それ以上でも、以下でもない事実がある。多く相談者と相談相手の関係において、 相談者の方が相手を見ている。しかし、後者の立場的優位性から、もっと言えば力の論理から多くその認識に誤解は生まれる。かくして相談者の多くが相手が充分に話を聞いてくれないと外で不平をもたらす事になる。相談相手からすれば力の論理で言えば立場上自分に分がある事は自明のことなので、外で何を言われている か? 知ったことか? 嫌なら最初から私を尋ねなければいい、となる。しかし、相談者からすれば相談する相手を選ぶ自由はそれ程広くないという事実がある。相談者の選べるカウンセリング相手は訪問先を訪ね、自分が指名したわけでもない、 訪問先が選んだ人間である。健気にも彼は初めて面会する相手に取り敢えず信頼す る姿勢を見せる。が、実際は誰もが(本来それで正解だが)遠慮がちに言っても本音では誰一人初めから無防備に信頼は寄せていない。カウンセラーが初めに確認したいのは相手が自分に信頼を寄せているかという事。又、実際はこちらが先決だが、相手が相談主として信用するに足るかという事。そう、こちらの側も本音では 用心深い。相手が用心している様子。簡単に他言出来ない実情をベラベラと語る様 子。丹念に見分け、ひどい話かも知れないが、態度の上でも舐めてかかる場合も多 くありうる。相談主は一方では信頼しているからこそ話しているという姿勢を見せ ながら、一方では内心不信を抱えている。その不満がストレートに出てしまう相手もいる。
「お開き! 信頼しないなら出て行って貰おう」
とは、ならない。役職上、自分が信頼出来る相手であることをお金を出して訪問に来た相手に示すことが必要だ。辛抱と忍耐。しかし、実際はやり取りを続けるには どこかで双方が折れて妥協するしか無いのだ。相談主からすれば選択肢はそう多く 無い。相談相手からすれば
「お前の代わりなら、幾らでもいるよ」
が本音である部分も多いが、その幾らでもの中のパーツの一部を簡単に手放す訳に はいかない。パーツが連なって全体がある。パーツを疎かには出来ない。こう言っ た現実を内包し、無意識の下に包み隠しながら問題解決のために融和を装う。それが嫌なカウンセラーとそのカウンセラーの態度を嫌がる病者。しかし、立場上相互依存的にお互いを求める間柄である以上、カウンセラーは当然のこと、繕うという、本来健常者が常識的に出来ていることがどんな病んでいる状態であれ、病者にも求められる。現実的には双方が時間との闘いである。カウンセリングに天国を期待し てくるのは病者の社会的意識の低さを表しているに過ぎない。社会で一端の成功を修めた人間がそんな人間を見下すのは仕方がない。が、それを踏まえた上で、現実的なこの世に避けられない課題として病理があり、自分も含め病を抱え、 その課題の解消法を探るのがカウンセリングの仕事だ。決して愉快犯的に覗き見趣味として他人の心を覗くことをこの世界の信条としてはならない。多くの医者がその点で大きな勘違いを犯している。それをどんな病者も当人達よりみている。一方で当人達は医者より自分を見れているだろうか? どんな人間も鏡以上に自分を見る事は出来ない。それがこの世界の持っている他に類を見ない奥深さだ。 『医者が語ると患者が黙る』 患者の多くは実生活において、受け身を強要されていることで悩みを抱えているものが少なくない。彼ら彼女達から言葉を引き出し、受け身から解放し、他人に対し、積極的な姿勢と与える力を持たせる。これが私が仕事上一つの指針としているものだ。殆どの人間は人の話を聞けてない。又は、充分に聴ける人間が一人でもい たなら、恋人の破局はないだろう。好きで付き合った同士でも解ってもらえない事 が原因で別れるものだ。双方の同意の形をとるものもあるだろう。どちらかに倫理的な問題を問えるものもあるが、つまるところ根本的な原因は我々は一つではない と言う事だ。元は一つだったかも知れない。もうそれはずっと前のことだ。その時の記憶について詳細に言葉で掘り起こして語れる者はいない。医者は音楽を聴くようにじっと耳を攲(そばだて)て、どんな不協和音であろうとも患者の話す言葉の 一つ一つを心に止めようと努める。しかし、実際は私にだって時間がある。カウンセリングを大回りしている間、全ての病者の悩みを心に留める? だから、ペンが ある。筆記したものを読み直せば、病者の対処すべき問題について、幾つか思い当たる事がある。思いがけない発見。宝石箱のようなとまではいかないが、まぁ、仕事を通してそれが、その人の抱える問題を通して人生という不可解なものを考える手掛かりになる事だってある。好ましいにせよ、好ましくないにせよ、医者は患者の本当に望んでいるものについて目覚めさせ、理論立ててそれを認識させる。するとうまくいけばどんな未熟な人間でもヨチヨチ歩きでもどうやったら歩けるか? と言う意識は向かうようになるだろう。健全な人間ならそこへ向かって自然と歩い ていくようになる。医者がすべき事はその手助けをする事だけだ。大抵の医者は多 くの悩みを聞いている内にどこかで
「よくもこんな下らん話をダラダラと出来るものだ」
と思うものだ。その通り、貴方と私は違う。私と彼も違う。だから、彼の味方をする義理は職務上の建前でしかない。好ましくない政治的主張も大概ある。ダメな医者ほど己(おの)が価値観でそれを否定し、患者の意識を自身の好ましい方向に捻じ曲げてしまう。時には、政治的にきわどいテーマを持ち出し、同意を求めてくる患者もいる。中には賛成出来るものもある。が、簡単に同意する訳にはいかない。 簡単に判子を押す訳にはいかない。一歩社会に出れば誰でも、印鑑証明書のように立場上、慎重に言葉を選ぶべき発言がある。危ない話を持ちかけられそうになることもある。性的誘惑を思わせるものも。穴に落ちる前に私はそっと相手に分からぬタイミングで見えない位置に忍ばせてある録音テープのボタンを押す。テープは危険が去ったと分かった段階で消去する。つまり、悪用したり、うっかり第三者の手に漏れなければこちらに落ち度はない。それを道徳的に許せないと言う議論はお話にならない。こっちは危ない道に誘い込まれるかも知れないのだ。どんな職業でも、特に教科書を自分で作っていく必要があるような独創性を自らに課し、かつ社会の晒し者にされかねない道徳的な危険性を秘めている職務において、そこへ向かおうとしている人間は地雷を踏まないよう、しっかりその道の法律について勉強しておく必要がある。決して感情論では法律は動かない。
「正しい事は全て法律で保障されている」
歴史的に未開の人間でなければ赤面せずにはいられない発言だ。文面上のことが有事に対し、万能でない事は体系的な知識を持った人間なら自明のことだ。法律とは勝ってきた規則だ。大声では言えないが、中にはとんでもない悪法だってあるかも 知れない。歴史的にみれば確かに今日で悪法だったと定説になっている法律も少なくない。イヤ、この国においてまさかそんな筈は......そうです、そうです、その通りです。しっかり自分を守るための弁解もお忘れなく。結局道徳的な感情論を持ち 出してくる輩の多くが、歴史的に群衆の中で勝ってきた論理、つまりは力の論理、数の論理をあてにしているのだ。自然淘汰を賛美するダーウィン的世界観の持ち主が持ち出すクロマニヨン人の勝因や恐竜が滅びた理由。サッカーの試合のように、 滅びた理由について考え、それを反面教師にして生き延びようとする。しかし、滅びた者達にスポットを当て、彼らの悲劇と没落の物語を描こうとする人間がいたっ ていい。そんなモノはなんの役にも立たないじゃないかって? なら、貴方は永遠に風のように時期が来れば自然淘汰されていく人生指南書を追い続けていればいい。買っては捨て、覚えては忘れ、飲み干し、吸収してはすぐ何も残さずに捨てていく営みを繰り返す人間が一人でも多くいることは、常に新しい新商品を売り込みたい業界人にとって好都合なのかも知れない。偉大な人物が勝ったことなど一度も無い。イエスキリストに信者が求めた事はなんだったか? それは天国と地上の苦しみからの救いという禁断の木に生った甘い果実である。
「私は多くを許した。しかし貴方達は殆ど全てを許さないどころか、私が大切に育 てた樹木に生えたリンゴやバナナを根こそぎ奪い取った。しかし、それでも私は許 すだろう。それでも貴方達は私から奪うつもりか?」
若しかしたら、イエスが十字架の上で磔にされた姿でこう語ったとしても、その声に真摯に耳を傾けたいと思う人間は少ないのかも知れない。チャールズチャップリンは晩年進歩的なSF映画を疎んじた。ジョンレノンは晩年
「僕は50年代の人間なんだ」
と、十代の頃出逢い、生涯愛して離さなかった原始的なロックンロールへの想いを語り、その後の音楽シーン全般において、生演奏のものでさえ事前に録音したものに合わせて歌う瞬間、失われてしまうものがある。と録音技術の飛躍的向上による音楽の人口化について否定的な見解を示した。立川談志はもう、寄席の客の好むものがおれの時代のものと変わっている。と嘆きながらもう飽きた、と言葉を残して生涯を閉じた。私の尊敬する人物に時代と価値観の落差を唱えず亡くなった人間は一人もいない。勝つのはいつも、迎合上手な群れだけだ。その群れというものも、 個人と言う実体を持たない架空の概念としての群れのことであり、つまり勝った人間など一人もいない。正しいものが勝ち、劣ったもの、間違ったものが敗れるなど嘘だ。多くの理不尽な死に様を終えた人々がいる。アフリカに生まれた子供達。何も間違ってない。アフリカに生まれたと言うだけだ。それを自然淘汰と言うなら、 自然淘汰に正義を求めるのは土台無理があると言うものだ。アメリカにアメリカ人は一人もいない。いるのはヨーロッパ人だけだ。日本に日本人は? 和服を着てい る者も、パンよりご飯を好む者も、洋菓子より和菓子を好む者も全てではなけれ ば、ジーパンに巨大なコークとケンタッキーフライドチキン、おっと、ポップコー ンもお忘れなく。勝ったか? 負けたか? 知ったことか!!
「なんかどうでも良くなっちゃったんですよねえ」
(「よく分かってるじゃないか」
と答えて笑いを取りたいが、相談主に未だ熱が 残っているのを察知し、深刻な波長に合わせるべきか未だ探りを入れている)
「逆に言えばどうでも良くないと思ってる方がしんどくない?」
「嗚呼、そうですねえ」
(ソフトな言い方に変えてみる。まずまず好反応だ)
「どうでもいいことを一所懸命やると下らないになるよね? 下らないを一所懸命やるとバカバカしくなる。脱力する。これでいいじゃない」
「うーん......」
(少し重い沈黙が生まれる。お安い御用だ)
「もうちょっと、こう......」
(「分かってる。意味を求めてるんだろ?」と答えたいが、しばし待つことにする)
「真剣になってる人に同調しすぎちゃって疲れちゃってる? みたいな?」
「ハァ......嗚呼......ですかねえ?」
「まぁ、優しいんだろうねえ」
(返答を待つ)
「………」
「大義とか正義がないと崩れてしまうものがある。それはどうでも良くない。支柱として足場を支えている訳だ。つまり経済とかお金であるとか、みんなそれはどうでも良くないよ」
「うーん......ですねえ......」
「ホラ、猿が高い山に登ってさ。バナナの取り合いするでしょ? それが出来なかったら悔しい。でも、それで悩むのは違うと思うな」
「(笑)」
「ホラ、そこは脱力するとこよ(笑)」
「...........でも......」(しばしの沈黙の後、彼が切り出す)
「ウン......」
「でも、もうちょっとなんかこう......ウーン......」
「例えば、一定量真剣気味になりすぎる人というのはいて、例えば自分が見くびった相手から面倒な態度を取られる事はその人間にとって好ましくない訳だ。どっちが本当に舐めてるかっていうと自分じゃない。相手だよ。こっちは相手以上に礼儀を守ってる面がある。だから相手が自分を見くびるとしたらそれは相手が田舎者な んだよ」
「ハァ、それは先生のぉ......」
「プライドとか、矜恃っていうのは大事なんじゃない? ただ、それが何に支えられてるかって考えてみるといい。頭を下げる相手がいて、成り立つ面があるでしょ? じゃあ、頭を下げてる人間はなんだ? とか他人を押しのけてそれを当然の権利と思ってる人間はどうか? とか考えたらさ。不満を持つよりどうでも良くなれるっていうのはある意味で幸せだよね。誰だってどうでも良くなりたいんだから」
「先生、それは......」
「どうでも良くなって、こうやって椅子に仰け反ってブァーってやりたいよ」
「ウーン......先生! ぶっちゃけすぎじゃないですかね?」
「そうかなぁ? じゃあ、例えば私が貴方をむやみやたらと褒め称えたとしよう... どう思う?」
「うーん、なんか......怪しいな......とは......」
「ケーンゼン! 正解! つまりなんか目的があってそのために利用するための餌と思う。これが上下が逆だと割りかし普通だ。日常自然に起きてる現象だが、そこには内心不安だから相手を立てると言う面がある。字句通りに受け取ったり、相手の主張する意図通り受け取らないのが通常のコミュニケーションだ」
「ハァ......」
(「オチはない」とは直ぐには口に出さない)
「.......話のオチはない!」
(出しちゃった!)
「(笑)」
「(笑)」
「ハハハ、今日はちょっと喋り過ぎましたね。オチって言うのは一つの結果ですよ。試合で言えば中継後の世界です。誰だって終えた後より向かっている時が一番楽しい。山道を登って考えた結果を望むのではなく、山道を登って結果が出ることを期待して登っている瞬間が楽しいのです。後は裏切られた、いい結果悪い結果は、代償として又恩恵として副残物でしかない。副産物を第一に考えるなら、楽しくはないが、楽な人生を歩めるでしょう。SNSで知りたいことを調べれば直ぐ答えが出 てくる。納得出来ない答えだと思える人は山道を登る可能性を持った人間です。熱湯沸かして3分で答えが出る。正に即席ラーメンの世界。俺たちはもっと旨いラー メン出してるよ、とテレビが呼びかけ、ラジオや出版社は、オレならアンタをもっと酔わせることが出来る。とびきりの密造酒だ、と胸を張る。ラーメンだろうと旨い酒だろうと、始終腹に溜め込んではち切れんばかりの人生も悪くない。ただ、たまには自分の足で一歩踏み出す人生。それも悪くない。今の時代、パソコン画面上でいいねボタンを押せば『トモダチ』の世界です。トモダチの定義も随分幅広く、 また控え目になりましたよ。僕らが幼い頃は友達と言ったら夏になったらカブトムシを捕まえに一緒に誘い、冬になれば雪玉を投げ合って雪だるまやカマクラを作 り、やっとこさこぎつけてお互いトモダチと呼び合える仲と認められるようになったものですが。三十過ぎたら、健全な人間は社会に出てひとっこさお金を稼ぎにドサ回りを続けなきゃいけない。つまり遊んでる時間なんてないんだから昔のトモダチシステムは重荷になり、今のシステムはとても便利です。相手がそれを認めてく れる好都合は逆に言えば怖さでもある。コミュニケーションの一つの彼岸のカタ チ。それは別れです。ピッ! とボタンのスイッチを押せば僕らは直ぐ離れてしま います。友達も友情も恋人だって、人の絆はいつだって脆く儚いものでした......」
私は周期的な乱れから昼間の内に酔いが回ってカウンセラーから巫女の魂を受けて まるで講談師へと変貌してしまったようだった。私は一人唸っていると動揺する相談者の前でそのまま涙を溢れ落とし、私が私自身に課していた完璧にコントロール された世界から解放されると
「きょ、きょうはもう、時間が来たカラァ」
ティッシュで涙と鼻水をグシュグシュと音を立てながら拭く私に相談者は動揺する 様子を見せると
「分かりました。では、今日はこれで失礼します」
去り際に彼は相談が始まって初めて私の目を見つめ、微笑を浮かべると
「先生、先生とは良いトモダチになれる気がします」
彼が本気でそう言ったのかは分からない。相談者がバタンとドアを閉めた後も、私はひとしきり泣いていた。ヤレヤレ、これではどっちが相談者で慰められているか、分からない。私の仕事への向き合い方もまた反省点が浮かび上がる。どんなに一時 (いっとき)完璧に見えても、そこから愚かさがこぼれ落ちない理念などない。守れない約束ならしない方がいい。ちゃんとしたかった。でも、出来なかった。世間 がそうさせてくれなかった。世の中が私を作り、同時にいつだって私の思うような 私にはさせてくれなかった。
「そんなの当たり前じゃないか。一人で生きているわけじゃないんだし」
みんなが笑ってくれるから、自分を好きになれるんだ。
「一所懸命やってる。ちゃんとしてる」
嘘だ。一所懸命やろうとしてる。でも、出来ない。それが真実だ。分かってるのに、どうしてそれで良いとハッキリ言えないんだろう。思えないんだろう。それを認めてくれる人ばかりじゃないからかも知れない。
「合わせなくても、良いんだよ」
合わせなくても良いなら、合わせずに許してくれない人がいることも知って欲しい。いや、これ以上涙を流す訳にはいかない。男として涙を拭いて立ち上がる時だ。しかし、時にこう、小休止も必要なものだ。例え、その小休止が側から見えて 惨めなものに見えても、闘う人間の小休止とは本番と違い、不恰好で惨めで、そんなものだ。少し、気持ちが落ち着いてきた。徐々にトンネルの向こうからローからハイへ私を引き戻す光が差し込んでくるのが見える。でも、まだ少し乱れた鼓動が 収まらない。思うように出来なかったこと。どうしても思うように出来なかった自分。時折、走馬灯のように記憶が蘇る。穴から抜け出たいといつも思い、抜け出たと思って喜んでいると、不意打ちに合い、穴から抜け出た筈がまた同じように穴の中にいることにいつも気づく。穴の先が穴なら、そこへ差し込んだ光は私になにを指し示していたんだろう? 愚かである。私も、私を作った世界も、私を疎むもの も、そして歓迎するものも。その愚かさの全てが笑いになり、憎しみになり、人生の機微を教え、全ての喜怒哀楽を象ってきたのに、その中で揉まれながらも時に疲れを口にし、ハーフタイムを求めれば手に入ることばかりじゃない。それなのに、 まだ私は目の前にぶら下がる人参を求めて自分の尻に鞭を打って歩を進めようとしている。そして、私にはそんな私の今まで歩んできた人生の全てが、時に人目を気にすれば恥ずかしい程に、狂おしく、愛おしい。私は今まで決して立派な人間では なかったのに、立派であろうとすら本音では望んでこなかった。私は私の愚かさを、呪うべきだろうか? 誰だって同じように愚かだ。いや、同じようにじゃない。星の数ほどある人それぞれ千差万別の愚かさを抱えている。自分達と種類の違う愚かさを指摘して嘲る人々の群れ。立派なこと。これも反吐がでるくらいつまらないこ とだ。不器用で、何をやってもダメで不出来で、それだからこそ愉快だ。私の理想の死に方は路上で反り返る大ガエルの間抜けな死に面だ。間抜けで愚かなことをやって笑い者になる手段は幾らでもある。いつか吉原のほとりにある名前は事情あって言えないが、湖の上で一升瓶を脇に浮きながら豪快な死に方をしたいものだ。どう死ぬか? 大事な問題だが、生前私を嫌い、いびり倒した人生の先輩方も、やっぱりアイツは愉快な奴だったねえ、と代々語り草になるような痛快極まる死に方をしたい。『天才バカボン』の赤塚先生の死に様は犯罪的に愉快だった。私にしんみり共感を寄せていた人はこれを聞いて怒るかもしれない。バカ言っちゃいけな い。生前、散々いびり倒しても死んだ時笑ってくれる人の方が楽しい人に決まって る。そう言えば、あの人達も時折人間味のある顔を見せた。私はそれを見る度、内心ガッカリしたものだ。散々いびられてもどこかであの人たちのどこかに私の抱え ている弱さへの理解と愛情を時折感じたものだ。散々いびり倒してもどこかで私を愛していたなら、少しは泣くかもしれない。そうしたら人生は何て素晴らしいもの だったんだろうと全てを肯定できるだろうに。オイ、そんな泣くなよ。生前アンナにいびったオレが死んだのが内心寂しいのかい? えっ? ここで泣かなきゃ女が 廃れる? 格好つけんな、ブスのくせに! どいつもこいつも忌々しい連中だ! やっぱりだから、オイラは未だ死ぬのヤーメタ!
「ポチャン」
と湖になにかが落ちる音を響かせ、さて、この音はなんの音でしょうか? と問いかけ、私の人間の感情の機微に纏わるとりとめのない話を締めさせて頂きます。
作品データ
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P V 数 : 443.6
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作成日時 2025-06-01
コメント日時 2025-06-02
#現代詩
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| 項目 | 全期間(2025/12/06現在) | 投稿後10日間 |
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 |
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
閲覧指数:443.6
2025/12/06 01時30分50秒現在
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アウトサイダーとして生きるならそれでいいかもしれない。 人間は寄り道しながら曲がりくねった細い道をゆく。 それも自由だし、その人らしい生き方だろう。 人生は短く長い。 頭を悩ませながら、時にスキップなどもしながらでこぼこ道を歩んでいくのだろう。
1日本人の死生観は戦後変わってしまったと思います。正義というのもいっときの自分の思いで『嫌な思いをしたから、ムカつく』程度。公のために、公共のマナーのためにこういうことはよくないと言った品性の問題を問うことはなくなり『今が良ければ自分が良ければお金さえあればいい』の赤子のような生き方をしながら、そんな自己の論理矛盾に気づくことなく、他人にくだらない説教をしてしまう人さえ増えました。 戦中は『自分は公のため国のため天皇陛下のため、いつ死んでも仕方のない存在』と腹を括りか細い存在としての人間がありました。その中を生きていた日本人はどうだったか? とても健康だったのです。戦後精神を腐敗させた日本人は米国人に特大のキャンディとチョコレートとテレビスクリーンとエアコンの居心地の良さに酔い、科学万能主義に陥って人文思想をかなぐり捨て、特大のコカコーラとハンバーガーで身を汚しておきながら、なにか体に不調が起きると医療に甘え依存する存在となりました。 現在はそれがメインであり、インサイダーの生き方と言えるかも知れませんが、自分の尻は自分で拭きたい人間がアウトサイダーになることもあろうかと思います。 私ごとですが、私を三十年以上に亘って陰湿ないじめ行為をしていた長男がめでたく放火事件で二年前に逮捕され、それを黙認し、隠蔽していた親ともなんとか別れを遂げました。これで親害、兄害から逃れ、福祉害からは逃れきれておりませんが、今度A型を見学出来るようになり、なんとか色々な害人とも別れを遂げる日々が待っているように思います。 嫌な人いくらでもいますが、さようならだけが人生とも言いますし、また自分に相応しい美女と知的な男性のいる世界つまり芸能界のような世界や一般の東京都会にいる人々の世界に40代になる頃には行きたいですね。もう田舎者地方人嫉妬深いブサイク人との付き合いは沢山でうんざりですが、人と人は因果と輪で繋がっていますから、新たな出会いに繋がるまでは耐えていくしかないと思っています。 「生き物エレジー」では、人と人の輪や縁から逃れられず、その逃れられない鎖が自分すらも象り、時に感謝すらしなければいけないものと話を結んでいると思います。 悩み苦しみそれでもおっしゃる通り、曲がりくねった道を歩んで人は大きくなっていきますよね!
0万太郎さん、確かに。 深く考えることなしに薄っぺらな正義感で人を叩き、その人の人生しら変えてしまう物事が増えてきたなあと思います。 戦前は戦前でお国のため天皇陛下のためと云って、かえがえのない命が失われていった経緯がありますね。正直どちらがいいのかわかりません。 しかし、波瀾万丈な人生を今まで歩んできた万太郎さんだからこそ、色々と思われることがおありなのだろうとお察しいたします。
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