詩の日めくり 二〇一五年十一月十二日─三十一日 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

エセ詩人

いでよ、エセ詩人!

コトダマ とはよく言ったものだ。 ハキダセ と 男は言う。 おまえは誰だ? わたしは何者だ?   

湯煙

硬派な作品

萩原朔太郎や中原中也のエッセンスを感じます。

千治

体験記『呆気ない宣告』

それはあなたの現実かもしれない。

大概のことは呆気なくドラマティックではない。そうした現実の丁寧な模写が作品に厚みを増している。

ほば

世界は自由だ━不死━

わかるということ

あなたにとっては何が、その理解が起きるピースになるだろうか?

ほば

ふたつの鐘がなるころは

鐘は明くる日に鳴る! いつでもそうだ!

運営在任中に出会った多くの作品の中のベスト。決して忘れない。

yasu.na

良い

シンプルに好き

あっす

パパの日曜日

パパの日曜日

いい

明林

終着点

生きる、その先に死地はない!

美しくさわやか、そして深い意味が込められたシーン、均衡の取れた心情と思想、強い意志で最終連へと迫る引き締まった展開、我が胸にこの詩文を抱いて!

yasu.na

九月の終わりを生きる

呼び覚ます声

夏の名残の暑さが去ろうとする頃、九月の終わりになると必ずこの作品のことを思い出す。

afterglow

こっちにおいで

たれかある

たそがれに たれかある さくらのかおりがする

るる

詩人の生きざま

言葉と詩に、導かれ救われ、時に誤りながらも、糧にしていく。 赤裸々に描写した生きざまは、素晴らしいとしか言いようがない。

羽田恭

喘息の少年の世界

酔おう。この言葉に。

正直意味は判然としない。 だが、じんわりあぶり出される情景は、良い! 言葉に酔おう!

羽田恭

誰かがドアをノックしたから

久しぶりにビーレビ来たんだけどさ

この作品、私はとても良いと思うんだけど、まさかの無反応で勿体ない。文にスピードとパワーがある。押してくる感じが良いね。そしてコミカル。面白いってそうそう出来ないじゃん。この画面見てるおまえとか、そこんとこ足りないから読んどけ。

カオティクルConverge!!貴音さん

あなたへ

最高です^ ^ありがとうございます!

この詩は心に響きました。とても美しく清らかな作品ですね。素晴らしいと思いました。心から感謝申し上げます。これからも良い詩を書いて下さい。私も良い詩が書ける様に頑張りたいと思います。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

これ大好き♡

読み込むと味が出ます。素晴らしいと思います。

きょこち(久遠恭子)

輝き

海の中を照らしているのですね。素晴らしいと思います☆

きょこち(久遠恭子)

アオゾラの約束

憧れ

こんなに良い詩を書いているのに、気付かなくてごめんね。北斗七星は君だよ。いつも見守ってくれてありがとう。

きょこち(久遠恭子)

紫の香り

少し歩くと川の音が大きくなる、からがこの作品の醍醐味かと思います。むせかえる藤の花の匂い。落ちた花や枝が足に絡みつく。素敵ですね。

きょこち(久遠恭子)

冬の手紙

居場所をありがとう。

暖かくて、心から感謝申し上げます。 この詩は誰にでも開かれています。読んでいるあなたにも、ほら、あなたにも、 そうして、私自身にも。 素晴らしいと思います。 ありがとうございます。みんなに読んでもらいたいです。

きょこち(久遠恭子)

カッパは黄色いのだから

良く目立ちます。 尻尾だけ見えているという事ですが、カッパには手足を出す穴がありますよね。 フードは、普通は顔が見えなくなるのであまり被せません。 それを見て、僕はきっと嬉しかったのでしょう。健気な可愛い姿に。ありがとうございました。

きょこち(久遠恭子)

永訣の詩

あなたが出発していく 光あれ

羽田恭

あなたには「十月」が足りていますか?

もし、あなたが「今年は、十月が足りてない」と お感じでしたら、それは『十月の質』が原因です。 詩の中に身を置くことで『短時間で十分な十月』を得ることができます。この十月の主成分は、百パーセント自然由

るる

だれのせいですか

どんな身体でも

どんな自分であっても愛してくれるか、抱きしめてくれるか、生きてくれるか SNSできらきらした自分だけを見せてそんな見た目や上辺で物事を判断しやすいこんな世の中だからこそ響くものがありました。例えばの例も斬新でとても魅力的です。

sorano

衝撃を受けました

ベテルギウス。まずそれに注目する感性もですが、詩の内容が衝撃。 猫。木。家族。犬(のようなもの)。女の子……。など、身近にあふれている極めて馴染み深いものベテルギウスというスケールの大きいものと対比されているように感じられました。

二酸化窒素

ずっと待っていた

渇いた心を満たす雨に満たされていく

afterglow



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詩の日めくり 二〇一五年十一月十二日─三十一日    

二〇一五年十一月十二日 「言葉の生理学」 言葉の生理学というものを考えた。人間の感情に合わせて、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりするのではなく、言葉が組み合わされたり、並べ替えられたり、新しく言葉が造られたりすることによって、人間の感情が生成消滅したり、存続堆積するというもの。組み合わせも、並び替えも、新しく言葉を造り出すのも無数に際限なく行うことができるので、それに合わせて、人間の感情表現も情感描写も無数につくりだすことができるというわけである。年間、100万以上の物質が新たに合成されている。おそらく、人間の感情も、年間、100万以上、つくりだされているのだろう。携帯電話を持つことで、ひとを待つイライラの感情が、以前とはまったく違うものになった。すぐに電話やメールを返されない、返信がすぐに来ないというイライラは、携帯電話を持つ以前にはなかったイライラであろう。 ぼくを消化する、ぼくが食べたもの。ぼくを聞く音楽。 よくひとに見つめられるのだが、ぼくが見つめていると見つめられるので、こう言わなければならない。よくひとに見つめさせると。 毒だと知っているのだけど、きょう口に入れてしまった。興戸駅の自販機でチョコレートを買って食べてしまった。また、帰りにセブイレでタバコを買ってしまい、すぐに禁煙していたことを思い出して、タバコを返してお金にして返してもらった。ものすごい意志薄弱さ。強靭な意志薄弱と言ってよいだろう。 強靭な意志薄弱さか。これはキー・ワードかもしれない。ぼくの詩や詩論の。 soul II soul の5枚を繰り返しかけている。こんな曲展開しているのかとか、こんなメロディーだったのかとか、知らずに聴いていた自分がいたことに気がついた。じっくり聴くと、わからなかったことがわかることがあるのだ、ということである。詩や小説や映画なんかも、そうなんだろうな。 きのう、塾で椅子に腰かけたら、お尻が痛かったので、骨盤が直接あたるくらいに肉が落ちて、ダイエットが成功したのかと思っていたのだが、塾から帰って、ズボンとパンツを下してお尻を見たら、おできができてたのだった。おできの痛みであったのだ。痛いわ~。きょうも痛い。寝ても痛い。痛った~い。 ダイエット中だが、ドーナツが食べたいので、セブイレに買いに行く。でも、睡眠薬のんでからにしよう。ああ、歯磨きしちゃったけど。まあ、いいか。も1回、磨けば。クスリがきいて、ちょっとフラフラして、ドーナツ食べるの、おいしい。それで、頭とお尻の痛いのが忘れられるような気がする。 高橋都彦さんが訳されたペソアの『不安の書』を読んでいると、記述の矛盾が気になって、だんだん読むのが苦痛になってきた。全訳だからかもしれない。澤田直さんが訳された、平凡社から出てる『新編 不穏の書、断章』は、よいものだけピックアップしてあったので、たいへんおもしろかったのだが。でも、高い本だったので、もったいないので、さいごまで読むつもりだけど。貧乏なので、つい、そういう気持ちになってしまう。まあ、高い本なのに、買ってからまったく読んでないものもあれば、ナボコフの全短篇集のように、読むのを中断しているものもあるけれど。とりあえず、歯を磨いて、ペソアの『不安の書』のつづきを読もう。論理的に詰めが甘いところが多々ある。記述の矛盾も、文学的効果というより、うっかりミスかなと思われるところも少なくない。全訳読むと、ちょっと、ぼくのなかでのペソアの評価がさがってしまった。 二〇一五年十一月十三日 「ケイちゃん」 あめがしどいなあ。しごとだ。いってきます。 レックバリの『人魚姫』あと少しで読み終わる。不覚にも、涙が出てしまった。レックバリ、そりゃ売れるわと思った。読み捨てるけど。本棚に残して、ひとに見られたら一生の不覚という類の作家。 そうとう飽きてきたけれど、これからペソアの『不安の書』のつづきを読む。あしたは、バーベQ。 田中宏輔は童貞で純粋でビッチでホモでオタクでヘタレです。 https://shindanmaker.com/495863 「田中宏輔」がモテない最大の理由 【 い ち い ち セ コ い 】  https://shindanmaker.com/323387 田中宏輔さんのホモ率は… 74% 平凡より少し上です https://shindanmaker.com/577787 いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこに、ぼくは、ケイちゃんとぼくを坐らせる。ケイちゃんは23才で、ぼくは21才だった。そこに、夕方の河原町の喧騒をもってくる。たくさんの忙しい足が、ケイちゃんとぼくの目のまえを通り過ぎていく。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。ケイちゃんに訊かせる。「きょう、おれんち、泊まる?」「泊まれない。」ぼくに答えさせる。ふたりの目は通り過ぎていく足を見ている。目はどこにもとまらない。大学生になっても親がうるさくて、外泊がむずかしかった。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。ふたりの肩を触れさせる。ふたりの肩を離す。繰り返させる。このときのぼくのなかに、この会話のほかの会話の記憶がない。ただただたくさん、足が通り過ぎていったのだった。数十分、ぼくは、ケイちゃんと、ぼくを坐らせたあと、ふたりの姿を、いまはもうなくなった、出入口。阪急電車の。高島屋の向かい側。西北角。コンクリートの階段。そこから除く。ふたりの姿のない、たくさんの足が通り過ぎていく風景を、もうしばらく置く。足元をクローズアップしていく。足音が大きくなっていく。プツンッと音がして、画面が変わる。ふたりの姿があったところにタバコの吸い殻が捨てられ、革靴の爪先で火が揉み消される。数時間後の風景を添えてみたのだ。架空のものの。(『13の過去(仮題)』の素材)あちゃー、現実だけをチョイスするんだった。タバコの吸い殻のシーンは除去しよう。読書に戻る。 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』 (創元推理文庫) これは買わなければならない。 記憶とはなんとおもしろいものなのか。無意識の働きとはなんとおもしろいものなのか。ケイちゃんの名字も山田だった。ヤンキーの不良デブのバイの子も山田くんだった。彼が高校3年のときにはじめて出合ってそれから数年後から10年ほどのあいだ付き合ってたのだ。怪獣ブースカみたいなヤンキーデブ。 ケイちゃんの記憶が3つある。ヤンキーデブの山田くんの記憶はたくさんある。ほとんどセックスに関する記憶だ。不良だったが人間らしいところもあった。 二〇一五年十一月十四日 「バーベQ」 きょうは、えいちゃん主催のバーベQだった。炭になかなか火がつかなくって、みんな苦労して火を熾してた。お肉がおいしかった。お酒もちょびっと飲んだ。禁酒してたけど。 セブイレにサラダを買いに行こう。 バーベQから帰ってきたら、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のPDFが送られていた。これからプリントアウトしてチェックする。 ゲラチェック、つらすぎ。 ゲラチェックはスムーズに行くようになった。『全行引用詩・五部作』の上巻と下巻に比べたら、めっちゃ楽。基本、ぼくの詩句だから、間違ってても、どってことない。引用部分だけに気をつけていればいいのだから。あしたじゅうに、ゲラチェック終えられると思う。だいぶ精神的に立ち直った。よかった。 もうそろそろクスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! あした、病院に行くの、おぼえておかなきゃ。ついでに、ジュンク堂で、S・ジャクスンの新刊を買おうっと。 二〇一五年十一月十五日 「だまってると、かわいいひと。」 だまってると、かわいいひと。しゃべってると、かわいいひと。だまってても、しゃべってても、かわいいひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいいひと。だまってると、かわいくないひと。しゃべってると、かわいくないひと。だまってても、しゃべってても、かわいくないひと。だまっていなくても、しゃべっていなくても、かわいくないひと。 朝から、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックをし終わって、手直ししたところをワードにコピペした。あと、もう一度、点検したら、送ろう。『全行引用詩・五部作』のことを思ったら、ぜんぜんちょろいものだった。あー、ちかれた。ちょっと球形して、サラダ買いに行こ。 『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェック、2回目完了。これから病院に。帰ってきたら、3回目の再校のゲラチェックして、訂正部分をPDFにして、メール添付して送ろう。 いま帰ってきた。シャーリイ・ジャクスン1冊、ジーン・ウルフ2冊で、6500円ちょっとだったかな。まあ、ぼくの一日の労働に対する給金分くらいである。いつ読むか、わからんけど、買っておいた。ジーン・ウルフのは、棚に平置きされてるのがごっそり数が少なくなってたから、売れているのだろう。 きょうは、晩ご飯を食べよう。これからイーオンに買いに行く。お弁当にするか、フランスパンにするか。 再校の直しを書いたワードを見直しているのだが、何度、見直しても、その見直しに直すべき個所が出てくる。ぼくのテキストが異様なのか、ぼく自身が異様なのか。それとも、これがふつうなのかな。ちょっと休憩して、もう一度、見直して、PDFにして送ろう。 ようやく、『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の再校のゲラチェックしたものを送付した。全行引用詩は3週間かかったけれど、これは24時間以内にできた。楽チンだった。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出すことにしている。ゲラチェックに時間をとられないように、目を鍛えておこう。 きょうの残りの時間は、きょう買った、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』の表紙をじっくり眺めて、解説を読んで眠ろう。本のきれいなカヴァーを見ると、幸せな気分に浸れる。基本的にきれいなものが好きなのだ。音楽も、詩も、絵画も、映画も。そこに奇妙さが加わると、たまらない。 二〇一五年十一月十六日 「ちょっとしたことが、すごく痛かった。」 仕事に。詩集のことがほとんど終わったので、気分が楽。数学と読書に集中できる。 きょうからお風呂場では、20TH-CENTURY POETRY & POETICS をのつづきを読む。きょうは、ロバート・フロストの DEPARTMENTAL。ひさびさにフロストの原詩を読む。 退屈な読み物になってしまっているペソアの『不安の書』だけど、惰性で読みつづけることにした。まだ218ページ。あと、この2倍ほどの分量がある。シャーリイ・ジャクスンの『なんでもない一日』のなかのエッセイや短篇をつまみ食いしてるけど。ミエヴィルの『都市と都市』は中断してしまっている。 仕事帰りに日知庵に寄って、てんぷらとご飯を食べて、その帰りにジュンク堂に寄って、本棚を見てたら、ケリー・リンクの『プリティ・モンスターズ』を見つけて、びっくりして買った。第3短篇集だけど、昨年に出てるの、知らなかったのだ。ケリー・リンクも、ぼくの文学界でのアイドルである。クスリのんで横になって、ペソアを読む。おやすみ、グッジョブ! 歯磨きチューブを足の指の先に落として、めっちゃ痛くって泣きそうになった。泣かなかったけれど。こんなに痛くなるんだ、歯磨きチューブのくせに。どんな角度で落ちたんだろう。あした、指の爪のところが変色していませんように。寝るまえの出来事としては衝撃的だった。 二〇一五年十一月十七日 「午後には非該当する程度には雨が降るとより良い」 『まるちゃんのサンドイッチ詩、その他の詩篇』の三校が送られてきたので、即行チェック、5分でチェックが終わった。3カ所の直しで、終わり。即行、ワードに直しの箇所を書いて、送付した。この間、わずか30分ほど。念校は秒単位でチェックができると思う。チェックの能力がひじょうに高くなった。 これからセブイレに行って、サラダとドーナッツを買ってこよう。それからお風呂に入って、塾だ。サイボーグゼロゼロナインのように、加速装置でも付いてるかのよう。きょうは仕事が速い。BEENZINO のミニアルバムが届いた。すばらしい音だ。hyukoh のアルバムがほしい。いま一番ほしい。 午後には非該当する程度に雨が降るとより良い気分にされたスパイシーな射撃のためになる近所の増加が非常に安全保障のこれら4つの黒い子供の電子免れた写真は撮影しようとするいくつかの3つが入って失敗の笑顔は笑顔でも撮ると脇もないトイレを検索し、そう、私は真のライブは私の精神はないようだ。 これからお風呂に、それから塾に。お風呂場では、ロバート・フロストの『DESERT PLACES』、『NEITHER OUT FAR NOR IN DEEP』、『DESIGN』を読む。3つとも短詩だけど、どだろ。3つ読めるかな。 二〇一五年十一月十八日 「ペンギンは熟さない。」 ペンギンは熟さない。 二〇一五年十一月十九日 「どうせ痛いんだったら、痛みにも意味を見つけないとね。」 いま帰ってきた。学校の帰りに、大谷良太くんちに寄った。ドーナッツとコーヒーで、ひとときを過ごした。左半身の血流が悪くて、とくに左手が冷たい。父親がリュウマチだったので、その心配もあるが、叔母が筋ジスだったので、その心配もある。まあ、なるようになるしかない。それが人生かなって思う。 西院駅からの帰り道、セブイレで、サラダとおにぎりを買ってきた。これが晩ご飯だけど、お茶といっしょに買ったら、600円くらいした。こんなもんなんだ、ぼくの生活は。と思った。あしたは、イーオンでフランスパンを買おう。そう決心したのだった。きょうは、ペソアの『不安の書』のつづきを読む。 あさって京都詩人会に持っていく新しい詩というのがなくて、このあいだツイートした『13の過去(仮題)』の素材をつかって書こうかなと思っているのだが、いま、ふと、過去の記憶を素材にしたあの場面の記憶というのが、ぼくを外側から見たぼくの記憶であったことに気がついた。ぼくの内部を、ぼくは見たこともないので、わからないが、そう単純に、ぼくを内部と外部に分けられないとも思うのだけれども、ぼくの記憶の視線が構成する情景は、ぼくが目で見た光景に、ぼくと、ぼくといっしょにいたケイちゃんを、そこに置くというものであったのだった。そう思い返してみると、ぼくの記憶とは、そういうふうに、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたぼくを置く、というものであるのだということに、いま気がついたのであった。ぼくの場合は、だけれども、ぼくの記憶とは、そういうものであるらしい。54年も生きてきて、いま、そんなことに気がつくなんて、自分でも驚くけれども、そう気がつかないで生きつづけていた可能性もあったわけで、記憶の在り方を、振り返る機会が持ててよかったと思う。嗅覚の記憶もあるが、視覚の記憶が圧倒的に多くて、その記憶の在り方について、ごくささいな考察であるが、できてよかった。とはいっても、これはまだ入り口であるようにも思う。自分が見た光景のなかに自分の姿を置くという「映像」がなぜ記憶として残っているのか、あるいは、記憶として再構成されるのか、そして、そもそものところ、自分が見た光景に自分の姿を置くということが、頭のなかではあるが、なぜなされるのか、といったことを考えると、かなり、思考について考えることができるように思われるからだ。ぼくが詩を書く目的のひとつである、「思考とは何か」について、『13の過去(仮題)』は考えさせてくれるだろう。ぼくの記憶は、ぼくが見た光景のなかに、その光景を目にしたときのぼくの姿を置くということで記憶に残されている、あるいは、再構成されるということがわかった。他者にとってはささいな発見であろうが、ぼくの思考や詩論にとっては、大いに意義のある発見であった。その意義のひとつになると思うのだが、自分の姿というものを見るというのは、現実の視線が捉えた映像ではないはずである。そのときの自分の姿を想像しての自分の姿である。したがって、記憶というものの成り立ちのさいしょから、非現実というか、想像というものが関与していたということである。記憶。それは、そもそものはじめから、想像というものが関与していたものであったということである。偽の記憶がときどき紛れ込むことがあるが、偽の記憶というと、本物の記憶があるという前提でのものであるが、そもそものところ、本物の記憶というもののなかに、非現実の、架空の要素が潜んでいたのだった。というか、それは潜んでいたのではなかったかもしれない。というのも、記憶の少なくない部分が、現実の視覚が捉えた映像によるものではない可能性だってあるのだから。スタンダールの『恋愛論』のなかにある、「記憶の結晶作用」のことが、ふと、頭に思い浮かんだのであるが、自分がそうであった姿を想像して、自分の姿を、自分が見た光景のなかに置くのではなく、自分を、また、いっしょにいた相手を美化して、あるいは、反対に、貶めて記憶している可能性があるのである。というか、自分がそうであった姿を、そのままに見ることなど、はなからできないことなのかもしれない。そのような視線をもつことができる人間がいるとしても、ぼくは、そのような視線をもっていると言える自信がまったくないし、まわりにいる友だちたちを見回しても、そのような能力を有している友人は見当たらない。いくら冷静な人間でも、つねに冷静であるというようなことはあり得ない。まして、自分自身のことを、美化もせず、貶めもせずに、つねに冷静に見ることなど、できるものではないだろう。「偽の記憶」について、こんど思潮社オンデマンドから出る『全行引用詩・五部作・下巻』のなかのひとつの作品で詳しく書いたけれども、引用で詩論を展開したのだが、そもそものところ、記憶というものは偽物だったのである。記憶というもの自身、偽物だったのである。現実をありのまま留めている記憶などというものは、どこにもないのであった。たとえ、写真が存在して、それを目のまえにしても、それを見る記憶は脳が保存している、あるいは、再構成するものであるのだから、そこには、想像の目がつくる偽の視線が生じるのであった。 そろそろクスリをのんで寝る。身体はボロボロになっていくけれども、まだまだ脳は働いているようだ。より繊細になっているような気がする。より神経質に、と言ったほうがよいかもしれないけれど。おやすみ、グッジョブ! 齢をとって、身体はガタがきて、ボロボロになり、しじゅう、頭や関節や筋肉や皮膚に痛みがあるけれども、この痛みが、ぼくのこころの目を澄ませているのかもしれない。齢をとって、こころがより繊細になったような気がするのだ。より神経質に、かもしれないけれども。 睡眠導入剤と精神安定剤をのんで、ゴミを出しに部屋を出たとき、マンションの玄関の扉を開けたときに、その冷たい玄関の重いドアノブに手をかけて押し開いたときに、ふと、そういう思いが去来したのであった。痛み、痛み、痛み。これは苦痛だけれども、恩寵でもある。 二〇一五年十一月二十日 「足に髭のあるひと。髭に足のあるひと。」 足に髭のあるひと。 髭に足のあるひと。 二〇一五年十一月二十一日 「記憶」 なぜか、こころが無性につらいので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』のつづきを読んで寝る。朝、目覚めずに死んでいたい。 目覚めた。生きている。夢を見たが忘れた。上半身左、とくに肘関節と肩から肘にかけての筋肉の痛みが半端ではない。そうだ。夢のなかで、細くなった自分の足首を見てた。いま足首を見たが、いま見てる足首よりも細かった。なにを意味しているのだろう。あるいは、なにを意味していないのだろうか。 きょうやる予定の数学のお仕事が終わったので、あした京都詩人会の会合に持って行く『13の過去(仮題)』の素材データをつくろう。夕方から、日知庵で皿洗いのバイト。 『13の過去(仮題)』のさいしょの作品になるかもしれないものを、ワードに書き込んだ。14日のツイートと、きのうのツイートを合わせて、手を入れただけのものだが、じつはほかのものを、さいしょのものにしようとしていたのだったが、ぼくの文体では、いつでもさいしょの予定のものを組み込める。 これからお風呂に、それから日知庵に行く。 さっきまで竹上さんと、パフェを食べながらオースティンの話とかしてた。また記憶について話をしていて、ぼくと竹上さんの記憶の仕方について違いがあることを知った。もしかしたら、ひとりひとり記憶の仕方が違うのかもしれない。あした京都詩人会で、大谷くんととよよんさんにも訊いてみようと思う。 二〇一五年十一月二十二日 「理不尽。理不の神。」 きょうは、これから京都詩人会の会合。夜は雨だそうだから、カサを持っていかなくちゃね。行くまえに、どこかで、なんか食べよう。 京都詩人会の会合が終わって、隈本総合飲食店に、とよよんさんと、竹上さんと行って、食事した。12月の京都詩人会の会合はお休みで、つぎは1月の予定。身体がきついので、いろいろ後回しにするけれど、ごめんなさい。元気になれば、動きます。 竹上さんと、大谷くんは、自分の後ろから自分が見た感じの映像の記憶のよう。とよよんさんは、自分が目にした映像の記憶のよう。前方や横からぼく自身を見るぼくの記憶の仕方は、作品化を無意識のうちに行っている可能性がある。大谷くんから、「現実の記憶」ではなく「記憶の現実」という言葉を聞く。 とよよんさんに、かわいらしい栞をいただいた。さっそく、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』に挟む。ペソアの詩集というか論考集というか散文集『不安の書』に挟む。ミエヴィルのSF小説というかミステリー小説『都市と都市』に挟む。コーヒーもいただいた。あした、仕事場で飲む。 きょうは、もうクスリをのんで寝る。楽しい夢を見れるような本を読めばいいのだろうけれど、本棚にあるすべての本が、楽しい夢を見れるような本ではない。クスリをのんだ。効いてくるのは1時間ほどあと。きのう竹上さんに話したことのひとつ。スウェターリッチの『明日と明日』をすすめたのだが、まったく物語を憶えていなかったのだった。ジェイムズ・メリルの詩集をまったく憶えていなかったようにだ。傑作だと思っていたのだが、記憶にないのだった。いま、シャーリイ・ジャクスンの短篇集の読んでいたページを開いても、同じように記憶がないのだった。まえのページを開けて、読むと、ようやく思い出された。ペソアは寝るまえに読んでも、ほとんど記憶できないと思うので、シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読もう。きのう竹上さんとディックの話もした。ディックが不遇だったことと、『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』というタイトルのよさ。同じディックでも、ディック・フランシスの作品のタイトルの味気無さについて。ディケンズ、ジョージ・エリオット、ゾラ、バルザックの作品について話を聞いてた。なつかしいものも知らないものもあった。そうだ。オースティンの『高慢と偏見』の話でも盛り上がったのだが、竹上さんに、P・D・ジェイムズを以前にすすめたのだが、さっそく、『正義』の上下巻を読んでくれたらしい。これまた傑作だと思ってすすめたのだが、聞くと、ぼくが記憶していた物語ではなかった。20代から起こっていたのだが、作品を取り違えたり、融合させてしまったりして、これまた偽の記憶を持ってしまっていたのだった。「そして、だれもがナポレオン」の話を以前に『詩の日めくり』に書いたが、いまだに、だれの言葉だったか、ぼくのだったかわからない。マイクル・スワンウィックの『大潮の道』も、竹上さんに以前にすすめたと思うのだが、きのう、読んでよかったとの感想が聞けてよかった。いま Amazon で、いくら? と尋ねると、調べてくれた。1円だった。傑作なのに、1円である。「理不尽。理不の神である。」(キングオブコメディのコント、今野浩喜くんのセリフから引用) 眠気が起こった。PC消して横になる。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月二十三日 「ユルい体型」 起きた。お風呂に入って、学校に。 夕方から塾。塾に行くまえに晩ご飯を食べよう。イーオンに行って、フランスパンを買ってこよう。あと、コンビニで、レタスのサラダとスライスチーズとお茶を。 塾へ。 塾から帰ってきたら、カードの請求書が来てて、今回はたくさんCDを買ったのだけれど、安いものが多かった。4000円を超えてるのは、本だと思うのだが、どの本を買ったのか、すぐにはわからず。ああ、ペソアだな。違うかな。違うか。ペソアは、5000円を超えてたな。なんだろう、記録を見よう。 彩流社のペソア本2冊『ポルトガルの海』と『ペソアと歩くリスボン』が一回の請求になってて4428円だった。まぎらわしい。soul II soul のCDの記録を見ると、3つほど、1円で買ってる。流れのいいアルバムで、イージー・リスニングにいいのにね。ペソア本では、平凡社の『新編・不穏の書・断章』がいちばんよかったと思うのだけれど、思潮社海外文庫の『ペソア詩集』も、いま読んでる、『不安の書』もよいと思う。ただし、もう、「不穏の書(不安の書)』を読むのは、3冊目なので、既視感バリバリなのだけれど。 郵便ボックスには、カードの請求書といっしょに、校了になる雑誌のゲラも届いてたのだけれど、きょうは、もう自分の原稿のチェックをする体力がないので、あしたの朝にすることにして、クスリのんで寝る。おやすみ、グッジョブ! 寝るまえの読書は、ペソアの『不安の書』。ようやく300ページ超えた。これで半分ほど。ぼくも600ページほどの詩集をつくりたい。あ、つくってるか。『Forest。』が500ページを超えてた。来年も、思潮社オンデマンドから3冊出す予定だが、合わせて、1000ページを超えさせるつもり。 ふと、ユル専という言葉を思いついた。ユルい体型が好きな人たちのことだけど、デブ専とポチャ専のあいだくらいかな。デブ専のDVDをちらっと見たら、ほんとすごくて、考えられない体型してるけれど、ポチャ専だと、まだかわいらしい。でも、ユルい体型だということは、精神的にもユルいんだろうな。 でも、ぼくの知ってるおデブさんはみな繊細。どうして、中身と外見が違っちゃうんだろうな。クスリがちょっと効いてきた。PC切って寝る。二度目のおやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月二十四日 「ぼくの身体の半分は、かっぱえびせんからできている。」 これから仕事に。 Amazon で買ったCDが、きょうくらいに届く予定だったのだが、メールで、入荷もできない可能性があると連絡してきた。どういうことだろう? 事情がさっぱりわからない。  BEENZINO のアルバムなのだが。 晩ご飯を買いにコンビニまで行く。サラダとカッパえびせんかな、笑。 どん兵衛とカッパえびせんだった。 塾へ。 塾の帰りに赤飯と穴子の天ぷらを買った。ダイエットは、1週間ちょっと忘れることにした。とよよんさんがリツーイトしていた切手があまりにきれいで、しばし、うっとり。でも、もう手紙など書く習慣がなくなったので、買わないけれど、眺めることは、眺める。おいしそうだなあ。すごい発想だなあ。すばらしい発想の切手を見てると、なぜか、ウルトラQが見たくなったので、DVDを見ることにした。蜘蛛男爵がいちばん好きだけど、1/8計画も好き。両方、見ちゃおうかな。見ながら、食べようっと。 「このときのぼくの気持ちは、どんなものだったのだろう? わからない。」というのが、このあいだ書いた、『13の過去(仮題)』のキーワードだろうか。と、塾からの帰り道、スーパー「マツモト」で半額になった弁当を買って、それぶら下げて歩きながら考えていた。12月から、英語も教えることに。 二〇一五年十一月二十五日 「なんでもない一日」 学校の帰りに、大谷良太くんとミスドでコーヒー飲みながら、くっちゃべってた。ぼくは聞き手に回ることが多いけれど、話を聞きながら、ぼく自身はなんとなく哲学の方向に行くような気がした。まあ、知識がないから素人哲学になっちゃうんだろうけれど。そいえば、詩も素人だけど、ずっと素人だろうな。 シャーリイ・ジャクスンの短篇集『なんでもない一日』を読みふけっている。 きょうは、ドーナッツを朝と昼と夜に食べた。ダイエットを忘れてた。あしたから、またダイエットする。どうして忘れてしまうのだろうか。しかし、きょうは、疲れていたし、ここ数週間、体調、まったくダメだったし、ストレスすごかったし、ドーナッツ、ばかばか食べたのだと思う。あしたから自重する。 帰りにセブンイレブンでサラダを買って食べたので、これからかっぱえびせんを買いに行く。きょうは、食べまくって死んでもいいような気がしている。左手が右手よりずっと冷たい。左半分が腐って落ちてしまうかもしれない。半分だけ死ぬってことなのかもしれない。なんでこんなに体温が違うのだろうか。 あした一日中、数学するので、きょうは、もう寝る。12月になったら、英語の勉強もする。勉強して教える。これを過去形にすると、ぼくの人生を要約した言葉になる。「勉強して教えた。」句点を入れて、8文字だ。「どうにか生きた。」でも、8文字だ。「なんとか生きた。」でも、8文字だ。うううん。 FBフレンドの方があげてらっしゃる食べ物の写真がとてもおいしそうで、いいなあと思った。ぼくが食べるものって、10種類もないんじゃないかな。何十年も同じようなものを食べてる。さっきツイートに、トマト鍋なるものをあげてらっしゃる方がいらして、ぼくもやってみようかなって思った。あした。 おとついかな。とよよんさんがツイッターで書いてらっしゃったのだけれど、ぼくの『全行引用詩』の表紙画像の上巻と下巻の時間が逆だった。ビールの入ってる量を比較してわかった。とよよんさん、鋭い。いま表紙画像をあらためて見てわかった。二度目のおやすみ、グッジョブ! PC切って、寝まする。ドボンッ↓ PCつけた。 もう夜はぼくのものじゃなくなった。クスリをのんで眠るようになったからだ。20代、30代のときは、夜中まで起きてた。朝まで起きてたこともよくあった。下鴨や北山に住んでたころだ。ジミーちゃんと夜中までうろうろしてた。いつか、自販機を蹴り倒そうとしている少年に出合ったことがある。真夜中だ。だれも警察に通報しなかった。なぜだか知らないけれど。府立資料館のまえの道を歩きながら、その少年が自販機を蹴りまくっていたことを憶えている。ぼくたちは、ぼくとジミーちゃんは、居酒屋からの帰り道、ヨッパの状態で、それを見てた。不思議だった。月明かりのしたで、ぼくと、ジミーちゃんと、その少年しか道にいなくて、その少年が自販機を蹴りまくる音が道路に響き渡っていたのだった。バンバンという大きな音がしているのに、だれも外に出てこず、警察にも通報せず、という状態だった。ぼくと、ジミーちゃんは、そのあと、たぶん、ぼくの部屋で、飲みのつづきだったと思う。このエピソードは、『13の過去(仮題)』に入れるほどのものではないかな。そうでもないか。なにしろ、いまでは、もう夜が、ぼくのものではないということの意味のひとつを書いたのだから。 二〇一五年十一月二十六日 「ぼくは画家になりたかった。」 お昼を買いに行く。トマト鍋をつくろうと思ったけれど、フランスパンとチーズとサラダとミルクにしようと思う。『ジェニーの肖像』に出てくる貧しい画家の食事だ。というか、フランス・ロマン派の作家が描く貧しい詩人や画家の食事である。ぼくのあこがれでもある。ぼくはいちばん画家になりたかった。ジャック・フィニイはフランスの作家ではないけれど。そいえば、O・ヘンリーの作品に出てくる貧しい建築設計家の食事も(と、パン屋の女性経営者は思っていたが)古くなって半額になった固いフランスパンだった。貧しさを楽しんでる部分も会って、自分がわからない。10年、20年、同じ服を着て、無精ひげで、さえない顔をして、古本をリュックにいっぱい入れて、公園で本を読んでたり、マクドナルドやミスドでコーヒー飲みながら本を読んでたり、まあ、よく言えば、知的なコジキ、悪く言えば、少し清潔なコジキといったところか。25才で、家を出て、10年ほど、親に会っていなかったのだけれど、久しぶりに再会したとき、継母が、ぼくの姿がコジキみたいになっていると言って泣いた。河原町のど真ん中で泣かれて困ったけれど、そういう継母とぼくの姿を、ドラマのようだなと見てるぼくがいた。 パンを買いにイーオンに行く。きょう、あすは数学のお仕事をしなければならない。頭がはっきりしないけれど。まだはっきり目覚めていないのかもしれない。 バケット半分151円とバナナ5本100円と烏龍茶106円を買ってきた。これを、きょう一日の食事にしたい。 バケット食べてて口のなかを切った。パンを口もとから離して見てみたら、パンに血が付いてた。どうやら歯で口のなかの肉を噛んでしまったらしい。たしかに口のなかの肉に痛みを感じる。神経系がおかしくなっているのかもしれない。はやく死ねばいいのにグズグズしてる。ちょっと球形して、お仕事する。 寝てた。仕事せず。コンビニにサラダを買いに行こう。帰ってサラダを食べて、また寝そう。それくらい、しんどい。しんどいときは、寝てもいいと思う。 イーオンでチゲ定食を食べた。790円。帰りに、セブンイレブンでかっぱえびせんを買った。薄弱な意志力が強固である。仕事まったくせず。ここでも、薄弱な意志力を発揮している。とにかく、しんどいので、寝よう。 きょう、セブンイレブンからの帰り道、住んでるところのすぐ近くで、スポーツやってそうな少年に、「こんにちは!」って声をかけられてびっくりしたけれど、ぼくも、こんにちは、と返事した。知らない男の子だったのだけれど、あいさつされると気分がよい。しつけのいい家の子なのだろうと思う。 きょうは、仕事をいっさいせずに、音楽をずっと聴いてた。Brown Eyed Soul のアルバムを買おうかどうか迷っている。カセット付きのCDなんだけど、カセットなんか再生する装置がないんだけど。 ぼくが21才で、彼も22、3才だったと思うけど、Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(のアルバム)を聴いてて思い出したのだけれど、彼んちに泊まって、つぎの日の朝の喫茶店で、って彼の実家の喫茶店なのだけど、窓の外を見てた光景が思いだされた。それと同時に、滋賀県の青年のことが思い出されたのだけれど、ぼくのことも、あるひとにとっては、何人かの思い出と同時に思い出されてる可能性もあるってことかな。ぼくの知らないだれかといっしょに思い出されてるって。そういうこともあるだろうな。そのだれかて、ぼくとはぜんぜん似てなかったり。ぜんぜんぼくとは違うだれかと、ぼくがいっしょに思い出されてるって思うと、おもしろい。けど、もう54歳にもなると、だれかを愛することってないけれど(少なくとも、ぼくにはもうね)ぼくが愛さなくなると同時に、ぼくも愛されないと考えると、いっしゅ、すがすがしい思いでいられるのは、事実だ。だけど、そう、だけど、だけど、愛した子の顔は、しっかり覚えてて、その子たちも、ぼくの顔は覚えててくれて、この地上ではもう二度と会うことはなくっても、あの世っていうのかな、天国では、「やあ!」とか「ひさしぶりぃ。」とか「元気にしてる?」とかって声はかけ合うような気はする。 今晩、いい夢が見れるかな。見れるような気がする。Brown Eyed Soul の Thank You Soul ってシングル(アルバムかな)を何回も聴いてて、そんな気がしてる。ありがとう、魂、か。ノブユキ、歯磨き、紙飛行機。ありがとう、魂か。もっとたくさん、もうたくさん。 うつくしい曲を聴くと、むかしあったことがつぎつぎと思い出される。大阪の彼の喫茶店は、彼と、彼のお姉さんがやってて、ぼくたちは、窓の外の景色を見ながらコーヒーを飲んでた。朝だった。流れる川と、小さな黒い点々がちらつく川岸。ってことは、朝までいっしょにいたんだ。ここまで思い出した。 名前が思い出せない作曲家の子と付き合ってたことがあって、その子の頬が赤かったことは憶えてる。大坂の子の頬も赤かった。ぼくは若かったから、なんか、その頬の赤い色って、田舎者って感じがして、ちょっとばかにしてた。いまなら、その赤い頬を見て、健康的で、かわいいなって思うんだろうけれど。ああ、小倉●●くんだ。その作曲家の子の名前、4、5年も付き合ったのに、名前を忘れてた。お金持ちで、ぼくが別れたいって言ったとき、いろいろなものをくれるって言ってたけれど、ぼくはなにもいらないと言ったのだった。さいごに会った日、とっておきの服を着てきたのに、ってバカなことを言ってた。ぼくの『陽の埋葬』を読んで、「売れないものを書く意味があるの?」って言ってた。彼の曲は売れてるものもあって、「ひとを幸せにするのが芸術だよ。ひとを幸せにする芸術だけが売れるんだよ。あっちゃんのは、いったいだれを幸せにしてるの?」って言われた。返事もしないで、顔をそむけてたと思う。それももう、10年も、20年もむかしの話だ。彼は音楽的にも成功して、ますますお金持ちになっているらしい。どうでもよいことだし、彼の芸術観は、ぼくのものとはまったく違っていたし。もう愛していた記憶もなくなっている。いっしょに食事をした記憶くらいしかない。きょう、居酒屋さんで飲んでて、ひとりのお客さんが、「人生は成功しなくちゃ意味がない。」とおっしゃられて、ぼくは、すかさず、「成功するとかしないとかじゃなくて、そのひとが幸せに感じて生きているかどうかではないのですか」と言った。ぼくより年上の方に言って、少し申し訳なく思ったけれど。 朝、目が覚める。ノブユキは、朝、目が覚めなかったらって考えたら怖いって言ってた。ぼくが28才で、ノブユキは20才だった。ぼくは何度も自殺未遂してたくらいに、中学生のときから自殺して死にたいって思ってたひとだから、朝、目が覚めないことほど幸せなことはないと思ってた。それも、もう昔。 自殺しないですんでいるのは、世界には、まだぼくの知らないうつくしい音楽や詩や小説があるからだと思う。ぼくのまだ知らない音楽や詩や小説がなければ、ぼくが生きている意味がない。 そろそろ、クスリのんで寝る。クスリが効くのが1時間後くらいだから、ちょっと遅いかな。はやく効きますように。 二〇一五年十一月二十七日 「ユキ」 すこぶる気分がよい。きょう部屋に遊びにきてくれた子が、いちばん顔がかわいらしい。ぼくの半分くらいの齢の男の子だ。54才のジジイといて、気分よく、時間を過ごしてくれているようだった。『ダフニスとクロエ』のなかで、老人が少年にキスをしようとして、あつかましいと断られるシーンがあった。むかしで言えば、ぼくはもう十分にジジイだ。かわいらしい子にチューをしても断られずにすむ自分がいて、とてもうれしい。若いときは、世界は、ぼくに無関心だったし、えげつなくて残酷だった。いまでもぼくには無関心だろうけれど、残酷ではなくなった。齢をとり、美しさを失い、健康を損なってしまったけれど、人生がこんなにおもしろい、楽しいものだと、世界は教えてくれるようになった。ぼくがまだまだ学ぶ気持ちがいっぱいで生きているからだろうと思う。きょうは、言葉にして、神さまに感謝して眠ろう。おやすみ。 二〇一五年十一月二十八日 「コンピューター文芸学」 コンピューター文芸学については、ほとんど知らないのだが、はやりはじめのころ、もう4分の1世紀以上もむかしのことだが、ドイツ文学者の河野 収さんに、いくつか論文の別刷をいただいて読んだくらいなのだが、さいしょは、聖書にどれどれの文字が何回出てくるかとかいったことに使っていたようだ。やがて、詩や小説のなかに出てくるキーワードの出現頻度を調べたりして、文体研究に使ったり、作者の同定に使ったりするようになったのだろうけれど、シロートのぼくが言うのもおこがましいだろうけれど、たとえば、「目」という言葉でも、文脈によって意味が変わる。たとえば、さいころのようなものの「目」であったり、眼球の「目」であったり、こんな目にあったの「目」であったり。ということは、同じ言葉でも意味が異なるので、同じ言葉ではなくなっているのではないかということである。どうなのだろうか。そこらへんのところ。 二〇一五年十一月二十九日 「エイジくん」 日付けのないメモ「スウェットの上下、ジャージじゃなく」 たぶん、これは、京大のエイジくんのことだと思う。紫色のゴアテックスの上等そうなスウェットを着てたんだけど、ぼくはスウェットという言葉を知らなくて、だれかに聞いたんだと思う。ペラペラの白い紙の端切れに書いてあった。捨てよう。 二〇一五年十一月三十日 「バカ2人組」 きょうは、晩ご飯を食べた。昼に、数か月ぶりに天下一品に行って、チャーハンセットを頼んだのだが、あとから来た2人組の肉体労働者風の男のまえに先に店員がチャーハンを置いたのだった。ぼくはラーメンを半分食べたところだった。二人組がにやにやして「返そうか」と言ったが無視して、ぼくのチャーハンになるはずだったチャーハンを男が食べるのを視界に入れないようにしていた。すぐにぼくのほうのものがつくられて出てきたので、ラーメン残り3分の1をおいしくチャーハンと食べれた。肉体労働者風の男たち二人には、ぼくが食べ終わるまでラーメンは来ず、葬式のような雰囲気で、一つのチャーハンを一方の男が食べておった。真昼間のクソ忙しい時間の天下一品でのヒトコマである。いい気味であった。しかし、悪いのは、ぼくのまえに置くべきだったチャーハンを、あとから来て注文した男に先に出した中年女の店員であった。一つのチャーハンしか目のまえに置かれていない葬式のような暗い雰囲気になった、隣のテーブルに坐った肉体労働者風の二人の男たちをあとにして、ぼくは、おいしくラーメンとチャーハンをいただいて、勘定を払って店を出たのであった。どれくらいの時間、ラーメンが二人の目のまえに出されなかったのか、想像していい気持だった。一生、来なければ、おもしろいのに、とかとか思った。神さま、ごめんなさい。たとえ、愚かな男たちが、ぼくのチャーハンが間違えて置かれたことで、ぼくを愚弄しても、ぼくがその男たちの不幸を笑うようなことがあってはいけませんね。神さま、ごめんなさい。反省します。このことを反省して、きょうは寝よう。おやすみ、グッジョブ! 二〇一五年十一月三十一日 「隣の部屋に住んでるバカ」 ぼくの隣の部屋に越してきたひと、ほとんどずっとテレビつけてるの。バカじゃないかしら。引っ越してきたときに顔を見たけど、それほどバカじゃなさそうだったけど、ぼくが部屋にいるときは、ほとんどずっとテレビの音がしてるの。いったい、どんな脳みそしてるんやろか。むかし、ノブユキに、テレビを見るなんて、バカじゃないのって言ったら、「テレビにも、教養のつくのがあるよ。選択の問題じゃない?」って言われたのだけど、隣の部屋から漏れ聞こえてくる音はバラエティー番組とか、ドラマのとか、そんなのばっかり。こっちは、プログレで対抗してるんだけど。プログレやジャズでね。まあ、12時近くなると、テレビ消してくれるんで、まだましだけど。でも、ぼくがいる時間、ずっといるって、ぼくは非常勤だし、時間がいっぱいあって、部屋にいまくりなんだけど、隣の男もずっといてる。仕事してないのかな。まあ、いいけど。



詩の日めくり 二〇一五年十一月十二日─三十一日 ポイントセクション

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作成日時 2021-06-01
コメント日時 2021-06-01
#現代詩 #縦書き
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