この世は終らないそうだ - B-REVIEW
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この世は終らないそうだ    

 足首まで死の水に浸かり歩く。死の水は大変冷たい。僕は冷たく興奮している、まばたきを忘れるくらいに。  一つ眼の巨人が数人、雨合羽を着た七人の自警団と一緒に堤防へ向かって行く。「メギド・クリニック」の看板が落ちかかり、揺れる電柱。ちぎれた電線が風に吹かれて落ち着かない。キュクロプスは二階建の家を丁寧に跨いで歩く。どうせ幻想の存在なのに律儀だ。その律儀さはどうやら僕に由来する。僕のものである。  今、一時的にだろうが、雨だけはやんでいる。開いたことのないはずの窓から、高齢の女性が首を突き出し、自警団の一人と何かを話している。風の音。風の声。それより他に何も聞こえない。団員が言い返す声の存在は聞き取れたが、それが頭の中で意味を成してこない。言葉から始まる文明が、局地的に揺らいでいる。意味を共有する構造体としての人間が、一時的に解体しかかっているのだ。痛快である。群体の離散が始まるのか。  瞬間、空の端から端までが、ばりばり引き裂かれた。この痛快という概念も瞬時に破け散り、僕は感情を失う。空の長い裂け目を見上げている。裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。  「向こう側」とは何か?どんな場所なのか? そういうものがないことはない、と。そう答えるしかない。  裂け目へ向かって河が流れる。天の裂け目へ向けて膨大な量の水が巻き上げられていくのだ。立ち上がった河の、そのねじくれた柱にキュクロプスたちがしがみつき、よじ登っていく。これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、叫びには当然感情はなく、叫ぶ声は意味をなさない。幻聴でしかない。  死んだ高校時代の友だちが三メートル先を浮遊している。皺の一本一本までよく見えるにもかかわらず、顔に表情がない。死んでいるからだ。  七人の自警団は、みな半天の上からフード付きの雨合羽を着込み、長靴を履いている。一人のフードが風でめくれると、長い髪の毛がこぼれてきて、びしゅっと後方に靡いた。十数万本の漆黒の理路。彼女は直立する河に向かって叫んだ。 「何なの?世界の終わり?」 一切聞き取れなかったが、たぶんそう言った。  死んだ友だちは彼女の横に立っているが、何も言わない。表情がないから心もない。何処を見ているわけでもない。 「世界は終らない。このあたりで数十万の人間が亡くなるだけだ。」 と最後の巨人が柱にとりつくときに言ったようだった。  この場のすべての実在と幻想の存在はその言葉を聞いているだろうか。


この世は終らないそうだ ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 23
P V 数 : 1026.6
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2017-02-10
コメント日時 2017-03-02
項目全期間(2024/04/27現在)投稿後10日間
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前衛性00
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2024/04/27 02時11分25秒現在
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    作品に書かれた推薦文

この世は終らないそうだ コメントセクション

コメント数(21)
kaz.
(2017-02-10)

右肩さんが短歌をなさっているという予備知識のもとにこれを見ると、なんだか、詩としては中途半端だし、散文としての完成度は高いけど小説ほどの長さにはならないし、色々難しいところはある。ただ、BREVIEWなんだから、絵文字入りの短歌だとか、そういう装飾的な、実験的なことをやってみても良かったのかなと私なんかは思います。

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kaz.
(2017-02-10)

ギザギザの

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もとこ
(2017-02-11)

これは「僕」の見ている夢なのだろうか。夢だとしても、その材料となった現実があるはずだ。それは水害のような自然災害か。それとも単に借りてきたDVDに収録された映画の断片なのか。神話の巨人と高校時代に死んだ友だちが同時に存在する世界。裂けた空へ吸い上げられていく河の水。それはまさに世界の終わりとも言える光景だが、巨人はそれを否定する。ここまで破滅的な状況になろうとも、世界はそう簡単には終わらない。ただしその代償は大きい。巨人たちが空へ消えた後、亀裂は修復され新しい日々が始まるのだろうか。次から次へと想像力をかき立てられる詩でした。ところで「最期の巨人」は「最後の巨人」ではないでしょうか? それとも巨人たちは皆死んでしまったのでしょうか?

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右肩ヒサシ
(2017-02-11)

 こんにちは。お久しぶりです。 実はこれ、投稿して没になった作品にちょっと手を入れたものです。割と気に入っているのですが、書きたいものを総て出せたとは思えません。 内容は割と破壊的で、いわゆる「詩」的ではない過激さがあると自分では思っています。うまく伝わっていないかもしれませんが。  ええと、僕がやっているのは短歌ではなく俳句です。どうも創作の中で一番適性が無い分野を選んじゃったかな、と反省し続けながら早や十年です。 絵文字はほとんど使ったことがないので、よくわからないというのが本音です。文字との不整合なバランスがいいんですかね? 俳句や短歌に絵文字を入れる、そういう発想はありませんでした。うーん、ちょっとできそうもないですね……。

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右肩ヒサシ
(2017-02-11)

もとこさん、コメントありがとうございます。お久しぶりですね。旧女子高生の方でしたねw。 ご指摘の通り、「最期」は「最後」の変換ミスでした!恥ずかしいです。できたら訂正したいのですけど、今のシステムでは難しそうですね。 さて、幻想と現実。言葉の世界では同格な存在かもしれませんが、「その材料となった現実」は必ずあるはずです。ただし、「現実」は常に主観的であって「真実」とは異なると思うのです。 「真実」には絶対触れられない、そういうことを表現するために、仮構された「あたかも物語のような進行」の中で、絶えず自己否定を重ねていく性質を持っているのが本作です。いや、そうはなっていないかもしれないけれど、そのつもりでいます。 「真実」は人とは離れているので、「真実」を意識してものを見ると、生きている人間も死体であり、人の手になるものもすべて無意味である。と、そうなるわけです。

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右肩ヒサシ
(2017-02-11)

もとこさん、今気がついたのですが、以前女子高生ということでコメントのあった方は全然別人でした! 変にからかったみたいになって申し訳ありません!とり急ぎ訂正とお詫びを。

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三浦果実
(2017-02-11)

草むらのなかに捨てられた死体をみて安心する高校生が描かれた漫画『リバースエッジ」(岡崎京子)が大好きなのですが、作品「この世は終わらないそうだ」を読んで、なぜか、死体をみんなで眺めながらタバコを吸っている世紀末の高校生たちを思い出しました。わたしも、終わらなかった世紀末を残念に思う一人です。

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もとこ
(2017-02-11)

Migikataさんへ。 最初は「純粋すぎて心を病んだ女子高生」という設定でスタートしているので、間違いではないです。お気になさらずに。

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右肩ヒサシ
(2017-02-12)

花緒さん、コメントありがとうございます。 そうなんですよ、これは天才詩人さんがおっしゃっているように、アキラであり、エヴァであり、ゴジラであり、まどかマギカであり……、というように多くの終末的イメージをことさらベタに書きました。キュクロプス(これ、実はルドンのそれのイメージです)はあらかじめ幻視と断って、主体の心理の反映でしかないことを浅薄に言い表しています。実際の幻覚に苦しんでいる人からするとそれは違うとなるのでしょうが、申し訳ないけれどそういう設定なのです。 しかし、どうも災害や、迫り来る死は作品中の現実らしいと。死んだ友だちが登場しますが、これが直近の未来の主人公です。死んでいるという事実だけがあって、思考も感情も言葉も、もちろん肉体もありません。目前の事態に何らかの影響を及ぼすこともありません。そうやって作品自体が常に否定的に前進していく(或いは停滞していく)のです。 この作品の「主題」は最後の1行にあります。

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右肩ヒサシ
(2017-02-12)

三浦さん、コメントありがとうございます。 はい、死体は書くものの中で僕が繰り返し登場させているモチーフです。実は言語的な存在としての死体であって、死体の持ついくつかの特性しかカヴァーしていないのですが。この歳になると親しい方、それほど親しくない方の遺体を幾体か見ている訳ですが、そういう遺体の見え方というのはまたいつもの作品中のものとは異なります。

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右肩ヒサシ
(2017-02-12)

天才詩人さん、コメントありがとうございます。 自分の書いたものを客観的に見ることはできないと思うのですが、僕の作品は僕の思うような読み方で読んで行けば、かなり面白いと常々思っています。どんな書き手にとっても言えることかも知れませんが。天才詩人さんはその意味で僕の勝手に想像する理想の読み手に近いのかも知れません。 ソンタグの『反解釈』はアマゾンのほしいものリストに入れながら、高いし訳もよさそうではないし読み通せなさそうだし、で買っていません……。 さておっしゃる通り、この作品に何らかの保証できるものがあるとしたら言葉のバランス、或いはアンバランスの良さです。中身は問題ではない、というかそもそもありません。

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まりも
(2017-02-12)

Migikataさんへ 物語詩、あるいは神話的な詩、異界幻想譚など好きなので、好ましく読ませていただきました。 気になったのは、散文詩と掌編小説、の境目を、Migikataさんご自身は、どこに設けておられるのか、ということです。 私個人の境界線は、読者に手渡す部分が多いか少ないか、というあたり。これは、あくまでも私個人の規範なので、一般的なものではない、のですが・・・。 たとえば、「「向こう側」とは~そう答えるしかない。」このように、語り手の判断や内省が入って来た時点で、ここは小説だな、と感じてしまう。散文詩であれば(あくまでも、私の考える、と限定付きですが)「裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。」から「裂け目へ向かって河が流れる。」へ、一行あけくらいで、説明抜きに飛躍してほしいな、と思ってしまう。え、何?どうなってるの?という驚きや、語り手の置かれた混乱状況や困惑をそのまま追体験しながら(語り手が、自分自身を納得させる答えを内面で語るのを聴かされるのではなく、読者自身が、自分で納得する答えを探すように強いられる、そのような強引さで先に進む、と言えばいいのか・・・)読者自身が、その謎の世界に取り込まれて、語感全体で、作者の描き出す世界を味わうことができる、そんな楽しみ方をしたいな、と思ってしまう、のですが・・・これは、あくまでも私の考える「散文詩」の定義であって、他の方には、異論反論、多々あることかもしれません。 同じ言葉を繰り返す効果、たとえば一行目の「死の水」「冷たい」を三文に渡って少しずつ重ねながらくり返していくグラデーションは面白いと思いました。でも、「これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、」このあたりは、幻想という抽象語、しかも自己解説している言葉を三度も重ねている、のですが・・・もっと、視覚や異次元における語り手の体験、体感を語る、ような具体性(リアルな実感がありながら、それゆえに非現実感が増殖していくような・・・手触りのある夢を見ているような)があると、もっと読者は引き込まれるのではないか、という感想を持ちました。

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右肩ヒサシ
(2017-02-14)

まりもさん、コメント有り難うございます。 実は長い返信を書いたのですが、アクシデントでみんな消えてしまいました……。気力が無くなったので、また今度詳しくお返事をします。   力の入ったコメントを有り難うございました。とても参考になります。

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百均
(2017-02-15)

 こんにちは百均です。  この作品を読んで思うのは、色々な要素が緩やかに絡み合いながら、最後のフレーズの問いに向かって説得力を持たせるように作られているという事かなぁという事です。もしくは、その問いに読み手を立たせようとする、というのか。立たざるを得ない問いに立たされる状況に追い込まれるというのか、僕はこの詩を読んで大分色々な皮肉の聞いた意地悪な詩だと思いました。この詩を読んだ僕らは、次にどのような言葉を実存と幻想に存在する物に声を掛ける事が出来るのでしょうか?  ここには、多分程度の差はあれ、様々な対立する物が描かれていて、それらは大体二項対立的に実存と幻想(長いので以下幻想と略)に分ける事ができます。  例えば「生」と「死」、「この世」と「あの世(向こう側の世界)」、「キュプロス(巨人)」と「人間」、一人(個別的な死)と数十万の人間(数で処理される死)、そこから一人の女性と七人の自警団という数で処理され始めそうな数の人間達(七人の小人のようなね)、だとか、もしくは大災害とノアの洪水のイメージ、河川や雨のイメージと三途の川のイメージなどなど、あげたら切りがありません。    つまりここに描かれている「この世の終わり」というのは、それらの境目がなくなる時、だと思いました。僕らを生み育て上げた「水」という存在、によって分たれていた筈の「生」と「死」、というのものが空、あるいは僕らが生きている宇宙の外側に回帰していくということや、それは雨合羽がいらなくなるのと同時に、僕らは生きる事が出来なくなるという事、つまり生と死が接近してその境目が消失してしまうという事です。それが意味するのは何かというと、多分右肩さんがこういう事を前に言っていたと思うんですよ。「僕らが何か物を書く事というのは、突き詰めていくと生と死という問題に行き着く」みたいな事です。つまり、その大事な事が言葉から消え去ってしまうということ、最大のモチーフが無くなってしまうという事、実在と幻想の境目が消えてしまうということ、その時僕らの認識を司る「言葉」というものは何を描きうるのか、もしくはどのような意味(皮肉)を為し得るのかい? という意地悪な問いが、だから最後に置かれているのかなぁと思いました。  この作品は色々な物毎の置き方の順番が非常に凝っている作品だと思います。だから、「僕」がその時その時に思い描く感情というのか思考というのか、或いは認識というのか、そういうものにモロに出ているし、面白いぐらいに多分コロコロ変わっていくんだなと思います。死んだ高校生の友達が出てくるまで「僕」はこの自体、この世が終わろうとしているこの自体を痛快だと思っている訳ですが、その言葉が今まで守ってきた認識という籠から出された途端混濁したリアルとファンタジーに奔走されていく訳ですからね。  最初に出てくる神話的な終焉のイメージ…ここではキュプロスが町を歩き、ノアの大洪水が起きようとしているような大雨の降っているイメージがある訳です。しかし、そんな神話を信じていない僕らにとっては、巨人なんてフィクションに過ぎないしノアの洪水も、単なる大昔にあった一つの寓話的な大災害の一つでしかありません。僕は今「Fate」っていうゲームをやっているんですけど、その中では神話的存在英雄達は一つのキャラクターとなってバレンタインチョコとか人間の僕らに上げてたりする訳ですよ。まさに「メギド・クリニック」に茶化される状態でありそのような存在であって、例えば巨人みたいな無骨な存在程、ギャップを持たせる為に「実は律儀な存在」みたいに描かれてしまう訳です。   >どうせ幻想の存在なのに律儀だ。その律儀さはどうやら僕に由来する。僕のものである。    神話というのは、おそらく僕らが如何にしてこの世に創造されたのか、という意味合いがここでは大きいのかなという事で、基本的には「創世神話」風な意味として「神話」という語を使っていきたいと思います。さて、今の僕らがどれだけ神話を信じているのだろうかというと、まぁ信じてないと思うんですよ。端的に言ってしまえば人は猿が進化して人になった訳ですよね、神様が作った存在ではないわけです。さらに言ってしまえば「神話」とは言葉であり、つまり神話を信じる人たちは言葉、もう少し突っ込むと人間の持つ想像する力によって生み出された存在であるという事でもあるわけですよね。その想像した物語によって人間が人間を統治しようとした、政治的に人間が人間を利用する為に神話というのは作られたということ。ですよね。   >言葉から始まる文明が、局地的に揺らいでいる。    つまり、言葉から作り出された存在がその言葉という物の力を信じなくなってくる状態=神話の否定(天皇の否定とかいうと怒られそうですが)、世界の始まりの否定であるとしたら、それはこの世の終わりにつながるのかなぁと思います。そこにつながってくるのが色々な伏線を孕んだ「ちぎれた電線」という比喩なんだと思います。 >意味を共有する構造体としての人間が、一時的に解体しかかっているのだ。痛快である。群体の離散が始まるのか。 瞬間、空の端から端までが、ばりばり引き裂かれた。この痛快という概念も瞬時に破け散り、僕は感情を失う。空の長い裂け目を見上げている。裂け目の向こうは僕には認識不可能な領域だった。  という訳で「僕」は言葉の持つ幻想の力みたいな、究極的な事を考えると所詮はフィクションなんだと気がついてしまったので、痛快に思ってしまう訳です。群体の離散とは、言葉の持つ重篤なまでに綿密なネットワークに秘匿されてきた、意味という物の持つ無意味さの露出です。「言葉にならない感情」なんて物すら、多分言葉があるからそう表現する事が可能だったわけで、言葉がなくなったら「感情」と呼べる定義すらなくなってしまうんだろうとか。つまりそれほどに僕らは言葉によって色々な事を侵食されフィルターを掛けられている。ので、言葉を剥がされるともう認識不可能な領域が目の前に広がるしかない訳です。言葉は認識そのものですからね。その認識が壊れてしまったら答えようがない。「ちぎれた電線」を直すのは大変な話です。 >「向こう側」とは何か?どんな場所なのか?そういうものがないことはない、と。そう答えるしかない。  >裂け目へ向かって河が流れる。天の裂け目へ向けて膨大な量の水が巻き上げられていくのだ。立ち上がった河の、そのねじくれた柱にキュクロプスたちがしがみつき、よじ登っていく。これも幻想だ。この世界は幻想だ、と僕は叫んでいるが、その僕も幻想なので、叫びには当然感情はなく、叫ぶ声は意味をなさない。幻聴でしかない。  >死んだ高校時代の友だちが三メートル先を浮遊している。皺の一本一本までよく見えるにもかかわらず、顔に表情がない。死んでいるからだ。     面白いのが、ここで明確が「死」が急に浮上してくるという事でしょうか。それまで大分フィクションのような終末が描かれていたと思います。冷静に見てみると、誰も何も殺してないんですよね。「メギド」はハルメギドが起こる場所なのに、人を助ける場所である所のクリニック病院であるし、一つ目の巨人はゴジラのように町を焼かないし踏まないんです。ノアの洪水みたいに町を水が流れていくかと思ったら逆巻きに戻っていく訳で、しかもそれは登る事が出来るという。  その幻想に明確な「死」が混ざり込んでくる事によって、場面にリアルが浮上してくるという事。そこがこの作品の面白い所です。  言葉の枠組みが壊れてしまった世界では想像する術を持ちません。もしくは目の前で起きている事を想像であると表現する術を持たないという事でしょうか。フィクションもノンフィクションもなくなってしまったこの世界に、已に幻想の存在となってしまった高校生の友達が現れる。事によってなぜかこの幻想そのものがよりリアルじみてきてしまうという逆転現象、が発生しているという事。    つまりこの世界に描かれていたフィクションじみた世界が、もう已にこの世に登場する為にはフィクションにならざるを得ない存在、身近な死者の登場によって、「死の向こう側の世界」がリアルに接近する訳です。説明が下手くそで申し訳ないです。 >七人の自警団は、みな半天の上からフード付きの雨合羽を着込み、長靴を履いている。一人のフードが風でめくれると、長い髪の毛がこぼれてきて、びしゅっと後方に靡いた。十数万本の漆黒の理路。彼女は直立する河に向かって叫んだ。 「何なの?世界の終わり?」  ここがすごいですよね。つまり、僕というのはこの状況を夢の中みたいなだから痛快だと他人事のように思っていたと思うんですよね。それが死んだ高校生の友達と、七人と数として処理されていた一人の自警団の子がフードを脱いだ瞬間の、その髪の毛のもつ「十数万本の漆黒の理路」に目を惹かれてしまうわけだ。つまり「電線」というのは僕らの今のネットを通じた関係と例えば捉えるとそれらはまるで言葉のようにフィクションな繋がりなんですよね。こうした僕らの関係というのは言葉によって成り立っている訳です。  それが「髪の毛」という一つのネットワークによって実在的に語られるという事。でしょうか。この髪の毛というのは僕らの関係が生み出す一つの美しさであり、言葉であり、関係そのものであるという事だと思います。つまり幻想的だとかなんとか思っていて電線的関係が髪の毛=神の毛によって大切な実在に回帰していくという事。 しかも世界の終わりに。言葉や幻想とリアルの境目がなくなってしまいそうな今になって。でしょうかね。 >「世界は終らない。このあたりで数十万の人間が亡くなるだけだ。」  最後の幻想的な存在がそしてこう口走る。こう言われた時に、僕が思い出すのは東日本大震災の時かなぁ…人の死が数で消化されてしまうんですよね。一人一人の死というものを他の人がどこまで弔う事ができるのかというと無理なんですよね。そこまで実在した物を実在したままに抱え込む事は出来ない。から幻想的に数で処理せざるを得ないという事です。多分、原発とかもそうですよね。  つまり実際にあった莫大な死、災害の結末という物は数という形で処理する事によってリアリティを薄めさせる事ができるという事です。これほどまでに残酷なまでにリアルを体現している筈の「数字」という存在が逆にフィクションを際立たせているという事。それが、一と数十万の死の対比です。ここでも高校生の死と大量の死の逆転が起きている訳です。  そのような要素がこの詩の最後では一つに統合されようとしていると僕は思いました。実在と幻想、生と死が一つになるとき、言葉にとって一番重篤な意味の差異がなくなる時、つまり十数万本に分かれた言葉達が一つに束ねられる時、それが終わってしまった時に、さて、言葉は次に何を描き、どのような意味を為すのだろうか。読み手の君、とくに「僕」と同調できるような人たちはどう思う?   という事を僕はこの詩から思いました。色々乱暴に纏めた所も多く、正直まだ気になる所も多いのですが、僕がこうして一つの解釈を提示しようとする態度こそ律儀すぎる、もしくは無理に一つにしようとしている、あるいは答えをだなさいといけない、(ことばに纏めなくてはならない)と言われているような気もします。という事でここら辺でレスは終えようと思います。ありがとうございました。

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右肩ヒサシ
(2017-02-17)

 まりもさん、お返事遅くなっており申し訳ありません。  僕が考える詩と小説の違い、それは言葉が手段として存在するのか、それ自体が目的となっているか、ということ。小説では言葉が物語に奉仕するのに対して、詩では物語が言葉に奉仕する、と。これでどうでしょうか?一般的には語句に韻律があるかどうか、ってことではないですかね。行分け、聯分けのなされた詩には勿論、散文詩にも内的な韻律があって、それが詩を結末へと進行させるにあたっての原動力になるのだと思います。  それなのに僕の作品が書かれた物語に筆者の立場から判断や内省を与えているのはおかしいと思われるかもしれません。かつて文極で、ある詩人の方から「右肩さんは書きたいことがないのだ」と言われたことがあります。実はその通りで、僕の判断や内省は僕自身のもの、表出すべき自我、というより物語の一構成要素のつもりです。たとえ、それが僕自身の感覚や体験に直接由来していたとしても、それが作品で訴えたいことではありません。完全な客観、神の視点をもった作品、は完全な客観などあり得ないという矛盾を内包しているはずです。表現する主体の様態があらわになるべきだ、というのが僕の見解ですから、どんなに客観を装った叙述でも主体と切り離せないということを、作品そのものに語らせたかったのでした。  架空の災害の様子を主観抜きで描出しても、全能を詐称して世界を描く隠れた主体が、背後に透けて見えては台無しです。事態そのものがある人物の主観を通して語られているのだ、ということを示唆したかったのです。僕の詩には「僕」という主体と「君」とか「あなた」という対話相手が頻出するんだけど、たいていは実在の僕でも君でもなくて作品の構成要素の一部です。  もちろんどんなふうに読まれても読み手次第なのですが、読み方の一つの提案としてお受け取り下さい。

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まりも
(2017-02-18)

Migikataさんへ  何度もありがとうございました。 >詩と小説の違い、それは言葉が手段として存在するのか、それ自体が目的となっているか、ということ。小説では言葉が物語に奉仕するのに対して、詩では物語が言葉に奉仕する 鶏と卵、みたいな問題ですが・・・言葉を愛する詩人の姿が仄見えて、素敵な「定義」だと思いました。 言語遊戯のような詩は、一見すると言葉を「目的」としているように見えるけれども・・・なんだか、私には「言葉」をズタズタに切り刻んでいるように見えてしまう時があります。 Migikataさんの「詩では物語が言葉に奉仕する」というベクトル・・・言葉の力によって生み出された世界が、そこに「世界」を作りだす、あるいは言葉の力によって物語が展開されていく。そんなイメージで受け取りました(また、私の解釈が入って、少しずれてしまっているかもしれませんが。) 生身の肉体を持った「僕」の語りというより、言葉によって生み出された場に置かれた「僕」という登場人物、「詩を語る主体」が、生きて動く自主性を持った存在として思考したり内省したりする・・・それを、書き手としてのMigikataさんが受け止めて、作品化している。そんな構造を感じました。

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右肩ヒサシ
(2017-02-20)

hyakkinnさん、コメントありがとうございました。  何とか早くコメントを返さなければ、と思いながら遅くなってしまいました。自分で意図したことと、思ってもみなかったことが程よく?ミックスされた評を頂けてとてもうれしかったです。 この作品の意図が「意地悪」であるというのはその通り。ただし、何に対して意地悪なのかというと、この作品自体、もしくは作者である僕自身、そして物語世界を叙述するという態度に対してのものです。誤解の無いように言うと、僕は物語の創造者が特権的位置に立つことに対して否定的です。言葉は徹底して主観的表出です。どんなに読者という他者への伝達を念頭に置こうと、他者という概念が既に主観の中にしか存在しないからです。しかし、主体としての僕らが外的存在の関係性の結節のようなものだとすれば(僕はそう思っています)、関係性の以前に存在の核のようなものがあるはずです。それには主観の主体である自分自身と、誰かにとっての客体である言葉による逆説的なアプローチでしか迫ることはできないと思っています。自分を形作る自分以外のものは、自分という幻想の感情的な揺らぎの中から予感されるしかないと思うのですね。「自分以外のもの」とは、すなわち主観の停止した死の向こう側にあるものです。  単純に考えれば滅亡も死も、他人のそれは主観の停止とは別次元の出来事であるけれども、そのヒントとして主観を揺さぶる力は持っているはずです。だったら、揺れてみるしかないはずです。僕にとっての詩はこの「揺れ」、ダンスを見せることですね。それが他の人にとって詩といえるかどうかには大きな関心はありません。  まりもさんの言ではないのですが、僕は登場人物や作品に描かれた状況、そして物語を小手先で作り出した何かのためのパーツだとは思っていません。僕自身と、作品の外の世界と、同じ質量を持つものとして扱いながら、全身でその虚構性を暴こうとさせています。そうしているつもりです。世界の終りも地球史的に見れば現実だし、キュクロプスも「幻想」としては実在します。七人の自警団は地域の避難訓練でであった住人たちだし、死んだ友人には現実のモデルがいます。作品世界の主体も含め、すべての内容に対しての愛情と敬意は忘れてはいけないですね。彼らは僕の意図には決してつながらない自由な存在です。読み手が作者としての僕からの軛を、それぞれの鑑賞の中で解き放ってくれたら素晴らしいことです。それらは確実に僕という主体を構成する「実在する何か」の一局面であるはずだからです。その遙かな予感への陶酔がこの作品のテーマかもしれません。 >この場のすべての実在と幻想の存在はその言葉を聞いているだろうか。 という最後のフレーズは、僕と僕を取り巻く総てのものを揺らすために、戦略的に書いた詩的な(あるいはまったく詩的でないかもしれない)麻薬成分だと考えて下さったら、hiyakkinnさんの解釈へのお答えに、多少なりとも、なるでしょうか?  頂いたコメントが長いので、僕の頭の中でまとまらないところもあり、遅くなった割に十分ではないお返事になりました。ごめんなさい。

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コーリャ
(2017-02-26)

踝まで水に浸かってしまったし、巨人は自警団と街を闊歩する。(家をなぎ倒さないような細心をはらって)死んだ友達が空中に宙吊りになっている。言葉を共有する人間たちが解体されていく。世界が洪水していく。それでも世界は終わらないそうだ。空が端から端までばりばりと引き裂かれ、その亀裂に向かって滝が逆しまに昇る。向こう側はなにがあるんだろう?そういうものがないということはいえない。そうとしか言いようがない。僕はそれをただ見ている。 文化、文明とは字のごとく、言葉から始まった。言葉はコードで、意味をやり取りするものだ。この世界はたくさんの約束でできていて、それを律するのは、礼、常識、ルールとか呼ばれる、意味あるなにかである。世界は言葉でできている。言葉の共用が世界を成している。たとえば魂をみせてみろ。と言われても、それを取り出してみせることができないように、それが三角なのか四角なのかわからないように、共用の意味、コードはその想像力にしかない。世界は言葉でできている。言葉は想像でできている。世界は幻想でできている。なら、幻想のそとには、何があるか。 意味を、言葉を共有する群れの離散は続く。僕は感情を失いながら叫んでいた。すべて幻想だ!声はさまざまな音にかききえ。ひょっとしたら最初から発話すらされず、幻聴としてきこえただけかもしれない。ああ、世界が、世界のこちら側が、幻想のこちら側が、瓦礫になって流れていく。意味は全部ほどけていく。全部あちら側に流れていく。隣の女が無表情にいう。これって世界の終わりかな?巨人は言う。とても信じられないかもしれないが世界は終わらない。ただ人が死ぬだけだ。ただ、何十万ものひとびとが、幻想のなか、生き、死んでいくだけなのだ。僕はただそれを見ている。

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きらるび
(2017-02-28)

Migikataさん この作品はぜひ、Migikataさんの朗読で聴きたい、とおもいました。歯切れのよい展開で、広大な世界観をもつ内容が、適度な分量でまとめられています。力量ですね。オディロンルドン、わたしのとてもすきな画家です。ルドンのキュクロプスのイメージで読みますと、パステルカラーの世紀末のなかで、人類というものは、ひとつのあわい終焉にすぎない、とおもわせるほど、惑星の悲劇を切にかんじました。わたしは、まだ、作品をよみとることに慣れていません。けれども、詩のことは愛しています。ひともすきです。ですから、自ずと詩人さんの方には希望をいだいてしまいますね。これからも創作、ともにはりきっていたしましょう。

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右肩ヒサシ
(2017-03-02)

Kolyaさん、コメントありがとうございます。 折角きちんと書いてくださったので、ちゃんと返信を、と思っているうちにずるずると遅くなりました。 いつも不義理ばかりでごめんなさい。 言葉の世界というのは、主体の自己認識が意識化された途端に成立するもので、限りなく主観に基いていながら客体化されているという摩訶不思議な存在です。言葉の上では幻想も実在も等価で、言霊という概念はそこのところの気味悪さを言い当てていますよね。この作品は言葉を通して言葉の外側を夢想しています。天の裂け目の向こう側、という身もふたもない存在がそれですね。かなり戯画化されていますが、そうするより他思いつかないのです。色々なアプローチで言葉の外側の単純な「モノの同質性」に迫りたいのです。 取り急ぎそれだけ。

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右肩ヒサシ
(2017-03-02)

きらるびさん、コメントありがとうございました。 朗読について。コメントを読んで面白そうだと思ったので今まで試していましたが、難しいものですね。やってみると、声優という職業の人がいかに凄いかということがよくわかります。 レコーディングして聞いてみると、自分の声というものはいつも聞いているものとはまったく違うので恥ずかしいものです。 どうやって発表したらいいのかわからないけれど、折角録音したので、機会があったらどなたかに聞いてほしいなとは思っています。

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