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常寂光の海
波立ち やがて凪ぐ 大海は 生死の現象を表に持つが その深みの中は 常寂 そして表面は光輝く つまり海には 空との接点があり 接点において 生死が現象する 人間は空と海とに挟まれ 変化が絶えない 苦しみは 波の変化である やがて海をも空をも越え すべての悟った人が 常寂光に至るだろう 増すことも減ることもなく 常にあるもの それが変化することは もうない 無常を越えた涅槃 生死のサイクルから 離脱する 海の中では海流がある 凪いだ海も完全に平らではない 従って海が完全に寂静たることはない それが縁起である 従って、比丘らよ聞け 海がなくなることがないことが救いなのだ 苦しみを制する方法はない しかし仏の働きによって苦は減っていく 仏はすべての存在の中にある 理想的海の中で生きる魚たち 空を飛ぶ鳥もまた光に照らされる 海と空との境に生死があるならば 生死を超えた涅槃とは 海そのものと空そのものの 表れであり すべてが一如として 全体のすべてが経験されることこそが 涅槃と呼ばれる究極の悟りなのである
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常寂光の海 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 821.6
お気に入り数: 1
投票数 : 0
ポイント数 : 0
作成日時 2025-11-02
コメント日時 2025-11-08
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


こんばんは。 >>空を飛ぶ鳥もまた光に照らされる これは凄くイメージ出来ました。 確かに普段、空を飛ぶ鳥が光に照らされるということを気にしたことがなかったなと 新鮮なきもちです。
1常寂光「永遠に静寂で真理の光に満ちた世界」ですか。 土に還れば仏の理想郷を指すという。 京都には日蓮宗の常寂光寺があるという。 わたしは愚禿親鸞。信心が浅いのでよく知らないのです。 日蓮宗ならば法華経ですな。 僧侶を指す比丘(びく)なんて聞いたこともないのだが、 おもしろいですね。 魚籠のことも(びく)という。 山梨では女の子をいうらしい。 関係ないか。と思ったら、 そうでもないらしい。 魚藍観音という菩薩がいて、 魚藍とは籠を意味するらしい。 仏教でいう魚とは特別な意味があり、 そういえば僧侶が叩くのも木魚という。 魚は眼を閉じないで眠るので、 このことが、 日々の修行僧にとっては象徴のような存在になるというのだ。 改めて依頼品(常寂光の海を見てみよう)。 数発放たれた弾が致命傷ともならない限り 警察官が持つ22口径の回転式拳銃では熊を倒せない。 黒髪さんらしい発想ではないか 移民たち政治家どもが、 数の多い少ないを気にしているうちに高級リゾート施設が手放される。 自動車は重たい。運良く騎馬に授かるモノが有るのならば、 あたしは敢えて観音様になろうと思う、が なりきれないのはわかってる。 この詩が経典を元にした美しくもしなやかな言葉たちならば、 想像はあなた独自の発想から綴られていると信じたい。 創作家は魂の浄化を求めて天井界の門に下る。 瞑想に新たな自己を夢見るのだ。 この詩にある静謐に満ちあふれた言葉たちのように、 わたしも観音寺の門をくぐり抜け瞑想に耽りたいが、 瞑想が迷走へと彷徨うのはわかりきっている。 なので敢えて近づこうとはしないのだ。 人間嫌いを装いはするが、実は本心からではないように たまにムカつく詩を書きもする黒髪さんだが、 このような魂の震えを言葉に流すこともできる ああ、あなたはここまで着実に天目螺鈿の階段を昇ってきて、 わたしはそれが何よりもうれしい。 ※ごめん、眠たい、酔った、何を言いたいのか自分がわからなくなってきた。おやすみ。 瞑想へと走り出したいが、 最初に述べたように愚禿親鸞、わたしは煩悩から脱却はできないであろう。
1↑ あれま、これも途中で飛んでしまっている。俗眼と焼酎のせいだ。ごめん。 兎にも角にも人類愛だけは伝わりまするね。
1※ 途中移民たちから熊が出てくる辺りはわたしの勝手な創作になっている。 何がどううなってしまったのか、異次元に飛んでしまった。ごめんね。シュトラウスの生誕祭。 読まないで、飛ばしてくれたまえよ。 と付け加えて、画面もまたえらくバグりだしたので、おやすみなさい。
1鳥の羽の輝きは、さぞ美しかろうと想像されますよね。人の髪の毛が、光に輝くように。本当に、この世は祝福されています。本来は、すべての生き物が幸せなんですよ。自然に包まれていれば。
0迷走へと走ろうと、まずは瞑想してみるのが肝心です。迷いの多い方が悟りも大きいと言います。煩悩即菩提。あらがいさんは、思考のスケールの大きい方なので、宗教(宗とは祖先を指す、そして根本的な究極の原理、真理のこと)への直感も働きやすいと思います。一休さんのように、酒を飲み、女性にも親しむ、破戒僧といわれもした大僧侶もいるので、あらがいさんもぜひ。
0作品を読んで黒髪さまへ是非お尋ねしたいのですが、 黒髪さまは一片のチョコレートを口にするとき、 何を考えられますか? つまらないことを聞くなと 叱られそうですがわたしにとっては是非お聞きしたい 事案なので、出来ましたら、コメント下さい。
1手がベタベタになってしまってはいけないな、ということと、キスの味を一回ぐらい味わってみたいな、ということでしょうか。参考になれば幸いです。
0ご回答ありがとうございます。 一片のチョコレートをそのように何も考えずに 素直かつ純粋に味わえる黒髪さまがうらやましい。 というか、じつはわたしも似たようなものです。 わたしが知りたかったのはそういうことです。 チョコに限りませんが、一部輸入農産部の生産過程はおぞましい 地獄絵図といっていいもので、AIにでも質問すれば 手っ取り早く教えてくれますが国際的な幼児の人身売買 や誘拐された数百万の子どもたちによる強制労働によって チョコの栽培と生産は行われています。 米労働省(U.S. Department of Labor)の最新推定では、 ガーナ、コートダジュールの2カ国だけで約156万人の子 ども(5〜17歳)がカカオ農園で強制労働に従事させられ ています。 その半分が世界中から誘拐されてきた児童ら で、5歳から監視下において働かせられ15歳前後には過酷 な労働のせいで早死します。 約148万人の子どもたちが、カカオ栽培の農薬散布や重い荷物の運搬、 鋭い道具の使用など危険な作業を強いられているからです。 そのような幼児誘拐、人身売買という極悪犯罪と子どもたちの若年死という 犠牲の上に、チョコレートはつくられ、それ を無邪気に愉しみ、仏教談話をし、詩歌を愉しむ 飽食平和のわたしたちが存在するわけです。 それはチョコに限らず、コーヒーでも綿製品のシャツでも同じ ような奴隷構造によって成り立っています。 チョコと問いかけた瞬間、黒髪さまが地獄の構造の上に 成り立つ現在社会を仏法的にどう説明されるか聴い てみたかったのですがそもそもわたしもそうですが そのような邪悪な世界構造 の上になりたつ現代社会にはあまり関心がなく、 純粋に仏法思想というものを享受されているとわかり 妙に納得した次第です。 じつはわたしも黒髪さまと同じ気持ちです。 黒髪さまのような凄い意識の高い方がわたしたちと 同じ凡庸な世界認識と通俗的享楽のもとで生きているののだと 聞けて安心しました。 ありがとうございました。
1告発するべきとお考えになるtakoyo2さんの意識は分かります。わたしは、子どもの労働の上にチョコレートがあるとは思ったことがありませんでした。コーヒー豆等で、フェアトレードの商品を、買おうとしてはいます。また、偽善者と言われようと、半年間ほど、月4千円を、外国の貧困の子供に寄付したりしました。そういうことの、積み重ねだと思います。個人個人の意識と行動の積み重ねしかないと思います。格差の是正とは、個人個人の意識の積み重ねの上にしか成り立たないと考えるのが、わたしの仏教的な考えです。八正道を歩めば、幸せになれる、これは信仰でありますが、智慧で考えて、正しいと確信していることでもあります。戦後日本社会で、上野駅で、檻に閉じ込められた浮浪児がたくさんいた、というようなことと、重なっています。かれらは、一体、排せつなどどうしていたんでしょうね。ここは、理不尽なことを良心で許さない人の眼が働けば、必ず解決される問題であると考えます。極度の秩序の喪失と、混乱の中では、どのようなことが起きても不思議ではありません。秩序を乱すことが罪ですよね。人格への攻撃も罪です。だから、性愛が罪と誤解されたりもします。
0学校の授業で、涅槃の意味を問われたことがありました。この詩では生死のサイクルから離脱するや、生死を超えた涅槃などのフレーズが散りばめられて、涅槃と言うものがどんなものかを示唆していると思うのです。
1そうですね、涅槃と言えば大仰ですが、「安らぎ」と一言で言いかえることもできるようです。中村元さんという、仏教学者の方がそうおっしゃっていました。安らぎにいたることが、いかに大変かは、皆さんがご承知の通りです。
0「常寂」の意味を深く考えさせられました… 生と死にエネルギーとか意思的なものを感じるのは今回の場合違うのかな、無理にあらゆるものに「役」を振り分けるのは、涅槃から遠いんじゃないかな~ なんて考察しました!
1ありがとうございます。生と死は「状態」ですね。エネルギーを左右はしますね。生に意思は伴いますが、死に意思は伴わないと思います。「役」はなぜ必要なのかを考えると、「役」は区別をするためですから、涅槃とは違いますね。いま、「チコちゃんに叱られる」を見ているんですが、物事の理由や原因を考えるのは、とても生産的です。一般的に言って、あまり言葉の心理作用とかにこだわらない方が、いいと思います。愛を与えるためにその理解は必要なんですが、献身的になりすぎるのも、考えものですから。むしろ、智慧を増やすことを考えるのが、日常的にはいいと思います。人のこころと合一する喜びは、感情的にとても尊いものなのですが、慈悲の心を持つことと、智慧を持つことは両輪ですからね。孤独なときには、論理的な思考をして智慧を育てましょう。人と愛を交わすときには、命を燃え立たせましょう。自分の恐れには必ず理由があり、論理的に考えれば、それは自分で理解することができます。そうすることが、智慧の向上です。恐れの契機を、よくつかうことによって、人は善の方向へと向かいます。盲目的であることは、自己を誤魔化すことです。怖くても直視して立ち向かわなければなりません。そうでなければ他人を理解することは出来ません。信じることは、賭けることをある程度は含みますが、与えることは、賭けることでは、為すことは出来ません。なぜなら、賭けることは力ではないからです。母親は、完全なる保護を子供に与えるものであり、その行為の中に、賭けの要素はひとつもありません。リアリズムと母性の融合が、人間の奇跡だと思うわけです。
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