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温かな眼差し
《暇》という語には「暇ができたから〇〇をしよう」という「(何かしらしなければならない時間がなくなって)手空きの時間ができた」という意味もあれば、「(時間は空いているが)なにもすることがなくて退屈だ」という意味合いを持っていることもある。それから「なにがなんでもしなければならないわけでもないのにわざわざそれをしている」時に、呆れ返って発することもある。「よくそんなことするな、暇なやつだな」と。これには「それに時間を費やすくらいなら他にすることがあるはずだろうに」といったニュアンスも込められているように思う。 このように《暇》という語は(1)〈手空きで何かしらに充てることができる時間〉、(2)〈手持ち無沙汰で他になにもすることがない退屈な時間〉、(3)〈無駄なことに費やされる時間〉と、時間に関する様々の面をもっており、この作品ではそれらの面を巧く使いながら言葉を運んでいる。 第一連では〈手空きで何かしらに充てることができる時間〉としての《暇》を《土器》や《土偶》作りに活かしたと《わたくし》は考えたのだろう。それが次第に《すごく暇だったからだ》《暇だったのに違いない》とニュアンスを換え、第三連では《暇だったのだとしか思えない》と呆れ返っているようだ。読みようによっては大仏造りだの戦だのに労役として駆り出されたり、被害をこうむった人々からすれば《暇》のひと言で片付けられるのはあんまりではないかと捉えるむきもあるかもしれないが、ここではそうではなく、批判的な目が働いているように思う。 そして四連ではそれらの特徴のうちのどれかが強調されるのではなく、ひとつに溶け込んでいるものとして扱われている。 四連までは歴史から現在に至るまでの、いわば縦方向に伸びる時間への眼差しが働いていると言っていい。しかし、このような長い〈時間〉やその中での出来事は、 >暇と思えばそれまで >すなわち一万年の退屈 とあるように《暇》と言い換えてしまえば、上記(2)のように長い《退屈》とされてしまい、歴史的な時間も自分がそのなかで生きていた時間も、ただだだっぴろい空漠とした時間の広がりとして捉えられてしまうのだ。それはこの先の未来までもつづいている。 だが、そのような空漠とした時間の広がりとして《永遠》とも感じられるような耐えがたい時間を、《傾けるに足る一瞬は//それでもどこかにありはしないか》と言う時、そのだだっぴろく引き伸ばされた時間は具体的な現在時へと集中する。《わたくし》は、 >無防備に真昼間に眠る >妻の寝息を聞きながら とあるように、その《一瞬》を見出す。《永遠》が裏返され、(あなたのいる)《わたくしの》「いま・ここ」を輝かせ、長く伸び退屈に感じられた時間が、現在としての空間を豊かに膨らませるのを見る。であるならば、《わたくし》は《わたくし》の持てる時間を、あたかも有り金全部はたくようにはたかないではいられまい。それというのも、これ以上に他にしなければならないほどの重要なことがあるわけではないし、他から見れば呆れ返られてしまう(だが、少なくとも本人にとっては無駄ではない)ほど、《暇》なのだから。 ついでにいうと、そういうふうに照れ隠しなどもしながら。 《暇》という語を用いながら時間を遡り、引き延ばし、凝縮させる巧さのなかで、現在という豊かな時間への温かな眼差しを感じさせてくれる作品です。
温かな眼差し ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 1179.8
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作成日時 2021-01-21
コメント日時 2021-01-21