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舞踊のためのささやかな証明
過程は花に過ぎず 結実しなければ徒花である 同時に、感性的な価値は花にあり 美しいのは過程である 神経支配は英語でinnervationといい 神経(nerve)の内面化(in-)である 過程を花、結果を実とするならば 神経は花であり、動作が実である よって、美は神経にある 美は身体内部にある 動作に結実しない神経のはたらき これは夢であり、夢は徒花である 神経支配はひとつの地図でもある 動作に結実する神経のはたらきは 必ずこの地図上をなぞるのであり この地図を走る夢だけが現実化する 哲学者のアーサー・ダントーは 芸術を「うつつの夢」と定義づけた 美しく地図を走る夢 夢のままに躍動する身体 すなわち、舞踊である 舞踊は花であり、実でもある 身体は激しく咲く 夢が神経を、身体内部の地図を 駆け巡る、瞬間の花なのだ
舞踊のためのささやかな証明 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 816.1
お気に入り数: 0
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-06-29
コメント日時 2025-07-03
| 項目 | 全期間(2025/12/06現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
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| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
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| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
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| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
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※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


こんばんは。 >>動作が実である 行動の難しさをひしひし感じるので、こちらの詩が勉強になりました、ありがとうございます。
1コメントありがとうございます。
0しなやかに、そして、ときには激しく躍動する舞踏を、美しい花や鳥や蝶の動きに見立てて瞬間の芸術と評する。論じておっしゃりたいことはよくわかるのですが、 そのことだけが目的となるならば芸術に対して懐疑的な眼を向かわせてしまう。 陶器を例にしましょうか。同じ創作活動を続けても技術を拠り所とする職人と優れた芸術家の違いとは何であるのか。 どちらも人の眼にふれ買い手がつかなければただの置物でしょう。 職人の作り出す器は売れなければ作る意味もない。その生産性のために技術を駆使して創作活動に邁進するのですが、方や芸術家が精魂込めて作り上げる器はどうでしょう。べつに売れるとか売れないを目的にされるわけでもない。ただ人の眼にふれて評価の判断が成されれば作り手はそれで満足なのです。 そして芸術家の作り上げた器の善し悪しを判断するのにも基準のようなものはなく、選考過程に於いて評価の判断を下されるだけです。詩であれ、どんな芸術であれ、評価という判断には同じ経過を辿ることになりますね。 若手ダンサーの登竜門として有名なローザンヌ国際バレーコンクールがあります。 これには古典バレエとコンテンポラリーダンスの二種類がある。 これらの評価にはもちろん技術力も重要な要素でしょうが、表現力も選ばれる主要な要素でしょう。 このことは音楽をはじめとして、あらゆるコンクールに求められる要素になる。 つまり何が言いたいのか、 表現力なんてこうすればこうなる。というような論法ははじめから存在しない。ということです。 なので、『舞踏のためのささやかな証明』と題された芸術論法。 証明などされても意味は持たないし、そもそも芸術を論じて証明などする必要もないのだ。と、言いたい。のです。
1瀧口修造みたいでカッコイイなあ。
1コメントありがとうございます。 僕は職人と芸術家に、質的な違いはほとんどないと思ってます(アートも藝も語源をたどれば技術ですし) むしろ「表現」こそ、近代以降に人々が芸術に抱いた妄想そのものだと思います。「芸術」「アート」は制度的なものですし、「表現は証明できないし、する必要もない」というのも「表現」を過剰に神聖視しているように感じました。 あと、今回の作品は舞踊の感性的な経験を(身体的-精神的な)内的感覚と結びつける程度の、芸術論云々と呼べる以前のものを「証明」のような様式のなかで撞着させ、作品にしてみたものです。 これに意味がないというなら、まさしく意味がないわけですが、それを言うなら詩一般にも同じことが言えるのでは〜とも思います。
0コメントありがとうございます〜 嬉しいです!
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