただいているんですけど、これ自体に僕自体が明確な意図を持って作ったわけではないんですね。 でも、読み手にこうして読まれた時にその内容が読み取られてしまい、また、僕が意図しなくともせずともそういった内容が書き込まれてしまうという事実については深く心に留めて必要があると思っています。 つまり、僕がどういう意思を持って何を書こうが、僕がかこうとする内容はそこまで変わらず、また見た目上のどのような表現方法を駆使しても、結果的に同じ事を書いているだけ。 要は、書き方の問題に全ては収斂していってしまうという予感ですね。 そういう意味ではライ麦さんの感想というのは、僕が再解釈した範囲内の受け取り方としては同意せざるを得ない所はあるけれど、それ自体が批判にはなりえないかなと思っています。 作者として出張ってきて、これについて何かを語るのであれば、これはもう一回自分の中の原点に立って書こうとした作品なので、過剰なセンチメンタリズム、あるいはナンセンスな要素が含まれていて当然であって、そこから何を語り得るのかという所に今回は挑戦したという感じです。 自分の中の語りをもう一度再解釈して、ナンセンスよりの遊びを提示しようとした時に何ができるだろうかという立ち位置でこれは色々な事を模索していて、ただ、失敗はしたんだろうなと思ってます。 ちょっとやりすぎましたね。 現代詩の内側に向いているのかいないのかという問題については、正直現代詩を読んだ事のない人に100人アンケート取ってみないと言えないですね。 読み手については、僕は本当によくわからない存在なので、一回突き付けてみて、その反応がどう帰って来るかが全てかなと思っています。なので、これが何向きみたいな決めつけは最初から想定せずに、書いたというのが本音です。現代詩を意識して現代詩を書く事以上につまらない事ってないなと僕は思っている…くらいしか僕にはその気持ちを証明する方法がないのであれなんですけど。 まぁB-REVIEWという場所を持ち出して語るのであれば、こういう作品ってここ数か月くらいあんまりなかったと思うので、これを出すこと自体は場に逆行した挑戦だともいえるので、どっこいどっこいかなぁと思います。 っても、それがだれであっても興味をそそられる作品ではなかったら、これが負けただけって話になるんですけど。これは僕のネームバリューとかそういうのは関係なしに、本作を見た1300pvの人たちの中にこれが残らなかったら、どんだけ僕がここで吠えようが終わりのゲームです。その事実は、これがどれだけ賞賛されようが、酷評されようが変わらないゲームだと思います。 僕は素直にこれが読み手にとってわからないのか、つまらないのか、へたくそなのか、面白いのか、言葉にならないのか、きもちいいのかわるいのか、そう思ったのであれば具体的にどこを読んでそうおもったのか、あるいは印象でそう思うのか、みたいな感想を頂けれたら他に言える事はないですね。というのはあります。まず、こうやってレスを書いてくれる事自体普通に考えれば奇跡であって、大体の作品はそっぽ向かれて終わりだというのは、知っているつもりです。 ありがとうございました。

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百均
rさんへ
(2020-11-01)

rさん レスありがとうございます。 >うーんなんだこれは? >というのが第一感。 > >ここに投稿される作品は、私にとって一読して意味がわからないものが多い。『点』という作品はその概念を少し変えてくれたというか、うまく言えないですが、意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。言い換えると、作者の意図はわかるが、意味はわからない。意味はわからないが、意図はわかる。 > >しかし百均さんの御作は、意味どころか意図すら掴めない。 感想ありがとうございます。黎さんの『点』との比較という事ですが、僕が『点』をちゃんと読めていないので、ここでの明言は避けさせていただきたいと思います。ただ、僕が触れられる所としては「意味に還元されない言葉たちが、意味を超えて迫ってくるという感覚が今一番近いです。言い換えると、作者の意図はわかるが、意味はわからない。意味はわからないが、意図はわかる。」この点を僕もここ数年ずっと追い求めていて、いわゆるそれが僕なりの「読書という体験」という言葉で指し示している事だったりします。片仮名風味に表現すると、「ナラティブ」っていう新しい感情を表現する言葉があって、それを読み手の中に換気させること。これが最近よく僕が考えていることです。ただ、この感慨を狙って打ち出すことは非常に難しくて、というか書き手と読み手の相性問題というのは明確にあるだろうなと思っています。作者としては、なるべく最大公約数的に的を広げていきたいなとは思っているのですが、技術的にそれを達成するための道筋は見つかってません。(的を絞って狙い撃つには、多分本作のような書き方が望ましいのかなとは思いますがね。)そういう意味で僕はこれを掲示板に出してストレートな感想が欲しかったし、願わくば具体的にこれをどうよんだけどわからなかった。面白かったと言っていただければなと考えていました。このジャッチメントは百均の中で適当に下しても、それは元あるセンスの中で下された判断になってしまうので当てにならないからです。僕は自分の感覚というものをそこまで信頼していません。 結果的に、本作に対して多くの方がコメントを下さったので、僕としてはここでしたかった目的というのはそういう意味で達成しています。ですので、読み手の皆さんには感謝しかなく、もらった感想を元に次作をどう組み立てていくべきか毎日考えております。という訳で、いつもだったらさらっと流して感想返して終わってしまうのですが、自分の考えをなるべくストレートに書かせていただいている次第です。僕も自分の考えが正しいとは思っている訳ではないのですが、その考えを検証する為にも言語化して皆さんのレスに真剣に答える事は無駄だとは思ってないですし、これはせめてものお礼を含んだ返レスであるという事をご理解いただけますと幸いです。 >もし良ければ、創作というかこの作品>の意図みたいなものをお教えいただけないでしょうか? これを書こうと思った契機と理由、それから選択した技法についてなるべく開示しようと思います。 まず、僕はここ数か月くらい色々な掲示板の作品を読ませてもらいました。掲示板の作品は正直全部音読したと思ってますし、全て熟読した訳ではないのですが、出来る範囲内で読解させていただきました。その中で強く感じた事は、詩文の持つ音の威力という事です。 次に、最近書いた自分の作品が、どちらかというと、真面目に書きすぎてしまったり、語彙を意図的にセーブして使っているなという思いがありました。 ですので、本作のコンセプトは以下の通りです。 ➀全面的にふざけた作品を作る ②でも音はしっかり作りこむ ➀のベースとして利用しようとしたのは、過去の自分の作品でした。(今は掲載していたサイトが消えて見れません)具体的に言うと「夜を走る」という作品なのですが、高校生の時に作ったものなので、中身の詩文という意味では今思うと出来がよくないです。でも色々と形を変えていたり、「ー」で会話文を挿入していたりと、今の自分に比べて何のしがらみもなく自由に作っていたなという覚えがあって、詩を書き始めた時の初期衝動を思い出すように即興的に言葉で遊んでみようと思いました。一番最初のUgandaは見た目の面白さと②にかかるようにこの詩文の語りに「訛り」を入れようと思いました。でもただ訛り風にだとつまらないので、「鉛り風に」という形で重たさのニュアンスを加える事で、テキストベースでしか味わえない面白さを付け加えました。 後は、これは普段あまりやらないようにしているんですが、今回は敢えて試した事があって、自分の中にたまってきた、インプットされた情報をそのまま吐き出すことによって意味不明さを前面に押し出すことによって②の要素を引き立てようとしました。そういう意味でこれはそもそもの成り立ちとして秘私性の比率を高めています。意味不明な文章の根底には僕がインプットしてきた情報の連想が海底山脈のようにつながっていますが、それを知りうるのは多分僕だけですね。という自覚を持って敢えて書き込むことによって、ナンセンスな物事のつながりが意味としてはつながらないけど、何かしらのイメージを持って読者にカチコミに良くみたいな事態が発生すればいいなと思いました。 それを達成するための前提条件が、「カリブ界面にUganda(鉛風に)」っていう一文のスタートなので、ここでこけてしまうと多分全て失敗になるかなと思っています。多分ここは僕のギャグセンスが腐っているかどうかみたいな話になっちゃうとは思うんですけどね。 ですので、ある意味これは僕のオナニーみたいな詩であると揶揄されてしまったら、それはその通りだとは思っていて、読み手に対してちゃんと目を向けているかというとそうではなく、ある意味では意図的に、無意識的に外している自覚を持ってこれは作りました。 一言でいうのであれば、音やイメージだけを楽しむ詩文、意味を伝達するという視点から一回外して物を書いたり読んだりすることを再考しなおす為の作品だという感じかなぁ。 無論、B-REVIEWに僕が出した作品は読みやすさと読みにくさの淡いを結構徹底的に狙うように書いてきたという自負があるので、これが僕の全てのスタイルという訳ではありません。多分これはこれとして僕の中の肥やしとなってまた別の作品を作り始めるだろうし、無限にあるアプローチを一つ一つぶしていく過程の中の消し炭の一つになるのかなとは思っています。あるいは消し炭にするためにちゃんと真っ向からもう一度このスタイルに挑戦したというだけかもしれません。 >他でも書きましたが、私はこのサイトの感想欄で、疑問や批判も遠慮なく述べていきたいと思っています。 この点については、僕も基本的にはいいことだと思っています。僕もツイキャスで皆さんの作品をよみましたが、よくわからないみたいな感じで疑問は滅茶苦茶いってますし、先月2作品くらいにコメントを書きましたが、両方とも分からないところはわかりませんと書いています。 というか作品を一発で読み切れる人間なんてそんないないと思っているし、掲示板はそういう意味で情報交換しやすい場だと思っているので、喧嘩にならない程度に交流する事は悪くない事だと思います。 僕も、中々コメントの返信するのに考えちゃうタチなので、ゆっくりやり取りする事になってしまうとは思っていますが、こうしたやり取りを真剣にするのは楽しいと思ってます。というかこういう事がしたかった。ずっと ありがとうございました。

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百均
藤 一紀さんへ
(2020-11-01)

藤 一紀さん レスありがとうございます。 こんにちは。 >クスッとしました。「浮かんだ」(の訛り風に)と重なって。 ここはrさんの返レスでも書かせていただいたのですが、単純に笑ってほしかったというのと、その笑いのニュアンスは小さなレイヤーの積み重ねの先にあればいいなと思って書いた所でした。 >渡り蝶のように季節を横断したいね 「てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った」ですね。渡り蝶のイメージって頭では知っていて、単純に好きなイメージだったので、今回上手く使えないかなと思ってトライしてみました。 >全体としては気持ち悪かったです。像がつかめないでフワフワした浮遊感があって。そういう気持ち悪さ。あの、遊園地のバイキングとか絶叫マシーンで感じる胃が竦むような、何かに掴まりたい感じ。だから掴まり所を適宜置いてくれたらよかったなあ。でも、それがイイという人もいるかもしれないし、繰り返して読んでいるうちに逆にクセになる人もいるかもしれません。 素直に嬉しいです。これはrさんの返信でも書かせていただいた所ではあるのですが、気持ち悪さをねん出できるっていうのは言葉にならない感慨に近しい所があると思っています。ここら辺を少し技術的に再現できる素養を身に着けてからではあるのですが、今作で皆さんからいただいた評を糧として、他作品に展開する時のアプローチに上手く転用したいなと考えています。 ありがとうございました。

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百均
さんへ
(2020-11-01)

蛾兆ボルカさん こんにちは。 レスありがとうございます。 >皆さんのコメントや作者からの返信をしっかり読んでませんので、重複があったらすみません。 この点については、僕自身が返信するときに、同じ内容のレスを書くと最初に返した時のレスから認識がずれる事があるので、その点で前のレスで書きましたがみたいな事を書いて一旦コメ返しの分析じゃないですけど、一旦そこで書いた内容については現状の僕の認識の最善線にあるという意味で「よかったら読んでいただけると助かります。」みたいなニュアンスで返レスする事はあるのですが、コメント書いて下さるときはフラットな感覚で読んでいただけるのが一番うれしいですね。なんというか、書いてあることをそのまま読んでくださるというのが、多分ここのコメント欄を読んでくださる方とか新しくコメントを書いて下さる方によとって、最初から読む労力が減ると思っています。ですので、この後の蛾兆さんのコメントに一旦全てお返ししようと思っているのですが、僕が返したコメントはあくまでもその方との対話の中で生まれた内容みたいな感じで気軽に捉えていただければ幸いです。(この点掲示板での議論っていうのは始まったら中々ゼロに戻らないという所が難しいですね。僕がこうして書いているコメントが作品の読みを縛ってしまうのはやっぱつらい所がありますね) >先ず黙読での読みやすさと、それに反する不思議なほどの音読でのよみにくさが並行しているところが、迫力とか引力みたいなのを生んでるように思いました。 >黙読で読む限り、わかりにくい言葉も、つながりの不明な文節もなくて、すっと読めたし、イメージも青さと水で展開して、途中ちょっと河童からスイカで赤いイメージが閃いたりして、ラストも爽>やかでしたし、なんとなく纏まる感じもあり、比較的読みやすい詩と思いました。 > >だけど声に出して読んだ途端、何なんでしょうか、この読みにくさ。 >おそらく、作者が意図して発音しにくく音を配置したのでは、とも思ったのだけど、どうやったのか見当もつきません。 >結果的に、一枚の絵であることを強固に主張するような作品になってるという印象を受けましたが、それがポップアートっぽいというか、タイトルにフィットしてる感じがしました。 > >驚きを感じたと言う事と、感じの良い作品と思った、というところであります。拝読しまして、私にとって面白い作品でした。 この点なんですけど、ここは僕自身が結構課題として認識している感覚だったりします。ので、所謂読んだ時の音と声に出した時の音のずれみたいな感覚について触れていただけたのは、非常に嬉しいなと思うと同時に、僕自身も回答が出せないポイントになります。この点申し訳ない。 声に出して読んだ時の読みにくさと、読んだ時にすっと入って来るイメージっていうのが、僕の中では感覚的な物として乖離していて、そこの帳尻の合わせ方が今一分かっていません。多分僕が書き手として、自分で認識している言語感覚と、それをアウトプットして客観的に味わう「朗読」という音声的な感覚の間に溝があると思っています。そこの乖離の穴埋め作業が僕にとっての推敲だったりしますし、でも推敲した結果、中途半端な出来になってしまう事が多々あって、中々難しいですね… これは僕自身も感じている自作に対する気持ち悪さなんですけど、なぜそれが発生するのかっていう所の機序はよくわからないです。ただ、今回蛾兆さんに触れていただいた事で、自分の中にある感覚みたいな物に対して言葉を与えていただいたなと思っています。すいません、ちょっと一番僕が課題に感じている所を突かれてしまったと思っていて、正直上手く返せないです。申し訳ない。 ありがとうございました。

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百均
エイクピアさんへ
(2020-11-01)

エイクピアさん レスありがとうございます。 上記引用していただいた箇所ですが、これは明確な誤字ですね… 正確には下記のような詩文になります。 誤 カウポーイだしが慌て出したみたい 正 カウボーイ達が慌て出したみたい 単純に推敲不足であると言われてしまったらその通りなのですが、言い訳を言うのであれば、蛾兆さんのレスで書いた通り、ここの掲示板に提出した時には誤字がない状態だと脳みそが認識しているんですよね。。。本当に中々これもずっと自分の中で解決しない問題なので、多分自分の意思ではなくて、作品を提出する前の最低限の心がけなり、仕組みなりを作るしかないと思っています。 ここでは編集機能が使えませんので、次作以降の課題とさせていただきます。 申し訳ございません。 ありがとうございました。

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