作品投稿掲示板 - B-REVIEW

竜野欠伸


投稿作品数: 7
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「永遠」と「一瞬」との近似形式を求めて、これらを証明しています。それらについて、相似形式として命題が成立していることを確かめています。永遠と一瞬はとても似ています。相互フォロー歓迎しています。

竜野欠伸の記録 ON_B-REVIEW・・・・

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はじめまして。 僕は好きですね。 希望と愛を処方される辺りがよいですね。 フロイトのくだりはある意味で賛否ありそうです。フロイトが前近代的な処方箋を書いたような気がして、僕はよかったと思います。 (バーンアウトシンドローム)

2022-04-03

こんばんは。 お久しぶりです。 そらみれど、って音は、音階でもあるし文脈でもあるのですね。素敵な詩を眺めることができて嬉しいです。音楽的な詩であることも流石と思いました。 (猫族の村会議)

2019-11-10

こんばんは。 一読いたしました。 最後の連が一番印象的です。 安否の確認みたいなところがメッセージのようになっています。 敢えて、僕自身が自由かどうかはお答えいたしませんが、 答えが自由か、それとも自由ではないのか、と捉えると 少しだけですが、自由という言葉が強い印象を持ちました。 その帰結であります読者の回答が、 わからないなぁ、という言葉の選択も含めて 選択肢の幅が無数に感じとられるかどうかが、 この詩では、それこそ自由に行き着くのかな、と思います。 (私という詩を書く人)

2019-10-05

顔文字も表現用語としてアスキーアートであるという由来もありますので、 ま、(^o^)ってことで。。 ネ。 そうだ! アスキーアートと詩を合わせた 視覚詩というのは、純文学系ポエムでは、まだ見たことがないのです。 でも こひもともひこ さん が先鋭としては表現していたかもしれないナ。 とは、いえ二次創作系のアートがアスキーアートであるのだから、 そもそも純文学系アスキーアートというのは、まだ存在しにくいのかもしれない。 ((╹◡╹))

2019-09-16

お久しぶりです。 人生論の「じ」という字が見え隠れする詩だなぁとライトにも感じます。適当な顔文字がすまして見えるだけなのだからなのかも知れない。そのような薄い膜がこの詩にも張っているのがわかるのですが、顔文字の表情それ自身が何処か、詩作それ自身にも映り込むところがあるかな。出来映えは、個人的には好きな方でしょうネ。 ((╹◡╹))

2019-09-16

るるりらさん こんばんは。 確か長渕剛さんは、リリックと楽曲と脚本の著作者であったことを、二つの詩を読みながら、何故か思っておりました。長渕剛さんが、目標にした小説を書き損じながら、チーズを肴にして、酒を浴びながら未完成の小説を、敢えて詩として洗練させるにとどまらせることを、何故だか想いました。高校生の時分に、ただ純粋に音楽を確かめるように聞いたことを、思い出す目的でCDラジカセに向かうようにです。どうやら、いつか学生服を着た若者達が闊歩する姿を探すように、そのような情緒を短文で想像させることには、とてもうまくいっているような気がします。とはいえ、この詩は、まだ未発酵なチーズのような気もします。独特な香りがよいのか、白の色味が柔らかいのか。じっくりと、もう少しねせると更に風合いも醸し出される感触に、舌鼓が打てると思いました。もちろん、このままでも、いけると思います。 ※長渕剛さんから連なる想いのくだりは、僕が未だにイチファンとして思うことであって、他の表現に関わる事件やらを空想して考えた訳ではありません。では、よろしくお願いします。感想にて。 (白い神話に寄せて 二編)

2019-06-10

おはようございます。 ふじりゅうさん。 取り上げて下さってありがとうございますネ。このお礼だけで充分とも思いましたが、それだけでは、寂しいのでレスポンスをしたためます。 カテゴリーミステイク。不思議な語感があったかもしれません。意訳すると、分類を錯誤する、ということで、よろしいかと思います。逆に革命の意味は、もっと幅の広い意味があるかもしれません。政治的なものだけではなくて、ビジネスや生活などにも、諸ジャンルで横たわるものと思います。革命家とやらが革命しようとして成し遂げることは、やはり難しいものと思います。カテゴリーミステイクを最初に持って来た意図としては、そのような、世間や世界の変化を叫ぶ革命が直面する現実は、とても小さなものだろうと考えてみたからです。現代詩のような手のひら作品にだって、求められるコンパクトさを感じてしまいます。 スラング的な言い方では、時として革命とは、凶暴な社会行為です。今のスマホ時代では、やはり、ネットで確認できるものだろうし、SNSを駆使すれば、それらの小さな革命に遭遇することもできるでしょう。アラビアのくだりは、偶然の産物です。特に、僕の出生地などではありませんが、アラブの春と呼ばれたニュースを下地にしてみました。革命にも、さまざまな解釈があってよいと思うので、この辺で筆を置きます。 批評文ありがとうございます。 (〈批評文〉詩人が謳う、革命の音色が聴こえてきたんだ。/ 「カテゴリーミステイクの革命」(龍野欠伸)を読んで)

2019-05-23

こんばんは。斉藤木馬さん。 二度三度、聴かせて頂きました。新味あるライトワールドな作品が現れて楽しいひと時です。こちらの作品パッケージは、勝手な想像なのですが、オーディオブックと思ってしまったのですが、そのような認識でよろしいでしょうか。これこそは、カテゴリーミステイクなのでは?!と思ったあとで、どうすればよいかわからず、自然に音と接することができただけでも嬉しいです。このような挑戦をするスタンスが、僕としても、とても詩的な共感を持ちます。現代詩をよりカジュアルにボトムアップする可能性を強く感じます。 (Home(音声版))

2019-05-05

こんばんは。 コンパクトでシンプルな感想を、飾らない落ち着いた言葉で、このように頂いたことは、今まで、なかなか至らないことが多いので、とても嬉しい気持ちです。そのような共感を大切にする瞬間に至るのも、奇跡に近い一瞬でした。詩を書いててよかったなぁと思います。本当にありがとうございますネ。 (カテゴリーミステイクの革命)

2019-05-05

エネルギッシュなラップっぽい印象を、初読で感じました。 なんだか、 まだ、僕のなかでも、 令和があるのなら。 脈打っている血液。 鼓動が始まる時代。 地球の裏側で、 コインも裏側を向いている真実。 日出ずる国から届いたリズム。 カーニバルで踊る靴底が、 道端に当たるカカト。 ブラジル、リオデに鳴る音楽。 地球の裏側を感じるリリックが 伝わってゆく感じ心地よいですネ。 (陽・いずる)

2019-05-05

痛烈なビーレビ批判と申受けたのは、僕だけでしょうか。ビーレビより生成されるコミニュティ不在の現ビーレビをどのように思うか?という作者ながらの言葉で客観視点を与えようとする詩作と思います。それは、本来の出会いともなりえない不甲斐ないコミュケーションが、未だに詩作の拠点としてしか存在しえないだろうとの作者の想いも見え隠れします。別にビーレビのせいとは、思はないですが、詩人が詩作することそのものには、日本では、今しがた産業構造がないのでしょうネ。ここにも描かれていますが、詩人に社会的な役割があるとしたら、他者と他者のあいだに、自己をあらわす言葉を創り出すことなのかもしれません。 (B-REViEWは終わった)

2019-05-04

こんばんは。 それぞれのベクトルの違う想いをサラダボールのような詩タイトルの器には、詰め込むというか包摂されるように、詩言語を選んでみました。でも、個別の思想ということになると、話は別です。それは、言葉が属性めいてくるので、敢えて、個別にある革命思想には、直接に触れてはいません。 ひょっとすると、汎詩論っぽいところは隠さずに、そのままでメッセージになっているかもしれませんが、それはそれで、よいと思っています。カテゴリーミステイクという語は、エトセトラのような響きがありますが、それよりも、使いやすい語かもしれません。 色々と感じとっていただきありがとうございますネ。 (カテゴリーミステイクの革命)

2019-05-03

僕は、このようなアナロジーが好きですね。聖書を壁紙にはしたことがありませんが、機械にも信仰が必要な時代があるのでしょうか?そんな気持ちにもなりました。不思議な感覚です。ありがとうございますネ。 (インストール)

2019-05-03

トビウオは人間の比喩なのでしょうが、なんだか、人工生命や人工知能の比喩でもありそうですね。そんなトビウオをもう少しだけ、擬人化しても面白いと思いました。今後も楽しげな詩ですね。 (トビウオ)

2019-05-03

許しとは、(失敗であれ成功であれ)経験の抱擁だろう、とも思いました。 観念とは、影を持つ何者かが存在する痕跡のある理想でもあって、 観念をモチーフに詩を記すのであれば、頭をもたげてしまうのは不思議ですね。 どうしても実際にある身体経験にある感覚的な ところ描写の実体が甘くはならないだろうかと少し首をひねりました。 純粋な観念を作品として目の当たりにしたのは、 僕は日本国憲法ぐらいだからでしょうか。難しい路線は実験的なことかもしれませんネ。 (恋の走馬灯)

2019-05-03

書いた詩の趣旨や背景を 噛み砕きが足らず詩作していました。 アイテムを付け加えると 投票用紙とか選挙のハガキとか投票箱とかあれば、もっと不思議感なく伝えられたと思いました。反省の弁を失礼致します。 (もうすぐだよね。)

2019-04-27

サルトル言の引用などがあるとですね。 すっぽり抜けていました。ごめんなさいネ。 (やさしい家族計画)

2019-04-27

こんにちは。フェレットのしつけ さん。 家族と哲学やらをテーマにして 書かれた詩と考えてしまいました。 それなのにライトに読めるのが とても歯ざわりが良い印象です。 もうひとつ贅沢な言い分をお伝えすると 哲学者としてのサルトルが 家族についてのアフォリズムなりを 引用として、 本作はとても共感が充実して 得られていくのでは、とか思いました。 これは、あくまでもわがままに過ぎない 気持ちですので、戯れ言として 留め置かれても構いません。 このような詩に出会ったことが いままでないものですから、 贅沢を言ったことお許しください。 素敵な詩をありがとうですネ。 (やさしい家族計画)

2019-04-27

拝読しました。 はじめまして。鹿又夏実さん。 一読しましたら、どこかしらには ある家庭の風景描写なのだろうと 思いました。ありふれ過ぎた 子供の日常。刺激のなさすぎるGW。 ところが、そんな風景では収まらない。 風がいなくなる、という最期の行。 風景ではなく景でしかない。 これは、光景にも 当たらないだろうと感じました。 さらに読み込んでみました。 何故かというと子供の快不快がやけに 普通過ぎる描写により、逆に 残酷なほど過保護な子供像を 増幅させて書くことに 成功しているのです。 大人になったら こんな子供時代を思い出としたくはない と人間なら思うのです。 今の家族ってこんなに 賑わいがないものなのでしょうか。 試しにですが、子供のいない夫婦ですが 昨日の家族の会話で思い出すことを 書いてみます。 僕はというと 麻生太郎の呟きそうなセリフを マネをして 妻と過ごしていました。 是れでは財界にはイイカオが出来ん。 ミゾウユウの事態ダ! このフレーズをどちらが 面白くマネできるか 何度もセリフを呟き ながら二人で笑っていました。 馬鹿な小話を失礼しました。 (えまちゃんと風)

2019-04-27

tOiLeTさま まずは読んで頂きありがとうですネ。 意図としては、令和の時代を迎えるに。 通常、国民的な行事ですが。 令和賛歌があるところだ思うし、 それでも良いような気がします。 ですがスッタモンダで 政治がしております。 今度、国政選挙も 控えているそうですね。 僕は、出来れば、選挙そのものについて 言論の自由をもとめて路上で 訴えたいなとか思っております。 それが投票率を高める貢献に つながれば幸い。 喧騒のなか。 路上詩人的活動をしてみたいですね。 支持政党がないのは当たり前な 世の中、それを無党派層としか呼ばない メディア側もどうかと思っています。 僕は立候補とかは全くないですが せめて、選挙民であれば 投票を控えている層とか、ポジ気味に 捉えたいです。選挙のサポーターです。 選挙で投票することに絞り応援します。 そのような活動をする方向です。 時代の終わりには、様々な思いが 交錯もするでしょうね。 また 時代を生きて逝くのは、 世知辛いものもあるとは思います。 (もうすぐだよね。)

2019-04-27

作者は 北さんです。評は、竜野欠伸です。 上記は、作品紹介になりますが、選評でもあります。 (【選評】少し硬質な感謝を運ぶ詩文「真実の体積」から)

2018-04-01

蜂川パンプキンさん こんばんは。 認知的不協和というよりも これは詩と思いますので 詩的不協和音といいますでしょうか。 最期の「わたしがわたしだったから」という言辞が とても印象的です。 僕も嘘には戸惑いを覚える人間ですが、 しかし、大嫌いとも考える人間でもありません。 ただし、それは嘘も方便という考えではなくて、 嘘だって人間が生きる必要に紛れ込む現実があると考えます。 現実と、出来事が、前後することもあるわけですし、 例えば、AさんBさんCさん・・・が居れば それぞれ主張が違うわけですし、たとえ嘘に戸惑いがあったとしても 真実をもとめて主張するとなれば、いずれか主張が嘘にもなるわけですよね。 そんなことがあっても、嘘偽りのない生活や職場が 日常茶飯事だといいナと考えています。 (認知的不協和)

2018-03-31

百均さん こんばんは。 詩を鑑賞することでさくらを鑑賞する 気持ちになるのは、詩作の醍醐味と思いますネ。 タイトル:春寒の記憶: についても引き付ける印象を持ちました。 何より、 通り過ぎるらくがきは世界にひとつだけれども さくらという名前の木は世界にたくさんある。 という、叙景がとても素晴らしいナと感じました。 最期には、 その瞬間に垣間見ることが できた叙景がとても素敵でした。 さくらの「はなびら」は、 ひとにとって、 きっと「人間の名前みたいな」「なみだ」のようだ。 ラストカットとても印象的です。 (春寒の記憶)

2018-03-31

まりもさん ご無沙汰しております。 たゆたい、ためらい、との形容もあるかもしれません。当時には誰しもが、大津波に飲み込まれる可能性が否定もできない状況だったと思います。天変地異でも巨大な脅威としては、大自然があるものと感じてしまうことも真実でしょう。大地震被害の人災説が流れてもいましたが、大自然の驚異と共存ができるのかは、そのニンゲンの運命と宿命のあいだにあるものと思いますネ。 ニンゲン社会の停滞感も大自然の前では、尚更のこととも思うに至ります。 後半のアドバイスは、とても参考になりました。何らの史料や文献の引用もあっても良かったのかもしれません。叙情詩的な表現に、ワンクッション置いた表現を目指しても良い詩なのかもしれませんネ。貴重なコメントありがとうございます(*^_^*) (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-30

藤一紀さん こんばんは。 始めて、僕がキメラを見たのは、小学2年生でドラゴンクエストのモンスターでした。それがどうこの詩になったのかと申しますと、世紀末に登場したネット界隈の無数にあるエロ画像です(*^_^*)。フランス国籍やアメリカ国籍のエロ画像もあったかもしれませんネ。そんな叙情が哀しく感じたのは、言うまでもなく、東日本大震災でした。ちょうど妻と出会うことになった頃と場所、とも少しだけ重なります。ヨーロッパ風のキメラではなく、ここ日本にも哀しくも生命としてキメラは、いとおしくも存在したのかもしれないと思うに至りました。これらの弔いとしては、このような詩にも至りました。ニンゲンって、不思議な生き物で、変なところもありますが、このような真実もまた、ありきかなとも感じております。決して高尚なものではないと想っています。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-30

るるりら さん コメント頂くことができまして嬉しいです。 感想を少しでもながめると客観的に捉えることができました。参照を行い焦点を絞って詩文の密度を高めるだけ高めた方がよかったのかなと少し反省をしております。キメラの解釈も少し世間とは異にしていましたですね。ですから、そこも明確にした方がよいですね。ご指摘からは、そのようなニュアンスがあると感じています。ここでは、キメラの解釈は、幻の鳥獣でもありますが合成動物もあることからも、キメラは三体以上の合成動物でもあるという描写に焦点を当てたかったのです。男女の性の交わりによりヒトはその群生を以上に3体以上に増やすことをしています。ニンゲンという言い方をすると対象が3体以上に及ぶ合成動物なのですネ。僕としては、ヒトではなくニンゲンを詩作したかった訳ですが、迂遠な表現があると思えるのならはばかりながら、残念です。ご指摘は今後に活かしていきますネ。兎にも角にも、感想をありがとうございました。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-21

こうだたけみさん。 こんばんは。 気になる詩でした。踏み止まるめざし。タイトルにも韻を踏ませて描いた筆跡が伺えます。ペンシル形状をしている魚、もしくは、泳ぐことができる鉛筆、のようなイメージも沸いてきました。とても素敵な詩ですね。 (踏み止まるメザシ(千葉県産))

2018-03-17

 はじめまして、こんばんは。  素敵な詩をありがとうございますネ(*^-^*) 「接触」というタイトルに託した、試みの詩作として書かれたものとして拝読しました。【「五日前の卵」は落ちて割れた】というセンテンスは、読者(君:二人称)と作者(僕:一人称)にあるはずかもしれない現在進行形でも共有する記憶でもあろうと捉えました。なので「五日前の卵」にはタイトル「接触」を生みだす何らかの役割があるのだろうと思いました。解釈には幅が出るのかもしれませんが、その共有するセンテンスの記憶の如何によっては、イベントが起こりうるのかもしれません。重層的な比喩として、二枚貝という読者(君:二人称)と作者(僕:一人称)を連ねる直喩がありうるし、やはり、卵形に眠る、というポーズにも役割があるのだろう、とも考えました。シンプルでもアクティブな詩作だしスタンスが良いとも思います。(^_^) (接触)

2018-03-17

こんにちは。 お久しぶりです。「う」という字形がおっぱいに見えます。 ちなみに「っ」という字形もおっぱいです。 なんだか賑やかですね(*^-^*) (ときには 名もない おっぱいのように)

2018-03-16

三浦果実さんへ  お返事ありがとうございました。そうですよね。それぞれモバイルごとに1行当たりの文字数がレスポンシブデザインだと変わりますよね。iPhone7の場合は一例だと思います。モバイルごとに該当詩によるレスポンシブデザインでの推敲状況/校了状況を点検確認できるサイト機能があればよいと思うのですが、どうでしょうか。展示の状況確認がができるし、なお、訂正の手間が不要になるし、事実上の一発校了が可能ですね。その方が、出稿時の安心感と納得感がありますし、PCからのシミュレーションに頼らず、モバイルだけでも連のガタつきチェックが事前にできるかもしれません。モバイルごとの展示状況の見え方で作品評が左右されることもなくなりますし、モバイルでの作品出稿も安心と納得ができます。この辺の調整が大変かもしれませんが、皆さんの作品のためにも、いずれよろしくお願いします。 (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-16

お久しぶりです。 ビーレビの推奨スマホとかないのかなと口走ってみます。文のガタつきがまだありますネ(*^_^*) (Chimeraが残す羽音を聞いて)

2018-03-15

こんばんは。 スッキリとまとまり待たせた作品ですね。タイトルの件ですが、自己治療詩または、病気詩でもあろうと感じました。空元気であれば、回復を祈ります。信頼のできる医療福祉の専門職の方にもわかりやすい理解があるだろうと感じました。詩には様々なジャンルの詩があってもよいと思うこの頃です。元気が再び戻る頃を祈っています。 (希死念慮)

2017-09-02

こんにちは。 ポエムと詩にある語義の相違について、僕の両者の語彙の使い勝手を考えたのですが、ポエムについては、喋り言葉/話し言葉として使っています。その方が、現実レベルの世界に残しやすさがあるからです。詩とは、一言で済ますと言う意味で、音として残りにくいはずです。ポエムの方が話し言葉としては圧倒的に言語作品であることを、主張しやすいです。詩については、文学言語とも思っています。詩であることの伝統的存在感は、詩と呼ばれることにおいて、言語作品とする主張性にはかないません。日本には短歌、俳句、川柳、ショートメッセージ文学のジャンルがあり、詩は、これらを包摂する意味合いとして、言語文化として構成させやすいと考えます。ショートメッセージ文学を標榜する場合でその限りだと思います。結論としては、ポエムと詩は言語作品としては、同じ意味合いで用いることもできますが、ショートメッセージ文学としては、多用途な使い勝手があると考えます。真面目に考えるとそんなところでしょう。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-28

初めまして。 タイトルにあるように詩論として読みましたが、内容としては、反実仮想について、何らの論理展開があるとは思いました。それらは経験論としての叙述があってはいるところですが、最期の結語については、どのように結論がなされているのか、読み手にとっては分かりづらいと考えます。詩論としての本論が欠如していないか、と思いったので、少し残念でもあります。なるべく冗長にならないように、したのでしょう。しかし、詩論としては、論理に飛躍があるとの思いが拭えません。序論と本論と結論を結ぶ内容が必要でしょう。まだまだ工夫の余地はありますので、ガンバですねー。カキイレドキを見失わないうちにですネ。では。 (詩論:再び偽りに終わったとしても)

2017-08-24

 こんにちは。  丁寧な講評をありがとうございます。  四つ葉のクローバーの草原などは、これからの目標でもあります。ここにある草原で花冠を、妻に作ってあげることが夢の黄昏でもあるわけですが、今、現時点で、表現活動を広げていく機会を探っている次第です。地元近くにある社会資源にアプローチをとっていますが、まだこれからの具体的なスタンスをどう取るのかそれを形にしていくところでもあり、大事な時期とも思っています。詩作に関して活動をより深くしていくことも、なお前向きに現実的に考えようとしています。そのための策を講じておりますが、キチンとした形で、妻には伝えたいのです。そんな想いで書きました。「光の連鎖」という言葉で締められた、素敵な講評を胸のなかにも妻にもわかる形でしまって置きたいなと思いました。 (僕たちが頑張ると云うこと)

2017-08-19

はじめまして リチウムに託された言葉の意味が が多様なニュアンスと意味合いで読者に迫ってきます。 ここでは、リチウムを「小さな原子力」として読み進めます。 ある意味での原子力エネルギー社会を風刺してもいるし 叙情詩としても描こうとする野心的な一作ですね。 311東日本大震災跡の世界でも必需品でもあるモバイル端末。 日進月歩の技術でもあるリチウム電池に蓄えられた遠距離通信でも、 叙情詩ではどのように解釈できるか、という解釈が楽しみでもありますね。 どのような文脈でリチウムとは、どのような象徴かを考えました。 ①モバイル端末の普及で遠距離恋愛の許容範囲が広くなりすぎた社会での孤独感の象徴 ②311報道が伝えそびれているかもしれない最小単位の原子力社会(恋愛カップルを含む)の象徴 ③311東日本大震災で開いた心の空洞とそれに伴う復興の疲れを支える小さなエネルギーの象徴 ①②③の描写や伏線にもなり得るし、 過剰なエネルギー源(原発の暗喩でもあるし、携帯情報端末による備蓄電源の直喩でもある)の比喩対象が 要らなくなるかもしれない社会は、少なくとも詩作上では、恋愛の成就を産み出そうとすると解釈いたしました。 メッセージとしては、過剰なエネルギー源という電力とは、 個々人の運命や生命の行方にかかわる表現の自由と解釈の対象でも有りうるものとして、 脱原発社会を暗示的に書いたのだろうとも考えました。 それらによって、「あなたのリチウムはいらない」という言葉のリフレインが さまざまに傷ついた心を癒やすキャッチフレーズになっているだろうとも思います。 この発表で終わらせるにはもったいない一作だと感じますね。 (リチウム)

2017-08-19

こんにちは。 前世と現世と後世に、詩の批評精神が伴うという 詩の批評論をエッセーとしてかみ砕いて伝えてあることが 親しみ深い言葉で描かれており、 穏やかな気持ちになりました。 今後ともよろしくお願いします。 (I・・・に教わったこと あるいは批評について)

2017-08-19

こんにちは。 短編で刻んでは、搾り出す詩言とも感じましたが、舞台背景は雄大でもあるし、深遠でもあろうかとも思いを馳せました。描写対象としても、優美な叙情を傾けていた温感のある孤独が映しだされていました。立体的にも奥行きを深く感じる叙情と言いますのも、様々な角度からの丁寧な叙述があり、なお時間軸について計算された焦点の移ろいが孤独の儚さを味わい深くさせていたと思います。この詩では、温感についての叙述が美しくもしていました。敢えて、太陽とかたぎる情熱と言う熱量を多く感じさせるような温感の描写が控えめになされていたことが、線香花火の温度を切なく繊細にもさせてもおり、素敵でした。 (ファイブ・ペニーズ)

2017-08-18

こんばんは。 純朴な青年が、健全な魂は健全な肉体に宿るとおもいながらも、その純朴な研ぎ澄ます感性を、その歩みとして記していく過程を、青春時代の苦悩とともに、魂の歩みに斬新な起伏をかんじて道を進む。霊魂がどうとかは、もちろん別にして、青年時代にしかない特有の苦悩を記したのだろうと読みました。旅路には希望が待っているのだろうと思いました^ - ^ (若者は)

2017-08-16

一瞬は 加速度が夏 過ぎた日に 想いだけの日 可憐な恋へ (和歌)

2017-08-16

かつての昔を思い出したからです。ただ独り我があるという感覚には、親の背中でも見たいという願望が見え隠れするものであろう、とこの詩から直感したのです。それだけの寂寥感を真夏の終わりには独りの我について思うのでしょう。 ところで、幼な子にあっては、悪戯が過ぎて、母の手に負えなければ、先言のくだりを、父には言われ、僕の自覚のない記憶のなかでは、父の思い出のなかで、それは違うと言っては泣き出した、と言うことを、父は自分が大人になったあと、冷やかしにする訳です。当然覚えがない訳ですが、実家を出たら、そのような昔話が現実であるはずだろうナと真夏の暑さに哀しさの足跡を記憶として確かめたいとも、考えたのでは、と共感を込めて推察いたしました。 (高架下)

2017-08-16

こんにちは。 お返事ありがとうございます。 反戦というと傍観して何もしないことにつながる 見方なのかもしれません。一見平和に見えますが。 武器があってもなくても、人間には力があります。 その力をどう考えるのかという解釈もあるでしょうし。 その力をどう暴力にしないのか、ということに 対処するのが、本当の反戦でしょうね。 様々な方の考えもありましょうが。 そんな下りよりも素敵な感想を頂き嬉しいです。 この感想の方が大切なことなのでしょうが、 武器と言いますか、武装具という言いますか、そういうものの耽美的なところも 感じたこともあります。凶器には純粋に残酷な機能しか無く無駄な設計はないとも 何処かで聞いたことがあります。そんな凶器を国家の特定の人間だけがそもそも管理するのは、 そもそもおかしく、シビリアンコントロール(文民統制)があります。 自衛隊の日報管理逸失がこれほども問題にもなります。制度の考えとかは退屈ですよね。 だからかなぁ、この戦争社会風刺のジャンルはわかりやすい文であって欲しいし、 暴力だけをクローズアップしてもつまならいし、 日々の話題の抽象化や捨象化をした挙げ句の果てです。 読んで頂きありがとうございました。 (白夜の終わり)

2017-08-15

お盆ですが妻の母に祈りを捧げます。 (僕たちが頑張ると云うこと)

2017-08-15

親子のつながり→親の背中、があるのではと思いました。訂正です。ごめんなさい、 (高架下)

2017-08-14

自らの子供にお仕置きをする親にあたる人間が、ほんとうは、きみははしのしたからひろってきたんだ。と子供に伝えて叱るとき、子供は親に優しさを求めるそうです。そんな、昔ながらの親子のつながりを見つけました。 (高架下)

2017-08-14

こんばんは。 兵器には声なき声があるでしょうね。輸送兵器がなければ、災害対応がたいへんでしょう。輸送兵器は、武器を運ぶために編成されたのことも、元マニアの弟から聞いたことがあります。僕はこの詩がすきです。 (声を出せ)

2017-08-14

黒髪さん 心を広くするようなコメント本当にありがとうございます。 自分には、この種の政治的な動乱について、詩を書くことしか出来なかったのです。詩書きの端くれとしか思ってはいません。ようやく、暗喩に注釈をつけることで、暴挙として政治的な動乱を風刺として、捉えることでしか、社会の一員でいられないと感じたからです。随分と以前に、政治家とは、絵に描いた餅を食べる職業でもあるのだろうと考えたことを思い出しもします。珍しいことかも、知れませんが、家族で出版社をしていたに等しい時代があります。父は名前だけではない編集者でもあり、しかし、人間味に満ちた経営者でもありました。その会社はもうありませんで思い出だけになっています。橋の専門誌をやっていました。信じられないかも知れませんが、北方領土に橋を架ける計画とか、韓半島と本州との間にトンネルを掘る話だとか、本当に絵に描いた餅はずの話が実際の土木構造物の設計図だったりするので、天下国家の話を何処までも好きな人でした。難しい話もあるのですが、ひと昔前の政治家の類をよくも悪くも、伝え聞いています。そんなことが影響しているかも知れません。暗喩だけで、詩を書くと社会風刺にもなるようです。出来れば、北朝鮮のミサイルの設計図も、父には冥土の土産に持って行って貰いたいぐらいですね。宇宙に架ける橋が、この場合は、核搭載のロケットでもあります。暗喩としてだけの詩であって欲しいともねがいますが、寂しさと切なさが出てきますね。北朝鮮のおもちゃのはずの兵隊が、実際の人間の命であり、他人さまの命を左右する訳ですから、とんでもない動乱です。暗喩としての風刺は、成功したかも知れませんが、油断なりませんネ。シンボルを欠くことは、単にこの風刺が、政治家の風刺ではなく、社会風刺であるからだと思います。まだ実力を付けたいところですが、これはこれでも、良かったのかなと思いました。暗喩として、ケンタウロスと誰しもの女神の対置が、詩形式を保つことをしていました。 読んでいただきありがとうございました。 (白夜の終わり)

2017-08-14

おはようございます。 コメントしますのでよろしくお願いします。 「-」については、解釈の仕方が分かれるのだろうと思います。1.初見では、「-」に何か伝えることが当初にだけあるような、戸惑いにも似た気持ちが「-」があるのだろう。そのような推測やら好奇心がありました。それらは、無限にも表現を求められる叙情でもあるのかな?とくる感情が思わせぶりでもあって、それらが愉快でもあります。ある意味で、読み手による自由な気持ちをくんでいるからです。「-」には、主体的で相手を汲み取る言葉なりを代入できます。2.「-」と言う語を使うだけで、叙情詩であるはずの詩が、詩も相手があることで成り立つ表現ですから、自由なコミニュケーションを想定している詩形式を作者が編み出したのでは、との試みには、楽しさを感じていました。恋愛感情を想定することによっては、これは叙情詩です。しかも、コミニュケーションを想定することができるので、ある意味で、読み手の感情を尊重してもいる形式をとっていると思います。3.「-」は、糸電話の糸やランケーブルなど、信号などを伝えることをできる、象徴記号かなとも感じました。象徴記号のあしらい方も上手だなとの感想です。 一方、この詩は、「-」を補完するメッセージが、詩言語であるため、よくもわるくも、フレームとして詩言語に意味が出てきます。「-」がイメージできれば良いのですが、イメージのフレームが額縁として、この詩の感想を左右する問題があるようです。フレームこそが詩言語であるがゆえ、表現の適切さやその他のことが、読者への印象にもなると思います。僕はより、この種の詩作を続けることで表現の可能性を探るのも一興だなと思いました。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-14

花緒さん しなやかなコメント本当にありがとうございました。 なかなかお返事できず遅れまして申し訳ないです。 「寓意」なる言葉の意味をよく理解できました。寓意を暗示として多用した詩作でもありますね。核弾頭搭載型ミサイル発射実験を巡る国際情勢ということを宇宙に例えました。戦争を暗示することは、とても精神的には取り越し苦労も多くあって、金正恩のスラング名称など汚れた言葉なども想いのなかにありました。ですが、きれい事だけでも済まないのが戦争ですから、言葉で済めば良いという考え方、この場合、力で済めば良いと言う考え方、主に、このふたつに考え方が集約するわけです。僕は、二段構えに捉えることが大切かなと考えましたので、出来るだけ、可能な限り描写を、丁寧にした次第です。言葉だけでの解決は無理だろうと考える方も多いと考えますが、詩書きの端くれであればこそ、このような詩作になりました。 <戦争>の意味も考えやらも、さまざまに説得力のある文脈による出自があってよい最近でもあります。その解釈についても、文脈での主張を最低限に控えて、ここでは読み手に委ねることが間違いないことだろうという考えもありました。 ここまでお付き合いどうもありがとうございました。   湯煙さん  丁寧なコメント本当にありがとうございました。  ずいぶん割とですが、戦争については反戦詩文化がありますけれども、そこには、政治的な主張など、詩には成りにくいものもあるかもしれません。一方で、貴重でもある命のことを思えば思うほど、愛憎といいますか、仔細に及ぶまで人間は生き方を追求します。詩作は宗教ではないとも考えますが、戦争未満や政治未満や宗教未満の詩作はとても大切と思います。ですから、ストレートに表現することを変化球気味に考えてしまいました。  神話という言葉は、もったいない言葉ですが、世界が成立する前の話(話半分でもあるなと思いますが)は、詩作でも小説でも、じっくり取り上げていきたいかなぁと思います。神話が実際のモチーフになることは、希有ですから、寓話と言いますでしょうか、そのようなものであれば、ショートメッセージでもある詩でも扱えるのではと思います。スケールというか大風呂敷になってしまうと大変ですが、軍事力としての金色の矢が放たれないで済むことを祈っています。 北朝鮮のミサイルの命中率は分かりかねますが、脅威であることには違いなく、争いごとで一触即発な事態では、特に、リーダーが他者を信じることができるかどうかですよね。想いの矢を射るという行為では、他意ですが、想いの人に注目を浴びることでもあります。軍事的な緊張では、対空ミサイルかもしれませんが、トランプさんには、同じ土俵には乗って欲しくないなとも思うし別次元の戦いを収めて欲しいナとも考えていました。戦争行為が解決であるとも限らないのですが、力を誇示することも選択肢ではある一方で、それだけが戦争行為だけではないし、日本ももっとその辺を意識して欲しいかなとかも思います。いわゆる情報戦に突入しているのでしょうが。  ここまでお付き合いどうもありがとうございました。 ハァモニィベルさん  コメント本当にありがとうございます。 お返事遅くなって申し訳ないです。  幾つかのポエムのレイヤーと言いますでしょうか、この場合、背景描写といたしますが、これらを読み解くことをしていただき詩作をしてみた甲斐がありました。嬉しいです。『 日曜日のザナドゥは後戻りできないホ短調』読ませて頂きました。シュヴァルの理想宮の話などが埋め込まれたことなどは、僕には気がつかなかったのですが、はっする逸話が出てきて楽しいですね。僕は、やはりザナドゥを示すものが世界にあるのかという考え方もやはり吟味した方が良いという考えです。そこで、ここで限定して、例示的にも、明示的にも、ザナドゥ界を人間の桃源郷として、考えます。 当たり前のことかもしれませんが、社会は通念として、やはりレトリックの一種かどうかは別として、法治国家が日本社会である限りで、性善説によっても性悪説によっても、法治国家が国民の安全を満たしているという考え方によって、いつも満足したりそうじゃないと思ったりする人間の一人です。 つまり、①ザナドゥ的な桃源郷としての社会と②世界を法治国家による統治が行き届く社会③現実界のみを示す社会、に分けられるとここでは、仮定することにいたします。 さて、この詩は、社会の風刺として描いてみたものでありました。その風刺のなかでも、最も存在感をもとめたいことが、僕にとっては※「大戦中の日本人による原爆体験」と思っていたところが、描写不足でもありました。実はこの点が、ベルさんの疑問点でもある、美しさの描写に歯止めを掛けていました。白夜とは、太陽による自然な原子力のひかりのイメージで原爆投下以後の社会のイメージを膨らませたかったのですがそうも上手く事が運んでいないようです。悲劇的犠牲的なところよりも、もっと楽天的生産的なところが意外にも伝わっているようです。加えて、暗喩の解釈を自由に出来るとは、面白い考えです。思いもつきませんでした。それは、混沌というよりも明るい兆しとしてあるのでしょう。   さて※を考慮する場合、①では※を超越的に克服し、被爆経験が全世界的にもWW2一度限りの経験で済む社会です。この場合、この世界ではすでに核戦争行為は回避されています。②では、戦争が起こっても通常兵器での局地戦で済みますが、核抑止力という考え方を広めることになり、世界では核の拡散がより広く起こります。核抑止力という現実においても、報復を含めた信賞必罰がありえる以上、※の経験があっても、核の抑止力が世界の均衡を支配します。③では何が起こるか分からない社会です。現実に※の経験により悲劇的な対応を選ぶ社会でもあります。力によって支配しようとするカオス的現実をも許容した、戦争行為を片面的正義として選ぶ闘争社会です。  これらで説明をしていきたいのが本音なのですが、①②③は朝昼夜みたいに輪廻することかもしれないし、三国志みたいに天下三分の計を立てて①②③を誰か天才軍師がいて国家均衡をさせることが起こるかもしれない。兎に角、何とか平和なアプローチがあればと思っています。  素敵な比喩の読みもあり、詩書きの端くれとして、淡い情熱を思い出すことが出来て嬉しい限りです。鋭意、筆を執って頂きありがとうございます。宮沢賢治は、平和が続く夜空を綺麗に描いていたことを、明るく知ることも出来ました。命の名残が、詩作であったとしても、失ってしまう文化ではきっとないのでしょうね。まだ詩人の端くれごとき時分では、世情を語るに、まだつたないのかもしれませんが、さまざまな元気をいただきました。ちなみに、比喩にある他の言葉にある注釈では、「天幕」でもある眼前暗黒発作がとても大切なキーワードとも思いました。リーダーでもある政治家が眼前暗黒発作となったら、どうなるだろうとかやや心配に思いました。やはり、終わりよければすべてよしで、ソウルでもピョンヤンでもグァムでもいいから、喧嘩の後は握手でも終わって欲しいと願い、ケンタウル祭が平和のお祭りでもあればいいなぁとも祈りました。 (白夜の終わり)

2017-08-13

皆さま こんばんは 今回の詩投については、注釈を入れなければ難解な詩でもありうると思いました。他の点についても反省点はありますが、鑑賞の手がかりを入れようと思いました。よろしくお願いします。暗喩が多すぎるため、整理させて頂きます。よろしくお願いいたします。 ①ケンタウロス:人馬一体と言うことからと言うことによる日米同盟:上半身だけの人間は米軍:下半身だけの馬体は自衛隊 ②夜:冷戦後パックス・アメリカーナ時代でアメリカにより世界の軍事バランスの秩序が守られているグローバル社会 ③白夜:②+オバマ政権以前のアメリカが世界平和を担っていたとされる社会 ④暗夜:②+トランプ政権以降のアメリカが政界平和を担っているとされる社会 ⑤北極星:北朝鮮の金正恩政権 ⑥北極星の幻影:⑤によって軍事開発されている長距離核弾頭ミサイル(火星型も含む) ⑦弓矢:軍事力 ⑧誰しもの女神:全世界の子供たちのつながり ⑨手紙:報道ニュース ⑩祭典:⑧による自由な遊び時間 ⑪極光:(オーロラの別名ですが)北緯38度線で仕切られている朝鮮戦争休戦ライン (白夜の終わり)

2017-08-09

はじめまして。 活発な思索にも裏打ちされた作品に僕も感心してしまうひとりです。とても素朴な着想にも見えますが、ある種特別な詩形式とも考えられる普遍性が垣間見えるのだろうなぁとやはり感じます。数学的な用語で恐縮ですが、何らかの意味で部分と全体が相似の関係にある形状について、相似の関係が成立する系について、自己相似の関係があると呼ばれています。海岸線の長さやら人間の心も、そのような形状をしていることと、やはり思うのです。そこには、僕は、何らの美しさがあるだろうと思ったこともあります。素敵な詩作、本当にありがとうございます。 (先端覆す。)

2017-08-06

百均さん こんにちは。 このタイトルには共時性を感じる日でもあります。72年前の本日広島8月6日8時15分には世界で初めての核爆撃があった日です。黙祷いたしました。この作品のタイトルで、国家間戦争を比喩したものとした場合に、結構いろんなことが、比喩とされています。もちろんそれらは、人間の生と死をわかつものとして、です。これらは、北朝鮮などの動向を感じれば、政治的な詩でもあると思いました。命の性質を問う詩だと思います。 1たとえ命を奪う悲惨さの自覚がなくても相当に命を奪う時間を費やす。 2命を奪うことには困難さや不条理が多大に伴います。自らの未来を失う危険にも追い込む。 3命を奪うことを望んでもやはり他者の命は、他者以外の人間にもかかわり、それは、自身も無関係ではありえない。 4すべての命には背景説明は極めて困難です。原爆投下もやはり理由が諸説あり、それらは根拠や真実ですら無数になる。 5近しい伴侶として異性の死をともに痛まざるをえない。強く異性の安否を意識する。 (皆殺しの比喩)

2017-08-06

田中修子さん 心やすまる感想を2度もいただき、本当にありがとうございます。少女を登場させた詩でもありましたので、女性目線の感想が実に嬉しいものです。ウルウル。あと、背景は、僕の出身高校で北海道にありましたので、伸び伸びとしてもいるかも知れません。最近に至り、文月悠光さんを輩出した高校ということに知りあたり、びっくりしています。もちろん、登場する少女は文月さんでは、ありません。世間は狭いなあとか思っています。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-08-06

繰る井さん はじめまして。 感想ありがとうございます。至らないところはありますが、ほめてもらい嬉しいです。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-08-05

繰る井さん はじめまして。 夜明けの晩にある独特の空気感を 届けようとしているのだろうと感じました。 >午前五時から二十三分 より以前でもある 時間帯は、一日でいちばんに闇が深い時間帯でもありますね。 SOSという言葉や想いは、その深い闇から届くのでしょうか。 そのSOSについて、情景描写として抽象しまた捨象することにより、 >希望なんて持てない癖に >未来なんて見えない癖に とあるような否定系を肯定系に置き換えることでも より具象的な表現の可能性があるかもしれないと 感じます。じっくりとこの詩を寝かせていくと より表現も深まるのではと思いました。 いきなりは大変なので 少しずつ手を掛けていけばいいのかな、と感じました。 (夜明けの晩に)

2017-08-05

湯煙さん 原文再掲ありがとうございます。 優雅そうですが、生命の小宇宙を感じました。 繰り返しになりますが、私はタツノコプロの関係者ではありませんけれども、やはり、 きっとこれらは、滞りなく生命を巡る寓話としても成立するはずでしょう。 結局、曖昧なことになるのかー。笑。 (竜の子)

2017-08-05

田中修子さん 昔作った糸電話みたいですけど、何だか愉快ですね。 「-」の中に、「握手」、「手遊び」、「いたずら」とか色々と置き換えることができるのですね。 これは、ある意味で、とても楽しい会話です。 コメントお待ちしています。ここには、素敵な詩があることもさることながら、 とてもウィットのあるレスポンスもあり、何だかとても嬉しいです。 他に仕掛けがないか、忍者になったような気持ちです。ウフフ。 よろしくです~。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-05

湯煙さま こんばんは。 結局のところ、メッセージが判然としないのです。竜の子にもプロがあるそうですが、タツノコプロで働く人を描いたのか、漢方薬になる竜の子が海中にいることを描写したのか、水族館での水槽物語なのか、描写が分からないですが、私の読解が足りないのでしょうか?気まぐれで書いたのでなければ、伺えましょうか。竜の子ではない、竜野欠伸は、ペンネームとして使用しているため、これらは私自身ではないことを明記しますネ。お返事待っています。 (竜の子)

2017-08-05

コメント嬉しいです。ライトな感想が気持ちほっとしました。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-08-04

田中修子さま 伸びやかな感性としなやかな理性のあいだにある叙情に甘美さを覚えました。抑制された表現が逆に真夏をクールにもします。そんな読後感とタイトル周りの初見にあった印象がとても颯爽とした季節感を感じます。よかったです。随分と行動的な印象もお茶目な気がします。 (こんなに-し合っている私と君は)

2017-08-04

黒髪さま 夕食から戻りました。 さきほど冷製を敢えて目指した味噌汁が大失敗でした。 普段なれない料理に取り組むと滑稽さも現れるようです。 >人に笑われる人格から >変わったよ この節には、僕は構図的な滑稽さを感じるよりもむしろ やはり不在からの回復を感じるのです。 深くは思い出せないのですが、ベルグソンによると、 「笑い」とは所作であるという点を出発点にしているはずです。 とてもシンプルで切実なことをお伝えしそびれ前後してしまいました。 この点を考慮すると、やはり、この節についても、 これらは、自然な現象であって、自己を特別視することなどではないでしょう。 自己身体性の発露であり所作なのではということが、示唆できるのではと感じます。 この場合も、自然な滑稽さというニュアンスが 断続的にもありえると感じます。 黒髪さんは、その種の「笑い」を〈アナーキー〉と呼んでいますし 〈ニヒル〉とも言おうとするかもしれないです。変遷もあるかもしれませんが。 僕が、この種の「笑い」を形容しますと 〈恥ずかしがり屋の与太郎(落語の登場人物)の連れみたいな〉という滑稽さがあったかもしれません。 多少、俗っぽい表現かもしれないですが。 お終いの一行では、 >そして嬉しかった 好意的表現が比重のある言葉で展開がなされます。 これらは感情のあや、とか心のあやではなく、 やはり、不在の終わりとしての回復でもあります。 これらは、やはり幸せを呼ぶことが 出来る所作の始まりであって欲しいのです。 「笑うこと」には幸せの輪廻があるのかもしれません。 祈りに似た気持ちになりました。 (不在)

2017-08-04

黒髪さま 率直に言ってこの種の詩がとても好きです。 自己身体性をテーマにした悲喜こもごもの詩と言ってもよいでしょうか。 おそらくも、差異はあっても同様な苦しみを得たことがあると考えました。共感を覚えることが出来ます。 この詩で思い出した哲学書があります。アンリ・ベルグソンの「笑い」です。 その本を通しては 指示対象性の「滑稽さ」と自己身体性の「滑稽さ」に区別があると考えさせられました。 メインの内容は古典喜劇の解釈を述べているのですが、了解しやすさは 当時同じ時代を共有していれば、とても分かりやすい良書であったことを とても残念に思いました。 同書では「滑稽」という現象がどのようなメカニズムで現れるのかを探求されていました。 ここでの「不在」では、 指示対象性の「滑稽」が不在であり続けて、自己身体性の「滑稽」が存在し続けるという類いの 「不在」というテーマだと解釈いたしました。「滑稽さ」にあってはユーモアを演出するものですが、 「滑稽」とは、人間の生き方においても「喜び」につながるものと考えてもよいと思っています。 詩としての身体性が、この詩では、まさに勇躍して活動性があり、しかしながら ハァモニィ・ベルさんの言わんとすることのように ある意味で、「心ここにあらず」という指示対象性が無い 孤立とも考えられる苦しみとその反動をはらんでいます。 ラストシーンをまとめ上げた黒髪さんには、僕はとても敬服しています。 まさに、それが、不在であったものの「何らの喜び」を回復させる物語でもあると考えます。 不在回復の詩物語が、ここに感動と共感を覚えることができるものと感じました。 貴重な詩作をありがとうございます。 (不在)

2017-08-04

モーテルでテレビの企画番組を流れているであろう男女のコミュニケーション。別々の性であろうとするふたり。普遍的な性の存在感を描こうとしたのであろうかと感じました。その挑戦は半ば成功した、のではないかと思うのです。圧倒して支配しようとさえする女性性のありよう。叙情にスキが見えない積み重なる氷層を感じました。 (氷の女王)

2017-08-02

真面目なブリーフ派と暗躍するトランクス派の対決の青春ドラマに、アイドル登場なのですね。多勢に無勢の争いですがインパクトのあるユーモアを感じますね。風通しもよいかと思いました。楽しいですね。 (白を信じて染みが付く)

2017-08-02

悲劇的な歴史を少しでも垣間見ることができる詩ですね。佇む美しい風景が戦火から市民を守ることにつながる、という信仰がドレスデンを無差別空爆の惨劇に導ていたとして。とてつもない悲痛が残ります。たとえ、隠れて小さな武器工場があっても。多くの犠牲は無垢の民草だったのですよね。ユダヤ人強制収容所跡地が祈祷のための聖地でもあるとしたら、ドレスデンの爆心地もやはり、ドイツの大量無差別爆撃被爆地として祈りを捧げる聖地でもあるでしょうね。 (ダグマ Ⅲ)

2017-07-31

 丁重な講評とても嬉しいです。  お陰さまで、この一篇の詩を書き出したということが、とても暑い夏を爽快な季節にしています。単に気ままに詩作に及び鑑賞するだけではなくて、今回の詩評としてここまで、明快かつ客観的な鑑賞をえた機会は未だに、経験することがなかったと自覚することすらできます。その意味でも、心地よい気持ちでいます。本当にありがとうございます。  核心についてですね。これらは、残念にも思えますが初恋とも呼ぶことができなかった、悲痛を感じざるをえない失恋経験が素地としてもあります。高校時代に経験した初めての失恋を題材として考えてみました。当時、淡いとも思えずにいた恋愛の片想いを、女性と男性の立ち位置を、まったく反転させて、詩作に及んでみました。真実には、これらの恋愛は僕の片思いに過ぎません。これらはその意味で、相手の片思いとして描かれた空想に他なりません。身勝手かもしれませんが、そんな自分自身に〈小さな恍惚〉を覚えたので、それについても少女が覚えた〈小さな恍惚〉として題材の一部として詩作してみました。  これらには、真夏が近づくなかで受験戦争が続き、様々な情報が錯綜する思春期に、何処かカタルシスのような恍惚を覚えていた記憶があります。これらの人生においては戦慄のようなものがあったとしても、ある意味でも、単純なカタルシスであっていて欲しいし、世知辛い受験戦争ですらも巻き込むような失恋としての恋病ではあって欲しくはないナ、という強い想いがありました。ひょっとしたら、下らない冗談のひとつぐらいあってもよいかもしれませんネ。そんな傷つきやすかった青春時代では、世界史の教科書を武器にして、幾多の歴史的戦争を超えてきた思い出もありました。特に世界史の試験では、時間というロジスティクスにおいては、集中的に砦を見つけては潰し自らの塹壕にして、矢の代わりに、シャーペンの芯を詰めて、格闘準備を最初に制するような、長い戦い数多く、傷つき傷つけられた同窓の人間にもやはり古傷もあるものと思っています^^  ここまで読んで頂きありがとうございます。なかなか、広大な舞台背景を考えるに当たり、選択と集中の論理展開においては、背景描写は悩むところですね。とにかく感想を持って頂き嬉しいですよ。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-07-31

 丁重な講評とても嬉しいです。  お陰さまで、この一篇の詩を書き出したということが、とても暑い夏を爽快な季節にしています。単に気ままに詩作に及び鑑賞するだけではなくて、今回の詩評としてここまで、明快かつ客観的な鑑賞をえた機会は未だに、経験することがなかったと自覚することすらできます。その意味でも、心地よい気持ちでいます。本当にありがとうございます。  核心についてですね。これらは、残念にも思えますが初恋とも呼ぶことができなかった、悲痛を感じざるをえない失恋経験が素地としてもあります。高校時代に経験した初めての失恋を題材として考えてみました。当時、淡いとも思えずにいた恋愛の片想いを、女性と男性の立ち位置を、まったく反転させて、詩作に及んでみました。真実には、これらの恋愛は僕の片思いに過ぎません。これらはその意味で、相手の片思いとして描かれた空想に他なりません。身勝手かもしれませんが、そんな自分自身に〈小さな恍惚〉を覚えたので、それについても少女が覚えた〈小さな恍惚〉として題材の一部として詩作してみました。  これらには、真夏が近づくなかで受験戦争が続き、様々な情報が錯綜する思春期に、何処かカタルシスのような恍惚を覚えていた記憶があります。これらの人生においては戦慄のようなものがあったとしても、ある意味でも、単純なカタルシスであっていて欲しいし、世知辛い受験戦争ですらも巻き込むような失恋としての恋病ではあって欲しくはないナ、という強い想いがありました。ひょっとしたら、下らない冗談のひとつぐらいあってもよいかもしれませんネ。そんな傷つきやすかった青春時代では、世界史の教科書を武器にして、幾多の歴史的戦争を超えてきた思い出もありました。特に世界史の試験では、時間というロジスティクスにおいては、集中的に砦を見つけては潰し自らの塹壕にして、矢の代わりに、シャーペンの芯を詰めて、格闘準備を最初に制するような、長い戦い数多く、傷つき傷つけられた同窓の人間にもやはり古傷もあるものと思っています^^  ここまで読んで頂きありがとうございます。なかなか、広大な舞台背景を考えるに当たり、選択と集中の論理展開においては、背景描写は悩むところですね。とにかく感想を持って頂き嬉しいですよ。 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-07-31

はじめまして。 愛情に値段があるとは思えないなぁ。もっと正確に言えば、愛情を伴う感情には値段があるかもしれないな。紅茶猫さんにとっても愛情は特別なものではないのですか?ではないとした場合、ここでは、誰かに宛てた愛情が無償のものとして提示されているのでは、と感じ入りますが。少なくとも、僕にとっては、とある感情として提示されていますね。そんなことを自然に考えることができました。心地よい詩風がありますね。何だか大切な視座があると感じました。 (無題)

2017-07-30

Kの字が浮き上がるデザインが視覚詩的には良いと思いました。 (結婚)

2017-07-29

るるりらさん 古代象形文字を訳した詩文などあれば読んでみたいなぁと思いました。ナイルの草原を象にまたがりながら。 (△)

2017-07-29

天才詩人さん この詩文にては、カニ族はまちおこしを手伝うと言う筋書きが、面白くあるなとも思います。大麻でまちおこし、かと言う戯言が無力であって欲しいとも思います。医療用の大麻であれば、手術では活躍するでしょうし、それでも、まちおこしはできてしまうものと思いました。流れでスレッドを書き下ろしてはおりますが、お許し下さい。良い旅路を願っていますね。 (カニ族)

2017-07-29

花緒さま  丁寧なコメントありがとうございます。 音楽性を詩が捉えることとしては、意識してなお反復して再び回帰するまでは言葉を探しては居ませんでした。ですが詩の着想を点検して頂いた気がします。音楽という言葉は、詩書きを幸せにする言葉だと思います。それだけで満足できれば、それだけで終わるのかもしれません。けれどもやはり、この詩の終わりが訪れることが、僕には、無いような気がしています。ただ単に、詩書きとしての手癖それ自身が、少しローテンションを保ちつつ、何らの反復として、「悲しみ」と呼ばれる感情を引き出してみただけでした。それ自身の行為によっても、感情を引き出すことが、幸せなのか不幸せなのかと問い掛けてみていました。悲しみを詰めた観測気球を飛ばしていた、と云えばわかりいいかもしれません。  やはり、音楽でしたら演出とか小説でしたら舞台設定とか、考えますが、ここでは、僕は、第一回目の投稿として、まずノンジャンルの調べを付ける方が良いのかも。とも考えました。さて悲しみを詰めた観測気球を打ち上げた感想ですね。なかなか楽しい場所とも思いました。それは見通しが良い(もちろん、いい意味で)大草原がこの場所には、あるということがわかったからです。見通しとしても結構広い場所かなぁとか思いました。  私事で、なかなかこれずに居る詩作現場でもありますが、戻る準備も大切だなぁと考えてみています。  さて、大草原にどのような光景が立ち並ぶのかとも、思いの丈を引っ張ってみます。ではでは。本当に、ありがとうございました。                                                     草々 (真夏にある悲しみの向こう)

2017-07-28

stereotype2085さん 賛否両論説は、悲喜こもごもの詩だと考えられたからです。心配などは、余計でもあるかもしれません。「障がいを持った人物」と敢えて書いてみましたが、概ね、現代をこのテーマを標題として設定するのであれば、やはり必要な、フレームワークやらフィールドワークが隠れていると、考えた方が現実味があるのでは、と申し上げます。それだけ、福祉を生業とする人間が幅をきかせている社会だろうし、少子高齢化社会と呼ばれながらも、高度情報化社会でもあります。ショートメッセージ文学が何らの助力できる分野でもあるはずでしょう。決して、批判的な或いは批評的な意味合いで、「障がい」と云う言葉をもちいている訳ではありません。法律用語としての「障がい」が社会を縛るのであればあるほど、ほとんどの人間がその縄をほどこうとする側の人間であろうとします。自分としても、縄を見つけたところもありますので、いつか遠くないうちに、これらのモチーフを詩にします。問題意識としてのきっかけを下さりありがとうございます。 (海江さん。)

2017-07-27

こんばんは。 こちらの作品には、障がいを持った人間をモチーフにするとのことで賛否両論があると思います。 ①肯定的に捉えるとして。 貴作品には、障がいを持つ人間像を生き生きと描いています。これらはとてもヒューマニズムに満ちた作品でもあることから、寛容な社会をもとめていくにあたってはメッセージ性があるとも考えられます。海江さんの死の直前まで、その生と死のあいだにも横たわる障がいに目を背けることなく、わりと人間のリアリティとしての生き様を描いています。 ②否定的に捉えるとして 海江さんの人生の出自が明らかにされていますが、海江さんの命として最大のリアリティが、海江さんの生としてではなく、海江さんの死として、やはり印象として残る点です。障がいを持って、多くの人間が死を迎える点については、嘘ではありませんが、どれほどの真実味を持つものか、これらのショートメッセージ文学では、まだ明かされてはいないのだろうと安直に考えてしまう点です。命たるものの真実性を明かしていくに当たって軽薄にも見えなくものないのです。 (海江さん。)

2017-07-27

はじめまして。 ちょうど「カニ族」という言語を知らないため、検索を掛けました。もともと、旅行者としての俗称であるとのこと。ネット写真を見たところ鉄道駅で遭遇経験として見覚えが私にも確かにありました。きっと偶然ではないでしょう。 当時の新聞記者が書き立てる「カニ族」の記事は、 何らの叙事詩(出来事を書いた詩)でもあるだろうとも考えられます。実際のところ「カニ族」 が実在していたので驚きがありました。 さて、こちらの詩では、現代詩人たちの比喩としても「カニ族」がいるのではとの 反実仮想にも思いの丈を伸ばしました。彼らは、いつも土地のものではなくマイノリティーであり続けるという特徴により、そのような想いがします。健脚のカニ族は、未知の場所を探し続けます。 一方で、その帰路の途中では、まちおこしには加われない事情ですらも 「カニ族」としての制約が、実際の旅行者であることを前提に落とし込んでいきます。 「カニ族」にはどのような正体があるのか未知の場所を探し出す旅人とは、ちょっとした謎めいた人物観を連想さえもさせます。バックパックの代わりにウェアラブルPCとともに言葉を運ぶ詩人が現代の「カニ族」ではなかろうかとも考えるのです。 だとしたら、まちおこしに加わることができない、という状況などは、地元民にとっては、やけに他人行儀な詩書きが反面教師としてもいるという事実ですらも迫ってきます。 死語としての「カニ族」は詩語としての「カニ族」として現代でも生きていると言えましょうね。スマホやモバイル端末を持っていても、実際のところ、何を伝えようとしているのか? 旅行者として隣人として土着が難しい悩みとして地球をまたぎながらも、死語になったはずが、今でも生きている詩語として、あるとも考えます。 折角「カニ族」の具象性をモチーフにできるのですからもっと大きな船に乗った気持ちでも、 もっと気分も楽しげに書けるのではとも思うのです。ラオスに行くことができる旅行者自身も少ないのですから。 (カニ族)

2017-07-27