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「松も時なり 竹も時なり」
存在は時間であり 時間は存在であると 道元禅師は 『正法眼蔵』(「有時」)の中で提唱している それだけではない 加えて 「松も時なり 竹も時なり」とある これは 驚きである と同時に 深い懐かしさのようなものを覚える 時間とは じつは自然そのもののことなのではないか そして 人間も自然の一部として 自然に還らざるをえない…… ということがある この言葉は その必然的帰結としてのそれではないか 何はともあれ 嬉しいことだ さらに 禅師は言う 「盡界にあらゆる盡有は、つらなりながら時時なり」と これなど ときは飛び去り 流れ去るものという 一般の見解に対する 警告として 手厳しく述べられている 無駄なことは考えずに ただ「つらなりながら時時なり」 と想起すればよい と言っているかのようである 私はただ 蟻の行列を想起することにした 「蟻も時なり」 である ところで 道元禅師は 十三世紀の人である そのことを思うと 言いようのない感慨が 溢れて来る 欧米世界が まともに存在と時間を採り上げたのは 二十世紀に入ってからである その先達は ドイツのハイデッガーであった 彼はそこで 「現存在」という 新たな概念を提起している これは 西田幾多郎の言う「絶対の他」に相当する 自己自身に先立って存在するという それである 私には興味の尽きぬ あまりに大きく深い概念である しかし 私には この現存在の超越的性格が 一体自然と どのような関係を持つのかが 分からない その点 禅師はハッキリと 「松も時なり 竹も時なり」と言っている 私には この違いは 時に対する姿勢のそれだと思う 東洋世界においては 禅宗の影響を受けて 時に対して 脚下照顧的な 垂直的関係を採っているように思われる いわゆる いま・ここ・自己の一点をおさえる 座禅式手法である これに対し 欧米世界の時は いわゆる死に対して覚悟を決めると言った 実存主義的な 水平的関係を採っているように思われる これらの点から 「松」も「竹」も いや 自然そのものの貌が見えて来ない とにもかくにも 一度は 禅宗で言うような 「漆桶を打破する」必要があるのではないか そのときは 「現存在」すら打破されていよう
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「松も時なり 竹も時なり」 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 241.9
お気に入り数: 1
投票数 : 1
ポイント数 : 0
作成日時 2025-11-01
コメント日時 2025-11-01
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


松とか竹っていうのは、見た目もつるっとしているし、割っても音を立てる。その音が時間を秘めていることを連想させるのではないかな、と思いました。連なる蟻、という想像に、とても面白いものを感じました。道元禅師は、偉大な人のようですね。味わい深いと思うので、もう一回取り組んでみたいな、と思いました。
0お読みいただき、ありがとうございます。私にもはっきりとは分からないのですが、禅師が「生きる」ということは「時間」(!)の問題に他ならない、とストレートに断定しているところに、深いものを感じています。これまでに、何度かお読みいただき、感謝しています。
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