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枯れ果てない泥水の井戸の前で
汲めども汲めども枯れ果てない泥水の井戸の前で 「『我はここにあって死ぬはずのものである』と覚悟しよう。多くの者はそうはしないが、そうすれば争いは鎮まる」 その言葉と共に水が引き始めた 涙と怒りの体液の井戸は ついに乾き 用をなくしていく 臭い立つ汚水は 手ですくえる程しかなく いずれ湿りもしなくなる 日差しよ当たれ 霧雨よ降れ ぬかるむ足場よ 揺るがぬ島となれ 歩む一足一足を 頼れる山として 悲しみの中で 大いに楽しく生きていこう 「誰が今死ぬものと知るだろう 今まさにやるべき事をなせ」 日差しよ当たれ 霧雨よ降れ 歩むのだけは心のまま 失う事はない 井戸からはもう 湧きだす事はない 足跡を増やしていこうそこかしこに かつて歩み進んだ人にならって 頼りとなる 舟となる跡を残し 道を行く
枯れ果てない泥水の井戸の前で ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1635.8
お気に入り数: 0
投票数 : 6
ポイント数 : 7
作成日時 2020-12-13
コメント日時 2021-01-02
項目 | 全期間(2024/12/15現在) | 投稿後10日間 |
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叙情性 | 4 | 0 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 2 | 0 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 1 | 0 |
総合ポイント | 7 | 0 |
平均値 | 中央値 | |
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叙情性 | 2 | 2 |
前衛性 | 0 | 0 |
可読性 | 1 | 1 |
エンタメ | 0 | 0 |
技巧 | 0 | 0 |
音韻 | 0 | 0 |
構成 | 0.5 | 0.5 |
総合 | 3.5 | 3.5 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文
- だから夜露詩句推薦文 (湯煙)
足腰が立ち一歩を踏み出すまでのそのための土台といいますか、労働や生活を通してさまざまな感情や肉体的な限界なりの、泥にまみれたような体験なりが土台作りの作業、なにかを耕すようなそのものであったのではないかと、そうしたことに気づく時があると思いました。振り返った時に大変だったけれども自分の足がようやく地についた足として実感を持つことができる、泥だったものが支えとなる、作品からそのように思いました。だからこそでしょうか、日差しよ当たれ 霧雨よ降れと力強く詠うことも現在から自然な感情の発露としてあるのではないかと。こうした作品や言葉は若いときにありえたかと問えばおそらくなかっただろうなと、そんなことも考えましたね。歩み進んだ人にならってとありますように、多くの人が同じ道を歩き出したのだろうといったことも心の身体の井戸から湧き上がる水、自然な実感として滲み出るものではないかと思います。肥やし、力となるということなのではないかと。
0イメージとして井戸とは人の心かもしれないと思いました霧雨によって新しい何かが生まれたと思いました
0カギかっこの部分は原始仏典からの引用です。 最初のはスッタニパータ、次のはマッジマニカーヤ(阿含経中部経典)。 まさにその通りでして。 どうしようもなかった怒りなどがこれらの言葉を足場に、それに続く経験などが、尽きなかった泥のような感情を克服するものとなりました。 考えてみれば、そのような道を歩む人たちと同じ道に立って歩いている訳でもあります。 自分が外れることなく歩けるように、また多くの人が道に歩けるようにと、願いを込めました。
0確か心理学で、深層心理をイドという事があったかと思います。 狙ったつもりはなかったのですが、そういう解釈もできますね。 乾いた泥に霧雨ではまたぬかるむ可能性はありますが、水なしには生きていけません。 霧雨で新た産まれえるのも確かです。
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