詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日 - B-REVIEW
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エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日    

二〇一七年十月一日 「蝶。」 それは偶然ではない。 偶然ならば あらゆる偶然が ぼくのなかにあるのだから。 二〇一七年十月二日 「「わたしの蝶。」と、きみは言う。」 ぼくは言わない。 二〇一七年十月三日 「蝶。」 花に蝶をとめたものが蜜ならば ぼくをきみにとめたものはなんだったのか。 蝶が花から花へとうつろうのは蜜のため。 ぼくをうつろわせたものはなんだったのだろう。 花は知っていた、蝶が蜜をもとめることを。 きみは知っていたのか、ぼくがなにをもとめていたのか。 蝶は蜜に飽きることを知らない。 きみのいっさいが、ぼくをよろこばせた。 蝶は蜜がなくなっても、花のもとにとどまっただろうか。 ときが去ったのか、ぼくたちが去ったのか。 蜜に香りがなければ、蝶は花を見つけられなかっただろう。 もしも、あのとき、きみが微笑まなかったら。 二〇一七年十月四日 「蝶。」 おぼえているかい。 かつて、きみをよろこばせるために 野に花を咲かせ 蝶をとまらせたことを。 わすれてしまったかい。 かつて、きみをよろこばせるために 海をつくり 渚で波に手を振らせていたことを。 ぼくには、どんなことだってできた。 きみをよろこばせるためだったら。 ぼくにできなかったのは、ただひとつ きみをぼくのそばにいさせつづけることだけだった。 二〇一七年月五日 「蝶。」 きみは手をあげて 蝶を空中でとめてみせた。 それとも、蝶が きみの手をとめたのか。 静止した時間と空間のなかでは どちらにも見える。 その時間と空間をほどくのは この言葉を目にした読み手のこころ次第である。 二〇一七年十月六日 「蝶。」 蝶の翅ばたきが、あらゆる時間をつくり、空間をつくり、出来事をつくる。 それが間違っていると証明することは、だれにもできないだろう。 二〇一七年十月七日 「蝶。」 たった二羽の蝶々が いつもの庭を べつのものに変えている 二〇一七年十月八日 「蝶。」 ぼくが、ぼくのことを「蝶である。」と書いたとき ぼくのことを「蝶である。」と思わせるのは ぼくの「ぼくは蝶である。」という言葉だけではない。 ぼくの「ぼくが蝶である。」という言葉を目にした読み手のこころもある。 ぼくが読み手に向かって、「あなたは蝶である。」と書いたとき 読み手が自分のことを「わたしは蝶である。」という気持ちになるのも やはり、ぼくの言葉と読み手のこころ自体がそう思わせるからである。 ぼくが、作品の登場人物に、「彼女は蝶である。」と述べさせると 読みのこころのなかに、「彼女は蝶である。」という気持ちが起こるとき ぼくの言葉と読み手のこころが、そう思わせているのだろうけれど ぼくの作品の登場人物である「彼女は蝶である。」と述べた架空の人物も 「蝶である。」と言わしめた、これまた架空の人物である「彼女」も 「彼女は蝶である。」と思わせる起因をこしらえていないだろうか。 そういった人物だけでなく、ぼくが書いた情景や事物・事象も 「彼女は蝶である。」と思わせることに寄与していないだろうか。 ぼくは、自分の書いた作品で、ということで、いままで語ってきた。 「自分の書いた作品で」という言葉をはずして 人間が人間に語るとき、と言い換えてもよい。 人間が自分ひとりで考えるとき、と言い換えてもいい。 いったい、「あるもの」が「あるもの」である、と思わせるのは 弁別される個別の事物・事象だけであるということがあるであろうか。 考えられるすべてのことが、「あらゆるもの」をあらしめているように思われる。 考つくことのできないものまでもが寄与しているとも考えているのだが それを証明することは不可能である。 考えつくことのできないものも含めて「すべての」と言いたいし 言うべきだと思っているのだが 「このすべての」という言葉が不可能にさせているのである。 この限界を突破することはできるだろうか。 わからない。 表現を鍛錬してその限界のそばまで行き、その限界の幅を拡げることしかできないだろう。 しかも、それさえも困難な道で、その道に至ることに一生をささげても よほどの才能の持ち主でも、報われることはほとんどないだろう。 しかし、挑戦することには、大いに魅力を感じる。 それが「文学の根幹に属すること」だと思われるからだ。 怠れない。 こころして生きよ。 二〇一七年十月九日 「トム・ペティが死んだ。」 トム・ペティが死んだ。偉大なアーティストがつぎつぎ死んでいく。それは悲しいことだけれど、それでいいのか。新しいアーティストが出てくる。それで文化がつづいていくのだ。新しい文化が。新しい音楽が。新しい文学が。そうだ。新しい詩は、古い詩人が死んだときに現われるのだ。 二〇一七年十月十日 「剪定。」 庭では 手足の指を栽培している 不出来な指があれば 剪定している 庭では 顔のパーツを栽培している 不出来な目や耳や鼻や唇があれば 剪定している 二〇一七年十月十一日 「ヘンゼルとグレーテル」 チョン・ジョンミョン主演の韓国映画『ヘンゼルとグレーテル』を3回くらい繰り返して見た。傑作だと思う。一生のあいだに、このような傑作がひとつでも書ければ、作家として満足だろう。詩人としても満足だ。 二〇一七年十月十二日 「守ってあげたい」 フトシくんのことは何回か書いているけれど、彼がぼくのためにカラオケで歌ってくれた「守ってあげたい」は、ぼくの好きなユーミンの曲のなかでも特別な曲だ。 二〇一七年十月十三日 「ふるさと遠く」 眠れないので、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』をいま読んでいる。傑作だった記憶があったのだが、まさしく傑作だった。冒頭からフロイト流のセックス物語で、2作目から幽霊の実母とまぐわう近親相姦の話だとか、まあ、まったくSFというより奇譚の部類かな。3作目は2作目のつづき。 きょうも、ウォルター・テヴィスの短篇集『ふるさと遠く』のつづきを読みながら寝ようと思う。この短篇集が、いま絶版らしいいのだが、まあ、なんというか、よい作品が絶版って、よくあることだけど、いかにも現代日本らしい。 むさぼるように本を読んでいたぼくは、どこに行ったのだろう。いまは、むさぼるように夢を見ている。 二〇一七年十月十四日 「夢を見た。」 夢を見た。夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た夢を見た。…… 二〇一七年十月十五日 「日知庵」 日知庵から帰ってきた。帰りかけに、愛媛に拠点をおく21才で起業している青年と話をしていた。おとなだと思った。また、そのまえには、大阪の高校で先生をしてらっしゃる方とも話をしていた。趣味で音楽をやってらっしゃるという。まじわるところ、まじわらないところ、いろいろあっておもしろい。 二〇一七年十月十六日 「橋本シオンさん」 橋本シオンさんから、詩集『これがわたしのふつうです』を送っていただいた。とても刺激的な表紙で、近年こんなに驚いた表紙はなかった。冒頭の長篇詩、「母」と「娘」の物語詩、興味深く読まされた。終わりの方に収録されてる詩篇の「死にたいから生きているんです」という詩句を目にできてよかった。また、「わたしについて」という詩篇には、「東京の真ん中に、必要とされていないわたしが落ちていた。」という詩句があって、いまぼくの頭を悩ませていることが、大きくズシンと胸のなかに吊り下がったような気がした。全体にナイーブなすてきな感じだ。出合えてよかったと思う。魅力的な詩集だった。 二〇一七年十月十七日 「睡眠。」 これから数時間、ぼくはこの世のなかから姿を消す。数時間後にまたふたたび、この世のなかに姿を現わす。しかし、数時間まえのぼくは、もういない。少し壊れて、少し錆びれて、少し遅れていることだろう。毎日、数時間この世のなかから姿を消して、壊れて、錆びれて、遅れていくことしか学べないのだ。 二〇一七年十月十八日 「阿部嘉昭さん」 阿部嘉昭さんから、詩集『橋が言う』を、送っていただいた。帯に「「減喩」を/駆使した/挑発的で/静かな/八行詩集」とあって、読んでいくと、「減喩」という言葉の意味が、多種多様な、さまざまな「喩」を効かせまくる、というふうにしか捉えられない印象を受けた。ぼくなら、「多喩」と名付ける。「静かな」といったたたずまいはまったくない。むしろ、騒々しい。その騒々しさが、詩篇の威力を減じているといった作品も多い。そういう意味でなら、たしかに、「減喩」と言えるかもしれない。とても、もったいない感じがする。原因はなんだろう。韻文。短詩型文学。俳句や短歌の影響かな。そんな気が、ふとした。ぼくは、あくまでも、俳句や短歌を現代詩とは切り離して考えるタイプの実作者である。 二〇一七年十月十九日 「谷内修三さん」 谷内修三さんから、『誤読』を送っていただいた。これは、ひとりの詩人の詩に対する覚書の形をとったもので、谷内さんが毎日のようになさっている作業と同じものだ。詩句に対する手つきも同じ。読みどころはなかった。新しい方向から見て書かれたところはなかった。出す意義がどこかにあったのか。 二〇一七年十月二十日 「断章」 人間というものは、いつも同じ方法で考える。 (ベルナール・ウェルベル『蟻』第2部、小中陽太郎・森山 隆訳) 二〇一七年十月二十一日 「加藤思何理さん」 加藤思何理さんから詩集『水びたしの夢』を送っていただいた。エピグラフ的な短詩を除くと、短篇小説的な詩が数多く収められている。非現実的な展開をする詩がかもす雰囲気が不思議だ。一篇一篇がていねいにつくってあって、じっくりと読ませられる。長い下準備のもとでつくられた詩篇ばかりのようだ。 二〇一七年十月二十二日 「三井喬子さん」 三井喬子さんから、現代詩文庫『三井喬子 詩集』を送っていただいた。意味がわからない詩句が連続して繰り出された詩篇ばかり。こういったものが現代詩の一部の型なのだろう。ぼくにはまったく楽しめなかったし、後半、読み飛ばしていた。現代詩文庫に入っているのだから需要はあるのだろう。不思議。 二〇一七年十月二十三日 「舟橋空兔さん」 舟橋空兔さんから、詩集『羊水の中のコスモロジー』を送っていただいた。わざと難解にしようという意図もなさそうで、詩句の連続性に不可思議なところはない。すんなり読めた。こういう詩には短篇小説の趣きがあって、楽しめる。ただ古典的な日本語のものは、ぼくに読解力がないので読み飛ばした。 二〇一七年十月二十四日 「たなかあきみつさん」 たなかあきみつさんから、詩集『アンフォルム群』を送っていただいた。旧知の詩人に捧げられた一篇を除いて、意味のわかる詩篇はなかった。一行の意味さえわからず、なにを読んでいるのか、ぼくの頭では理解できなかった。こういった詩はなぜ書かれるのだろう。理由はわからないが需要があるのだろう。 二〇一七年十月二十五日 「日原正彦さん」 日原正彦さんから、2冊の詩集『瞬間の王』と『虹色の感嘆符』を送っていただいた。「人は足で立っているが/ほんとうはカーテンのように吊るされているのではないか」といった、ぼく好みの詩句もあって、全体に読みやすい。というか、難解なものはまったくない。こういう詩集が、ぼくは好きだ。 二〇一七年十月二十六日 「妃」 詩誌『妃』19号を送っていただいた。むかし、ぼくも同人だったころがあるのだが、新しい体制になって、同人のお誘いはなかった。いまの『妃』は大所帯である。冒頭の詩篇をさきに読んだ。なんてことはない。まあ、詩なんて、なんてことはないものかもしれないけれど。記憶に残る詩はなかった。 二〇一七年十月二十七日 「海東セラさん」 海東セラさんから、詩誌『風都市』第32号を送っていただいた。海東セラさんの詩「岬の方位」に、「岬まで行ってしまえば/岬は見えなくなるでしょうから」という詩句があって、いつも海東セラさんの詩句には、はっとさせられることがあるなあと思った。同人の瀬崎 祐さんの「唐橋まで」も佳作だ。また、海東セラさんからは、詩誌『グッフォー』第68号も送っていただいた。海東セラさんの「ステンレス島」の冒頭、「棄てる部位と棄てられない部位はあわせてひとつのものだが、手を離れたとたんに別のものになる。」という詩句に目がとまった。そのあと具体的な例があげられ納得する。現実に支えられた詩句は、ぼくの好みのもので、海東セラさんの詩は、彼女のエッセーとともに、ぼくの読書の楽しみのひとつとなっている。 二〇一七年十月二十八日 「谷合吉重さん」 谷合吉重さんから、詩集『姉の海』を送っていただいた。「チェーン・ソウに剥がされた/乾いた血」だとか、意味のわからない詩句が連なり、詩篇をなしているのだが、これまたぼくには理解できない詩篇ばかり。一連の現代詩の型だ。これだけこの型のものがつくられるのだ。やはり需要があるのだろう。 二〇一七年十月二十九日 「中井ひさ子さん」 中井ひさ子さんから、詩集『渡邊坂』を送っていただいた。事物の形象を、こころの目で見たまま、素直な言葉で書かれている印象がある。わかりにくい詩はない。心構えなどしなくても読めるやさしい詩ばかりだ。中井さんが、こころの整理されている、頭のいい方だからだと思う。 二〇一七年十月三十日 「江田浩司さん」 現代詩手帖11月号「レベッカ・ブラウン/ドイツ現代詩」特集号を送っていただいた。ことしの2月に思潮社オンデマンドから出してもらった拙詩集『図書館の掟。』の書評が掲載されているためである。江田浩司さんに評していただいている。はじめてぼくの詩をごらんになったらしい。 二〇一七年十月三十一日 「大谷良太くんちで」 きょうは、お昼から晩まで、大谷良太くんちで、ずっと、ごちそうになってた。お酒ものんでた。詩の話もしていた。つぎに出す詩集の話もしてた。人生について話もしてた。これがいちばんながくて、つらい話だったかもしれない。カンタータ101番。



詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 4
P V 数 : 1144.3
お気に入り数: 0
投票数   : 1
ポイント数 : 14

作成日時 2022-03-06
コメント日時 2022-03-07
#現代詩 #縦書き
項目全期間(2024/04/19現在)投稿後10日間
叙情性22
前衛性22
可読性22
エンタメ22
技巧22
音韻22
構成22
総合ポイント1414
 平均値  中央値 
叙情性22
前衛性22
可読性22
 エンタメ22
技巧22
音韻22
構成22
総合1414
閲覧指数:1144.3
2024/04/19 10時26分59秒現在
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詩の日めくり 二〇一七年十月一日─三十一日 コメントセクション

コメント数(4)
田中宏輔
田中宏輔
作品へ
(2022-03-06)

お読みくださり、ありがとうございました。 ご感想のお言葉もいただけて、うれしかったです。ありがとうございました。

0
ふかお
作品へ
(2022-03-07)

>たった二羽の蝶々が >いつもの庭を >べつのものに変えている それを見ている者の、心のなかを変えているのでしょうね。

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三浦果実
作品へ
(2022-03-07)

そもそも論だけれども、人に読まれる前提の日記というものは、書けそうで書けないと思う。三浦って他人へ気を遣っていなさそうで、けっこうナイーブなところがあって、他人の名前を出して何かを語ることに躊躇いが出る。それこそ、武田地球氏の名前を使って三浦が何かを語る時は、氏に使用料金を払わなくてはいけないんじゃなかろうかと考えたりする。それくらい、日記に誰かを登場させて書くというのには、何かしらの、特別なマインドが必要なのだと思うし、それはネガティブな意味で言うているのではなくて、田中宏輔氏にあるであろう他人への優しさや配慮を超えたところにある特別な気持ち。それを愛嬌と表してもいいのかもしれない。愛嬌がある人は最強で、愛嬌は誰でも持てるものではなくて、本当に特別だし、そうでなければ他人が読む前提の日記は書けない。 詩の日めくりによく登場する大谷良太さんは、おそらく、本当に存在する人だと思う。

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田中宏輔
田中宏輔
作品へ
(2022-03-07)

深尾さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 三浦さんへ お読みくださり、ありがとうございました。 大谷良太くんとは、十五年以上の付き合いのある詩人さんです。

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