letter to the other side of friends - B-REVIEW
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エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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letter to the other side of friends    

*  こんにちは。ようご君。そして、お誕生日おめでとう。これから綴る手紙の言葉がわたしからのプレゼントです。わたしは当てもなくこの手紙を書いてゆきます。あなたの好きなそぞろ歩きとでもいったところでしょうか。それは話すように書くということでもあります。人となりというのは足や歩き方そのものと信じてなりません。 *  あなたが最近になってたくさんの本を読んでいると聞きました。そのことをわたしは心から嬉しく思っています。その一方で、本を読めば読むほど、あれこれと考えざるを得ないという嘆きも、あなたが漏らしているのを耳にしました。まずはこのことについて書いてゆきたいと思います。 *  知の憂い!人は物事を知れば知るほど、思い悩まなければならないという事実は、その人が本の項をめくるのを止めさせてしまいかねない。知が心の奥底まで下りてゆく。そこに人はただ暗黒を認めるだけである。そして、その暗黒があまりにも幽暗で、たしかに事実的な闇であるにしろ、このことにわれわれは(何もあなただけが例外なのではない。)慄きを覚える。 *  しかし待てよ!この暗さは、知があまりにも輝かしいことによるのではないか。闇は光故に濃くなる。するとわれわれは往々にして、その果てしない暗さのみを見て、戦慄くのである。しかし待てよ!それは知の光輝の産物なのだ! *  知性や知恵というものは元来栄光に満ちたものであった。創世記にあるように、世界の創造行為に携わるほどのものであった。けれども、人の無知蒙昧よ!人はそれらを自らの愚鈍さを以てして貶めたのである。このことから、人は自らの心にそういった輝くものを取り入れること、さらに、それを取り入れたとしても、直視することに恥じ入るのである。目も向けられないのである。 *  このように聞かされたあとに、あなたはどうするであろうか。もう本を開くことをやめてしまい、それに薄埃をかぶせるようになり、本棚の片隅に仕舞い込むのであろうか。賢者に傾けていたその耳を閉ざすであろうか。 *  わたしは思う。そうであってはいけないと。むしろ勇んで心に知恵の燈火を輝かそう。なるほど、そうすることは怖い。恐れ多いことだ。しかし、にもかかわらず、あなたはそれを取り入れ、それを心の星座とし、あなたの心が貴い、かけがえのない一つの宇宙になることを望む。そうでなければ、どうして考える意義があろうか、さらに言えば、どうして生きている意義があるといえようか。 *  元々人は孤独である。人と人とには奥ゆかしい距離があったものだ。それ故にその間には愛が芽生えることが出来たのであった。が、それは失われてしまった。いまでは何もかもが近くにある。手を下すことが出来るようになり、更には、「破壊」さえ可能になってしまった。芽が出る前に、その土壌を踏みならしすぎてしまう。 *  人よ、孤独に帰れ。そのためには学ばなければならない。知性を蓄えなければならない。知恵を崇拝しなければならない。詩人リルケは以下のようなことを言った。「近くのものが遠くになり、その遠さは、星々の間にまで没している。」このような孤独には偉大という冠を戴いていると知れ。そして、こうなるためには、各自の心にも星座が必要なのであると信じる。われわれもそれに与ることが出来るように、臆することなく、書物を読もう。知恵ある者の言葉に耳を傾けよう。そして一つの小宇宙になろう。また、そういったものだけが、偉大なる芸術を創作できるとも信じている。 *  芸術。それに身を捧げるものは生半可な態度は許されないのでしょう。芸術は信仰と似ている点があると思われます。それは、そういったものに携わるためには、主体的な「覚悟」よりも、神からの「召命」が必要なのだと。あなたはどのような心持ちでダンスをしているのでしょうか。常に召命を孤独な心に待ち望まないならば、芸術は、たとえそれが模倣や、また、ちょっとしたばかりの創造はできたとしても、人の心に感銘を与えることはできないと思います。空っぽな孤独な心だからこそ受け入れることが出来る。このことを言うのは、おこがましいばかりですが、しかし大切なことだと思われるので、肝に銘じておいて欲しいです。計り知れない自戒を込めて。 *  ここで付言するが「光は闇故に」などという言葉たちは今更聞かされなくても、何度も耳にしてきた手垢のついた言葉なのであろう。しかし、真理とはいつもこうなのだ。二つの真理がある。「真理」とあなたの「真理」。このふたつは衝突することがあるし、前者は至極単純明快であるが故に知っていても尊敬することができない。さらにそれは人の自由を制限することが多い。また、所有格の付いた真理の方は何も劣っているというわけでもない。 *  またさきほど神という言葉が出てきたからには、それについて触れないわけにはいきません。主イエス・キリスト!あなたに対してはただただ感謝があるばかりです。それはようご君という友を与えてくださったからです。わたしたちの間には彼の恩寵が確実にあると思っています。そうでなければ、どうしてこのような麗しい友情が結ばれたのでしょう?あなたが毎日教会に通っているという話を聞いて嬉しく思っています。あなたは素直な人間だから、素直な信仰が持てると思います。そして柔和な心の持ち主こそが、イエス・キリストの欲した人物であるとするならば、彼があなたのことを祝福しないことがありましょうか。ようご君は性欲のことや、また他のことにつけても、色々と考えこんでいるようですね。ですが安心してください。神様はどんな人間でも、その心を神様の方へ向けるならば、救ってくれます。 *  夢と生活というのもまた難しい話であります。仕事や結婚のことを真面目に考えているあなたに対して、わたしからとやかく言うのは僭越の限りですが、それを承知で述べたいことがあります。ようご君、自分の心に忠実でいてください。今でもそれを感じないわけではないでしょうが、夢と現実の相克が君を襲う時が来るでしょう。ですが、その時でさえ自分の心と真摯に向き合うならば、道は開けるにちがいありません。夢を諦めなければならないならば、夢の星を仰ぎつつ生活と心に疾走して泣きましょう。心こそが人そのものです。それに対して嘘をつくことは、つまりは自分を裏切ることになり、そこには後悔という結果があるのみです。 *  信仰も、夢と生活の問題も、つまるところは「心」にかかっているようです。そしてそれの栄養分が教養であるとするのならば、今までの話は全て心のことを述べているようです。わたしは話すように漫然と書いてきましたが、このような結節点を思いがけず発見しました。しかし、わたしはここからそれを捨て去るように筆を進めるとしたのならば、あなたは吃驚してしまうことでしょう。 *  実はそうなのです。成熟した心は、ついには捨て去られるべきなのです。心、これをまた意志と言い換えられるものですが、これは神に対して、そして、隣人に対して捨てる、もっと適切にいうなれば捧げられるべきものなのです。先ほど自分の心に嘘はついてはいけないと書きました。ところが、ここでは嘘をつくどころか、捨てなさいというのです。そのことは自己犠牲になるのではないでしょうか。自分の意志で自分を十字架につける。そんなことが人間にできましょうか。答えを言うのならばできません。ではどうするか、神様に取って代わってもらうのです。それには繰り返しになりますが、自分の自由な意志で、己の自由意志を授けるのです。そしてこのことこそが、申し遅れましたが「愛」なのです。 *  ここまで筆を進めて、ようやく愛が顔を出し始めました。そしてこれこそがわたしが伝えたいこと、いやさらには、古から伝わる世界の基本原理だとわたしは信じてなりません。神は愛を伝えたかった。心を育てて、心を殺す(厳密には、殺させていただく)という逆説を。なぜ自分という存在を打ち捨ててまでして、十字架を担い、神と隣人に仕えないといけないか。そのことはここでいくら委曲を尽くして説明してもわからないことなのです。それには経験が必要です。しかし経験というものはいつも時間の制約を受けるものなので、それを通しても愛を一挙には理解することはできません。若人の生の点描と老人に差し迫る死の恐怖。ということは、人生のその一瞬一瞬が愛の試験場であり、解答を迫られているわけです。このことはあまりにも厳格で真面目です。 *  心の供犠は人間における永遠のアポリアなのでしょう。 *  実を言うとここまでのこの手紙は、ある二つの時期に書かれたものを、つなぎ合わせたものです。なので、前後で矛盾している点などが、もしかしたらあるのかもしれません。それは許していただきたい。そして、わたしは今からさらに筆を進めます。  *  いまあなたが直面している問題について話しましょう。それはたくさんあると思われますが、とりわけあなたの妹さんのことは、あなたが特に気を揉んでいますね。 *  妹さんが、悪事を働いてしまう。一方で、そんな彼女のことを、家族たちは理解しない。仮にするとしても、それは暴力的な姿を取って現れる。このことを打ち明けてくれたあなたの眼差しは悲しそうでした。わたしはそれを見ていられなくて、馴染みのない東京の風景を、車窓からずるそうに眺めることしかできないままでした。 *  あなたの妹さん並びに家族に対してわたしは何を語ればよいのでしょうか。正直に申し上げますと。私にはそのことが全く分かりません。わたしには何か説法を垂れることが出来るほどには強くありません。なので、ここでは神に語ってもらいましょう。なぜなら「『…力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』といわれました」(コリⅡ12:9)。神よ、わたしをして悩める友のために、必要な言葉をお与えください。 *  人は一つの戦場であります。そこでは善と悪、良心と罪とが、お互いに陣を張って、鬨の声を高々と上げ、血みどろの戦いを繰り広げる場なのです。それは誰でも同じです。平等なのです。しかし、それから逃れられることは、善と良心の勝利は平等ではありません。それは不平等です。例えば、キリスト教信仰に与ることが出来、救われる人もいれば、おぞましい罪に手を貸してしまう人もいます。ああ、なんという不条理。これはもう人間の自由意志という劇薬の効果を物語っています。 *  話がそれました。妹さんの話に戻りましょう。彼女の内部では、悲しいことに、病気によるためか、はたまた、生来の気性のためかは判然としませんが、悪と罪とがのさばっています。蔓延って猛威を振るっています。これを救うには、善と良心を奮い立たせて、大いなる勝利へと導くほかありません、それはどのようにして可能なのでしょうか。わたしは思う。それはただ、「愛」によってであると。 *  何度も繰り返します。ただ愛です。ありのまま。あるがままの彼女を大切に受け入れるのです。それは一朝一夕でできることではないでしょう。周りの家族が、愛に対して目を開かれて、愛の翼によって、神のもとまで飛翔し、また、その翼が、弱いものを温めることに必要なのだと知らなければいけません。そのためにわたしはこれから毎日とりなしの祈りを神に捧げましょう。できることは何でもしましょう。東北にでも行きます。わたしは弱いもの、特にそういった子供を放っておきたくはありません。なので、困ったときはいつでも相談してください。 *  そして、あなたは暴力的な(このような言葉を使わざるを得ないのが悲しい)家族の中でも、唯一の砦、良心の番人、そして愛の光にならせていただきなさい。これは何度も繰り返しますが、神の霊を心に受け入れさせていただかなければ、可能なことではないのです。だがしかし、このことが、少しでもできるようになったのならば(神は多くを求めない)妹さんにとっても、また、家族にとってもあなたは大いなる慰めとなることに違いありません。 *  「…わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ロマ5:3~5)。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものは何でも願いなさい。そうすればかなえられる。」(ヨハ15:7)。わたしたちは共に苦難を乗り越えましょう。そして、神の自由な愛の業によって創造された、一人一人のかけがえのない人間を、あるがまま認めるという、またこれも自由な愛による応答をしたのならば、困難の内から、必ずや希望は手を差し伸べてくれます。これらのこと、それに、神の言葉を心に秘めて永遠の今を生きていこう。この約束を本当の誕生日プレゼントとして君に捧げます。この成就を必ず果たそうじゃないか、心から愛すべき友よ。 *  最後になります。しかも今までのことを全て否定するようなことを書きます。今世界では滅茶苦茶な事ばかりがニュースを賑わせています。もうその地平では神やら愛やらキリストなんてものは何も役にも立たないガラクタだと思われてなりません。「真理」とあなたの「真理」がごちゃ混ぜになりそれら全てを津波のように消し去っていってリロードされてしまう毎日です。もうどうしたらいいのかさっぱりです。さっぱりだといいましたが、そこまで考える気力も興味も本当のところを言うとほとんど湧かないのです。自分のことでいっぱいです。詩を書きますが、詩が好きなのではなくて、詩を好きな自分が好きで、詩は文学だと思われるので、それ相応の勿体ぶった高尚な理由をつけて趣味として弄っているだけです。今大事なのは声を上げることではないと思います。「我慢」をしてわたしが私の中心から外れて、周縁へと追いやられることです。「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。 自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハ ‭12:24-25‬ ‭)わたしたちには勝利と認めてはならない苦しみもあると信じています。今日は扁桃腺が腫れて声がほとんど出ません。愛とかを語っていた自分が恥ずかしいばかりです。聖書には、この世でキリストを恥じた者を、あの世ではキリストがそいつを恥じるんだとったようなことを述べています。もうそれでもいい気がしてなりません。けれども勝利でも敗北でもない今日を何千回と繰り返しましょう。 *  誕生日おめでとう。ハッピーバースデー。 (聖書の引用は全て『聖書新共同訳』です)


letter to the other side of friends ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 15
P V 数 : 3316.9
お気に入り数: 3
投票数   : 1
ポイント数 : 18

作成日時 2022-03-07
コメント日時 2022-03-26
#現代詩
項目全期間(2024/04/20現在)投稿後10日間
叙情性00
前衛性40
可読性50
エンタメ20
技巧00
音韻00
構成70
総合ポイント180
 平均値  中央値 
叙情性00
前衛性44
可読性55
 エンタメ22
技巧00
音韻00
構成77
総合1818
閲覧指数:3316.9
2024/04/20 14時19分51秒現在
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※自作品にはポイントを入れられません。

    作品に書かれた推薦文

letter to the other side of friends コメントセクション

コメント数(15)
三浦果実
作品へ
(2022-03-08)

僕はこれを読んでよかったです。どなた様かが、作者さんの過去作を評して、少なくともこの作者は汗をかいているとおっしゃっていました。その通りだと僕はおもう。 観念的な話があるとき、僕は直観的に嫌う傾向があります。それが作品を覆っていることに気がつくと最後まで読むことができない。最後まで読んだとしても、何かわからない自分のなかにある魂みたいなものが沸々とあらわれてきて、全力でそれを否定したくなる。 この作品に汗を感じなかったら僕は否定していただろう。きっと観念的なことと作者は全力で闘ったのだろう、その痕跡が最後まで読ませる魔力にも思える。二十代前半かそれぐらいの若い書き手さんだと思うこの作者さん、私が知る限り、その世代にあって最強だと、この作品を読んで感じた。褒め過ぎかもしれないけれども、これからも新作が楽しみである。

1
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
作品へ
(2022-03-08)

この作品は私が10代最後の頃に友人に宛てた手紙です。個人情報等を少しだけ変更して書き直しました。友人は一人暮らしをするにあたり引っ越したところ、家の斜向かいに教会があったそうです。それ以来イエス・キリストに惹かれ、彼からの薫陶を受けているようです。洗礼は受けていないようですが、彼は誰よりも素朴で麗しい理知と感情を持って信じているとこの目には映ります。そんな彼へ誕生日に捧げた6000字です。

2
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
三浦果実さんへ
(2022-03-08)

地上に足のつかない、遊離した作品からは受け取られないもの、逆に言えば、確かな力と経験を(仮にフィクションだとしても)掴みえる作品からは「朗らかな諦め」を感じます。 本日は富山にあるガラス美術館というところに足を運びました。そこでは、私が普段触れたことのない、軽々しく麗しいと言えば失礼に値するような、硝子の芸術が並べられていました。 私は付き人と一つ一つ作品を見ていきましたが、どれからも「朗らかな諦め」を感じました。 私にはこれは創られない。私にはこの領域のことは表現できない。 こう言った信が脳裏を占領し、神経の白熱する経験を得られました。 大切なのは勝ち方や上手くなる方法ではありませんと信じます。負け方です。諦念の作法です。そこにしか画一的なるものからの脱出はないと信じます。 色々な硝子細工を見させていただきました。何もかも「気色の悪い」ものでした。私の当たり前が、私の「真理」が外へと追いやられる。このようなゆっくりとした疎外も何か明朗な諦めにつながるかと思います。そしてどこにも「モラルの説教師」のような輩はいませんでした。 コメントありがとうございました。

2
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
三浦果実さんへ
(2022-03-09)

三浦様の言う「人格攻撃」と上記のコメントは近しいものがあると憶測します。 相手の地軸ともゆうべきところを揺るがして、相手の中心にあるものを外に追いやってやり、そこに新たなものを創造させる。 そのプロセスのことではないでしょうか。 ここに書くにはあまりにも長くなりそうなので省略しますが、その行為は危険に満ちながらも、芸に携わるものが抱くべき短刀に思われてなりません。 刺されなければ血の色は見えず、そして血の色はいつも人をして「血肉」の通うものへと促すと信じます。

1
三浦果実
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。さんへ
(2022-03-09)

自分の作品を客観視することがなかなか出来ないという話題が時々ありますが、よくよくそれを考えた時、執着心というやつに突き当たるのでしょうね。うろたんさんがおっしゃる諦念はそのように思うのです。で、人格攻撃の域については、人それぞれが味わったトラウマになっていることなどへも配慮するべきに私は考えるので、何とも言えないです。まだ思索を続けている最中にいます。人格攻撃の域が先述した執着心には効果があるのかもしれませんが、別に執着心あったっていいじゃん?と言われたらそうにも思うので。 ただ、自由であろうと本当にする人って強いはずなんですよね。与えられる自由のなかにいる人は強くはならない。人間としての強弱が、書き物と関係するかといえば、関係しますよね。絶対に関係します。

1
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
三浦果実さんへ
(2022-03-10)

>人間としての強弱が 再度のコメント誠に感謝しています。上の引用の言葉について思い巡らしたので、少し書いてみたいと思います。 人間というのは大きすぎる主語だと思われますので、ここは詩人にしたいと思います(しかし詩人というものは何かという問いかけと答えは、私には明るすぎてよく見えません。不可知論者ではありたくないですが、その問答は私の口を閉ざさざるを得ません)。 詩人の強弱とは己の詩をどれだけ早く/速く独り立ちさせてやれるかだと信じてます。 詩は二つ以上のイメージを衝突させて、読み手の脳髄に何らかの新たなるイメージを立ち昇らせることだと信じています。その際に多くは言葉を使うのですけれど、その作法が「表現」でないといけないと信じています。「表現」は書き手の主観や不規則が色濃く出たペンの動かし方で、自然法則等の規則や法則から逃れることができる、脳髄の桃源郷であり、そこに浸ることが詩の楽しみであると。 しかし皮肉なことに(?)詩の構想等を練れば練るほど、書き手の考えは「どのように私の考えを、今の私の思考に則って書き伝えよう」となることに気がつきました。この正確さと客観性を伝える作法を「説明」と呼びたいです。 表現と説明。これらには上下も貴賤もないでしょうが、大事なのはそれらの二つのバランスかと思われます。ですが、管見の限りでは「私は今、詩っぽいことを感じた!それをみんなに説明しよう!」というような詩があまりにも多いと思われます。私はこう言った詩が苦手です。 それに陥らないためには、上述のバランスのみならず、早く/速く詩を仕上げることが重要かと。良い意味でテキトーに完成させるのが重要かと。頭に迫り来る説明の占領から逃れるのです。そしてそのことは一見すると乱雑と言われるかもしれませんが、ワイルドといった強さにも感じられます。 これらの個人的な考えは何も纏まっていないですし、「主観」や「客観」などの難しい言葉の中身は何かも分かっていないです。申し訳ないです。 ですがこう言った不確定ながらにも、そこからもがくような言葉を綴り、心と心が会話をするのがlifeだと信じています。 最後になりますが、二つ以上のイメージを読み手に与える。そして彼らの脳内に爆発を与える。こう言ったことから私は詩人を「イメージの武器商人」と呼びたいです。ただ、ミサイルのカタログを読み上げることだけというのはつまらない。

1
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
三浦果実さんへ
(2022-03-10)

そして私の(?)よく言う「詩は足で書こう」も上のことと関係あるかもしれません。 だって手より足の方がペンは握りづらくて、字もテキトーになりますから。 (ちなみに足で云々の言葉に似たものをF・ニーチェの詩集からも最近見つけました)。

1
きょこち(久遠恭子)
作品へ
(2022-03-10)

作品が長文なので、途中から流し読みしてしまいました汗 なんだか、ビックリマークを多用していますが、必要な所で使っているのか疑問でした。 理論的なるもの、それも大切だと思いますがもっと精神性を大事になさっても良いのではないかなと思いました。 なんだろう。なんか、しっくり来ないこの感じは。 「隣人を自分のように愛しなさい。」無論、イエスキリストの言葉です。この言葉を壊してしまう、その事が本当に必要な事なのでしょうか?受け入れられない、そう思う心こそ改めなければならないのではないかと思います。 作品の中とはいえ、あまり好ましく思いません。 祈りは光です。ただ、愛を受け止める事。その事でしか愛は貴方に降り注ぎません。 私は貴方を非難しているのではありません。ただ、気付いて欲しいのです。貴方の心にも素直な信仰というものがあるという事を。

2
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
きょこち(久遠恭子)さんへ
(2022-03-10)

>この言葉を壊してしまう、その事が本当に必要な事なのでしょうか? コメント誠に感謝しています。本当にありがとうございました。 上記のことについて考えてみました。 20世紀の独の神学者にD・ボンヘッファー というのがおります。彼はかのヒトラーを暗殺しようとしたのです。聖書には殺人は禁止されております。しかし彼はそれを敢行しました。が、結果は未然に塞がれてしまい、殺されました。 彼の言葉の中に 「神の前で、神と共に、われわれは神なしに生きる」 と言うものがあります。 彼は乗り越えようとしていました。時代と宗教の逼迫を。そのヒントが上の言葉にあると思われますが、彼はそれに明確な説明をせずに亡くなります。私はボンヘッファーに関する様々本を読みましたが、よくわかりませんでした。 けれども分かったこともありました。この世の哀史には時々いるのです。神と顔を合わせるのみならず、神と同じ方向を見るものが。そういう彼らは神と対等なのです。大胆不敵に跪くのです。この時彼らは神や神の言葉を「利用」しているように思われてなりません。しかしそれほど敬虔なことはないでしょう。そして同じくらい剣呑でしょう。ですがこの境地には言語を絶するような「美しさ」があると思います。 J・L・ゴダールの映画に「倫理とは未来への美学だ」という一節が出てきます。上の彼らは神や神という倫理から美しさを見据えていました。奢りではないですが、私もそこへ向かわせて「いただきたい」。 ここまでは上手く纏まっていないために、へんてこりんな文章です。申し訳ないです。 きょこち様の言葉。愛を受け止めること。私の中にも素直な信仰があるということ。こういった言葉たちを差し伸べてくださって感謝しかないです。大切なことを思い出しました。理論に傾きすぎているきらいも認めます。ありがとうございました。せめて姿勢だけでもなおしたいです。本当にありがとうございます。

3
三浦果実
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。さんへ
(2022-03-10)

ギンズバーグあたりのビート詩人たちがやっていた、やろうとしていたフリーダムであろうとする運動の先にはカトリックを主とした、それらの教条と倫理からの離脱があったと思うんです。で、うろたんさんからも同類の匂いを私は感じるのです。聖書からの引用とそれらに対する親しみを発しながらも思念のコアなところには、その教条や倫理に「縛られたくない」というものを垣間見るんです。そのコアを想像するに、二項対立の思考ではなくて、教条と倫理を純化してゆく作業におもえ、ビート詩人たちも同様だったと考えるのです。(少しかいかぶり過ぎな言いになっていますが) 自己の思考を言語化する、詩にするという作業は純化する作業なのかもしれません。純化しようとすることは自動筆記とは違い、むしろ真逆で、自覚を必須とする、自覚の純化を覚悟というのでしょう。自覚と覚悟は実感から発せられ、観念である言語を力ある「喩えのテキスト」へ換えてしまう。説明の目的が伝達だとすれば、より平易に「正確に」伝達されることを願へば、説明は喩えになるのでしょう。 人間の強さを詩論的に自説すると、そのようになります。このような自身の思索を整理する機会になり、投げかけられたコメントに感謝しております。

1
エイクピア
作品へ
(2022-03-10)

汝(なんじ)、汝自信を愛する如く汝(あなた)の隣人を愛しなさいと太宰治が繰り返し言っていたことが私の頭の中で残響しました、この詩を読んでいて。もちろん太宰の言っていたことは聖書を引用しているわけですが。それと最後の連でも繰り返していた「真理」とあなたの「真理」。前者と後者の違いは一見すると明白ですが、実は難しい問題を孕んでいる。そんなニュアンスをこの詩は表明しているのだと思いました。

1
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
エイクピアさんへ
(2022-03-10)

コメント誠に感謝しています。 私は私よりも真理を 真理よりも愛を愛する。 常日頃からこのことを気をつけております。 愛はあなたの「真理」をありのまま抱きしめさせていただくことだと信じています。このとき、私の意志は捧げられます。 本日は石川県にあります、西田幾多郎哲学記念館に足を運びました。彼の眼は幸福と不幸とを湛えた透明そのものでした。 「知」と「愛」のやりとり。 このことも彼の哲学のテーマでもありますけれども、人は皆往々にしてどちらかに傾きすぎる。 人を裁いてはならないが、豚に真珠を与えてやることもいけない。昨今のビーレビ、特にフォーラムの凄まじさは上記のどちらかだけの暴走のように思われてなりません。私がここで口出しすることではないと思われますが。 >実は難しい問題を孕んでいる。 私たちがやるべきことはアポリアのような問いへ真摯に愛を持って立ち向かうことであり、またその提出を繰り返していくことなのでしょう。真理は気持ち良くはない。真理を気持ち良くしてゆくのが真理なのかもしれませんね。

1
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
三浦果実さんへ
(2022-03-10)

こちらこそコメント本当に感謝しております。自分についての再考に繋がりました。 >教条と倫理を純化 純化と聞くとなにか鋭さを感じます。ルールやモラルは暴力的な使い方ができると言う当たり前のことを再考させられました。 みんながみんなの当たり前で気持ちのいいルールを持っていて、それを譲り合わさないで、先鋭化して、いかに傷つけてやれるかといったゲームをしていると捉えられます。特に最近のビーレビのフォーラムが。 ここでそのことについては語りません。 ただ私は詩と言葉においては鋭さを増してゆきたいけれども、人としては「優しく」ありたい。「優しさ」が丸くてふわふわしているだけではないですが。 一人の人間が矛盾を孕む。それは神と人であるイエス・キリストのようです。芸に携わるもの、例えば詩人なども「詩・人」と表記したいと個人的に信じています。 相変わらず纏まっていませんが、これを返信にします。ありがとうございました。

2
勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
作品へ
(2022-03-12)

D・ボンヘッファーの言葉は彼の獄中書簡にあります。 J・L・ゴダールの言葉は『小さな兵隊』にあります。 西田幾多郎哲学記念館 → 石川県西田幾多郎記念哲学館 でした。 仮に興味を持ってくださった方がいらっしゃったら、幸いです。

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勉強します。ありがとうございました。いろいろと迷惑をかけました。
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(2022-03-25)

このサイトの利用を辞めます(2022年3月25日)。 その旨はプロフィールにも書きましたが、コメント欄だと正確な時刻も記すことができるので。

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