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まりも 
作成日時 2017-11-18
コメント日時 2017-11-25

 

小さく息を吐いて 父の呼吸が止まる あわただしく 訪問 介護の医療チームに連絡を取る 空白の時間 夜陰が押し寄 せてくる 闇をかきわけるように 私の身体が自ずから動き 父に 呼気を 吹きこんでいた ごぼごぼ・・・ごぼごぼ・・・水の音がする(体液が肺を充たして いるのだ)私の深部から黒々と波がせり上がり 波濤となっ て砕け散る あふれ出すものが逆巻いて すべて一息に押し 流し やがて内も外もない ひとつの大きなうねりの中に  ゆっくりと溶けていった 視界がひろがっていく 鈍色の海原 灰色の海霧の向こうに 白く輝く明るみがある 潮の満ち干が穏やかに時を刻む な めらかな響きに耳を傾け 現出した明るい海原に 両の眼を 馳せる まだ温かい肉体は 物質であって父ではない 父は あの明 るみの中に居る 凪いだ海の上を安らぎが渡っていく ごぼ ごぼ・・・ごぼごぼ・・・水の音と共に かくされていた海があら われ 私をひたひたと充たしていく しめやかに開かれた場 所 失われていくものと失われないもの 物質界を包みこむ 大洋の気配 人は海に還る いずれあの光源の先へ 万物は吸い寄せられ ていく 数年数十年のずれは 大洋の中では時を失う 現世 で肉体の為した事柄が 火花のように舞い飛んでいる 波頭 に踊るきらめきとなって 大洋の面に虹色の光の粒をふりま いて やがてあの光源に収斂していく 凪いだ海の去り果てたのち 静かに 横たえられた肉体は 安らかに 時を止めていた 海はまだ 私の中でゆれている


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花緒 (2017-11-18):

とても上手いのだと思う。よくできた一作だと思う。おそらく公に評価される類の一作なのだろう。だが、私は、この種の作品、すなわち、肉親の生死のような、否応なく人の感情を強く惹起せずにはいられない事柄を中核に据えた作品には、強い疑義を覚える。現実に詩が勝てないだろうと思ってしまうのだ。本作を読むことは、あるいは書くことは、現実の父の死に直面することによて避け難く生じる感情や心の揺れ動きの100分の1にも到達しえないだろう。それは本作の出来が悪いということではなく、技巧が優れていればいるほど、いずれにせよ現実を決定的に矮小化せざるを得ないことを受け入れているという意味で、冒涜的なのではないかと感じてしまうのだ。元来、文字を書くと言うことは、書かれる対象と、書かれる言葉とのズレを受け入れると言う意味で、全て冒涜的と言える一面があるが、こうした性質を自覚せず、<真面目に>描くことの冒涜を感じる。まあ、こういったコメントを、いわゆる老害クレーマー的とでも称するのかもしれない。華麗にスルー頂けると幸甚。

クヮン・アイ・ユウ (2017-11-18):

作品を読み終えると、波が行き来している風景を遠くから眺めている人のイメージが浮かびました。波は穏やかで、数秒のシーンをえいえんにループして再生している映像を見ているような感覚さえします。 直接詩作品とは関係がないのかも知れませんが、初読時から前述のイメージがすっと入り込んで来て、それが未だに流れている事実をどうしても書いておきたかったです。 >>「ごぼごぼ・・・ごぼごぼ・・・」という表記に言い難い怖さを感じました。そしてそれはとても大事な感覚なようで、怖くても何故か見つめ続けていたいと思われました。 >>「小さく息を吐いて 父の呼吸が止まる あわただしく 訪問 介護の医療チームに連絡を取る 空白の時間 夜陰が押し寄 せてくる 闇をかきわけるように 私の身体が自ずから動き 父に 呼気を 吹きこんでいた」 こちらの冒頭の表現が素晴らしく(私が言うのも恐縮ですが)、この詩を読もう、読みたいと決定づけさせる衝撃を受けました。特に、「夜陰」が押し寄せてからの一瞬の暗転と言いますか、間が入れられた(と感じられる箇所の)後に、「呼気を 吹き込んでいた」という半ば自動的なからだの動きを感じさせる表現が素晴らしいと思いました。 さいごに作品全体の形についてですが、PCで見ていると、一枚の波の壁と言いますか、水量の多さやその重さを感じました。 勉強になりました。 ありがとうございます。

survof (2017-11-18):

具体的な描写が多いことで逆に表現としては作り物っぽさが増してしまう、深く迫ってくるものが薄まってしまう、そういうこともあるのかもしれません。あるいは表現しようとしていたことが幅広く、このボリュームでは納まらない(もしかしたら少なくとも短編の小説とかエッセーくらいのボリュームが必要なのかもしれない)ということなのかもしれません。それぞれのパーツが繊細で深みを持つ感情や感覚、もしくは思考を扱っているにも関わらず、そうした繊細さが具体的な描写によって損なわれてしまっているような印象を受けました。日常の「死」と思想としての「死」が同時に語られていて、それをうまく交差させて読めないもどかしさがあります。おそらくまりもさんの思想のなかでの「死」の観念(例えば5連目に垣間見えるような死生観)と私の死生観が大きく違うせいもあるのかな、とも思います。ただ、人が呼吸をやめてからやがて朽ちていくまでの宙吊りの状態に鋭く反応するまりもさんの感性には大いに共感するところがあります。

まりも (2017-11-18):

花緒さん、クヮン・アイ・ユウさん、survofさんへ 重なる部分も多いので、御三方への返信としつつ、多くの方にも議論に参加していただきたいと思います。 詩や創作文芸はフィクション、虚構である、ので、この作品の中で亡くなった父と、現実の私の父、が同一人物であるかどうかわからない。つまり、いかに「現実に起こった事件」のように描かれていたとしても、それが、事実であるとは、限らない。作品中の「わたし」も、作者その人であるかどうか、わからない。花緒さんと、この点を、まず、共有したいと思います。その上で・・・ 死の悲しみとか、死をめぐる観念とか、死後の世界というものに対する死生観のようなものが、他者に伝わる表現となっているかどうか。なっているとして、それが効奏しているか、ということになるかと思います。 花緒さんの「現実に詩が勝てないだろう」「技巧が優れていればいるほど、いずれにせよ現実を決定的に矮小化せざるを得ないことを受け入れている」そしてsurvofさんの「具体的な描写が多いことで逆に表現としては作り物っぽさが増してしまう」「日常の「死」と思想としての「死」が同時に語られていて、それをうまく交差させて読めない」という指摘は、非常に的確で、ありがたい、大切なご指摘だと思いました。 本作は、実際に父が亡くなった時のことを書いています。いわゆるドキュメンタリーとして描いている部分と(言葉のリズムなどで、詩、に引き寄せようとはしているけれども、フィクションというよりはノンフィクションに近い部分)人は死んだら、どうなるのだろう、どこに行くのだろう、死後の世界を見てみたい、想像で作り上げた世界であったとしても、その中を冒険してみたい、という日頃の願望を満たすために描き出したフィクションの部分とを、組み合わせる形で書いています。 死、という絶対的な現実を、ドラマティックに演出するためには、どうすればいいか、と頭を巡らして「創作」している部分と・・・実際に父の死の際に聞いた、「ごぼごぼ」という水音、ああ、この人はもう戻ってこない、という感慨、自動的に(クヮンさんが「半ば自動的なからだの動きを感じさせる表現」と指摘してくれた部分)体が動いて、人工呼吸の真似事をしていた時のこと、それから、恐らくは慣れない人工呼吸で酸欠になり、目の前がぼーっと白く霞んで見えたこと。その後、父が死んで、そこに横たわっているのに、まるで「悲しみ」が湧いてこなかった不思議(嫁に行って以来、父とは離れて暮らしているわけですが、そうした日常的な別離の感覚と、まったく同じ感情しかわかなかった、という事実)をどう、自分の中で解釈したらいいのか・・・葬儀の時も、柩を火葬場へ送りだす時には、少しは涙が出たような気もしますが、ぜんぜん、「かなしい」という気持ちにも「さびしい」という気持ちにもならなかったこと、その不思議を、どう解釈したらいいのか・・・ということを、17年間、考え続けている、のだけれど・・・父が、肉体としては死んだけれど、離れたところで、別に生活している、という感覚が抜けない。ならば、その「感覚」こそが、「自分にとっての真実」だと思うことにしよう。父、は、この世から、少し違う場所に移っただけで、死んではいない、肉体が滅びたに過ぎない、そういう自己解釈を、自らを納得させるための「仮の結論」として用意して、この作品を「創作」した、ということになるでしょうか。 まだ存命の「母」が亡くなったことに替え、私、を「僕」に替え(異性間での人工呼吸という行為に、タブーに触れていく快感を喚起されるだろう、という前提のもとに)性別を変えてみると、どうなるか。(もちろん、同性間でも恋愛感情がわくこともある、ので、あくまでも一般的なエロス、への働きかけ、ということになります)・・・特に、花緒さんの問いに対して、ということになりますが、 そのように、「死」という現実を「利用」して、なんらかの思想や詩想を創作することは、「死」に対する、冒涜ではないのか・・・という問いかけであるなら、まさにその通りなのですが、「死」を、いかにも現実らしく、徹底したドキュメンタリーとして「誠実」に描くことで読者の感情を動かそう、とすること、それ自体に「強い疑義を覚える」のであるとすれば、それは違うのではないか、と思います。 作者にとっても、読者にとっても、感情を強く揺さぶられる出来事、として、「死」は動かしがたく存在していますし、万葉集の時代から、哀悼、追悼という形で、死は歌われてきている。 問題は、「他者の死」を哀悼する、事実として述べて、その際の作者の裡に起きる情動と同様の強度を持った感情を、他者の裡にも喚起する、それを言葉の力で行おうとする、という欲動と、「死後の世界」を体験してみたい、というような作者の好奇心、読者の好奇心を満たしたい、という欲動、その両者を、現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為が、成功しているのか、どうか。 成功していないから、つくりもの、のような感情や、あえてドラマティックに盛り上げていくことで、作品を「創作」しようとする手つきの方が目立ってしまって、作者の心情に添っていくことが難しくなっている、ということ、ではないのか・・・というのが、花緒さんやsurvof さんのコメントを読みながら、考えたこと、でした。実を言うと、伊東静雄賞に提出して、佳作は得たものの、本賞の受賞は逃がした作品です。おそらく、審査員の方も、こうした「死」という現実を描く際のわざとらしさや、現実の死と、創作の死後の世界とを結びつける手つきといった部分に、違和感を感じられたがゆえの落選ではないか、という気がしました。 たとえば、白血病で余命いくばくもない恋人との残された日々、という物語を設定したとして、それをいかにも現実らしく書いて、他者の「涙を誘う」作品に仕上げた、として・・・死とはなにかとか、哀しみとは何か、といった、大げさな言い方ですが、実存的な問いを問う作品なのか(俗に言う、純文学を目指しているのか)泣きたい、感動したい、刺激を得たい、他者の人生を、ある一定の時間、仮に生きてみたい・・・という読者の欲求を満たすために書かれた、エンターテインメント作品、であるのか。 作者側の制作意欲を主とするのか、享受する側、読者の側の体験意欲を主とするのか、と言い換えてもいいのかもしれないけれど・・・もちろん、分離不可能な問いですが・・・ 死、は、生者にとっては未体験の出来事ですから、想像力を駆使して体験してみたい、と思うし、それを興味本位に文学作品として描き出すことは、別に不遜でも冒涜でもない、と思っています。問題は・・・現実に他者の死(それも、身近な、大切な人の死)と出会い、打ちのめされたり、喪失感から立ち直れなくなったりしたときに、死後の世界を夢想することで少しでも救われたり、立ち直るきっかけになったり・・・生きて行く意欲が得られたりする、のであれば、そのためにこの作品を役立てたい、と思ったりする(実際には、自分がいかに、死を消化し、死を了承するのか、その自問自答を、作品として提出しているわけですが)心性なのかな、と考えたりもしました。 クヮンさんが、映像を見ているようだ、とコメントしてくれていますが、そこは意図した通りです。うまくいっているようで良かったな、と思います。他方、現実の死、という題材で、死後の世界を夢想する、その空間世界に無理やり結びつける、そこは、成功しているのか、どうか・・・現実の死、とは別個に、自分が死後の世界を探訪する(ダンテみたいに)好奇心に満ちた旅行のような書き方であれば、違和感なく、楽しんでもらえる作品になるのか。徹底してドキュメンタリーの手法、写実の手法にこだわり、寡黙で感情を抑制した筆致で、他者の裡に、自身が感じ取ったと同様の強度の感情を喚起する、その手法が、もっとも妥当、なのか・・・問いは尽きませんが、長くなったので、ひとまず、このあたりで。

くつずり ゆうくつずり ゆう (2017-11-19):

まりもさま 人が産まれること、死ぬことは立ち会った者や経験した者だけが言葉にし得るであろうと思いながら読ませていただきました。 冒頭、引き込まれていく写実的な表現に対し、末尾は柔らかさを帯びるとともにクエッションマークが浮かんでいるような印象を受けました。 読者への問いかけなのか、作者が自らへ問いかけていらっしゃるのか。 まだ温かい肉体は 物質であって父ではない  この部分がいちばんすきです。

沼尾奎介 (2017-11-19):

「海はまだ 私の中でゆれている」の一文が良いです。余韻があって。父の死を題材にしてますが、感情を抑えて書いているので痛みや悲しみは薄く感じました。だけど、消えずに残るものだと思いました。 冷静で俯瞰的な眼差しですかね。 個人的な考えですが、死を利用して表現するのを冒涜だとは思いません。試みるのは賛成です。 フィクションで知古の死を、詩の形で書かれても響きませんが。

田中修子 (2017-11-19):

感想ですが、作品自体は、私は、あまりよくわかりませんでした。 (とことん好き嫌いで見るだけなので、批評に向いていない~すみません) でも、「多くの方にも議論に参加していただきたい」ということで。 まりもさんのこの詩を書かれた動機『「他者の死」を哀悼する、事実として述べて、その際の作者の裡に起きる情動と同様の強度を持った感情を、他者の裡にも喚起する、それを言葉の力で行おうとする、という欲動と、「死後の世界」を体験してみたい、というような作者の好奇心、読者の好奇心を満たしたい、という欲動、その両者を、現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為が、成功しているのか、どうか。』とすれば、私には、成功していないかな、と思います。 ただそれがなんでなのかちょっと分からない。 あ、もしかしたら、「海」は母を感じさせられるので、「父の死」と私の中ではまったく結びつかないのかもしれない。と、ふっと。 海の描写が多ければ多いほど、なんとなく、母について書いたものだろう、と思ってしまう。 母の死であったら、自分の中に入ってきたかもしれません。 父を連想させるのなら、太陽が落ちたとか天空が真っ暗になったとか、そちらの方が納得いくような気が、私はします。 でもこれって、ちょっと(かなり?)歪んだ読み方ですね。 なんとなく、参考になれば!

まりも (2017-11-20):

くつずり ゆうさん 沼尾奎介さん 田中修子さん コメントありがとうございます。事実を書こうとしたとき、結局書き手の一面的な見方でしか、書くことができない。過去の出来事を「思い出して」今の時点に引き寄せて書こうとすると、知らず知らずのうちに、それまでの経験や体験が加わって、意図したものでなくても「脚色」してしまう。息子が交通事故にあった時も(軽傷でしたが)証言者、運転手、息子の証言が、当事者であるにも関わらず、すべて食い違ったのでした。断片をひとつの「物語」として繋げてしまう、そうしないと「理解」ができない。人間には、そういう性向があるのかもしれません。だったら、フィクションにまで拡げてしまっていいじゃないか、という思いにもなるのですが(ノンフィクションで描いたとしても、虚構や脚色が入り込むのであるから) くつずりさんのあげて下さった〈まだ温かい肉体は 物質であって父ではない〉は、もしかしたら、自分でそう言い聞かせたかった、自分で自分を納得させたかっただけなのかもしれない、そして、他者に同意を求めたかったのかもしれない、そんな気がしてきました。 沼尾さんの〈冷静で俯瞰的な眼差し〉、ありがとうございます。当事者でありつつ、第三者的な視点で書こうとしていたかもしれません。事実をドキュメンタリータッチで、抑制して記す。徹底的に写生的技法にこだわる・・・私の知る範囲では、苗村吉昭さんなどが、こうした技法で優れた作品を残しておられるわけですが・・・他者を自分ひとりの空想空間に引きこむのに必要な迫真性と、事実として肉体が体験したこととの間の乖離について、改めて考えたいと思いました。 田中さんがおっしゃるように、〈現実を描いた、というシチュエーションで結びつける、という行為〉が、果たして成功しているのか、どうか・・・海の女性性と父の男性性、これは考えていませんでした。なるほど・・・太陽は、父の暗喩に良く用いられますよね。アポロンが男性だから、かもしれない。天照やケルト神話ではたしか女性だった、などなど、文化によっても色々あって面白いです。大日如来は男性なのでしょうけれど、仏像を拝見する限り、ほとんど中性。天使は中性であるらしい。田中さんの案を拝見して、「蝶墜ちて大音響の結氷期」という俳句を思い出しました。

斉藤木馬 (2017-11-20):

冒頭からの緊迫感あふれる描写に導かれ、解かれるように内的世界へとつながっていく、その様と展開に引き込まれました。 しかし四連冒頭、 <まだ温かい肉体は 物質であって父ではない という箇所がやや説明的に感じられました。「父でない」ということは <父は あの明るみの中に居る という描写で十分伝わると思うからです。 重要な一行であるだけに、わたしにはそれまでの切れある流れが滞ったように感じられて、続く四連も冗長な印象を受けてしまいました。それだけ前半の完成度が高いのだと思っています。

まりも (2017-11-21):

斉藤木馬さん コメントありがとうございます。自分が「体験」したこと・・・現実世界で、ということだけではなく、他者にはうかがい知れない、非現実世界、での「体験」も含めて・・・を文字に書き起こして、伝える事、それをやりたいのかもしれない、最近、そう思うようになりました。 恐らく前半から〈あの明るみの中に居る〉という、自己中心的な了解まで含めて、そうした「体験」を描こうとしているのだとは思いますが、〈まだ温かい肉体は~〉の部分は特に、自分自身が、父は死んでいないのだ、と死を拒否しようとしている、そのための「言い聞かせ」だったのかもしれない、と、考えたりしています。結局、なんだかよくわからない、でも「たしかにあった」出来事を描こうと腐心しているわけですが・・・おそらく、まだこれから、何年も、書き直し続けることになる、そんな気がしています。

るるりら (2017-11-23):

おはようございます。 わたしも 父の死に際して 詩を書いたことがあります。 死と対峙すると、その人の 死生観が大きく変ります。とくに肉親の詩は 人生観に大きな影響を与えます。わたしの場合は 臨終に際しての詩と、時間がずいぶん経過したあと、『人は海に還る』というイメージの詩を書きました。大切な方の死と対峙した言葉は、ほかの方も 是非書くべきと 私は考えます。 この詩を拝読して、私自身が臨終の私の父に人工呼吸をして 蘇生させようとしている状況を想像しました。涙がでました。私の脳内で、ごぼこぼという音も再生できました。お父さまと 主人公の関係が 美しいです。畳の上で死ねたこと 親子の距離がとても近いことが 美しいです。 わたしの父が亡くなった時、わたしも泣けませんでした。 わたし自身も まりもさんと同じように どうしてなのかと 考えたことがあります。 涙が流れたならカタルシスが生じたはずですが、泣けませんでした。 この詩を読んで 泣けたのは ありがたいことです。 肉親の死を描くことは 私自身にとって必要なことてしたので、まりもさんにとっても必要なことであったのだろうと思います。レス欄に詩には虚構も含まれていることがあることを書いておられますが、死後の世界への道を ただしく知っている人は いません。お父さまの体の中の水音は、 人が海から来た証拠と言えなくもないです。わたしの場合は 虚構だとは思わずに読みました。 生者には聴覚があり 読者それぞれの脳で音を再生させます。 こどものころに おぼれかけたときの感覚に似た恐怖も 思い出して、気持ち悪さも感じました。  死者には もう 恐怖という感情が きっと無いであろうことを思いながら読むと、 光源が見える思いがします。  

まりも (2017-11-23):

るるりらさんへ 貴重なお話し、ありがとうございました。 魂、という「もの」について語ろうとすると、科学者はすぐに眉を顰める、しかし、人間にとってもっともたいせつなものが、そこにあるのではないか・・・0から1までの間に、心と体、がある、として・・・どこかで両者を切り離そうとすれば、必ず何かを取りこぼしてしまう、何かが抜けてしまう、逃げて行ってしまう。そんな、カミソリの刃一枚くらいのところに、魂はあるのではないか・・・正確な言葉ではありませんが、河合隼雄さんが、そんなことを(よしもとばななさんとの対談であったか・・・)記していた記憶があります。そうした不可分の領域に触れていくことのできるものが、宗教(本来の意味においての。既成宗教として、系統立てられたもの、組織だてられたもの、ではなく)や芸術なのではないか。そんな気がしています。

夏生夏生 (2017-11-23):

まりもさん、御作にコメントさせて頂きます。 お父様の死に直面なさったまりもさんの心境、こみあがった感情、より、お父様が自然に還っていく。想像を超えた願い、母なる海に還っていく魂の行方を 描写したような御作にかなしみよりも美しさを感じました。 読み手にかなしみの感情を煽るような描写はなく、無理に感情を押し殺しているわけでもなく、あるがままに、見えたままに、描かれているようで。 読後に不思議な心地良さを感じました。 (感想ばかりですみません…)

まりも (2017-11-25):

夏生さんへ ありがとうございます。感想、感じて、そして想うこと、想像すること、思いを馳せること・・・それが、すべての鑑賞の基本であり、たどり着く到達点でもあると思っています。 かっこ内、まったく、絶対に、ぜんぜん、すっかり、気にすることも、謝ることも、ないですからね🎵


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