批評:「どうして なんで」を追いかけて - B-REVIEW
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きょこち(久遠恭子)

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批評対象
作品を読む

批評:「どうして なんで」を追いかけて    

<批評対象作品>
どうして なんで


貴方は美術館にいる。そこで貴方は一枚の絵の前に立ち止まった。その絵は貴方になにかを訴えているような気がする。この絵はとても恐ろしい。だけど自分はこの絵が好きなのだと思う。理由は分からない。そんなものは必要ないだろう。ただ好きなのだ。そうして貴方はしばらく何も考えずにその絵の前に立ち続ける。 すると、貴方の隣に一人の男が現れて言った。 「貴方もこの絵がお好きですか。これは素晴らしい作品でしょう」 貴方は頷く。ええ、とても。 「この絵の作者であるヘンリー・フューズリは18世紀にイギリスで活躍した画家なのです。といっても彼はスイス人なのですが」 貴方は不審げに男を見る。なんだこの男は? そんな蘊蓄に一体何の意味がある? 「画面の左に馬が描かれているでしょう。馬は好色のシンボルなのです」 貴方は何も言わずに立ち去る。馬が好色のシンボルだって? だからなんだというのだろう。そんなこと、どうでもいいではないか。 ……お前は一体何が言いたいんだ。これは批評文ではないのか。そんなお叱りを受けそうなのでもうやめておこう。なぜ評者がこんな話を冒頭に始めたかといえば、評者にとって批評とは結局この男に過ぎないような気がするからだ。 何か美しい作品と出会ったとき、そこにあるのは作者と受け手の関係だけだろう。批評など余計なお世話でしかない。下手をすればつまらない批評が作品を汚してしまうことだってあるだろう。ならばなぜ批評なるものが存在し、それが必要とされるのか、評者はその答えを用意しているわけではない。ただ一つだけ言えるとすれば、批評は答えなどではなく、批評もまた作品そのものと同じくある種の問いである、ということだ。 mooo氏の「どうして なんで」という作品を読んだ。実はこの作品はもう何度も読んでいる。初めて読んだときにとてもいいと思ったし、実際そうコメントもした。それだけでいいような気もした。こういう作品にとって、批評など無用な気がしたからだ。評者のくだらない講釈は、もしかしたらこの作品を、この作品と読者の間に生まれるだろうあの感じを邪魔するものになるかもしれない。先に話したあの無粋な男のように。 その一方で、評者はこのような作品こそ批評されるべきではないか、とも思うのだ。 本作品を味わうために必要な知識などはないだろう。また、ある種の特殊な経験をした人でしか分からないわけでもないだろう。何も難しいことなど考える必要はないのだ。よって、この作品に必要なのは「解説」でも「解釈」でもない。 評者が今したいこと、それはこの作品を読者である貴方とともに「ただ読む」ということだ。 だが、評者はその性格上、もしかしたら先の話に出てきた無粋な男のようになるかもしれない。その場合には、どうか我慢して付き合ってほしい。 一連目。 「ものすごく寂しいときがある それは眠っても治らない どうして なんで どうして なんで そんな意味を考えている」 これはいわゆる知恵熱のようなものだろう。何かが気になって頭から離れない、そんな経験はだれでもしたことがあるはずだ。 そして第二連で語り手は述べる。 「ここから見ていると 吸い込まれそうになる そして 怖くなって 我に戻る」 語り手が見ているものは「何」だろう。語り手を吸い込もうとしているものは。その何かを見ながら語り手は恐怖を感じ、我に戻る。それはまるで、悪夢を見ているようだ。 語り手が見ていたもの、その答えは次の第三、第四連で語られる。 「どうして なんで どうして なんで は、いつも ついて来る どうして なんで どうして なんで は、答えなんか待ってない」 語り手が見ていたものは「どうして なんで」そのものなのだ。謂わば「どうして なんで」の擬人化だ。だが、人というよりもむしろある種の妖怪やモンスターだと考えた方が面白いかもしれない。「どうして なんで」はもしかしたら毛むくじゃらの悪魔のような姿をしているかもしれないし、あるいは真っ白な服を着た髪の長い女かもしれない。振り返るとそいつが付いてきているのだ。「どうして なんで」と言いながら。 そしてそいつは答えを待ってはくれない。そいつの目的は答えではない。そいつはただ「どうして なんで」と問いかけるだけの存在でしかないからだ。仮に貴方が「どうして なんで」に向かって何か答えらしきことを言ったとしても、それでもやはり「どうして なんで」は言うだろう。「どうして なんで」と。そうして貴方の後ろにずっと付いてくるだろう。「どうして なんで」はただの無であり空でありゼロなのだ。 第五連から第八連までは、基本的に同じことが繰り返される。 「誰かの痛みをどこまで感じられるか それがとても素直で どうして なんで どうして なんで どんなときも 考えている ここから見ていると 吸い込まれそうになるんだ そして怖くなって 我に戻る どうして なんで どうして なんで は、いつも ついて来る どうして なんで どうして なんで は、持つべき 友ではない」 この繰り返しの構造そのものが、「どうして なんで」という悪夢を表しているだろう。それは終わらない。それは何度も繰り返される。後ろを振り返ればいつも「どうして なんで」が付いてきている。そうして語り手を吸い込もうとする。無のくせに、何の意味もないくせに、それは繰り返されるのだ。 そいつは、「どうして なんで」は笑っているのだろうか。あるいは泣いているのか。もしかしたら、そもそも顔自体がないのか。 第九連と第十連では少し変化がある。 「何から逃げてる どうして逃げてる わからない こと ばかりなのに 結果なんて もう 知っている それって 変 だよね?」 リフレインは終わった。ここで語り手はひとつの発見をするのだ。語り手は問う。「何から逃げてる」と。「どうして逃げてる」と。 そんな答えは分かりきっている。語り手が逃げているのは「どうして なんで」だ。なぜ逃げてるのかと言えば「吸い込まれそうになる」からだ。「どうして なんで」の「どうして なんで」には終わりがないからだ。何も生まないからだ。単なる無でしかないのだ。それなのに繰り返すからだ。 そして語り手は言う。 「結果なんて もう 知っている」と。そう、すべて分かっているのだ、語り手は。 なのに語り手は言う。 「それって 変 だよね?」 このとき、語り手は、「どうして なんで」に吸い込まれてしまった。それは、言ってはいけない呪いの言葉だった。だが語り手はそれを言ってしまった。そうして語り手自身がとうとう「どうして なんで」になってしまったのだ。 悪夢は終わらなかった。いやむしろ、悪夢は世界を覆い尽くしてしまったのだろう。 「どうして なんで どうして なんで は、いつも ついて来る どうして なんで どうして なんで は、眠る場所ではないぞ」 最後にもう一度、リフレインが繰り返される。その意味はなんだろう。 だが、その意味を問うことはもうやめようではないか。これ以上意味を問うことは、評者やこの文章を読んでいる貴方が「どうして なんで」になってしまうことを意味するのかもしれないから。 この作品の最後は次の一文で締めくくられる。 「誰かと 話したいな」 「どうして なんで」から逃れる方法、「どうして なんで」から元に戻る方法がもしあるとすれば、それは自分でない他者が自分の世界に介入してくれることだ。眠りから覚まさせてくれることなのだ。 だが、恐らく語り手は気づいているだろう。そうは言っても、実は「どうして なんで」が誕生するきっかけもまた、他者なのだと。もしこの世界に自分一人しかいなければ「どうして なんで」は生まれないし、誰も「どうして なんで」になったりはしないのだ。 ならば、なぜ…… ああ、一体なんなのだろう、この作品は。 しかし、これ以上はもはや問うまい。評者は「どうして なんで」になりたくない。 だが、本当にそうなのだろうか。 詩を書くことやその批評をするということ、それは、答えなのか。そうではなく、それはいつだってある種の問いなのではないだろうか。 今はまだ、この先を問うまい。問う覚悟があるかどうか、自分でも分からないから。 もしかしたら私たちは皆、もう既に「どうして なんで」になっているのかもしれない。 なんて、そんな言葉もまた、呪いの言葉なのかもしれないが。



批評:「どうして なんで」を追いかけて ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 6
P V 数 : 1504.9
お気に入り数: 0
投票数   : 0


作成日時 2019-05-30
コメント日時 2019-06-01

批評:「どうして なんで」を追いかけて コメントセクション

コメント数(6)
stereotype2085
(2019-05-30)

批評としても読み物としても優れていると思いました。特に冒頭絵画の前での2人のやり取り。絵、もしくは何かの創作物を鑑賞して、ただただ純粋に楽しんでいる人にとっては、確かに馬が好色のシンボルだとか、作者の業績がいかなるものだったかとかの批評、分析は不要なものでしょう。しかしその点を踏まえた上で展開されるこの批評文は、大変面白いものでした。批評対象作品である「どうして なんで」は、この論評を読んで改めて向き合った作品でしたが、その当の作品「どうして なんで」よりもこの批評文にコメを寄せたくなったのは、論評として秀でているからでもありますが、やはり「どうして なんで」という謎の疑問符に集約されるのだろうし、されるのかもしれません。では。

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エイクピア
(2019-05-30)

「どうしてなんで」はコメントはしませんでしたが、ポイントは入れていました。この様な批評の形で読めば、そのとき読んだ時の状況が、具体的に蘇るほど都合よくはありませんが、何か立体的な、意識で詩に臨める感じで有意義だと思いました。

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哀愁亭
(2019-05-31)

stereotype2085様 コメントありがとうございます。 「批評対象作品である「どうして なんで」は、この論評を読んで改めて向き合った」 という言葉は、本当に嬉しいです。この評は誰かにとって当該作品に触れたり振り返ったりする機会になってくれたらいいな、というそのためだけに書いたものです。なので「よかった。言葉を受け取ってくださった」と思いました。ありがとうございます。

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哀愁亭
(2019-05-31)

エイクピア様 コメントいただきありがとうございます。 立体的、という言葉は言い得て妙だと思います。批評のような形で誰かの体験をすることは、作品ー受け手という平面的な関係に第三の視座を提示することになるのかもしれませんね。 本評がそのようなものになったのであれば、それは評者冥利につきるというものです。 ありがとうございました。

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mooo
mooo
(2019-05-31)

哀愁亭様 「どうして なんで」を批評の題材に選んでくださりありがとうございます。 最初はとても照れくさくて、なかなかコメントが書けませんでした。 こうして今コメントを書いてはいるんですが、大したことは書けません。 自分は自己セラピーのように詩を書いてそれを誰にも見せる事もなく、誰かの詩を好んで読む事もありませんでした。 だから、人の詩を読んでこんな自分がコメントなんてって思っていました。批評をしようなんて考えもしないです。 でもそんな自分の詩にコメントをしてくれる人がいて、批評してくれる人がいて、良いと言ってくれる人もいて、それがとても不思議で有り難くてとにかく有り難いです。 この経験を大事にしてこれからもっと詩を書いてもっといろんな人の詩を読んでいこうと思います。 哀愁亭様の批評は僕の詩を越えて一つ素晴らしい作品になっていると思います。 ありがとうございました。

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哀愁亭
(2019-06-01)

mooo様 コメントありがとうございます。こちらこそ、素晴らしい作品を批評させていただきありがとうございました。 これからも素敵な詩をたくさん書いてくださいね。応援しています。

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