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不在    

愛はどこに 友といつまでも考えていたい 時は 混沌となって静かなるものを いたぶり尽くす 暴威の果て 虹を作り 傷跡を治せ 善いか悪いか 私は気をつけている 幻想的な攻撃 力を振るう 覚悟の瞳 嘘と混乱の中で 絶望が まき散らされた 私は心臓の部分を叩きつける 陰鬱な眼ばかり 個的な記憶と交信する うるささを遠ざける 信念をもう一度持ち始めるのだ 重い足を引きずりながらでも 未来がやってきた 過去になった 抵抗力がなく 目を閉じた トンネルの中を歩いて通るときの不思議 別の世界がある トンネルの向こう 外界が現れる ここまで帰ってきているんじゃないか 失くしたものが戻ってるんじゃないか 闇の中での期待と不安 抜けたときにはすべてが確定してしまう 怖かった 幻覚から離れ歩き始めなければならないとわかっている あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ 透明な水槽の中で 観察された私の心の中 つぶれたような年月を重ね 人に笑われる人格から 変わったよ 張り詰めた空気の中に雪が降り始めて 冷たいと思った 悲しかった そして嬉しかった


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作品データ

コメント数 : 17
P V 数 : 788.4
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-08-02
コメント日時 2017-08-12
項目全期間(2024/03/29現在)投稿後10日間
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閲覧指数:788.4
2024/03/29 14時16分42秒現在
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    作品に書かれた推薦文

不在 コメントセクション

コメント数(17)
黒髪
(2017-08-03)

花緒さん コメントいただき、まことに、ありがとうございます。 表現が、一行で倍くらいの長さの言葉を連ねた詩を、半分くらいに縮めて作りました。その際、重要視したのは、 大事な表現のみを残して詩にする、ということです。それは、そうしないと、僕の混乱と冗長で、読者をいたずらに困惑 させることにしかならないと、気づいたからでした。 あとは、論理的な面をうまく作らないといけない、そうしないと、伝わらないということになってしまいます。研鑽 格闘のすえに、そうした副次的な効能まで得られたら、素晴らしいことだ、と僕は感じています。思想的な面で言えば、 自分の表情のコントロールができないと、日常生活さえままならないといったことになってしまいそうです。 書き言葉でも、語尾やらなんやらや、調子などに、心や気持ちなどが、見え隠れすることも多いでしょう。そういう、 しんどいと言えばしんどいと言える人間の存在は、また別の面では孤独な自己への他者の面会的な現れとして、自己を 解放し、豊かなものにするという可能性があるとも言えると思います。 そうした自己調整能力と思想といった二柱が人間を作っているものだ、と僕は考えます。詩の良いところは、 コミュニケーションに、別世界に於ける自由な戯れ、遊び、感情を動かすこと、などといったことを、実際に 持つことが出来るという事ではないだろうか、と思います。決して、他者の詩よりも上に行くことの 優越感などといったことを目指してはいけないし、そうしたことを考えることが、詩を駄目にするのだという ことも、明らかではありませんか。少し興味を持って調べてみたのですが、「体罰」「懲戒」「罰」などと いったことが、教育、しつけにおいて行われる、といった社会構成について、まともに考えたことはなかったのです。 そうしたことの存在から目をそらしていたら、やはり現代での感覚としては、鈍いものに自分がなってしまう、 問題の所在も、分からなくなってしまうと思います。 そうしたことを、考えることは、詩と関わっていく上で、作品を作る過程、鑑賞する過程などと共に、自己教育 として、重要な趣味の大きな醍醐味であると考えます。実践することで得られるものがたくさんあるということ。 もちろんそれは詩に限らず、言語や思考に関係のあることについてはその他にも多く当てはまる事柄がある ということは確かでしょうが、「読めるけど、読めない」というご批評を受け、良い手ごたえを感じています。

0
ハァモニィベル
(2017-08-04)

 この作品は、表現された外皮を剥いて、その中身である作者を取り出して論じるべき作品である(とわたしは)思う。  表現面に関しては後で述べるとして、まずは、中身(作者)について。その要点をなるべく簡略に指摘してみるなら(因みに、この作品の語り手は、百歩譲っても自己にだけは誠実な語り手である。よって、語り手=作者だと私は考えて以下を論ずることにする)次のように言えるだろう。  この作者の本質は、じぶんの《心》を《それ》と置き換えることができることだ。《それ》とは本来なら外在する対象のことである。それが、《心》と同じとはどういうことか。  この作者は決してじぶんの《心》をつき離して《それ》としてクールに対象化したりはしない。その逆なのであって、本当なら外に在るべき《それ》が、じつは熱く苦しい自分の《心》なのだ。つまり通常は人が、自然や環境の脅威に晒され翻弄されるように、この作者は、自身の《心》に、心が、外に在る《それ》として自分自身を(内側からでなく自分の外側から)翻弄し脅威をもたらすことに晒されいるのである。  その自分の外側から襲ってくる《心》と自分との戦争と平和が、この作者の詩である、(とわたしは)思う。    表現面には簡単に触れて終わりたいと思います。先に指摘した点がこの作者の特異な持ち味である筈なのだが、それが、表現によって深化されないなのは、読みにくい文章のわりに、「愛ー時ー虹」対「傷跡ー嘘ー混乱」といった配置された語選択が平板単純だからである。作者の苦しみや再生平安の喜びが、同じ重さで読者には伝わらないので「読めない」と言われることになる所以である。   「私は心臓の部分を叩きつける」   「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」  表現面をも加味して総合的に(あくまで私の眼でみると) この二行が、この作品の詩である、と思います。 以上です             (※)この作品の「あなた」については敢えて論じませんでした。

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まりも
(2017-08-04)

抽象的、観念的な題名と、愛、という、これまた抽象的、観念的な言葉から立ち上がる一行目、その不確かさ、曖昧さを、作品全体がどのように具体的な・・・手触りあるものにしていくか、という「経過」「過程」を味わう作品なのかな、と思いました。 長い、物語のテクストがあって、その中の言葉を切り出して並べていくような断裂した感覚、その断裂具合が作りだす、独特のリズム。ノートに書きつけられた断片を集積していくような、思考の過程が記録されていくような進行が、黒髪さん独自のテイストを作りだしているように思う反面、連綿と並んでいくような形だと、ついていくのがつらい、という、読みがたさがありましたが・・・ 今回の作品では、連分けを上手く用いて、 〈傷跡を治せ〉と〈時〉に呼びかけるプロローグ、善悪の葛藤、嘘と混乱の中で〈私は心臓の部分を叩きつける〉と強度を持った一行が光る二連、自己啓発的な三連と、〈時〉が訪れたことを暗示する四連を経て、トンネルという具体的なものを寓意に用いた、実感のある(体感的に伝わる)五連が置かれる。呼びかけを含む六連のエピローグは、誰に向けられたものか。五連の最後に現れる、〈あなた〉に向けてのものか・・・だとすると、〈不在〉は、〈あなた〉の不在、なのか・・・ 〈張り詰めた空気の中に雪が降り始めて〉この一行も美しいですね。冷たい、悲しい、嬉しい、という相反する心情。〈あなた〉という幻想から離れたから、雪が降るのか。〈あなた〉に出会うことで、トンネルを抜け出すことができたのか。〈あなた〉は、水槽の中の〈私〉を見つめる視線なのか・・・ ハァモニィベルさんの読みにほぼ重なりますが、やはり、〈あなた〉と〈私〉の関係性、さらに、最後に呼びかけの形が用いられる理由、そのあたりを、もう少し踏み込んで聞かせてほしい様に思います。

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田中修子
(2017-08-04)

小説の書き方としては、「悲しかった」「嬉しかった」という表現はNGなんだそうです。 「白くなるまで唇を噛んでいた」とか「跳ねるように歩いて行った」とか言い換えなければいけない。そのように書くのが、ものを書くということだと。(あ、でも私は詩の勉強はほとんどまったくしていませんので、詩の表現としてはOKなのかもしれません)。 ただ、こういう直截な表現私は好きです。 「善いか悪いか」なんて、もう、すっごく苦しいですねぇ。 なんか、青春のうめきって感じがする詩だなぁと思いました。

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黒髪
(2017-08-04)

ハァモニィベルさん コメントありがとうございます。 今日は朝から、目覚まし時計を捨てた捨てないと親と口論になって、大変に厳しい気持ちでいたところに、 この詩への返信があり、それを読み、自分を落ち着けて、冷静になることが出来ました。心のスケッチには、 こういうことも、起こるみたいです。そういうエピソードが、僕には本質的であり、結局のところ、 自分が試される、自分の記憶との向き合い方、許すということが、いかにして可能となるか、そういった ことを感じつつ、返信を書いていることになったというところです。 >この作者の本質は、じぶんの《心》を《それ》と置き換えることができること 精神分析学を抜きにこの批評を考えることなど出来るはずもなく、僕の曖昧な知識で《それ》と《心》についての 考えを、実行してみました。《心》と《それ》が行き来するという事、これは、ブレンターノやフッサールの 「志向性」という考えにも、明らかに符合する考え方だと思います。 >「私は心臓の部分を叩きつける」 >「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」 表現として、取り上げてくださったこと、嬉しかったです。 一言、「あなた」の不在には、言葉にならない、感情的な心を貫く圧倒的な力で、頭を悩まされ、心を揺り動かされ 続けています。僕が、それを代償することは、出来るのかどうかということ、誰しも、そういった、「志向性」 というのか、「傾向」みたいなものに、動揺させられているでしょう。 まりもさん コメントありがとうございます。 >〈あなた〉という幻想から離れたから、雪が降るのか これは、やってきては離れ、離れてはまたやってくる、一つの自然現象(雪)にまで至ってしまったような「不在」の影響力 の大きさ、ということです。雪とは冷たいもの、白いもの、という言葉で言い表されるものである、と言えると思い ます。 すると、「不在」というのは、雪の様に熱を冷ましていく、そんなものでもあったのだということであって、強く 感覚的な面でも、《それ》として、投影することが出来るでしょう。この時問題となるのは、投影できるもので あることは、現実的にある、と認めたうえで、いったい僕はどこにそれを投影しているのか、ということです。 また、投影することのできる光を、僕は自分で作っているのか、あるいは、どこかから光が射してきているのか、 ということです。言いかえれば、投影するということは、映画の映像のようなものが本質的であり、常に事後的に 見るしかない、つまり、あらかじめイメージを予想・想像するといった様式はおかしいということがあるのだと思います。常に後追いの戯れ。 というわけで、自己の不在が、他者(主に「あなた」)の不在(という関係性)として引き継がれ、やがては 一般性の中に紛れ込んでいってしまうであろう悲しさ、というような、感傷的な気分で、今はあるような気がします。 僕は、予知夢は一回も見たことがないのです。予知夢を見たとき、どんな気持ちがするんでしょう。 田中修子さん コメントありがとうございます。 そういわれてみると、自分にはレトリックの心掛けがあまりないな、ということに気づかされます。読者に対する 予測、あるいは心遣いといったことを、念頭に置いて表現を置き換える余地の可能性を、考えていかねば なりません。「善いか悪いか」ということを考える苦しさ、これは、やや戯画的なまでに、余裕のない、僕自身の問題です。

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黒髪
(2017-08-04)

クヮン・アイ・ユウさん おはようございます。コメントありがとうございます。 怒りと不安が負の感情で、喜びと悲しみが正の感情であると、僕は思ってきました。 死にかけたとき、負の感情が生まれ、生命を「感じた」ならば、生の感情がやってくる。 そういう風に考えています。 前者においては、不和、喧嘩、だまし合いなど、後者は通じ合い、気づきの関係、などといった ものが、感情を与える関係として、考えられます。それを離れた関係は、まだ理想さえ示していない。 人間でないものは自己もないのですが、自己がないものも人間ではなくなる。人間でなくなるという恐怖 の状態では、やはりおかしなことを、理解しようとするはずです。 断続的な努力と諦めの移り変わり、落胆に、恨めしい気持ちを自分の中で自分の立場として、転倒した形で 持ち続け、甘え続ける。人間ではないものとなってしまった人を攻撃すること、が一般的なのは、教育に力が用いられて きたからでしょう。評価という価値に照らし合わせ、否定することは簡単でしょう。恨みを晴らすというような、 一つの心の働きを、否定しがたく。自己と自己が、ぶつかって、やり返すことは普通にあります。 人と人が、顔を突き合わすことには、機微の経験という意味があるでしょう。文章の形で示す情報交換には、 論理の鑑賞という利点があるでしょう。 食欲もなく、疲れてばかり、ふらふらであった自分と、「自分の世界」と言うものに対する絶望。 取り戻し方を、興味や共感を持ってみていただけたらいいな、と思います。そして、詩として 美しいものになっているかどうかが、やはり気になるところです。そして、上の方でも言ったように、 実践行為全体を良く味わう事を、僕はしようとしています。 「作る」こと、力のある言葉、真っ直ぐで誠実な自分、褒めていただき、嬉しいです。 分析と総合の両方に気をつけながら、自分なりに意味を、全体として生きて、精髄がある、詩と言うものを軸に、 理解と発見に努めて行けたらと思っています。

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竜野欠伸
(2017-08-04)

黒髪さま 率直に言ってこの種の詩がとても好きです。 自己身体性をテーマにした悲喜こもごもの詩と言ってもよいでしょうか。 おそらくも、差異はあっても同様な苦しみを得たことがあると考えました。共感を覚えることが出来ます。 この詩で思い出した哲学書があります。アンリ・ベルグソンの「笑い」です。 その本を通しては 指示対象性の「滑稽さ」と自己身体性の「滑稽さ」に区別があると考えさせられました。 メインの内容は古典喜劇の解釈を述べているのですが、了解しやすさは 当時同じ時代を共有していれば、とても分かりやすい良書であったことを とても残念に思いました。 同書では「滑稽」という現象がどのようなメカニズムで現れるのかを探求されていました。 ここでの「不在」では、 指示対象性の「滑稽」が不在であり続けて、自己身体性の「滑稽」が存在し続けるという類いの 「不在」というテーマだと解釈いたしました。「滑稽さ」にあってはユーモアを演出するものですが、 「滑稽」とは、人間の生き方においても「喜び」につながるものと考えてもよいと思っています。 詩としての身体性が、この詩では、まさに勇躍して活動性があり、しかしながら ハァモニィ・ベルさんの言わんとすることのように ある意味で、「心ここにあらず」という指示対象性が無い 孤立とも考えられる苦しみとその反動をはらんでいます。 ラストシーンをまとめ上げた黒髪さんには、僕はとても敬服しています。 まさに、それが、不在であったものの「何らの喜び」を回復させる物語でもあると考えます。 不在回復の詩物語が、ここに感動と共感を覚えることができるものと感じました。 貴重な詩作をありがとうございます。

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黒髪
(2017-08-04)

竜野欠伸さん コメントありがとうございます。 自分で読んでも初めから終わりまで、詩の中で時間が進むにつれて、明るくなっていくような感じがあるのですが、 最後の呼びかけ、 >人に笑われる人格から >変わったよ という部分で、自分の変化、成長を確かにあるのだ、と思いたかったということがあります。 「滑稽」ということ、指示対象性と自己身体性では、相手を笑うときの対象が指示対象性で、 笑われるのが自己身体性ということかな、と考えました。身体的に自分で獲得している笑いについて、 それが当てはまる対象を探し、笑いを実行する、という感じでしょうか。しかし、笑いはやっぱりアナーキーなもの で(感情がはじけ、何を考えてもいない精神状態になる)、だから、笑われた経験が、笑いについて理解するために と、前向きに考えることもできます。竜野さんがされた身体と対象というとらえ方は、新鮮に感じます。 身体の回復、笑いの回復。対象を意味づけるのなら、自分が身体を持っていないといけない。このことは、現実 の会合などでは、実に鋭敏に厳密に、分からないと、すごくまずいことになります。生きることが大変になって しまったら、少しづつしか駄目ですね。僕に、学習能力が備わっていることを、祈りたいです。 ラストシーンのまとめをほめていただき、嬉しいです。竜野さんは理想を目指されているようであるように思います。 僕の身体の中を探った時、それと一致した状態が竜野さんという指示対象にも見つけました。どんなことを見つけたの かというと、いつかの気持ちを、忘れられずにいて、それを門をたたく力として使った、という行動について、です。 もちろん、詩を作り始めた人は、みんなそうだ、と思わずにはいられませんが。

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竜野欠伸
(2017-08-04)

黒髪さま 夕食から戻りました。 さきほど冷製を敢えて目指した味噌汁が大失敗でした。 普段なれない料理に取り組むと滑稽さも現れるようです。 >人に笑われる人格から >変わったよ この節には、僕は構図的な滑稽さを感じるよりもむしろ やはり不在からの回復を感じるのです。 深くは思い出せないのですが、ベルグソンによると、 「笑い」とは所作であるという点を出発点にしているはずです。 とてもシンプルで切実なことをお伝えしそびれ前後してしまいました。 この点を考慮すると、やはり、この節についても、 これらは、自然な現象であって、自己を特別視することなどではないでしょう。 自己身体性の発露であり所作なのではということが、示唆できるのではと感じます。 この場合も、自然な滑稽さというニュアンスが 断続的にもありえると感じます。 黒髪さんは、その種の「笑い」を〈アナーキー〉と呼んでいますし 〈ニヒル〉とも言おうとするかもしれないです。変遷もあるかもしれませんが。 僕が、この種の「笑い」を形容しますと 〈恥ずかしがり屋の与太郎(落語の登場人物)の連れみたいな〉という滑稽さがあったかもしれません。 多少、俗っぽい表現かもしれないですが。 お終いの一行では、 >そして嬉しかった 好意的表現が比重のある言葉で展開がなされます。 これらは感情のあや、とか心のあやではなく、 やはり、不在の終わりとしての回復でもあります。 これらは、やはり幸せを呼ぶことが 出来る所作の始まりであって欲しいのです。 「笑うこと」には幸せの輪廻があるのかもしれません。 祈りに似た気持ちになりました。

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黒髪
(2017-08-05)

竜野欠伸さん みそ汁は、味の素を使わずに、煮干しでだしを取るとうまいですよ。 >「笑い」とは所作である これには納得です。体を動かすことが、共感を呼び、笑いになる。非常に説得力のある意見です。 一方で、笑いは差別であるということを聞いたこともあります。 中島らもの、『何がおかしい』という本のなかで、 「笑いには三つの系統がある。①「あほ」系統②精神障碍者差別系統③身体障碍者差別系統の三つである。」 とあります。引用から、笑いは、その構造は、差別であるということがみて取れます。 同書の中で、「マルセル・パニョルという作家曰く、「笑いとは優者の劣者に対する優越的感情の爆発である」これは 一言で言えば「差別」ということになる。」ということも書かれています。 中島らもは証明したわけではないので、やや強引であると思いますが、しかし、実際生きていて、優劣を気にする ということが、たくさんあります。勝ち負けもあり、いじめもあり、喧嘩もあり、でも、知恵を出せば、 経験を積めば、それらを極限まで行かないように、はぐらかすこともできると思います。それは、もちろん自分の ためであり、自分を敵とみなされた場合に、それを逃れるためにする、防御と攻撃を兼ね備えた戦術です。 >恥ずかしがり屋の与太郎(落語の登場人物)の連れみたいな こういう笑いは、最高ですね。とてもセンスがいいと思います。

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ハァモニィベル
(2017-08-05)

さて、まさかの再び登場で失礼します。 少し気になったので 「ハァモニィ・ベルさんの言わんとすること」 を、誤解のないように、もう少し補足しておきます。    「不在」というのは、    他の何よりも、誰よりも それが《心》の中に存在する   と、いうことです。 題名に採られている以上、(わたしは)そのように読みました。 この点はラカン(現実界・象徴界・想像界 etc.)について思い出して頂ければなと思います。

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まりも
(2017-08-06)

ハァモニィベルさんが「再登場」しているので、私も「再登場」しますね(笑) ハァモニィベルさんの真面目さというのか、誠実さ、文字だけでみると、初読の方には怖い感じにみえるかもしれないな、という気がしたもので・・・(黒髪さんが、そう感じない、ということであれば、スルーして下さい!) 「不在」というのは、    他の何よりも、誰よりも それが《心》の中に存在する   と、いうことです。 この定義、とてもわかりやすくていいですね。このまえ、なかたつさんの作品「縁」でも、「不在」という観念語(に対する、個々のイメージの違い)面白いなあ、と感じたばかりです。 観念語は、様々な具体的な経験や体験から抽出されて、ひとつの言葉の裡にまとめられていくもの、ですから・・・人によって、同じ「不在」というラベルが貼られた箱であっても、中身がずいぶんちがう、ということも多々起こり得る。 ラカンは結構、難解な書物で、私も難渋しています。誰もが読んでいるわけではない、と、申し添えましょう(黒髪さんが、もちろん読んでます、ということであれば、これまた失礼) あなた、が不在であるがゆえに、より一層、つよく思い起こさせられる、ということなのか・・・あるいは、その不在を思い起こすと、私の心が千々に乱れる、という、その乱れをテーマにしたかったのか・・・あなた、という対象を描きたかったのか、不在、という情況が生み出す、私、の状況を描きたかったのか・・・というようなことを、知りたいなあ、と思います。

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黒髪
(2017-08-06)

ハァモニィベルさん 再レスありがとうございます。不在が心の中に存在する、というのは、なかなか直観的なもの言いです。 かなり鋭くないと、理解できない言い方ですね。ぱっと言語化できるのは、直観が鋭く、参照する知識があって、 世界観も多様に見てきたというようなことを、想像させられます。ありがとうございました。 まりもさん 再レスありがとうございます。 ラカンは読んだことがありません。ユングも読んだことなく、フロイトは少し読みました。アドラーも、 『嫌われる勇気』『幸せになる勇気』読みました。 不在によって、つよく思い起こさせられ、心が千々に乱れます。「不在」という題は、本文を書いてから、 一番後につけたので、テーマにしたかったというか、書いていたらそんな風に出来上がった、という感じです。 美化も甚だしく、女神のように思っているので、なんとなく見守られているという意識をもって書きました。 レスを書いているうちに、大分自分の詩作に、どんな意味があったのかという事を、つかめてきました。 コメントをくれた方々のおかげです。まりもさんは色々と気を配ってくださっているようです、皆さん頑張って おられますね、僕もコメントと詩で、少しなりとも貢献したいと思っています。ありがとうございました。

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るるりら
(2017-08-07)

最後の連の うつくしさが 素晴らしいです。人生は泣き笑いだと思いました。 悲しくて、悲しいということがらが 人を温めているのだなあと、思えました。 冷たく暗い場所から 雪が最初に降りてくる感じは、 先の見えないトンネルの中で 遠くに ひとつぶの光をみたときと似ていると思いました。 自分と違う温度を持っている雪は、他者との出会いに似ているとも思いました。 冷たいと感じ悲しい思いになると同時に 嬉しい。 わたしの場合は むずかしいことは よくわからなくて、人に笑われる人格のままなんですが。 笑われると悲しいけど、でも 触れ合えるなにかがあるのは 嬉しいなあと、自分の心の中を見つめました。 そして、題名の【不在】が なんとも気になります。(なにかしら詠嘆をおびいて うつくしいと感じました)

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黒髪
(2017-08-07)

るるりらさん コメントありがとうございます。 >自分と違う温度を持っている雪は、他者との出会いに似ているとも思いました。 >冷たいと感じ悲しい思いになると同時に 嬉しい。 詩的な想像力と表現、さすがに素晴らしいですね。 自分と違う温度、他者との出会い、そうしたことを雪に見るのは、幻視と言うものだと思いました。 悲しさと嬉しさは、一緒にやってくると、もの悲しくなります。 人に笑われる人格のままで、やっていけるとしたら、僕よりもずいぶん我慢強く、感謝の念を忘れない、立派な 人なんじゃないかと思います。僕は、純粋さの悪い面を、見つめ続けています。笑われるのが、嫌だと、思ってしまう 自分、たぶん、子供なんだと思います。 題名の「不在」は、一人でもやっていかなければならない自分、臆病で慢心した自分を、普通に皆抱えている というような気持ちを、表せたと思います。 荒野で夕日と二人だけ、みたいな、情感を、なぜか今日の時点では、感じます。イメージのユニークさは、 るるりらさんが一番うまいと思いますから、そんなことを、いつも学ばせていただいています。 泣き笑い、そんなことが、あるのだと、僕は、納得しなければならないようです。 ありがとうございました。

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なかたつ
(2017-08-12)

 いくつか鍵になりそうな行をかいつまんでみます。  「傷跡を治せ」  何によって生まれた傷跡なのでしょうか。そして、傷跡というのは、痕跡であり、過去の何かが現在にも存在しているという証であります。その跡を治すということは、その過去を現在から消すということとほぼ同義であり、何かの決別を決意したのでしょう。  「幻想的な攻撃」  空を切る、という表現がありますが、この幻想的な攻撃は行動として実行されたのでしょうか。それとも、想像において実行しているだけなのでしょうか。どちらかと言えば、実行されておらず、想像におけるものだと捉えました。  「覚悟の瞳/陰鬱な眼ばかり」  この辺りが一番鍵になるのだと思います。というのも、結論を急いでしまいますが、この語り手は見る存在であるかのように振る舞っていますが、見られる存在であることへの打破を願っていることが終盤でわかります。自身は覚悟の瞳を持っているのですが、周りは陰鬱な眼を持っており、その祖語への葛藤がこの作品の軸になっているのでしょう。だからこそ、「信念をもう一度持ち始める」必要があり、自分自身へ言い聞かせながら、何かを行動しようと言い聞かせている様子が目に浮かびます。  それらが一気に集約したのが「透明な水槽の中で/観察された私の心の中」であり、水槽の枠で内部と外部の隔たりが示され、見られる存在であることがわかります。  「そして嬉しかった」  張り詰めた空気の中に雪が降り始めるという緊張感の中で、率直に結びつく感情が悲しみでありますが、その逆である嬉しさを感じたのは何故でしょうか。それは、「人に笑われる人格から/変わった」ことによって得られたのでしょう。  上記の葛藤や決意を経て、他者によってあたかもレッテル張りをされた自身の生き方を自身の思いによって変えること。   この作品の大まかなところはこれで捉えられたと思うのですが、実は何気ない気になる一行が垣間見られます。  「あなたが唇を軽く噛みなおす美しさ」  この行の前には「幻覚」ともあります。傷跡=過去との決別とは、①人に笑われる人格への決別、が主であるとも思ったのですが、②あなたと過ごした時間=過去との決別、も含まれているのでしょう。この作品には、まるで群衆のような不特定多数=陰鬱な眼ばかりという他者しか出てこず、自分本位な語り手の思いしかないように一見みえてしまうのですが、この一瞬出てくる「あなた」が特別な他者であるかのように思えました。

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黒髪
(2017-08-12)

なかたつさん コメントありがとうございます。 「傷跡」については、色んな他人から、ゴミ箱にされたというようなことがあり、それに対して立ち向かわなかったので、 心の中にそうした良いように使われた記憶ばかりがあって、そこからまだ逃れられないというような、傷です。徒党 を組むと、どんなにおかしなことでも、お互いに目くばせしあって実行できるものであり、どんなおかしなことでも、 色んな理由を作り上げて、実質という論理で、滅茶苦茶にするものである、と僕は思っています。形式と実質の 手綱を操る他人に、負けてしまったということで、これからもそういうことは、起こりうることだし、僕が実質を いかにして自己によって主張し、いかなる形式が適当であり、形式遵守の意味を、社交的にうまく使っていかなければ ならないか、そういう考えの絡まりによって、こういう傷が、残ったというように、僕は思います。 「幻想的な攻撃」というのは、過去にあった争いの記憶を、呼び覚ましたとき、せめて戦いではあったと、なにがしか の理解をしようとして、芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡」みたいな、ことだったと思えるようになりたいな、という 気持ちで使いました。 >自身は覚悟の瞳を持っているのですが、周りは陰鬱な眼を持っており 見る存在であることと、見られる存在であること、これが一致しないと、通じ合うことはできない、そんなことを、 ずっと望んできた気がします。果たしてどんなことをすれば、それが達成されるのか、あるいは簡単なことなのか。 嬉しさはですね、冷たさを感じることが出来る自分、ということが嬉しかったんです。自分の感覚が、心を裏切らない ということが感じられたから。 >レッテル張りをされた自身の生き方を自身の思いによって変えること このあたりは、良く言ってくださったという感じです。失くした自分が、過去にとらわれずなんとかしたい、という 気持ちです。 僕は、年齢に比して常識を知らず、言葉もうまく使えないので、何やら何をするにもずれたことしかできないという 良く分からない状態で、一日に一つくらいは、普通の会話ができるようになりたいとは思っています。それが本当に 大事なことなのか、ということを思い、心は動揺してばかりですが、色々とやっていけばいいんだと思います。 また、「あなた」との決別という事では、やはり延々と勝手に気持ちを持っている限りは、色んな人が、むかつく らしく、また迷惑であるということを、「あなた」も思うのかもしれない、思わないかもしれない、と感じまして、 いい加減に決別しないといけない、ということを、感じたり、感じなかったりしながら、色々と日々を過ごしている 感じです。 丁寧に読んで批評くださり、ありがとうございました。

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