別枠表示
ことば
私が初めて ことばを口にしたのはいつのことであろうか 恐らく 母親への頼み事のために 思わず 口を衝いて出たことば ママがその初めであろう スイスの言語学者ソシュールは言う シーニュは シニフィアンとシニフィエとから構成されると いま それに倣って言うなら 最初のことばの シニフィアンはママであり そのシニフィエは 無である いきなりの 無の出現に 私の心中は穏やかではないが いまは構わず先に進むことにする 次の私の相手は 父親でもあろうか そのシニフィアンはパパであり シニフィエはママではないである ここで ママの場合と同様 父親の 信じ難いシニフィエに 思わず 息が詰まる それでも 母親のシニフィエにおける 無ほどの衝撃力はない なぜなら 理性には 理性の弱味があるからだ それは 否定命題を乱発することだ その結果 何々ではないの彼方に あたかも肯定されたかのような当体が にわかに現出する ことばのシニフィエは まさに こうした巧妙なからくりを 縦横に駆使したものだ 次に 私は姉のネネに声を掛けたと思う そのシニフィアンはネネであり シニフィエは ママではない パパではないである この後は 幾何級数的に否定命題が続く それは 本来的に存在するものを 肯定するということが出来ないという 人間の宿命である しかし 東洋世界には グルと呼ばれる 一群の指導者たちがいる 彼らは からだ全体を使って 無と対峙し 対話し 最終的には それを超脱する そして 後継者のための良き指導者となる しかし 西欧世界には そうした良きグルの伝統がない そのため かのアントワーヌ・ロカンタン(サルトル著『嘔吐』の主人公)は 無を前にして ただ独りオロオロするより術がなかった この東洋世界には 聖胎長養などという 美しくも それは行き届いたことばがある たとえば 東洋世界に生きる私は その点 恵まれている さらに 次のような道元禅師のことばを読むことも出来る 「水清くして地に徹す 魚行いて魚に似たり 空闊くして天に透る 鳥飛んで鳥の如し」 ここには すでに魚や鳥のシニフィエは存在しない それらはすでに 脱却されているからである だから このことばを 禅師の悟りのことばと捉えてもよいだろう それ故 魚や鳥は すでに無「自性」的に分節されていて ソシュールのシーニュ論は用をなさない ということは もはや シニフィエの否定命題は消尽したということだ そのとき 魚や鳥はどうなるのか 禅師は言う 魚は魚であるより 魚に似ているのであり 鳥は鳥のごとく 飛ぶのであると それでは一体何がどう変わったのか 私にはよく分からないことだが それでも それぞれが本分に還りながら しかも いつしか 徼が外されていることを知る ソシュールは晩年 火星と交信して過ごしたという 恐らく これは 理性がことばの無を処理仕切れなくなり 止む無く 更なる無へと急降下したのであろう もちろん ソシュールに落ち度はまったくない あるとすれば ことばそのものの側にあろう たとえば ことば自身が狂気に駆られて 自らを演出する ということもあるのではないか
ことば ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1109.8
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2025-07-04
コメント日時 2025-07-14
| 項目 | 全期間(2025/12/06現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


難しい詩ですね。シーニュって、シューニャ(数字の0)と発音が似ていますね。 最後の方の空白部分には、何か意図はあったのでしょうか。
0読んでいただき、ありがとうございます。「空白部分」については、ちょっとお尋ねの意味がわかりかねます。黒髪様の詩は、いつも関心を以って読んでいます。事物の本質をとらえる思考に概念がありますが、これはまた内包と外延とに分かれるようですが、黒髪様の詩はこの後者の外延の使い方が実に巧みだと思います。たとえば、詩『時の円環』の中で、「時はつながって輪になっている」という視点が外延です。外延については、広辞苑に「同一の本質をもつ一定範囲の事物(外延)に適用されることで一般性を持つ」とあります。私は内包ばかりで問題ありですが、それでも、なんとかして「外延」的視点を持ちたいものだと思っています。どうも、ありがとうございました。
2ソシュールは「初めに名前ありき」と唱えた人ではなかったでしょうか。 名前をつけた瞬間、突然「モノ」が出現するというような……。
0何を言いたいのか、まったくもって掴みきれないのだが、読まされた、ということだけでも素晴らしい。喝采の拍手だ。ことばの雨を照らそう。
0念のために言っておきますが、「空白」というのは、作品の末尾にブランクが20行程度入っているということです。お気づきではないようですが。念のため。
0お読みいただき、ありがとうございます。私はソシュールを主に丸山圭三郎氏、向井雅明氏らから学習させていただきましたが、お話の件は不案内です。名前を付けた瞬間、突然「モノ」が出現するというのは、いかにもソシュールらしい気がしますが。ありがとうございました。
0なんとも、すばらしい言葉です。今、私は少し頭が疲れているので、こうした八方破れの言辞はメチャンコうれしい。現在、84歳になりました。御迷惑にならない程度に、好き勝手をさせていただきます。ありがとうございました。
0別に、これという意味はありません。今後も、よろしくお願いいたします。
1ソシュールの言語論、その具体的な応用。そして火星との交信エピソードなど、興味の尽きない詩でした。やはり言葉の初めの「ママ」、これは外せない具体性で、ルーツが燦然としていると思いました。
0お読みいただき、ありがとうございました。ことばの意味(シニフィエ)が、本来「無」だということは、絶望的に捉えるにしろ、希望的に捉えるにしろ、まず、確と、心得ておくべきことのように思うのですが……。「色即是空」(禅宗では、「空」より「無」を使用するようですが)、この「色は直ちに即空(無)である」にも通じるような気がします。ありがとうございました。
0