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生命記憶
私たちの脳裡には 人類が誕生して以来の 三十億年という歳月の 進化の過程が 生命記憶というかたちで 綿々と 累々と 蓄積されているという それについて いまここに 興味深い 歴史的事実がある それは地球を二つに分かつ 欧米文化と東洋文化とにおいて 生命記憶に向けての対処の仕方が 信じ難いまでに 異なっているということだ まず 西欧文化だが なんと 二十世紀に至るまで それらしい アプローチの軌跡は見られない そんなバカな と思ったが 確かなことで アレコレ調べて見ると 意外な事実が明らかになる それは どうやら 十六世紀におけるデカルトの思想がネックになっているらしいのだ そこで どういうことかと 急ぎ デカルトの思想に首を突っ込むと 容易には 信じ難いことが記されている それによると 身体はモノであるというのだ 一体 どのような思考経路を経ると このような 奇怪な結論になるのか 私にとっての身体とは すべてがそこから始まり 最終的には そこに収斂されて終わる 生にとっての 原点のようなものだ ところが デカルト思想は それとはどこか違うようだ 約めていうと 世界を二つに分かち 片や精神界 片や物体界(自然界)とし それらは 互いに独立した 二実体であるとする 特に 精神界の方は その背後に デカルトの一枚看板である 「我思う故に我あり」が どこか威嚇的に控えている ここで ゲスの勘ぐりを逞しくするなら すべてはこの看板を死守せんがための 巧妙な 裏面工作のようにも見えて来る その証というと 気が引けるが 物体界については 延長と運動という言葉を使って いかにも機械的に説明される しかも その説明には 極み付けともいえる 絶対的条件がついている それは 物体界は思考を本性とする精神とは交渉がないという 精神界にとっての 伝家の宝刀紛いの文言である これによって 心身関係の発言は ことごとく 封殺されたといえるのではないか ところが 二十世紀に突入して 突然 生命記憶を無意識の問題として考究する 精神分析学が起こった なんと東洋文化から隔たること ほぼ 千五百年後の出来事である…… それでは なぜ これほどまでに 東西文化において 生命記憶に対する 注視の眼が異なるのか それは 恐らく 阿頼耶識に対する 関心の部位が違うことによるものと思われる 東洋文化は 端から阿頼耶識の深層領域を いまだ言語が形成される以前の 所謂「種子(しゆうじ)」の段階の考察に入った ところが 欧米文化は 阿頼耶識のごく表層の部位 「種子」が成長して すでに言語が成長した後の 十分に「意味エネルギー」を帯びるに至った 言語の完成期に関心を抱いた それは欧米文化が 論理性を重んじることに 符合している この考察の層が 部位が それぞれの文化における 考察の時期のズレを生んだのではないか 東洋文化の混沌性重視 欧米文化の論理性重視…… まさに それを実証するかのように 欧米文化の言語論は そのキレにおいて その精緻さにおいて いかにも論理的表現を重視する 西欧文化圏にふさわしい 見事な営為である たとえば 記号論においては シーニュ(記号)を分数的に表示し 分子には その語彙の読みであるシニフィアン(発音)を 分母には そのシーニュのシニフィエ(意味)を表す と規定する そこで たとえば 人間が誕生し あるときを経て 最初に対象に向けてされる言葉は ママであろう その発されたシニフィアンの「ママ」に対し そのシニフィエは なんと 「無」だという 恐らく 次はパパであるが そのシニフィアンは「パパ」であるが そのシニフィエは 「ママ」ではない であるという さらに 次には姉妹の名を呼んだとする そのシニフィアンは 仮に「ケイ子」とすると そのシニフィエは 「ママ」でない 「パパ」でないとなる 「パパ」の場合と同様 「ケイ子」とはならない どうやら人間は 最初に発した言葉「ママ」を起点として すべて 何々ではないという 否定体でしか認識出来ないようなのだ それは もちろん 言語は「無」の上に築かれた 砂上の楼閣に過ぎないとしても これは あまりにも残酷であり 非道な仕打ちではないか…… この真実を 東洋文化は 阿頼耶識の深層領域において受け止める そこにおいては いまだ シニフィアンとシニフィエとが結合して 言語を形成しておらず 自律性を欠いた 浮遊状態にあるものと思われる ところが あろうことか 芸術世界はこの領域に易々と闖入することが出来る 江戸期の松尾芭蕉は この領域に侵入して たとえば 「蛙」という生きものに生成変化し 「古池」に飛び込んで おのれの耳でもある また 同時に「蛙」の耳でもあるそれを使って 悠久の「水の音」を聞いた それはポシャンであったか ボシャンであったかは分からないが 確かに 芭蕉にとっては得悟の 永遠のいのちの実在を直観する「水の音」だった これが 可能となるのも 阿頼耶識の深層領域に踏み込み 言語の始原を究めたればこその営為である 芭蕉は他にも 蝉となり 天の川 うをの泪 蚤虱 木啄 月影 きりぎりすとなって 存分に 永遠のいのちを食んだ 振り返ってみると 人間にとって 生命記憶とは 人間の故郷そのものではないか その故郷から 父も 愛する母も そして姉妹兄弟も 皆々 宇宙の星雲から星が生まれ出たように 次々と おのずから誕生した そして その一部始終は 生命記憶の中に 深々と眠っている
生命記憶 ポイントセクション
作品データ
P V 数 : 355.7
お気に入り数: 1
投票数 : 2
ポイント数 : 0
作成日時 2025-10-01
コメント日時 2025-11-03
| 項目 | 全期間(2025/12/05現在) | 投稿後10日間 |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合ポイント | 0 | 0 |
| 平均値 | 中央値 | |
|---|---|---|
| 叙情性 | 0 | 0 |
| 前衛性 | 0 | 0 |
| 可読性 | 0 | 0 |
| エンタメ | 0 | 0 |
| 技巧 | 0 | 0 |
| 音韻 | 0 | 0 |
| 構成 | 0 | 0 |
| 総合 | 0 | 0 |
※自作品にはポイントを入れられません。
- 作品に書かれた推薦文


西洋文明は、神様におんぶにだっこで、暴力的なわりには勇気がない気がします。まあ、現在のヨーロッパの負の部分について、見た場合ですが。たとえば、スタニワフ・レムの原作の映画「惑星ソラリス」には、巨大な赤ん坊の形をした海が登場しますが、赤ん坊を異形視している。また、最近では、作り物の赤ん坊(リアルな赤ん坊の人形)の世話に、有給を与えよ、という訴訟があるらしい。いびつですよね。負の部分は、西洋も東洋もあるのですが、命を見つめることにより、負の部分が克服できるはずです。自然を征服するか、自然と共に生きるか、と言ったことでしょう。この詩を読んで、そんなことを思いました。
0お読みいただき、ありがとうございます。これらは、私の頭の中に長年巣食っている観念(ほとんどがカス)で、お恥ずかしい限りですが、これからは、少しは実のあるものを書いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。
1空白の多さも気になりますが、何と言っても、東西の思考の比較、デカルトの哲学、阿頼耶識などとの比較、考察が圧巻でした。空白の多さは、詩作の終了のあとですし、あまり気にならないので、矢張り内容に即して読解すべきかと思いました。
0お読みいただき、ありがとうございました。最近耳にした話ですが、欧米世界においては、たとえわが子といえども、性を異にする場合、早い時期から、絶対にお風呂を共にするようなことはないそうです。実際に、そのことを口にする外人を、youtubeで見ましたが、なぜかそう聞かれた自分に怒っているようで、不自然な感じでした。私はそれを見て、精神分析のいう自己抑圧を感じました。この点、日本人はそれらの問題を突き抜けていて、飛んでいると思います。つまり、アチラは性の問題にガチガチで、こちらは屁の河童のようです。 あすんとは親は絶対に異性の子とはたとえことはやはりこれらの中にもありますが、俳句の表現世¥界は、怖いほど日本人に符合しているように思います。例えば、なぜなら、にあれこれ書きましたが、その中でも、私は日本人の俳句の世界は、極端に簡略した表現世界として突出していると思います。なぜなら、これは、もちろん説明ではありません。呉もやはり芭蕉の凄さにこれらの
0今になって、気付きました。コメントに、下書きの蛇足がくっついていました。大変失礼しました。
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