詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─二十九日 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─二十九日    

二〇一四年十三月一日 「宝塚」  18、9のとき ひとりで見に行ってた 目のグリーンの子供と母親 外国人だった 子供は12、3歳かな きれいな髪の男の子だった 母親は栗色の髪の毛の、34、5歳かな 宝塚大劇場に、ひとりで行ってたとき ときどき行ってたんだよ 斜め前の席に坐ってた子供が 自分に近い方に 宝塚の街のことは、隅から隅まで知っていた いろんなところ、ぶらぶらしてた あれから何10年経ったろう もしいま宝塚の街を歩いてみたら ぼくの傍らをすれちがっていく 笑い声に出会うだろう それはたぶん きっと あの宝塚の街を通りすぎていく 風だったのだろう 二〇一四年十三月二日 「さつき」 22、3のときのことだった ぼくの住んでいた長屋の斜め向かいの家の 女の子 11歳 (男の子3人と、女の子1人なので、あずかっていた。寝泊りしていた。) この子と、向かいのスナックのママの娘 12歳 この2人を連れて あるさつきの季節に 夕方 東山の霊山観音のぐるり 前いっぱいにライトアップされていた さつきが咲き乱れていた この光景は、1生忘れないでおこうと、こころに誓った 二〇一四年十三月三日 「靴」  27のとき 忍び逢い という名前のスナックを経営していた そのとき 京都女子大学の女学生と知り合った その女子学生は 店に聖書を売りにきたのだった 気のいい女の子で、2人で食事をしたり、喫茶店で話をしたり デートした この子が、自分の近所の17の女の子を ある日、連れてきた その娘も、めちゃくちゃかわいい女の子だった 名前はたしか優ちゃんだった 芦屋に住んでいるのだが、きょうは京都に遊びに来たの、っていう 3人で南禅寺に行った 南禅寺の山門をくぐりぬけて 50メートルほど行くと お滝に上がる山道がある 山門の入り口に第2疎水のコンクリートの土台があって (グリーンのレンガ貼り) ハイヒールの中に入っていた小石をとるのに 片手を、その土台において 立ったまま ぱっぱっと その小石を落とした 片方の靴のかかとから ぼくが見つめているのに気づくと とても恥ずかしそうな顔をして見せた そうだ あの娘の表情も けっして忘れはしないと ぼくは、こころに誓ったのだ 優ちゃん 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 真っ赤な麦藁帽子と 白い薔薇模様のワンピース これは覚えているのに あの娘の恥ずかしげな顔とともに だけど、あのときの靴の色は忘れてしまった 二〇一四年十三月四日 「風景は成熟することを拒否する」 皮膚にまといついた言葉を引き剥がそう 詩人に要請されることは、ほかには何もない 皮膚にまといついた言葉を引き剥がすこと以外に こころみに、ぼくの皮膚についた言葉を引き剥がそう 10歳のときの記憶の1つが、雲を映す影となって地面を這っている こころもち、雨が降った日の水溜りに似ていないとも言えない 風景は成熟することを拒否する 詩人は自分をその場所に置いて 自分自身を眺めた まるで物でも眺めるように 二〇一四年十三月五日 「時間と空間」 ぼくたちが時間や空間を所有しているのではなく 時間や空間がぼくたちを所有しているのである ぼくたちが出来事を所有しているのではなく 出来事がぼくたちを所有しているように。 ぼくたちが過去を思い出すとき ぼくたちが過去を引き寄せるのではない。 過去がぼくたちを引き寄せるのである。 過去がぼくたちを思い出すために。 二〇一四年十三月六日 「偉大さと、卑小さ」 詩人がなぜ過去の偉大な詩人や作家に 詩人にとって偉大であると思われる詩人や作家に云々しているのか いぶかしむ人がいるが そんなことは当たり前で 卑小な人間の魂に学べることは、卑小な人間について学べることだけだからである 偉大な人間の魂の中には、卑小な人間の魂も存在しているのである 詩人は学び尽くさなければならないのだ 生きているあいだに いや、違うかな。 かつて、親しかった歌人の林 和清ちゃんが ぼくにこんなことを言った。 「どんなひとからも学べるのが、才能やと思うで。」 「おれは、むしろ、ふつうのひとがすることから、いっぱい学んでるで。」 って。 そうかもしれない。 でも、自分がぜんぜん共感できない詩人や作家の作品から学ぶことなんかできるんやろか。 ほんとうに才能のあるひとにならできるのかもしれないな。 卑小なこと、つまらないことからでも学べるのが才能なのかもしれないな。 だとすると、世のなかには、卑小なことも、つまらないこともないっていうことなのかな。 そういえば、日常のささいなことが とげのように突き刺さって痛いってことが、しょっちゅうあるものね。 「偉大さと、卑小さ」か。 浅く考えてたな。 二〇一四年十三月七日 「ぼくたちが認め合うことができるのは」  ぼくたちが認め合うことができるのは お互いの傷口だけだ 何か普通とは異なっているところ しかもどこかに隠したがっているような様子が見えるもの そんなものにしか ぼくたちの目は惹かれない それくらい ぼくたちは疲弊しているのだ 二〇一四年十三月八日 「言葉も、人も」 言葉も 人も 苛まれ 苦しめられて より豊かになる まるで折れた骨が太くなるように 二〇一四年十三月九日 「ポスト」  彼女は その手紙を書いたあと 投函するために外に出た ポストのところまで 少し距離があったので 彼女は顔の化粧を整えた (これは、あくまでも文末の印象の効果のために、 あとで付け加えられたものである。削除してもよい。) 彼女は その手紙に似ていなかった 彼女は その手紙の文字にぜんぜん似ていなかった その手紙に書かれたいかなる文字にも似ていなかった 点や丸といったものにも 数字や記号にも 彼女がその手紙に書いたいかなるものにも 彼女は似ていなかった しかし 似ていないことにかけては ポストも負けてはいなかった ポストは 彼女に似ていなかった 彼女に似ていないばかりではなく 彼女の妹にも似ていなかった しかも 4日前に死んだ彼女の祖母にも似ていなかったし いま彼女に追いつこうとして スカートも履かずに玄関を走り出てきた 彼女の母親にもまったく似ていなかった もしかしたら スカートを履くのを忘れてなければ 少しは似ていたのかもしれないのだけれど それはだれにもわからないことだった 彼女の母親は けっしてスカートを履かない植木鉢だったからである 植木鉢は 元来スカートを履かないものだからである 母親の剥き出しの下半身が ポストのボディに色を添えた 彼女はポストから手を出すと 家に戻るために 外に出た 二〇一四年十三月十日 「ハンカチの笑劇」 オセロウは イアーゴウがいなくても デズデモウナを疑ったのではないか? さまざまな冒険が その体験が オセロウをして想像豊かな 極めて想像豊かな人間にしたはずである 「ハンカチの笑劇」 想像はたやすく妄想に変わる 巣に戻った鳥が 水辺の景色を思い出す 愛によって形成されたものは 愛がなくなれば なくなってしまうものだ 「なにがしかの痕跡を残しはするのだろうけれど。」 そう言うと この詩人は自分の言葉の後ろに隠れた 隠れたつもりになった 二〇一四年十三日十一日 「死んだあと」 死んだあと どうするか 動かさなくてはならない ひとりひとり別の力で ひとりひとり別の方法で 人間以外のもろもろのものも 動かさなくてはならない ひとつひとつ別の力で ひとつひとつ別の方法で いっしょにではなく ひとつひとつ別々に とりわけ両親の死体が問題である 死んだあとも 動かさなくてはならない そいつは 何度も死んで すっかり重たくなった死体だが 二〇一四年十三月十二日 「音楽」 すべての芸術が音楽にあこがれると言ったのは だれだったろうか? たしかに 音楽には 他の芸術が持たない 純粋性や透明性といったものがある しかし ただひとつ ぼくが音楽について不満なのは 音楽は反省的ではないということだ じっさい どんなにすばらしい音楽でも ぜんぜん反省的ではない 他の芸術には ぼくたちに ぼくたちの内面を見るように仕向けさせる作用がある しかし それにしても 音楽というものは それがどんなにすぐれたものであっても ちっとも反省させてはくれないものである 二〇一四年十三月十三日 「書き改めてなかった」 2、30年くらい前のことだけど 『サッフォーの詩と生涯』という本のなかで 引用されていたエリオットの詩の原文にコンマだったかピリオドが抜けていることと あきらかにサッフォーの影響のあるバイロンの詩句について なぜ書かれなかったのですかって 著者の沓掛良彦さんに、直接、手紙を出して訊ねたことがあって 1ヵ月後に、ご本人から丁寧な返事をいただけて なんとか気を落ち着かせたことがある 再刷りするときに書き改めるということだったけど きょう、ジュンク堂で見てきたのだけど、書き改めてなかった 執筆中にご病気で メモでは、そのバイロンの詩句も書いてらっしゃったらしく 外国の研究者で ぼくが指摘した箇所を指摘した方がいらっしゃって 沓掛さんも書くつもりだったらしいのだけれど 体調を崩されて 書くのを忘れられたとのことだった 「あなたは英文学の研究生ですか。」 と書かれてあったので 「いいえ、工学部出身です。」 と返事を出した 批判したかったら、直接、相手に手紙を出す時代が ぼくにもあったんやね いまは しなくなった 二〇一四年十三月十四日 「ママ」 ぼくが子どもだったころね よく言われたことがある あんまり長い時間 ママを見てはいけませんって ママを見る権利をパパがいるときにはほとんど独り占めしてたから ぼくが自由にママを見れたのは パパがいないときに限ってた お兄ちゃんといっしょになって ママを見てた パパがいないときに ママの鼻をつまんで ぐにぐに ぐにぐにひねって ママのあげる美しい悲鳴を聞いてた ママの声は ぼくの耳にとても気持ちよくって ぼくとお兄ちゃんはママの鼻をぐにぐに ぐにぐにひねって ママはぶひぶひ ぶひぶひ きれいな声で歌ってくれた あるとき ぼくとお兄ちゃんがママの鼻がちぎれるぐらいに 思い切りひねっていたときに 突然 パパが帰ってきたからびっくりしたことがあったのだけれど ママは 真っ赤になった鼻を押さえて トイレにかけこんで 鼻がふつうの色に戻るまで出てこなかった パパには ママがおなかが痛いって言ってたよ って ぼくが言っておいた パパがはやくママに飽きてくれたらいいのになって ぼくはいつも思ってた ぼくが子どもだったときのことね いま ぼくは大人になって ママだけじゃなくて パパのことも見てる お兄ちゃんが死んで ママもパパも いまじゃ ぼくだけのものだから お湯がたまったみたいだ お風呂から上がったら ママとパパの鼻をひねって ママとパパの苦しむ顔を見ようっと うっちっち ニコッ 二〇一四年十三月十五日 「うんこ臭い」 クリーニング店に行くの忘れてて 明日はいてくスラックスがない クリーニング店がもっと近くだったら よいのに で これから洗濯 うううん もう預けてて1週間以上になるな 取りに行くのが うんこ臭い 取りに行くのうんこ臭い うん国際 うん国際地下シネマ って えいちゃん 背中にかいた薔薇の字が 自我 自我んだ 違った 自我った スクリーン ひざ の 上 の 手 二〇一四年十三月十六日 「本」 本は 本の海の中で育つ 卵から帰った本は 他の本を食べて だんだん成長する 本は本を食べて 肥え太る 本は 本の父と 本の母の間で生まれた 本は 本の浜辺で生まれてすぐに 本の海を目指す 本能からなんだと思う 自分がどこからきて どこへ行くべきなのか 知っている つぎつぎと本の子どもたちが 砂浜から這い出てくる 二〇一四年十三月十七日 「人生は映画のようにすばらしい。」 dioの印刷の途中で 昼ごはんを食べに行ったのだけれど 京大の近くの「東京ラーメン」という ふつうのラーメンで400円という値段のところで おいしくて有名らしいのだけれど そこでご飯を食べて また京大にもどって印刷の続きをしたのだけれど 帰りに キャンパスに入ったところで 大谷くんが 綾小路くんに DX東寺というストリップ劇場の無料招待券を渡した 綾小路くんが「これ、なんですか?」と訊くと 「山本さんが  それくれたんだけどね。」 「ええ?  大谷さんが行ったらいいじゃないですか?」 「おれ  いっつも断ってるねん。」 「大谷さんがもらったんじゃないんですか?」 「違うねん。  これ  このあいだのぼんに渡してくれって言われたんや。」 「ぼんて  ナンですか?」 「「ぼん」て  若い男のことを  そう言うんや。  だれでも  あのひとは「ぼん」て言うんや。」 「そうなんですか。  でも  大谷さんが行けばいいじゃないですか。」 「おれ  彼女  いてるし  行けへんやろ。」 「ええ!  ぼくが行くんですか?」 綾小路くんの手のなかのチケットを取り上げて ぼくが「DX東寺・招待券」という文字を確かめてから 綾小路くんの手に戻して 「行ったらええんとちゃう?  綾小路くん  行ったら  綾小路くんの文学や哲学が深くなるで。  裸で勝負してる人間を見るんや  きっと  綾小路くんが大きくなるで  あそこも  こころもな。」 「そうですか?」 「そうや。」 「じゃあ、  もらっておきます。   でも行かなくてもいいんですよね?」 「そら好きなようにしたら  ええけどな。  行ったら  綾小路くんが  深くなるで。」 と言ってから ぼくは 大谷くんに 「ねえ  ねえ  大谷くん  その山本さんて  何者?」 って訊くと 「いつも行く居酒屋さんでしょっちゅういっしょに飲んでる  元ヤクザの人なんです」 「へえ  その人  いいひとなんやなあ。」 とぼくが言ったら 「いまは  いいひとですよ。」 「その飲み屋って  どこにあるの?」 「ぼくの住んでるマンションの前。」 「どんな店?」 「食べ物  なんでも300円なんですよ。」 「へえ  おいしいの?」 「おいしいですよ。」 「そやけど  そのひととの関わりなんて  なんか  青春モノの映画みたいやなあ。  いや  人生が映画のようにすばらしいのか?  うん  人生は映画のようにすばらしい。  あるいは  映画は人生のようにすばらしい  か。  まあ  どっちでもええけど  どっちかのタイトルでミクシィの日記にでも書いとこうっと。」 ってなことを言いながら 印刷の場所にもどって 作業の続きをしていた あ 印刷は終わってたのか そうだ 紙を折る作業に入ったのだ 借りていた教室で 総勢7人で 紙折り作業をして 最後にホッチキス止めが終わったのが5時40分くらいで そこから みんなで 「リンゴ」という店に行って打ち上げをしたのだった 土曜日のことだった うん うんうん 「人生は映画のようにすばらしい。」 二〇一四年十三月十八日 「三日後に死ぬとしたら」 朝 死んだ父親に起こされたから 3日後に死ぬとしたら どうする? って きのう、リンゴで 雪野くんと 荒木くんに訊いたんだけど あ この荒木くんは 言語実験工房の荒木くんと違うほうの 小説を書くお医者さんで で その2人は それぞれ 「ぼく考えたことないです。 わかりません。」 「ぼくはとりあえず田舎に帰るかなあ。」 やった ぼくはいつ死んでもいいように そのときそのとき書けるベストの作品を書いてるつもりだから 「本読んでると思うわ。」 と言った じっさい 読んでないのが まだ400冊くらい部屋にあるので そのなかから ピックアップして 読んでいくと思う でも2人とも考えたことがないっていうのは ぼくには不思議やったなあ 二〇一四年十三月十九日 「すべての人間はソクラテスである」 セックスを愛だと思ってる人は少ないかもしれないけれど 愛をセックスだと思っている人はもっと少ないと思う セックス=愛 愛=セックス 数式のように書いたら 同じように思えるかもしれないけれど 数式としてもっと厳密に見ると この2つの式が異なる内容を表わしていることがわかる 1+1=2 だけど 2=1+1 だけじゃないやん 3マイナス1だって2だし 7マイナス5だって2だし マイナス4プラス6だって2だしねえ いや 絶対的に 2=1+1だけだったりして 笑 嘘 嘘 でも たとえば 考えてみてよ ソクラテスは人間だけど 人間はソクラテスじゃないものね うん いやいや これも 案外 すべての人間はソクラテスかもしんないぞ ソクラテスがすべての人間であるように てか 笑 まあ ソクラテスって名前の犬とか ソクラテスって名前のパソコンとかなんてのは なしにしてね ふぎゃ 二〇一四年十三月二十日 「Street Life。」 むかし書いた詩があって それは ワープロ時代に書いたもので 1時期 自暴自棄になってたときがあって ワープロに書いたぼくの詩を 『みんな、きみのことが好きだった。』と『Forest。』に 収録したもの以外みんな捨てたんだけど 原稿用紙にして2枚くらいの短い詩で 『Street Life。』というタイトルで書いたものがあって それは どちらにも収録するのを忘れてて でも とても気に入ってたんだけれど 手元に それが収録された同人誌がなくて というのは ぼくは 自分の書いた詩が載ってる本を よくひとにあげちゃうからなんだけど そういうわけで 内容は覚えているんだけど 正確には思い出せなくて で それを思い出す という作業を 散文スタイルで書いてみようと思っているわけ 「ぼく」と「中国人の青年」の話なんだけど ソープランドの支配人をしていた26歳の青年と ぼくとが出会って 彼の初体験(もちろん男)の話と バイセクシャルである彼のセックスライフにからませて ぼくが何度も自殺するという内容で 自殺するのだけれど 死ねなくて 水に顔をつけても呼吸しちゃうし 手首を切っても すぐにもとにもどっちゃうし 飛び降りて ぐちゃぐちゃになっても すぐにもとにもどっちゃうし という感じで現実の彼の話と シュールな場面が交互につづくんだけど フレーズが正確に思い出せないのが ほんとに残念で で 今回 書こうと思うのは 「なぜ その青年のことを書こうと思ったのか。」 「その青年の話をそのまま書き写しただけなのに  なぜ  その青年の存在が、ぼくにとって  いまだにリアルなのか。」 「ぼくがなぜ何度も死んで生き返るのか。」 「これらふたつのことで何が表現したかったのか。」 といったことを自己分析しながら書こうと思っているのだけれど うまくいくかどうか 二〇一四年十三月二十一日 「ちょっといい感じ」 さっき聴いた曲がちょっといい感じ その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ヒロくんの言葉を思い出していた ぼくのおなかをさわりながら 「この腐りかけの肉がええねん。」 「腐りかけの肉って、どういう意味やねん?」 「新鮮な肉の反対や。」 好きなこと言ってるなあって思った その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた 「背中とか、頭とか  さわられるのが好きやねん。」 「みんな、そうなんちゃう?」 おなかの肉をつまんだり さすったりしながら 「こうして、さわってるのが好きかな。」 「ぼくはさわられるのが好きやし  あっちゃんは、さわってるのが好きなんやから  ちょうどええな。」 うん?  そ? そかな? 「そんなに、このおなかが好き?」 「好きかも。」 「顔もかわいいしな。」 「めっちゃ、生意気!」 もたげてた頭を起こして目を見る 笑ってた。 ぼくも笑った この生意気さ ヒロくんと、どっこいどっこいやなあ、って思った すぐに夢中になっちゃいけないと こころに向かって言う まだまだ ぼくは傷つくことができるのだから その分厚い胸に頭をもたげて 話をしていた ぼくと同じように 彼の胸もドキドキしてた さいしょ 近づくのもこわかったのも ぼくよりずっと年下なのも 双子座なのも ヒロくんといっしょ O型やけど 好きになったら どうしようって感じ うまくいきそうになったら うまくいかなかったときのことが思い起こされる ぼくの目を見ないようにしゃべってた ぼくが横を向いたら ぼくの顔を見てた たくさんしゃべったのに まだしゃべりたりないって感じで でも 決定的なことは 何も言わなかった 何度も顔を見つめ合いながら 離れていった 微妙で不思議な時間だった はっきり言わない ううううん 人間の魅力って ほんと さまざま 二〇一四年十三月二十二日 「シェイクスピアについて」  エンプソンの『曖昧の七つの型』(岩崎宗治訳)上巻の終わりのほう、372ページの後半から引用すると、 (…)シェイクスピアは、たえず身の危険と戸惑いを感じていたにちがいない。彼自身はこういう政治状況からくるものをうまくかわしていたらしいが、仲間のしくじりのために罰金を払わせられた。ベン・ジョンソンがカトリック信仰と反逆罪の廉で逮捕される少し前、シェイクスピアは宮廷でジョンソン作の『セジェイナス』の上演に俳優として参加していたのである。(…)  好きな詩人や作家について、知らなかったことを知ることのできた喜びは大きい。シェイクスピアが、ペストの流行のせいでロンドンから離れなければならなかったことや、政治的に後ろ盾になっていた人物が反逆罪でつかまったりしたのは知ってたけれど、ベン・ジョンソンとのかかわりについては、それほど知らなかったので、まあ、弔辞を読んだ人だったかな、同時期の作家か先輩の作家だったと思うけれど、追悼の言葉くらいしか知らなかったので、なんだか、得した気分。あるいは、もしかしたら、過去に、ほかで読んでて忘れてることかもしれないけど、笑。忘れてて、思い出すことも喜びだしね。  エンプソンの引用する詩句の多くがシェイクスピアであるのが、うれしい。ときおり混ざる他の作家や詩人の作品の引用も楽しい。上巻、あと少しで終わり。 きょうは、ずっと韓国映画と、韓国ドラマと、エンプソンの詩論集に。  韓国映画とか韓国ドラマとかに、ここまではまるとは思ってなかったので、とても意外で面白い。キム・イングォンの最新作があって、そこでの画像がネットで手に入れられたので、さっそく保存しておいた。どの画像も、ぼくのこころを穏やかにする。イングォンくんって、じっさいには、繊細で、とても傷つきやすいひとであるような気はするけれど、こんどの映画の役柄は、無職のちょっとヤンチャなお兄さんって感じかな。子どもといっしょに映ってる写真なんて、ほんとに、ほっとさせられる。  ひとの気持ちを穏やかにさせる、そんな詩って、めったにないけど、そやなあ。ジャムの詩くらいかな。しかも2つくらいしかあらへんし。エンプソンの詩論、最後の七番目の型、論理学でいうところの矛盾律を利用したもの。しかしこれって、いつも思うのだけれど、排他律と同1律の応用でもある。まあ、エンプソンは、それを「曖昧」という言葉にしているのだけれど。そういえば、対立する意味概念の同時生起って、ぼくが『舞姫。』で書いた「過去時制」と「未来時制」の同時生起に似ていて面白い。孫引きのフロイトの論文に、未開人の言語に、対立する意味概念の1語への圧縮例が出てくるのだけれど、これって、ピポ族の無時制言語に比較できるかなって思った。ただし、エンプソンは、未開という概念ではなく、対立する意味概念の1語への圧縮を「繊細さ」と捉えているようだけど、ぼくも、リゲル星人の言語を「時制のない言語」、「名詞と助詞のみでできている言語(動名詞句を含む)」にするつもりなので、この最後の七番目の章はじっくり読んでいる。英語が苦手なぼくには、ときどきはさまれる引用の原著部分が、ちょっととしんどいかな。そんなに構文は難しくないけど、ああ、詩は、こうやって訳すのねって、勉強にもなるのだけれど。  イングォンくん、勝ちゃんに似てるんだよなあ。だから、画像をながめてると、せつないのかなあ。  エンプソンの詩論集、読み終わった。読んでるときにはそれなりに楽しめたけど、内容は、そんなに得るものがなくて。まあ、いちおう、有名な本だから読んどく必要はあったけど、読んでた時間がもったいなかったかも。さて、つぎは、なにを読もうかな。 二〇一四年十三月二十三日 「きなこ」 きょう 日知庵で飲んでいると 作家の先生と、奥さまがいらっしゃって それでいっしょに飲むことになって いっしょに飲んでいたのだけれど その先生の言葉で いちばん印象的だったのは 「過去のことを書いていても  それは単なる思い出ではなくってね。  いまのことにつながるものなんですよ。」 というものだった。 ぼくがすかさず 「いまのことにつながることというよりも  いま、そのものですね。  作家に過去などないでしょう。  詩人にも過去などありませんから。  あるいは、すべてが過去。  いまも過去。  おそらくは未来も過去でしょう。  作家や詩人にとっては  いまのこの瞬間すらも、すでにして過去なのですから。」 と言うと 「さすが理論家のあっちゃんやね。」 というお言葉が。 しかし、ぼくは理論家ではなく むしろ、いかなる理論をも懐疑的に考えている者と 自分のことを思っていたので 「いや、理論家じゃないですよ。  先生と同じく、きわめて抒情的な人間です。」 と返事した。 いまはむかし。 むかしはいま。 って大岡さんの詩句にあったけど。 もとは古典にもあったような気がする。 なんやったか忘れたけど。 きなこ。 稀な子。 「あっちゃん、好きやわあ。」 先生にそう言われて、とても恐縮したのだけれど 「ありがとうございます。」 という硬い口調でしか返答できない自分に、ちょっと傷つく。 自分でつけた傷で、鈍い痛みではあったのだけれど 生まれ持った性格に起因するものでもあるように思い こころのなかで、しゅんとなった。 表情には出していなかったつもりだが、たぶん、出ていただろう。 もちろん 人間的に「好き」ってだけで ぜんぜん恋愛対象じゃないけれど。 お互いにね、笑。 先生、ノンケだし。 60歳過ぎてるし、笑。 ぼくは、年下のガチムチのやんちゃな感じの子が好きだし、笑。 きなこ。 稀な子。 勝ちゃんの言葉が何度もよみがえる。 しじゅう聞こえる。 「ぼく、疑り深いんやで。」 ぼくは疑り深くない。 むしろ信じやすいような気がする。 「ぼく、疑り深いんやで。」 勝ちゃんは何度もそう口にした。 なんで何度もそう言うんやろうと思うた。 1ヶ月以上も前のことやけど 日知庵で飲んでたら 来てくれて それから2人はじゃんじゃん飲んで 酔っぱらって 大黒に行って 飲んで 笑って さらに酔っぱらって で タクシーで帰ろうと思って 木屋町通りにとまってるタクシーのところに近づくと 勝ちゃんが 「もう少しいっしょにいたいんや。  歩こ。」 と言うので ぼくもうれしくなって もちろん つぎの日 2人とも仕事があったのだけれど 真夜中の2時ごろ 勝ちゃんと 4条通りを東から西へ 木屋町通りから 大宮通りか中新道通りまで ふたりで 手をつなぎながら歩いた記憶が ぼくには宝物。 大宮の交差点で 手をつないでるぼくらに 不良っぽい2人組の青年から 「このへんに何々家ってないですか?」 とたずねられた。 不良の2人はいい笑顔やった。 何々がなにか、忘れちゃったけれど 勝ちゃんが 「わからへんわ。  すまん。」 とか大きな声で言った記憶がある。 大きな声で、というところが ぼくは大好きだ。 ぼくら、2人ともヨッパのおじさんやったけど 不良の2人に、さわやかに 「ありがとうございます。  すいませんでした。」 って言われて、面白かった。 なんせ、ぼくら2人とも ヨッパのおじさんで 大声で笑いながら手をつないで また歩き出したんやもんな。 べつの日 はじめて2人でいっしょに飲みに行った日 西院の「情熱ホルモン!」やったけど あんなに、ドキドキして 食べたり飲んだりしたのは たぶん、生まれてはじめて。 お店いっぱいで 30分くらい 嵐電の路面電車の停留所のところで タバコして店からの電話を待ってるあいだも 初デートや と思うて ぼくはドキドキしてた。 勝ちゃんも、ドキドキしてくれてたかな。 してくれてたと思う。 ほんとに楽しかった。 また行こうね。 きなこ。 稀な子。 ぼくたちは 間違い? 間違ってないよね。 このあいだ エレベーターのなかで ふたりっきりのとき チューしたことも めっちゃドキドキやったけど ぼくは 勝ちゃん 二〇一四年十三月二十四日 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 「世界にはただ1冊の書物しかない。」 と書いてたのは、マラルメだったと思うんだけど これって どの書物に目を通しても 「読み手はただ自分自身をそこに見出すことしかできない。」 ってとると ぼくたちは無数の書物となった 無数の自分自身に出会うってことだろうか。 しかし、その無数の自分は、同時にただひとりの自分でもあるわけで したがって、世界には、ただひとりの人間しかいないということになるのかな。 細部を見る目は貧しい。 ありふれた事物が希有なものとなる。 交わされた言葉は、わたしたちよりも永遠に近い。 見慣れたものが見慣れぬものとなる。 それもそのうちに、ありふれた、見慣れたものとなる。 もう愛を求める必要などなくなってしまった。 なぜなら、ぼく自身が愛になってしまったのだから。 愛する理由と、愛そのものとは区別されなければならないわけだけれども。 二〇一四年十三月二十五日 「ダイスをころがせ」 ローリング・ストーンズの「ダイスをころがせ」を聞いたのは 中学1年生の時のことだった かな かなかな 同級生の女の子がストーンズが好きで その子の家に遊びに行ったとき ダイスをころがせ、がかかってた ぼくと同じ苗字の女の子だった 名前は、かなちゃんって呼んでたかな 忘れた たぶん、かなちゃん で、ストーンズの歌は、ぼくには、へたな歌に聞こえた だって、家では、ビートルズやカーペンターズや ザ・ピーナッツとか つなき&みどりだとか ロス・アラモスだとか マロだとか ミッシェル・ポルナレフだとか シルビー・バルタンだとか そんなんばっか かかってたんだもん 親の趣味のせいにするのは、子供の癖です パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう あらゆる皮膚についた言葉を引き剥がそう ダイスをころがせは、いまでは、ぼくのマイ・フェバリット・ソングだす 大学のときは、リンダ・ロンシュタットが(ドかな)歌ってた デスパレイドも歌ってたなあ ピッ パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう。 迷ってた? パンナコッタ、どんなこった どんなん起こった? チチ もうマルコは迷うことはないだろう 迷ってた 3脚台 ガスバーナー 窓ガラス 水滴 水滴に映った教室の風景 窓ガラス 光 マルコはもう迷うことはないだろう 迷ってたのは、自分のつくった地図の上だ 自分のまわりに木切れで引っかいた傷のような地図の上だ 3脚台 トリポッド かわいい表紙なので、ついつい買っちまったよ で、こんなこと考えた ある日、博士が (うううん、M博士ってすると、星さんだね) 軽金属でできた3本の棒の端っこを同時に指でつまんだら それがひょいと持ち上がって 3角錐の形になったんだって で、博士が指でさわると、その瞬間に歩き出したんだって さわると、っていうか、さわろうとして手を近づけただけっていうんだけど で、その3角錐のべき線の形になった3本の棒についていろいろ調べると その3本の棒の太さと長さの比率がいっしょなら どんな材質の棒でも、3本あれば、そんな3角錐ができるんだって て、いうか、もうそれは過去の話です。笑 いまでは、荷物運びに、その3本の棒が大活躍してますし その3本の棒の上にトレイをのっけると テーブルの上で ひょこひょこ動くんです お肉を上にのっけると さわろうとするだけで テーブルの上のホットプレートの上に お肉を運んで ジュ 頭を下げて ジュ かわいい ジュ ペットの代わりに、3本の棒をひょこひょこさせるのが大流行 町中、3本の棒が、たくさんの人のうしろからひょこひょこついてっちゃう で、ジュ で、ジュ パンナコッタ、どんなこった チチ マルコはもう迷わないだろう 迷ってた? 迷ってたかも パンナコッタ、どんなこった 二〇一四年十三月二十六日 「耳遺体」 ダン・シモンズの 『夜更けのエントロピー』をまだ読んでなかったことを思い出した 『愛死』を読んでたから、いいかなって思って、ほっぽらかしてたんだけど やっぱ読もうかな ハヤカワ文庫の『幻想と怪奇 3巻』 読み終わってみて、ちと、あれかなって思った 創元のゾンビのアンソロジーの面白さにくらべたら ちと、かな と 通勤のときと 部屋で読むのとは別々にしてるんだけど マイケル・スワンウィックの『大潮の道』のような作品が読みたい 『ヒーザーン』読めばいいかな これから、耳のクリーニング ブラッドベリの『死人使い』というのを読んだ いろいろなところに引き合いに出される作品なので 内容は知ってたけれど やっぱりちとエグイ 耳遺体 耳痛い 耳遺体 ブルー・ベルベットや ぼくの『陽の埋葬』が思い出される 花遺体 じゃない 鼻遺体は、うつくしくないね 鼻より耳の方が 部分として美しいということなのかな 以前に詩に書いたことがあったけど あ 理由は書いてないか。 小刻みに震える 耳遺体 ハチドリのように ピキピキ ピキピキ メイク・ユー・シック! 愛は僕らをひきよせる と書いたのは ジョン・ダン と言っても 高松雄一さんの訳で わずらわしいバカでも わかる詩句だけど 愛する対象が人間たちを動かす って 言ったのは ヴァレリーね って 佐藤昭夫さんの訳だけど ぼくの知性は天邪鬼で いつでも その反対物を想起させる あらゆる非存在が 存在を想起させるように 通勤電車のなかで思いついた 昨年の2月8日と書いてある 詩は思い出す かつて自分がひとに必要とされていたことを 詩は思い出す たくさんのひとたちのこころを慰めてきたことを 詩は思い出す そのたくさんのひとたちが やがて小説や音楽や映画に慰めを見出したことを しかし それでも 詩は思い出す ごくわずかなひとだけど 詩に慰めを求めるひとたちがいることを って うううん バカみたいなメモだすなあ 2004年4月15日のメモ ぼくもしっかり働きに行かなければ! 二〇一四年十三月二十七日 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの『死は快楽』のなかにある 「プライドや憎しみや、愛の苦しみ、破壊の喜び」(小梨 直訳) という言葉を読んで ぼくの詩集『The Wasteless Land.II』の41ページと42ページにある 「虚栄心のためだった」という言葉に誤りがあったことに気づいた いや誤りと言うよりは あれは故意の嘘であったのだ ぼくのほうから別れを告げたのは じつは虚栄心のためというよりも 意地の悪い軽率なぼくのこころのなせる仕業だった 冷酷で未熟なぼくの精神のなせる仕業だったのだ ぼくが別れを告げればどういう表情をするのか どういう反応を示すのか 子供が昆虫や小動物を痛めつけて 強烈な反応を期待するかのように 幼稚な好奇心を発揮したということなのだ 「破壊の喜び」 ダン・シモンズの言葉は ときおりこころに突き刺さる 真実の一端に触れるからである 「虚栄心のためだった」というのは虚偽である ぼく自身に偽る言葉だった 「破壊する喜び」 なんと未熟で幼稚なこころの持ち主だったのだろう ダン・シモンズのこの言葉を読んだのが 数日前のことだった あの文章を書いていたときには 「虚栄心のためだった」という言葉で 当時の自分のこころを分析したつもりになっていた 「破壊の喜び」という言葉を読んでしまったいま あの文章の「虚栄心のためだった」という箇所には はなはだしい偽りがあると思わざるを得ない いやこれもまた後付けの印象なのか 「虚栄心のため」というのも偽りではなかったかもしれない 「破壊の喜び」という言葉があまりに強烈に突き刺さったために その強烈な印象に圧倒されて より適切な表現を目の当たりにして 自分の言葉に真実らしさを感じられなくなったのかもしれない とすると すぐれた作家のすぐれた表現に出合ったということなのであって 自分の文章表現が劣っていたという事実に 驚かされてしまったということなのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な いや 未熟で幼稚な精神の持ち主だけが 「破壊の喜び」を感じるのだろうか どの恋の瞬間にも 「破壊の喜び」が挟み込まれる可能性があるのではないだろうか ぼく以外の人間にも 恋のさなかに「破壊の喜び」を見出してしまって とんでもない結果を招いた者がいるのではないだろうか 1生の間に 恋は1度だけ ぼくはそう思っている その1度の恋に 取り返しのつかない傷をつけてしまうというのは そんなにめずらしいことではないのかもしれない 「破壊の喜び」 未熟で幼稚な精神の と いま言える自分がここにいる 当時の自分をより真実に近い場所から見つめることができたと思う このことは どんなに救いようのないこころも 救われる可能性があるということをあらわしているのかもしれない あつかましいかな 二〇一四年十三月二十八日 「ぼくの脳髄は直線の金魚である」 眠っている間にも、無意識の領域でも、ロゴスが働く 夜になっても、太陽がなくなるわけではない 流れる水が川の形を変える 浮かび漂う雲が空の形を与える わたし自身が、わたしの1部のなかで生まれる それでも、まだ1度も光に照らされたことのない闇がある ぼくたちは、空間がなければ見つめ合うことができない ぼくたちをつくる、ぼくたちでいっぱいの闇 ぼくの知らないぼくがいる ぼくではないものが、紛れ込んでいるからであろうか? 語は定義されたとたん、その定義を逸脱しようとする 言葉は自らの進化のために、人間存在を消尽する 輸入食料品店で、蜂蜜の入ったビンを眺める 蜜蜂たちが、花から花の蜜を集めてくる 花の種類によって、集められた蜜の味が異なる たくさんの巣が、それぞれ、異なる蜜で満たされていく はてさて へべれ けべれ てべれ ふびれ きべれ うぴけ ぴぺべ れぴぴ れずぴ ぴぴず ぴぴぴ ぴぴぴぴぴ ぼくの脳髄は直線の金魚である 直線の金魚がぼくの自我である 自我と脳髄は違うと直線の金魚がパクパク 神経質な鼻がクンクン 神経質な人特有の山河 酸が出ている 鼻がクンクン 華麗臭じゃないの 加齢臭ね セイオン 自我の形を想像する する すれ せよ 自我の形は直線である ぼくのキーボードがこそこそと逃げ出そうとする ぼくの指がこそこそとぼくから離れようとする あるいは トア・エ・ モア ふふん オレンジの空に青い風車だったね ピンク・フロイドだったね わが自我の狂風が わが廃墟に吹きわたる 遠いところなど、どこにもない 空間的配置にさわる 肩のこりは 1等賞 ゴールデンタイムの テレビ番組で キャスターがぼくを指差す ああ、指をぼくに向けたらいけないのに ママがそういってただろ! ぼくに指を向けちゃいけないって 死んだパパやママが泳いでる カティン! 血まみれの森だ 二〇一四年十三月二十九日 「蟻ほどの大きさのひと つぶしたし」 そういえば、きょうは薬の効き目が朝も持続していて ふらふらしていたらしい ひとに指摘された 自分ではまっすぐ歩いてるつもりなんだけど 歳かな たしかに肉体的には 年寄りじゃ ふがふが ふがあ 河童の姉妹が花火を見上げてる ひまわりのそば 洗濯物がよく乾く 夏休み 半分ちびけた色鉛筆 どの猿も 胸に手をあて 夏木マリ 鼻水で 縄とびビュンビュン ヒキガエル 子ら帰る プールのにおい着て まな落ちて 手ぬぐい落ちる 夏の浜  アハッ 漱石ちゃん わが声と偽る蝉の抜け殻 恋人と氷さく音 並び待つ ファッ 夏枯れの甕の底には猫の骨 これも漱石じゃ わがコインも 蝉の亡骸のごと落つ 違った わが恋も蝉の亡骸のごと落つ わがコインもなけなしのポケットごと落つ チッチッチ 俳句の会に出る。 1997年の4月から夏にかけて ばかばかしい 話にもならない 情けない って 歳寄りは思わないのね 会費1000円は 回避したかった チッ 蟻ほどの大きさのひと つぶしたし 人ほどの大きさの蟻 つぶしたり この微妙な感じがわかんないのね 歳寄り連中には なんとなく 蟻ほどの人 つぶしたし ヒヒヒ けり けれ けら けらけらけら けっ まなつぶる きみの重たさ ハイ 飛んで 小さきまなに 蟻の 蟻ひく わが傷は これといいし蟻 蟻をひく 自分と出会って 蟻の顔が迷っている あれ 前にも書いたかな? メモ捨てようっと。 ギャピッ あり地獄 ひとまに あこ みごもりぬ 蟻地獄1室に吾児身ごもりぬ キラッ 蟻の顔 ピカル ちひろちゃん チュ



詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─二十九日 ポイントセクション

作品データ

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作成日時 2021-01-03
コメント日時 2021-01-11
#現代詩 #縦書き #受賞作
項目全期間(2024/04/19現在)投稿後10日間
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2024/04/19 15時00分49秒現在
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詩の日めくり 二〇一四年十三月一日─二十九日 コメントセクション

コメント数(1)
湯煙
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(2021-01-11)

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