虚ろ - B-REVIEW
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エセ詩人

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硬派な作品

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yasu.na

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言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

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羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

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カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

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きょこち(久遠恭子)

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きょこち(久遠恭子)

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きょこち(久遠恭子)

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きょこち(久遠恭子)

紫の香り

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きょこち(久遠恭子)

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居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

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もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

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だれのせいですか

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どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

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虚ろ    

星が見えないと思えることは なんと素直な心だろう この昼間 この空の下


虚ろ ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 10
P V 数 : 1219.3
お気に入り数: 0
投票数   : 0
ポイント数 : 0

作成日時 2018-06-07
コメント日時 2018-07-03
項目全期間(2024/04/18現在)投稿後10日間
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2024/04/18 16時54分53秒現在
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    作品に書かれた推薦文

虚ろ コメントセクション

コメント数(10)
山本琴煢
(2018-06-07)

「お星さま」とは別作品です

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渡辺八畳
(2018-06-07)

‪ビーレビがはじまったばっかのころに、まんま「お星さま」「虚ろ」と同じような構成、つまり本文は全く同じで題名だけ異なる詩を連投するということをした人がいるんですよね。‬ ‪http://breview.main.jp/keijiban/?id=238‬ ‪片方のほうは削除されたけど、でも残ったのを見るだけでも当時荒れたのがわかると思う。‬ ‪とりあえずね、この作品でも同じように荒れる危険性があるよと忠告しておく。前例のようならないように投稿者も読者もしかるべき対応をしなくては。‬ ‪他掲示板でもこういった、従来の詩とは違ったことをやる人ってはいる。その時に私が毎度取っている行動は作者にこれを書いた意図、つまりコンセプトを問うということだ。‬ ‪詩の読み方にはいくつかある。テキストを独立した作品として鑑賞する、または社会規範などと並べて論じたりメッセージを捉えたりする、コンクリートポエムとして視覚にて味わう……そのなかにコンセプチュアルアートとして読むというのもある。テキストでなく詩作の行い自体に意味を付随させてそれこそを作品とすることだ。‬ ‪ここで関わってくるのは、それをネット詩掲示板に発表したということだ。結論を先に申せば、本質は実存に影響を受けるので、ネット詩掲示板という場で実存を得た以上コンセプトを開示しなくてはならないという本質が必ずついて回る。‬ ‪解説すれば、詩の発表方法には様々がある。詩誌に投稿する、同人誌を作る、自分のブログに載せる、朗読する……詩に関わらずだが、作品を世に発表する場合には何かの媒体に依らなくてはならない。これには詩誌とかのメディアだけでなく、活字なり音声なりの手段も含まれている。その際に作品は媒体の特性の影響を免れることはできない。赤い絵の具を使う以上赤以外の色を出すことはできないように。‬ ‪ネット詩掲示板という媒体の特性は、作品と直にコメント欄が繋がっていることだ。詩誌などにはない大きな特性だ。発表された作品はただちに公の中で批評に晒されることになるし、そして投稿者はそれに応じる義務が生じる。‬ ‪この作品を論じるにはコンセプトを問うことを回避するのはできないだろう。当然論点に上がるはずだ。その時に作者はそれに応じ、なぜこれを書いたのかを開示しなくてはならない。コメント欄は創作の場ではない、作者もメタになって議論する側にならなくてはならない。それに応じない場合、往々にして不毛なコメントの応酬が続くことになる。‬ ‪ネット詩掲示板の本質は詩の鑑賞でなく議論にあると思う。時に純粋な鑑賞を阻害してしまうとしても議論のためならそれを優先させなくてはならない。そういう媒体だから。‬ ‪なので私はまず作者さんにコンセプトを問います。それを元に議論が繰り広げられていくでしょう。答えてくれたらいいけれど、でも二つの作品が誤投稿でなく別個のだってちゃんと明記している人だから応じてくれるだろうと思っています。‬

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山本琴煢
(2018-06-08)

祝儀敷さん、花緒さん、コメントありがとうございます。 お二人のご指摘、ごもっともだと思います。 私もこの二篇に関しては、何かを問われれば答えなければならないと思っておりました。 少々長くなりますが、お付き合いください。 また「嘘をつかない。誤魔化しに逃げない。」ということも誓っておきます。 ―――――――――――――――――――― まず、お二方とは決定的に違うであろう点があります。 それは私が「色覚異常者」であるということです。 この画像をご覧ください。 http://i1.wp.com/www.j-elpis.com/wp-content/uploads/45e2c81c.jpg 私は左上から順に12、見えない、70、   左下から順に17、見えない、5という風に見えます。 お二人はどう見えますか? ちなみに、女性の場合、たとえ親が色覚異常であっても症状はほとんど出ないそうです。 女性の色覚異常者というのは物凄く珍しいことだそうですよ。 私は茶色と緑の区別ができません。 小学生の頃、よくモスグリーンのトレーナーを「茶色の服」と言って母に訂正されました。 よーく目を凝らして見ると少し緑っぽいかなと思うくらいです。 山は土の色と変わらない茶色に見えて、紅葉もほぼ茶色ですね。 いつもとほとんど変わらないので、何が綺麗なのかさっぱり分かりません。 後は、麻雀のピンドラを間違って振ってしまうってことがしょっちゅうありますw 父から受け継いだ目です。 父も重度の色覚異常を持っています。 母は私が小さい頃のお絵かきの色使いを見て、検査前から感づいていたようです。 (そういえば色覚検査って小学四年生の時にやっていたんですが、今は差別に繋がるとかでやってないんですよね…。ちょっと心配になります。) こういった目を持っているので、私は長らく自分の認知に自信を持てませんでした。 色だけでなく、形や光彩までも本当は違って見えているんじゃないかとまで考えるようになりました。 「どうも他人の見えてる世界と私の見ている世界は違うらしい。」 そんなことを漠然と感じながら育ってきました。 ―――――――――――――――――――――― 私が詩に辿り着いたのはつい最近のことです。 それまでは散文に挑んでいたのですが、どの作品を読んでも、本音で語っている気がしませんでした。 「何でプロットを重視して、言葉遣いをこんなに犠牲にするんだろう」 いつもイライラしていました。 本屋を何時間もうろついては溜め息をついていました。 半年前、ふと萩原朔太郎の「猫町」という本を手にとったんです。 この時の喜びようは語りつくせません。 「やっと見つけた!一切誤魔化してない本!」 鳥肌が止まりませんでした。 実は彼が詩人だったということを知らなかったんです。 それほど、私の中に詩というものは意識されていなかった。 珍しいかもしれませんが、私は彼の詩ではなく、散文に惚れたんです。 彼の散文を見て、思いました。 「そうか。彼は詩人だから嘘をつかないのか。」 そして、彼の真似をして、私も詩を書き始めました。 すると、「感覚を言葉で写す」ことはある程度は可能なんだなと気づきました。 これだったら、文法に捕らわれなくていい。 それだけで胸がスッとする思いでした。 これは今になって気づいたことなのですが、目の不自由な方は音や匂いや触感に敏感になるといいますが、私も、目は見えていながらもそれを信じることは危うさが常に付きまとったので、どちらかというと音や匂いや触感に敏感な傾向があるようです。 特に音に対してはかなりこだわりが強いです。 そして、欠けている色をどこに求めたかというと「書き言葉」に求めたようなのです。 書き言葉で「緑」と書いてしまえば、お互いそれぞれの「緑」を連想しますよね? それが多少アバウトであってもいいというところに、私は救われました。 ―――――――――――――――――――――― 次第に、色の名前を直接使うのではなくて、言葉自体で連想される「色」というものにこだわるようになりました。 きっかけは、朔太郎が書いた「郷愁の詩人 与謝蕪村」という本です。 「自分は和歌が好きで、俳句は馴染めなかった。しかし、与謝蕪村は好きだった。彼の俳句は和歌的だったから。」 と述べた上で、次のようなことが書かれています。 (引用) 即ち一言にして言えば、蕪村の俳句は「若い」のである。丁度万葉集の和歌が、古来日本人の詩歌の中で、最も「若い」情操の表現であったように、蕪村の俳句がまた、近世の日本における最も若い、一(ひとつ)の例外的なポエジイだった。そしてこの場合に「若い」と言うのは、人間の詩情に本質している、一の本然的(ほんぜんてき)な、浪漫的な、自由主義的な情感的青春性を指しているのである。  芭蕉と蕪村とは、この点において対蹠的(たいせきてき)な関係を示している。もちろん本質的に言うならば、芭蕉のポエジイにもまた、真の永遠的の若さがある。――すべての一流の芸術は本質的に皆若さを持っている。その精神に「若さ」を持たない芸術は、決して真の芸術ではない。特に詩においてそうである。――しかしながら芭蕉は、趣味としての若さを嫌った。西行(さいぎょう)を好み、閑寂(かんじゃく)の静かさを求め、枯淡のさびを愛した芭蕉は、心境の自然として、常に「老(ろう)」の静的な美を慕った。「老(ろう)」は彼のイデア――美しきものの実体観念――だった。それ故に彼の俳句は、すべての色彩を排斥して、枯淡な墨絵で描かれている。もちろん僕らは、その墨絵の中に訴えられている、詩人の深い悩みと感傷とを感ずる故に、それは決して非情緒的ではないけれども、趣味としての反青春的風貌(ふうぼう)を感ずるのである。しかるに蕪村は、彼のあらゆる絵具箱から、すべての花やかな絵具を使って、感傷多き青春の情緒を述べ、印象強く色彩の鮮やかな絵を描いている。  それ故に芭蕉の名句は、多く皆秋の部と冬の部とに類属している。自然がその艶麗(えんれい)な彩筆を振(ふる)う春の季節や、光と色彩の強烈な夏の季節は、芭蕉にとって望ましくなく、趣味の圏外に属していた。これに反して蕪村の名句は、多く皆春と夏とに尽くされている。 (引用終わり) 萩原朔太郎は芥川龍之介とお友達でした。 芥川は「芭蕉の句が好きで、蕪村は好きではない」と言ったそうです。 朔太郎と芥川、二人の作風を比べると頷けるところがあります。 実はこれが、「お星さま」と「虚ろ」で表現したかったことなんです。 同じ中身で「お星さま」では蕪村のポエジーを、「虚ろ」では芭蕉のポエジーを『対蹠的』に表したかった。 「星が見えないと思えることは  なんと素直な心だろう  この昼間  この空の下」 先ほど、「色だけでなく、形や光彩までも本当は違って見えているんじゃないか」そんな不信を持ったといいました。 これを昼間の星とすると、「本当は星は光に隠れているだけで、その裏には広い宇宙が広がっていて…云々」と『考えて』しまっている状態です。 しかし、それは後付けされた知識であり、大人の考え方であり、決して素直な心ではない。 名前を忘れましたが、ある教育学者が「私たちは花ざかりのうるさい混沌の中に生まれた」と言っていました。 この昼間の黄色、空の青をはっきり見ること、そしてそれを疑わないことが素直な心だろう。 『無碍』だろう。 そう思った、昨日のことです。 これに「お星さま」という題名をつければ、何も知識を入れていない子どもの純心を、ポジティブに羨望することができる。 「お星さまは夜に見えるものであって、昼にお星さまはない」と信じて疑わない無邪気な心。 とても微笑ましい光景だと思います。 (正直、「おほしさま」と「お星さま」で迷ったんです。 「御星様」でないことは確定だけど、私の年齢的に「おほしさま」は少々わざとらしい感じがしました。 かつ「星」が漢字であることで「日が生まれる」とかそういった無用な考えもやっぱり起こしてしまっている自分がいることも含めたかった。 子供心と今の自分をひっくるめることができるのは「お星さま」だなと思いました。) では「虚ろ」はどうかと言えば、悲観が背景にあります。 今の自分と比べて、子供の純心性を悲しく遠い視点で羨望している。 「かつて私もそうだった。でも今は違う。」という悲観です。 「この昼間」「この空の下」に色はない。 虚ろな目ではその色は見えないのです。 ―――――――――――――――――――――― お二方はこの二篇を「コンセプチュアルアート」だとおっしゃっていますが、多少の違和感があります。 私は現代アートの必要性がよく分かりませんし、そこまで強く自分の作品を主張したいわけではありません。 と同時に、自分がウォーホルと同じことをしているとも思いません。 正常な目であれば、ウォーホルの絵は単に色彩が違った絵だろうと思います。 しかし、私はウォーホルの並べられた絵を見る自分の目、認識をやはり疑っているのです。 普通の目と私の目ではきっとこの色彩の差異すら違っているんだろう、そう思います。 そして普通の目から見る光景を想像します。 その色はどんなものだろう。 しかし、私にはやはりこう見える。 この「想像と認識の対立」をウォーホルのようにビジュアライズしたところで、私にとっては全く意味がない。 表面的には色がない「詩」という形式を取らなければ、私の想像と認識のそれぞれの着色は成り立たないのです。 コンセプトという言葉、好きではありません。 いかにも骨組みだけ抜き取ったような印象です。 私はやはりポエジーと呼びたい。 そしてそれが瑞々しくあるのだとしたら、この2篇はそれぞれが独立しているもので、「比較してみてもいい」というだけです。 それは昔の人のポエジーを拝借して書いたものです。 しかも、すでに萩原朔太郎が指摘をしているものです。 私の色覚異常の目にはそれが新鮮に映ったというだけなんですよ。 これまで私がB-Reviewに投稿した詩を見てもらえれば多分分かっていただけると思うのですが、山本琴煢としてのポエジーは全て一貫しているつもりです。 合わせて、ジャンブリーズさんの詩評も読んでいただけるとより私の詩感が分かりやすいと思います。 それも含めて汲んで頂けるかは読者次第でしょう。 今回投稿した2篇を「同じ詩だ」と捉える人もいるかもしれません。 別にそれでも構いません。 ただ、もし山本琴煢を辿ってくれる人がいるならば、これは違う詩だと気づいてもらえるかもしれない。 そんな期待を込めました。 6月分はもう投稿しない覚悟で。 私はここでしか活動していません。 後から振り返った時に明らかに一貫したポエジーが残っていること、それが次の作品に反映され、私はこう進んだという軌跡が見えること、それが私の理想です。 褒められたり、目立つことを優先するのではなく、たった1人でいいから無謬の共感を感じられるような詩を私は書いていきたい。 そのためにここに投稿させてもらっています。 正直、自分のみで新しいことをしていると思っている人間、またはしようとしている人間、嫌いなんです。 「それは違う。組み合わせが変わっただけだ。その基礎は伝統が磨いてくれたものだ。」そう声を大にして言いたい。 私はまだまだ昔の人に習いたいと思っています。 ちなみに私が本物だと思える芸術家は、前原冬樹さんです。 彼の彫刻は本当にすごい。 かつ『詩題』があるのです。 彼の彫刻は全くもって詩だと思います。 ―――――――――――――――――――――― 以前荒れたという「はるのつき」という詩も読ませていただきました。 私だったら、この詩に二つの題名はつけません。 「うさぎ」という題名の一篇にするでしょう。 彼のコメント欄の対応を見ていると荒れない掲示板を保守している運営側が怒るのも仕方がない。 しかし、少し気になる点があります。 この詩の後半になって色が強調されている点です。 「ゴッホ」、「お母さんの色、ジャージ鰐みたいな色だなぁ」「空に浮かぶ頃には、この色もっと澄んだ色になるといいな」「これからもどうか穏やかな色をお与えください」という部分。 ゴッホは色覚異常であったと言われています。 よりゴッホの目に近い色彩で絵を見れることは、色覚異常者が唯一誇れることかもしれません。 このサイトは分かりやすいと思います。 http://asada0.tumblr.com/post/11323024757/%E3%82%B4%E3%83%83%E3%83%9B%E3%81%AE%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%94%E3%81%95%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%97%A5 そして、「鰐みたいなジャージの色」 ワニというのが気になるのが、赤緑色弱であれば、この色をどう表現したらいいか結構迷うのではないかと思うのです。 一番苦手な色だと思います。 そこに焦点を当てているのは何らかの意図があるのではないでしょうか。 「空に浮かぶ頃には、この色もっと澄んだ色になるといいな」 「これからもどうか穏やかな色をお与えください」 この部分は私はシンパシーを感じざるをえません。 彼には色覚異常があったのかもしれないと推測します。 男性の8%はいますからね。 もしあるのだとしたら、題名を2つにしたことにも頷けるかもしれない。 そして、彼は語り尽くすことは無粋だといいながらも、本当は自分でもどう説明すればいい分からなかったのではないでしょうか。 だから詩を選んだ。 昔は良い意味で使われていた「忖度してくれる場所」が、現代にもどこかにあると信じて求めた。 そんな感じがするのです。 よろしければ、覚えているなら、もう一つの題を教えてくださいませんか?

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山本琴煢
(2018-06-08)

ああ、「点があるのかないのか」という違いだったんですね。 すみません、見落としてました。 それだったら2題にする必要性はないと思いますし、運営さんが怒るのも仕方ありませんね。 花緒さんがとった行動は正しいと思います。 そういうポエジーを理解してもらいたいなら、誠実であるべきだと思います。

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藤 一紀
(2018-06-08)

こんにちは。「いつ、どこで、どのような状況で、詩にぶつかったか」や「詩というものをいかに考えているか」という詩意識の問題については、それぞれの書き手また読み手によって異なるし、問いつづけていくものだと考えますので、そこには触れませんが、今作に触れて、思い浮かんだ作品がありますので、参考まで。 「誕生」へ        入沢康夫  1 競争原理 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  2 泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  3 触媒(自己正当化) まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  4 放棄の道徳 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  5 盗奪的牧歌 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  6 「実践」といふ名の欺罔 まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。  7 メスメリズム まつくらな画面。岩に砕ける波頭だけが見える。 (以下12まで異なる小題と《まつくらな~》が続く)  13 真の泉の探索 まつくらな画面。岩に砕ける波頭さへも見えぬ。 (「続・入沢康夫詩集」、思潮社より抜粋 *カッコ内は藤) 詩作品は句読点の有無や一字空きの有無などによっても、全く異なるものになってしまう、という入沢氏の作品をこのように一部省略して抜き書きするのもいかがなものかとは思いますが、ひとつの、そして同一のテキストが、複数のタイトルの各々と並べられた状況において、異なった意味合いやイメージを読み手に喚起することはありますし、そもそも言葉が、それ自体としては独立していて、語られる文脈によって異なるものですので、書かれた角度が違うのだろうと思ったのですが、先の入沢作品のように「小題とテキスト」という方法もあったかもしれないと考えた次第です。その方がそれぞれの同一テキストが独立していることを示すこともできるし、それ以上のこともできると思います。各々の作品を別々のものとして、つまり、関連性のないものとして、独立させて読んだ場合、「ああ、わかるよね」「まあ、そうだよね」くらいの印象にとどまりました。あとは、「うーん、もったいないな」とか。ひと作品のなかに小題として二つのせてみてもアリだったのでは、ということです。それでは何かしら違うと思うのであれば、違う仕方を突き詰めることもできたのではないかと。 ではでは。

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山本琴煢
(2018-06-08)

藤一紀さん、コメントありがとうございます。 仰る通り、「小題とテキスト」という選択肢もありました。 しかし、私は、それこそコンセプチュアルアートと変わらないではないかと思ってしまったのです。 1人の中である対立が完結してしまっている。 私が重視したい点、それは蕪村と芭蕉の伝統的なポエジーはどうしても別物だということです。 それを同じ詩の中に並べてしまえば、両者怒るでしょう。 萩原朔太郎と芥川龍之介が何のために議論を交わしたのか分からなくなってしまう。 どっちを先に書くかということでも揉めそうですね 並べてかけば、順番はついて回りますから。 私の感覚の上で二人のポエジーが直交したことは間違いないですが、だからと言って一緒くたにはできませんでした。 だから、別作品にしました。

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山本琴煢
(2018-06-09)

花緒さん ご理解いただけて本当にうれしいです。 頑張って説明した甲斐があったと思います。 受け手と書き手の交錯は紙一重だと思います。 特に詩は・・・一人の視点で全体を見るということは難しいと思います。 花緒さんはじめ、キュレーターの方々がどれだけ苦労しているか、痛み入ります。 しかし、この掲示板を立ち上げてくれたのは花緒さんなので、花緒さん自身の詩感を大切にして詩評するというのは、前提として大事だと思います。 そうじゃないと、負担が大きすぎるし、病んでしまうでしょう。 そこを補完するのはやはり、書き手の義務だと思うのです。 少し不安なのが、これだけの説明を尽くしても、「それこそコンセプチュアルアートだ」と言われてしまうと、私はお手上げです。(笑) それほど抽象的な話ではあると思います。 ご指摘のおかげで、私も色々と整理がついて感謝しております。 今月は鑑賞に専念させていただきますね。

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かるべまさひろ
(2018-06-11)

コメントも含めて、『虚ろ』『お星さま』ともに拝読させて頂きました。 一年前の出来事も含めて、結果的に読む量が多くて、どのようにコメントするか、悩みながらです。 2篇の詩のタイトルが大きく違うので、「ポエジー」を2つ表そうとしているのはコメントを読む前より感じておりました。 視覚の話、共感している箇所もあります。 僕は反対に、今でも将来誰かと脳や視神経をつながないと、「自分に色覚異常がない」ことを信じられないでいます。(ちなみに色覚異常の遺伝子を僕は持っている可能性が高いので、自分の精子でヒトをつくるとそのヒトに発現する可能性がある点では、色覚の話題は身近でした。) さて、2点述べます。 ・別作品とすることに関して思ったこと ・内容について思ったこと まず、別作品とすることに関して思ったことですが、 なんか、2つの作品が別々に旅立っていって、いつかドッペルゲンガーとして出会ったりして欲しくなったり、 いやむしろ生き別れずにずっと双子の家族仲良く全うしていって欲しいような、 それぞれを個とした思いは、感じました。 ただ、難しいですよね。これはコメントを読んで感じたところで、 最初2篇を目にしたときは、やはり素敵な中身だけど、それぞれにどこまで意図があるのだろうかと、思いあぐねておりました。 といいますのも、2点目の内容についてですが、 それぞれが描き出しているポエジーが、絶妙なんです。 コメントを読んで、なるほどと、とても腑に落ちたのですが、 一読すると、「非対称」な「虚ろ」と「お星さま」という言葉から、 「対称」を見出そうとしてしまうのです。 最終的に、描いたポエジーが「対蹠的」であるということでなるほどとなるのですが、 たぶん、蕪村と芭蕉が完全に「対蹠的」とは限らないような、そういうところを突いているからかなと思いました。 突き詰めると難しくなってきて、 果たして、この 「星が見えないと思えることは なんと素直な心だろう この昼間 この空の下」 は描くのにちょうどよい言葉たちなのかをコメントを読んだ者も考えないといけなくなります。 と思うと、 僕の結論は、 絶妙なポエジーを描く2篇は、ここに連続して投稿されたことに意味があって、 きれいなもやもやを彩っているかと思います。 山本琴煢さんの詩の歴史としての、一つのあるいは二つの点として、 有意義で、一読者は楽しませてもらっている、という所だと思いました。

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山本琴煢
(2018-06-12)

かるべさん、丁寧に読み取っていただきありがとうございます。 同時に、かなりの分量を読ませてしまって、申し訳なくも思います。 そこまで踏み込んでいただいて、大感謝です。 『「虚ろ」と「お星さま」という「非対称」の言葉に「対称」を見出そうとし、解説を読んで対蹠的であることに納得するが、最終的に蕪村と芭蕉が完全に対蹠的とは限らない』という部分、すごく分かります。 180°の正反対ではなく170°くらいですよね。 実際、与謝蕪村の句を読んでいても、色彩があまり感じられない句もいくつかあります。 いや、あまりに淡くてよくわからないという方が正確かもしれません。 この世界は色を使えば、突如に自由になる気がします。 色調、濃淡、明暗など、あまりに自由すぎる。 その分、蕪村を正しく読み解くのはちゃんとした先生がいなければ、かなり難しいことなんじゃないかなと思います。 僕はとりあえず萩原朔太郎の「郷愁の詩人 与謝蕪村」と、芥川龍之介の「芭蕉雑記」をちゃんと体で理解することを今の目標にしています。 この二人はちゃんと散文に詩題を持ち込んでいるので、現代人である僕にも分かりやすいからです。 ―――――――――― 『突き詰めると難しくなってきて、 果たして、この 「星が見えないと思えることは なんと素直な心だろう この昼間 この空の下」 は描くのにちょうどよい言葉たちなのかをコメントを読んだ者も考えないといけなくなります。』 「描くのにちょうどよい言葉たちなのか」 グサリと刺された気分です。 しかし、良い意味でです。 正直、同じ内容でこの二つのポエジーをもっと上手く表せられる人は絶対にいると思うんです。 ゲーテは「君の胸から出たものでなければ、人の胸を胸にひきつけることは決してできない」と言ったようですが、この2篇は間違いなく僕の胸から出た言葉で、そこには自信を持っています。 ただ、誤解を招くようなものしか書けなかったのは、ひとえに「僕の胸がバカだから」としか言いようがありません。 現状の精一杯がこれです。 和歌も俳句ももっと勉強して、感覚と言葉をたくさん繋いで広げていかないといけないと思っています。 多分、やりたいことを自在にやれるようになるには、あと10年か20年くらいかかるでしょう。 もし同じことを上手にやれる人がいたら、素直にその作品を見てみたいです。 ただ、僕はもうB⁻REVIEWに同じような投稿はしません。 今のままでは何回やっても同じことだと思いますから。 それでも、確実な一歩を踏み出せたことはすごく自信になりました。 その一度の危険な投稿を、許してくれた花緒さんには感謝しかありません。 今後は一遍の詩で感覚はどこまで共有できるかということにチャレンジしていきたいと思います。

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まりも
(2018-07-03)

二つ、の作品とコメントを拝読しましたが・・・ 蕪村的、芭蕉的、という詩論的な試みを含めるならば、ひとつの方法として、芸術論のような散文の中に作品を「例」として組み込む、というやり方も面白いと思いました。 個人的には、藤さんのおっしゃる、小題(テーマの提示)と、まったく同一のフレーズ、という組み合わせを併記する、という方法が、読者にとっては分かりやすいというか、作者の意図が伝わりやすいのではないか、と思いました。 他方・・・作品がどのように受け止められても良い、あるいは、どのように受け止められるか、その可能性を知りたい、ということであるならば・・・題名の欄に、たとえば公募中、と書き、コメント欄で「あなたなら、どんな名前を付けますか」と実際に公募してみるのも面白いかな、と感じました。 一つの作品を、他者がどのように読むか。照明の当て方でも、角度でも、全部異なって見える。それが、作者の見せたい意図から大きく外れる、そのことが気になる場合は、読者がその意図を読み取れるように工夫を凝らすのもまた、読者から作者への要求となるでしょうし・・・どのように読まれても構わない、むしろ、その多様性を知りたい、ということであるなら、あなたはどう読みますか、と投げかけてしまう、というのも一手でしょうし・・・ 「お星さま」一篇だけの投稿であれば、このような議論は展開されなかったでしょうから、結果的には有意義な試みであった、と思いますが、作品として、あえて二つの題名を付けて、二回に分けて投稿することが、効果的であったか、ということになると、あまり効果的ではなかったかもしれない、と思います。 芭蕉、蕪村、それぞれの一面を取り出して対称化する、それもまた比較文学の醍醐味でしょうけれども、その行為自体が、芭蕉と蕪村という多面体の芸術家の、それぞれ、今回の議論に最適な一面を取り出しただけ、という事にもなりかねないので・・・ まあ、コメント欄での話ですから、作品から読者にこれだけの背景を読み取ってください、という要求ではないので、作者としては、そこまで読み取れなくても特に構わない、というスタンスだと理解して読みましたが・・・ 芭蕉的、蕪村的、その大きな極を背景において、それを表に出さずに、作品を書いていってほしいなと思いました。

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