作品を読む
「世界は言語である」という『呪縛』
作品はこう始まる。 >最も大切な言葉は何だろう、掌に残る最後の言葉は何だろう、研ぎ澄ましてそれでも削れない言葉は何だろう、 分かりやすいことを言っているが、言葉に対する作者の基本的態度の表明である。それは、この作品が徹底的に言葉にこだわるという決意の表明でもある。さらに作品は次にこう述べる。すなわち、 >本当に最も大切な言葉は、この詩の背景の闇に沈められ、選ばれなかった言葉たちだったのかもしれない。 これは作者の疑念であろう。言葉との孤独な戦闘を終えた時に、作者の頭によぎった不安が感じられる。作者は次にはこう述べる。 >自由への憧れから書いてきた俺の、その足元に捨てられた言葉たちが亡者の如く攀じ登ってくる。 つまり疑念に終わらず、実際に「本当に最も大切」だったかもしれない「選ばれなかった言葉たち」が「亡者の如く攀じ登ってくる」のを体感するのである。 「俺」は「自由への憧れから書いてきた」と述べている。ならば「捨てられた言葉たち」はそういう憧れにそぐわないものであったに違いない。でも「亡者の如く攀じ登ってくる」のである。 そもそも自由であるならば、何をどれだけ取って、何をどれだけ捨ててもいいわけだ。そういう自由を志向している「俺」には、足元に捨てた言葉が多くか少なくかあると言う。ここの箇所はものを書きつける者一般の心境を表現している。我々は自由だ。だが何かを完成させるためには取らなければならないものと捨てなければならないものとがある。そして結果がどうなのかを必ず疑わなければならない。もしかしたら捨てた言葉の中に本当に大切な言葉がありはしないか、と。作品のタイトル通り、言葉に「呪縛」されているのである。 以上に読んでみた部分がこの『呪縛』という作品の前書きとなっており、「詩」本体はこの後に書かれてある。この詩の構造は、いくつかの歌の連続によって成立している、たとえるなら、連作短歌のような構造をしている。そういう見方をして、この詩を読んでいきたい。私にはこの詩を構成しているすべての「歌」が秀歌だと思われているのだが、それらすべてをここに取り出して鑑賞するというのは締まりがないので、五つの「歌」を選出して味わっていきたい。始めよう。 ① 4分33秒を口ずさむ排水管/この震える喉に南京錠をかけてやろう 排水管が4分33秒という任意の時を口ずさむ、まるで時計のように、音を立てて、そして生きているもののように口ずさむ、そしてそれゆえに震えて。その震える喉に南京錠をかけてやろうと詠う。喉という語が生々しい。読者は自分の喉を意識する。そして自分の命を。喉は命にかかわる部位だから。しかも自分の喉がこの排水管のものであるように感じてくる。排水管も喉も、下に向かって何かを通すものだ。自分の喉に南京錠をかけられる感覚を実際に覚える。苦しい。痛い。リアルな感覚をもたらす「歌」である。 ② 時を止められた雨音よ/絶えず動いていたその時が最も美しかったのに 雨音が時を止められる、音が時を止められる、この場面を思い浮かべるのには頭に力が要る。この場面を思い浮かべた後、後半の詠嘆が輝く。現実には雨音が時を止められることはあり得ない。しかしここではそうなることが前提となっている。作者の力強い想像力に心を打たれる。雨音が時を止められることが、あたかも自然現象であるかのように思わせるのだ。 ③ ミッキーマウスが夢を見せてくれる/重い現実を知っている君だ ミッキーマウスが夢を見せてくれる。これは一応分かる。だが後半で、そのことが重い現実だと詠い、さらにそういう事情を「君」は知っていると詠う。ミッキーマウスといういかにも幸福で温かい夢幻を人間は作り、そして次には逆にそれに身も心も委ねて、幸福な温かい気持ちになって癒やされる。そういう、幻想にハマっている人間を「君」は遠くから冷たく観察し、「現実」の中に囲っている。「君」にとっては真実なんてお見通しというわけである。ここの「歌」は、かなり前に私自身がビーレビに投稿した『幻想離れⅢ』を思い出させてくれた。ミッキーマウスをマクドナルドと置き換えてもいいかもしれない。 ④ なぜ卵はそれ自体が完成形でないのだろう 瞠目すべき着眼であり、発想である。言われてびっくりした。 ⑤ 古い時間を使い回しすぎたので/腕に抱き抱えた時計がひとりでに溶け出してしまった 時間は冷酷なことに、いつでも古い。時計という機械に未来というものを思い描く能力はない。そんな時計がついに「ひとりでに」溶けてしまうまでの一種の力を持っていた。古い時間を使い回す、この言い方が、時計という機械の閉鎖された孤独を感じさせる。腕に抱き抱えていても、それが孤独であることを変えることはできなかった。 ここまでで、『呪縛』という作品の「詩」の部分から五つの言わば「歌」を抜き出して鑑賞したことになる。 この『呪縛』という作品を貫くものは、いわゆる物語や思想ではない。しかし何かに貫かれている。 私はこの『呪縛』という作品を、前書きと詩とに分け、詩の部分を連作短歌のようなものとしてとらえた。そこにあった連作短歌のような詩は、確かに一個の言葉の塊であった。それが散り散りにならないのは、なぜか。 単に気のきいた言語表現を並べて一個の詩とするものはよく見かける。この『呪縛』は、そういうものとは違う。単に不思議な情景を描いて一個の詩とするものもよく見かける。この作品はそういうものとも違う。 作者は言うなれば、世界の胸ぐらをつかんで真っ正面から厳しく見つめ、揺さぶりをかけて言語を取り出し、それらを再構築してこの作品を創造したのである。言葉遊びでもなく、甘い雰囲気の幻想を書くでもない、世界創造である。その背後には「世界は言語である」という執念があるように感じる。前書きには、言葉に対する強いこだわりと、自由への憧れが述べられていた。私が選んで鑑賞してみた五つの「歌」はどれも「言語によって」創造されたか、発見された現象そのものであった。 この作品は、このような強い筋によって貫かれているのである。 私にとって希に見る傑作であった。
「世界は言語である」という『呪縛』 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1409.8
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作成日時 2021-01-24
コメント日時 2021-01-26
自由への憧れを持っているとき、却ってその人が不自由であるのを証明されています。それが私の自由の定義であって、本当に自由な人間であれば、そもそも自由という概念すら意識することもないのでしょう。私の思う自由とは、夢のようなもので、精神的なものです。現実という名の制約の下に身を落とし込めることで、夢は一層に輝き出すものと信じています。不自由の中に自由を見つけ出すことが私の筆跡の最大目標です。言葉は総て、音と意味に縛られています。音や意味の錯綜する網の呪縛の中に「答え」を見つけ出したいのです。答えとは解放です。あえて意味に拘り、意味に塗れた呪縛を「少しだけ」破壊すること。壊すのは簡単。しかし、この「少しだけ」というのがミソで、その塩加減の「黄金比」なるものを未だに探求しています。どこまでが現実で、どこまでが夢なのか。夢は、現実に傷つけた少しの亀裂から美しく滴るものであってほしいという私の願い/欲から成っています。 私の書いた作品に対してここまで書いて下さり、想って下さり、心から感謝します。 ありがとうございます。
1「自由」、この不自由なもの。推薦文の中で私は「自由」について深く掘り下げることができませんでした。実のところ、分からなかったのです。しかし「自由」は私にとっても大いに気になる事柄で、昨年出版された岩波文庫の『近代人の自由と古代人の自由 征服の精神と簒奪 他一篇』(コンスタン著)をとりあえず考えるきっかけの教科書として精読しているところです。 >不自由の中に自由を見つけ出すことが私の筆跡の最大目標です。 作品『呪縛』は、捨てた言葉(音と意味)と取った言葉(音と意味)との「黄金比」をかなりの程度示すことができているのではないでしょうか。「破壊」(と創造)の度合が絶妙であったからこそ、この作品は私にとって輝いているのだと思います。
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