人にやさしい曲線 - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

書かざる言わざる、雄弁に水銀を

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R

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のいえられこーず

死んだベテルギウス

地球は退屈な諦念に埋め尽くされてる

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のいえられこーず

風吹き抜ける青

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そのまま生き地獄で野垂れ死にするといいという孤高の美

のいえられこーず

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その喪失感は夢かうつつか

ネットとリアルがボーダーレスな、デジタルネイティブ世代の感性──

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潮風

潮の香りにのまれるように

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帆場 蔵人@⚰

空の下

大自然という舞台への出奔

二人が走り出す。広大な大自然という舞台へ。

羽田恭

明るい朝の歌

明るい朝のうらには、暗い夜があった

外をみつめることが、内をみつめることにつながっている──

沙一

震え 揺れ 回る

一気に詩情が注ぎ込まれていく。 それが 震え 揺れ 回る。 詩を詠み終えても、止まらない。

羽田恭

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どうしようもなく生きていくということ

ただパイを焼く。それだけなのだけれど、衒いも奇抜さもなく心にぶつかってきて揺さぶられる。

帆場 蔵人@⚰

別れ

靴の哀しみ

歩くための存在でありながら、誰かが履いてくれないと歩き出せない存在が、絶望して待機してる

蛾兆ボルカ

パパの日曜日

しがない日常に飽きてしまったすべての人へ

ごく平凡な日曜日のパパが、壮大で絢爛豪華な世界へ旅立つ——

沙一

「中央公園より」

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沙一

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心を亡くしてしまいそうなときに

ささやかなお洒落をたのしむ、それは自分が自分であることをわすれないために、ひつようだったのかもしれない——

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沙一

食べ物と死ぬ人

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無駄なくそつなく、それでいて大胆にママンに語りかける。「ママンへ」あなたはこの書き出しで何を思い、連ねますか?

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批評対象
作品を読む

人にやさしい曲線    

<批評対象作品>
クロソイド曲線


「クロソイドは,直線からはじまり,先に進むごとに少しずつカーブがきつくなります。車の運転なら,一定の走行速度で,ハンドルを一定の角速度(1秒あたりに回転する角度)で回していったときの車の軌跡がクロソイドになります。(中略)クロソイドは,運転者や乗客にかかる加速度の影響を減らし,安全性をもたらす“人にやさしい曲線”なのです。」 (『ニュートン別冊 数学の世界 数の神秘篇 素数,虚数、πなど,数が織りなす美しい世界』木村直之編, 2018年11月,ニュートンプレス,p138)  afterglow氏の「クロソイド曲線」という詩は、一行目に「国境のトンネルを」という言葉で始まる。さっと読むと不自然を感じないが、冷静に考えれば、島国の日本に「県境のトンネル」は存在しても「国境のトンネル」は存在しない。つまりこの詩は日本語で書かれているが、舞台は日本ではないのだ。おそらく日本でない場所を舞台に書かれた時点で、この詩は、たとえ詩人の記憶から出発した詩作だったとしても、自分語りから一歩進んだ普遍性の追求を見て取れる。こうした詩人の態度を踏まえたうえで、以下、筆者はこの詩を読み解いていこうと思う。  第一連を引用すると、 >国境のトンネルを >口下手な父の背中を >後部座席に寝ているふりで >長い時間きいていた  とある。第一連の四行目の「きいていた」は、「見ていた」ではない。「後部座席に寝ているふりで」とあることから、筆者が考えるに、この詩の語り手が「国境のトンネル」と「父の背中」を、目をつむりながらも強く意識していた事の表れとして「きいていた」を読み取ることができるだろう。詩の語り手の感覚が研ぎ澄まされているのがよくわかる連だと言える。  うって変わって、二連目は、実際に「見」たものの列挙で描写が進む。 >にぎわう峠のドライブインで >いったい何を食べたのか >今はもう覚えていない >見知らぬ町 見知らぬ人々 >いつもとは違う顔の父がいた  味覚の記憶は「覚えていない」とあるが、「見知らぬ町 見知らぬ人々/いつもとは違う顔の父がいた」という、視覚の記憶がここで明確に示されていることが分かる。しかもこの視覚の記憶は、「町」「人々」「父」のそれぞれにおいて、通常とは異なるということが示されている。味覚の記憶がないことも併せて考えれば、この第二連は「違和感」の連だと言えるだろう。  第一連で「研ぎ澄まされた感覚」を、第二連で「違和感」を提示した後、三連目に、この詩で最も視覚に特化した描写が表れる。 >ナトリウム灯に >群がるように雪がふる >硬く白い路面に >縦型の信号機に雪がふる  オレンジ色や黄色のナトリウム灯は紫外線をほとんど発しないので、虫がたかりにくいという。そのナトリウム灯に、詩の語り手の目の前で、「群がるように雪がふる」さまは、「違和感」の象徴であり、それを見つけた詩の語り手の「研ぎ澄まされた感覚」を端的に表した文だと言える。また、昨今の光源の主流がLEDであることからも分かるように、この「ナトリウム灯に」も、旧世代の照明という、過去のものとして、記憶の距離感が込められた言葉なのである。  「縦型の信号機」にも注目したい。「電子書籍版 街角図鑑 (三土たつお編,2016年10月,実業之日本社)」によれば、縦型信号機は「雪が積もりにくいように縦型になったもの。雪の多い地方で見られる。ただし最近では、薄くするなどの積雪対策をした横型のものも増えている。(p83)」というものである。この記述によって、この「縦型の信号機に雪がふる」のイメージが、雪の少ない地方の突然の豪雪ではなく、もとからの豪雪地帯の風景であることが分かる。さらにここでも、「積雪対策をした横型」の信号機という新世代の存在があることから、「縦型の信号機」は過去の記憶への距離感を表すものとなっている。  つまり第三連の「ナトリウム灯」「縦型の信号機」という表現は、「研ぎ澄まされた感覚」によって感じた「違和感」のイメージが、2021年から遠く離れた過去にあるということを、雪深さとともに伝えているのだ。  そのような視覚描写のあと、第四連はこう書かれている。 >促されるまま >55個のカーブの >のこりをひとつ、 >またひとつ数えて >からだが右左に傾くたび >父と子のぎこちない言葉が >すこしずつ解けだした >最初で最後の二人旅  「55」という数値に何らかの意味を見出そうとするならば、ローマ数字に直すと「LV」である。これは、「LOVE」の子音のみを取り出した形ととらえることも、「LEVEL」の略式としてとらえることもできる。筆者が考えるに、「促されるまま」「のこりをひとつ、/またひとつ数えて」と「LEVEL」を積み重ねた「LOVE」が「父と子のぎこちない言葉が/すこしずつ解けだした」ことの理由になったのではないか、とも受け取ることもできるのである。  そして、「からだが右左に傾くたび」という、カーブを曲がる際に体にかかる重力の肉体感覚は、題名通り「クロソイド曲線」に従った「“人にやさしい曲線”」による、父親の運転が描いた、詩の語り手への愛情の表出だったのではないだろうか。  まるで第一連から第三連の詩の語り手の神経質さを優しく包むように、第四連が「父と子」の心のつながりを表しているように思える。クロソイド曲線は、「口下手な父」の、精いっぱいの愛情表現だったのではないだろうか。  最後の一行である「今年、父と同い年になる」は、恐らく、年齢の加算が止まった父=すでに物故した父の享年と同い年になること示しているのだと思われる。ここに、歳を重ねた詩の語り手が、父の死んだ年齢という節目をもって、それまでの人生を思い返す機会を与えられた、と考えれば、この詩は、父が生きられなかった年齢に差し掛かり、「先に進むごとに少しずつカーブがきつく」なっていく、詩の語り手の未来への感慨を表したものなのではないだろうか。  この作品の普遍性は、会話の少ない父と子が打ち解けるという、ある種のありふれた思い出に、雪国の鮮烈なイメージを付与し、その題名に「クロソイド曲線」という数学用語を冠したことによって、時間的距離感のみならず、空間的距離感と言語的飛躍を詩作品に与え、その距離と飛躍を「からだが右左に傾くたび」という肉体感覚に見事に着地させるという、その緊密な構成にあると筆者は考える。


作成日時 2021-01-23
コメント日時 2021-02-14

人にやさしい曲線 ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 16
P V 数 : 1671.4
お気に入り数: 3
投票数   : 2

人にやさしい曲線 コメントセクション

コメント数(16)
沙一
作品へ
(2021-01-23)

作品冒頭については、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」という川端康成『雪国』の書き出しをオマージュしていたんじゃないかな。あの国境を「こっきょう」と読むのか「くにざかい」と読むのか、定かではないらしいです。 越後国など、昔は地域を表す単位として「国」が用いられていましたから、「国境」という語だけで舞台は日本ではないと判断するのは早計ではないでしょうか。 ちなみに個人的には、この「国境」には、この世とあの世の境も含意されているのではないかと読めました。 以上、気になった点を一つ指摘しましたけど、丁寧に読み解かれていて良い選評だなと思いましたよ。

3
小林素顔
作品へ
(2021-01-23)

コメントありがとうございます。 そうなんですよね。川端康成は「国境」と書いている。江戸時代までは藩政が敷かれていたので、日本でも「国境」があってもおかしくはない。というのは、頭の片隅にはおいていたんですが、でもこの詩を読み込んでいる間に、オマージュであったり歴史的経緯であったりという意識が頭の片隅に追いやられてしまって、今回のような読みを提示してしまいました。 でもどうなんですかね。もちろん詩人本人に聞くのが一番なのでしょうが、この詩単体で見ると、川端康成のように「美しい日本」を思わせるような「日本の『国境』」を読み取るというよりも、見知らぬ極寒の地の荒涼さに思いをはせた「異国の『国境』」を読み取ることのほうが、私個人としては「美しい」と思ってしまいました。 ただ、詩の鑑賞の仕方として一般に言われるような、「感じ方は読み手の自由だ」みたいな言説には少し疑問を感じている私としては、今回の「国境」の読みは、脇が甘かったのかもしれません。 「この世とあの世の境」という読みまでは思いつきませんでした。その読み方をとると、この父子のドライブも、なにか鎮魂の旅のような幻想的なイメージを含んできますね。 ご指摘ありがとうございます。そして「良い選評」というお言葉を頂けて、嬉しいです。

2
小林素顔
沙一さんへ
(2021-01-23)

コメントありがとうございます。 そうなんですよね。川端康成は「国境」と書いている。江戸時代までは藩政が敷かれていたので、日本でも「国境」があってもおかしくはない。というのは、頭の片隅にはおいていたんですが、でもこの詩を読み込んでいる間に、オマージュであったり歴史的経緯であったりという意識が頭の片隅に追いやられてしまって、今回のような読みを提示してしまいました。 でもどうなんですかね。もちろん詩人本人に聞くのが一番なのでしょうが、この詩単体で見ると、川端康成のように「美しい日本」を思わせるような「日本の『国境』」を読み取るというよりも、見知らぬ極寒の地の荒涼さに思いをはせた「異国の『国境』」を読み取ることのほうが、私個人としては「美しい」と思ってしまいました。 ただ、詩の鑑賞の仕方として一般に言われるような、「感じ方は読み手の自由だ」みたいな言説には少し疑問を感じている私としては、今回の「国境」の読みは、脇が甘かったのかもしれません。 「この世とあの世の境」という読みまでは思いつきませんでした。その読み方をとると、この父子のドライブも、なにか鎮魂の旅のような幻想的なイメージを含んできますね。 ご指摘ありがとうございます。そして「良い選評」というお言葉を頂けて、嬉しいです。

1
田中修子
作品へ
(2021-01-23)

小林素顔さん 良い感じにびっくりしました。何にかというと、素顔さんの進化具合にです。前回の選評と比べて、グンと進化しているし、とても細やかに読み解かれている。前みたいに突っ込みどころがほとんどなくて、めっちゃ面白い読解がされてる~! とワクワクしながら読みました。 一か所だけ突っ込むとしたら、沙一さんと一緒で、わざわざ「国境」というには川端康成を示唆しているか、やはり異界という国との境か、という読解が出てきてもよかったかな~と思います。 ところでWikipediaでちょっと調べると川端康成の「雪国」の【国境】はどう読まれるか(こっきょうかくにざかいか)なんてのが載っているくらい、「雪国」の【国境】の「読まれ方」は諸説あるらしい。川端康成の産まれたのは1899年、明治32年です。そうすると「江戸時代までは藩政が敷かれていたので、日本でも「国境」があってもおかしくはない。」という断定はできない。そういう細かいとこまで知識を広げていろんな作品へ選評(批評)をするようになれば、素顔さんはもう詩界隈で絶滅したらしい「詩の批評家」になれちゃうななんて個人的に思いました。 ツイキャスで「この批評には金がかかってるから」を聞いちゃってずるいんですけど、批評家になるって、金(勉強代)と熱意がいるんですよ。また映画評論家になり損ねたうちの兄の話を出しますけど、働きながらビデオ(DVDだったかな?)含めて年間200本見て、有名な映画雑誌には毎月目を通して、ついでに東大の蓮實重彦ゼミまで取って、ということは東大に入るための試験に受かって、それでも評論家になれなかったんです。映画には興味があるけど、生きている人間(いつか批評を読むだろう読者)には、我が家に伝わる発達障がいの特性上あまり興味を持てない人だったから。それに、競争率も高いですしね、映画評論家は。 でも、素顔さんは本質的には人間を愛しているひとだし、いままで方向性が定まらなかっただけで詩の読解に対して熱意もあるし、こことか、たとえば苦手とおっしゃってた現代詩フォーラムでも選評・批評をしていけばいくほど経験値が詰まれて、詩の批評家になれるかもしれないですね。そうすれば詩の世界も活発化する。どちらにしても読書することや人間とかかわることは、いつかサービス終了してしまうネトゲと違って、素顔さんの力になるんじゃないかな。 面白い選評を拝読しました、これからも応援してまーす!

2
小林素顔
田中修子さんへ
(2021-01-23)

コメントありがとうございます。 「国境」への考察に関しては、改めて「足りなかったな」という気持ちです。それはafterglowさんが書いた作品への敬意という点においてもですし、「国境」という単語に対しての知識はもちろん、嗅覚といえばいいのか、その単語がそこに配置されている意味を掬い取る「勘」とでも言いましょうか。ちょっとWikipedia調べれば出てくる、というその「ちょっと」のひと手間に気付く詩作品への丁寧な気配り、とでも申しましょうか。とにかく「足りなかった」ですね。気を付けたいと思います。 「金がかかってる」発言に関しては、とにかくafterglowさんに失礼というか申し訳ない気持ちでいっぱいで、作品に対しても敬意が足りない発言だったと思います。本当に作品を尊重するなら、そんな恩着せがましいことは言ってはダメだなと、発言してから気づきました。もう書き込んだものは飲み込めませんが。ただ、これから詩の批評に少しでも腰を入れて取り組むなら、それなりの実費は積まないと、詩人に対して失礼だな、という気がしています。 「最も多く愛する者は、常に敗者であり、常に悩まねばならぬ」(『トニオ・クレエゲル』トオマス・マン作 実吉捷郎訳) いつも人間や詩に対しての敗北感に駆られている私ですが、多分、人間も詩も、愛しているのでしょうね。 どこまでやれるか分からないですが、頑張ってみます。 ともかくも、「面白い選評」というお言葉を頂けて、嬉しいです。

3
帆場 蔵人@⚰
作品へ
(2021-01-27)

どこで読んだのか、誤読できる詩が良い詩だ、という言葉を、国境についてどのように捉えるかをやり取りされているのをみて思い出しました。もちろんどんな読み方もありなんだ、ではないと思います。しかし、今回の素顔さんの読解のようにひとつひとつ丁寧に読み解かれるとき、国境を外国を表す言葉として読み進めていくことで元の作品の意図はどうあれ作品に拡がりを与える批評がなされたのではないかと思います。 沙一さんのあの世、この世の境として考えてみるのも一興でしたし僕としては非常に楽しめるものを読ませて頂きました。またこの推薦文を読み、作品を読み返して思ったのは言葉、詩作品は時間や空間を超えるタイムマシンのようだという事です。おっ、と話が逸れてきた。そんな訳で推薦文ではあるがこれに票を投じる事で面白い作品を読ませて頂いた事への返礼としたいと思います。

2
小林素顔
帆場 蔵人@⚰さんへ
(2021-01-28)

コメントありがとうございます。 「クロソイド曲線」は、「誤読ができる詩」である以上に「誤読が許される器の大きな詩」であることは間違いないと思います。詩の醍醐味の一つが飛躍の高揚感であるとするならば、その高揚感を確実に感じられる飛躍の要素があちこちに散りばめられた詩であると私は思います。ただ、「国境」を含めた「境」に関する文化論的な知識が足りないなと今回の選評を書いた後、皆さんのコメントを頂いて思いました。時間/空間論の知識も全然ですし、勉強が必要です。 票を入れていただきまして、恐縮です。改めて、ありがとうございます。

2
蛾兆ボルカ
作品へ
(2021-01-28)

率直に言って、私には作品「クロソイド曲線」の良さがわからなかったので、この批評を期待して読んだのですが、やはりわかりませんでした。 批評の執筆者に共感できない、ということの方はこちらの感性に起因することだから何でもないことだと思うのですけど、できればどこを面白く思い、どこに感動したのか、ポイントが知りたかったなぁと思います。 批評文に記述されてることが、詩作品に書かれていることはわかります。 でもひとは、批評に書かれたそれだけで、詩に感動するものなのでしょうか? 何か、まだ語られてないことで、私が見落としてることがありそうに思っています。

3
小林素顔
蛾兆ボルカさんへ
(2021-01-29)

コメントありがとうございます。 以下、「クロソイド曲線」に対して、私が感銘を受けた要因を、記述していきたいと思います。 1,思い出に対しての「数学用語を用いたエビデンス」の獲得  日本人の多くが「乗り物に揺られた思い出」があると私は思っているのですが、私の場合、「クロソイド曲線」の「車に揺られた思い出のイメージ」が、父子の関係ではなく、伯父の運転する自動車に揺られた思い出として甦ってきました。法事の途中に気分を悪くして出先から家まで送ってもらった車中、自分の情けなさに駆られていた私を気遣う伯父の優しさや、横になった後部座席から見える青空などを、鮮明に思い出したのです。  そんな思い出を呼び起こしてくれた詩が、「クロソイド曲線」という自然科学の用語をタイトルを冠されていたわけで、それが私としては嬉しかったのです。たとえ詩的飛躍をはらんでいたとしても、私が伯父の優しさに触れたあの車内の揺れが、科学的にもエビデンスのあるもののような気がしたのです。「『錯覚ではないんだ』という思い込み」というと矛盾がありますが、そういったものが得られた気がして、私は感銘を受けたのです。 2,物故した父の思い出と第三連の「心象風景の追体験」  私の父はすでに他界しているのですが、その父を喪った私の心象と、「クロソイド曲線」の第三連のイメージは、重なるものが感じられました。 >ナトリウム灯に >群がるように雪がふる >硬く白い路面に >縦型の信号機に雪がふる  私は第三連のような風景を見たことはありません。しかし私の父は雪国の出身で、こうした風景を見たことがあるのかもしれない、と思いました。その寒々しい風景は、私が父を喪った心象とよく似ていると感じました。私はこの第三連から、父の見たかもしれない風景を追体験しているような感覚になったのです。ですので、この詩に通底している「父子の思い出」のテーマを、第三連のイメージから素直に受け取ったのです。 3,ドライブインの風景と「残された家族の風景」  「クロソイド曲線」の第二連は、ドライブインで見た「いつもとは違う顔の父」を描いていますが、私は、父が他界した後、残された家族とともにドライブインで食事をとったことがありました。その時の家族の顔を、この詩によって思い出しました。父が生きていたころ、闘病していたころとは明らかに違う家族の姿がそこにありました。父の顔の思い出ではありませんでしたが、ドライブインの描写から、父をみとった家族の「いつもとは違う」顔を思い出し、これも感銘の要因になったと言えます。  このような「伯父との思い出」「父との思い出」「残された家族との思い出」などの、それぞれには関係のない「肉親への思い出」が、一つの詩の中で思い出され、「クロソイド曲線」という新たに知った、一見すると情緒的な単語とは思われない数学用語を、この言いようのない感情に冠され、「一つの情緒に名前を付けてもらった」たことが、この詩に対して私が感銘を受けた要因だと言えます。  上記の感銘を受けた事項は、私の「思い込み」「錯覚」であることは否定できません。しかし、詩を読んだことの感銘を、客観的情報ではなく、主観的印象で語る試みであることを、ご理解ください。

3
藤 一紀
作品へ
(2021-01-29)

こんにちは。賑わっていて、まずまずですね。 私は小林さんとはちょっと読み方が違っていて、この作品は、すでに思い出しているところから始まってるんじゃないかな、と思ったんですね。車を運転している、それはクロソイド曲線といわれるカーブかもしれないんだけど、とりあえず既に運転していて、思い出しているという設定がある。だから作品内で語られているのは、単純には思い出された内容で、それに対して今の心境が挟まれるという構成ではないかと。そういう設定と構成のなかで語り手の父親に対する見方、受け止め方が変化していくのね。そういうことが語られているんだと思う。運転しながら現在の位置から父親や過去の自分を思い出してる。言ってみれば追憶でそこには距離があるわけなんだけど、最後の一行でその距離がもう追憶とは呼べないあたりのところまでうんと遠くなってる。そこのところはもう言葉にしようがない。 そういうね、もう言葉にしようがないところまで作品の言葉が伸びて言っているのを感じるんです。逐一の言葉がどうとかじゃなくて、言葉の繋がりの総合として、その向こうに伸びていく動きがある。来し方を遥かに望むっていうかね。個人的な記憶という閉じたところからはじまって遠さと広がりへ伸びていく。そこが詩って感じでたまらないんだな。大まかにはそんなところです。

6
小林素顔
藤 一紀さんへ
(2021-01-30)

コメントありがとうございます。 「すでに思い出しているところから始まってるんじゃないか」という読みに、目から鱗と思いました。私自身が詩を映画的なリニアな映像の受容としてしか見ていなかったことを気づかされて、なんだか恥ずかしいです。身体感覚が込められている詩なら、「運転しながら現在の位置から父親や過去の自分を思い出してる」のが自然なのだと、藤さんの指摘で気づきました。 >最後の一行でその距離がもう追憶とは呼べないあたりのところまでうんと遠くなってる。そこのところはもう言葉にしようがない。 言葉の意味を定義するのは出来ても、どこに向かってベクトルが伸びているのかを説明するのが難しい――とタイプしたところで、それすらも、「言葉にしようがない」ものを言葉にしようとしている、無為な行為なのかなと、少し頭を抱えてしまいました。 そして「逐一の言葉がどうとかじゃなくて、言葉の繋がりの総合として、その向こうに伸びていく動きがある」という言葉に、実に自分が小手先で批評もどきを書いていたかということを目の前に出されたような気分になりました。その部分への批評が決定的に足りない、でも今の自分ではその批評を行う言葉がない、それがもどかしい、という気持ちです。 次の課題への進む方向が分かったような気がします。道のりは険しそうですが、行けるところまで行ってみたいと思います。

2
afterglow
作品へ
(2021-02-05)

作者として詳細な読解、またコメント欄にてご自身の体験から再度作品に向き合ってくださったことを心から感謝いたします。 冒頭部分の誤読に関しては気になりませんでした。 描いた世界の記憶は長い年月を経て既にぼんやりと霞んでいます。味覚や父の表情など覚えていたいことが欠落しているのです。 >「55」という数値に何らかの意味を見出そうとするならば、ローマ数字に直すと「LV」である。これは、>「LOVE」の子音のみを取り出した形ととらえることも、「LEVEL」の略式としてとらえることもできる。筆者が考えるに、「促されるまま」「のこりをひとつ、/またひとつ数えて」と「LEVEL」を積み重ねた「LOVE」が「父と子のぎこちない言葉が/すこしずつ解けだした」ことの理由になったのではないか この部分を拝読して、ずっとわからなかったことを読み手である素顔さんが証明してくれたように感じました。

0
小林素顔
afterglowさんへ
(2021-02-05)

コメントありがとうございます。 誤読をお許しいただき、感謝です。 ぼんやりと霞んだ先にある情景への思いというものが伝わってくる詩だと思いましたので、私もできる限りの読解に励んだつもりです。それがafterglowさんの何らかの助力になったとしたら、嬉しいです。

1
のいえられこーず
小林素顔さんへ
(2021-02-14)

みうらです。こんにちは。私は最近になって荒地派を知ることで詩とはなんぞやという命題と詩作品への批評の在り方が激変することに気づきを覚えました。吉本隆明はある所感で、四季の詩人と称して立原や中原と「戦後詩人」つまりは現代詩と近代詩のたてわけをやってるわけなんですけども、吉本の所感に思うこと、それは、「詩の定義」は詩人とはなんぞやの問いへの「答え」であるということです。 長々となりますが、これをビーレビに当てはめ、推薦文について思うところを述べさせていただきます。 最近のビーレビには、詩のビギナーが多くいる。それを優劣で区別すると、「換喩の技法を知らずとも使っているビギナー」こういう人は優れていると評してよいと思う。優れているというのは詩人であるということ。「詩とはこんなもんだろうと短文改行詩で内面及び癒しを書くビギナー」これが多い。そして、もっとタチが悪いのは後者は自身の作品は詩ではないのをわかっています、と開き直りの自己完結をして向上しない人。詩人で「あろうともしない人」であり、詩人ではないという点で劣ると断定します。後者の馴れの果てに、詩を書こうとするあまり「詩人が書いてしまった文」とは真逆にある最も見苦しい文があります。「詩を読んでくれる人たちに宛てた詩のような偽札」は詩人が書いているのか否かで分別をしなければなりません。詩の表現は形骸化し、形骸化された場から詩人は去ってゆくでしょう。 批評性無き読解だけの土壌に懸念を抱きます。詩人を問うことをしない人たち。無論、誰でも詩は書けるのです。子供が書く詩は自意識の扱いが自然だから美しい。大人が詩を書こうとすればするほどにあざとさが出ます。私が特にそのような傾向にあるので見えてしまうのです。他人の作品にも。詩人とは詩を書く人ではありません。詩人とは書いてしまったものが詩になってしまう人なのです。 クロソイド曲線推薦文には合理的に書こうとされた読解の痕跡は読み取れますが、感動の因を作品に限定された引用に依拠するあまり、深みが失われています。それは詩人を問うこと、詩を問うてはいないところに起因します。この推薦文にある普遍性のこと、それについては以下の通り真逆な読みを私はしました。 クロソイド曲線は極私的な思い出を「詩にして他者へみせる」あざとさに満ちています。極私的な思い出を癒しのままに健気にも書いてしまった、という類いのものであるならば、「国境のトンネル」は「トンネル」だけの表現になるでしょう。「ナトリウム灯」は街灯の表現だけでいいし、「55個のカーブ」は余計な装飾で、「のこりをまた一つ〜」とそっけなく続くほうが好ましく受けます。好ましいとは、あざとさ無き極私的な感情を呟く人の言葉に読めるということ。つまり詩人らしいということ。ただのトンネル、ただの街灯、大袈裟な装飾無き名詞によって組み立てられているにもかかわらず、極私的なオリジナルの感情が表出されている、これが普遍な言葉による優れた詩ではないでしょうか。くどくなりますが、これをやれる人は稀であり、詩人です。詩人を見つけようとされない人は永遠に詩を読むことはないでしょう。 「作者の意図読みは作品の可能性を狭めてしまうのでは」という疑念については、作者の意図というよりも作家性まで読まなくては、書かれた語句に限定された読みは広がらないのでは?と逆に問いを持ってしまいます。こちらの推薦文こそがまさに意図読みに満ちている読解でありますことは誰もが理解されることに思います。更にその意図こそが優れていると評した時に、辞書やGoogle検索で見つけた「透明感ありそうな語句」「皆が心打たれるであろう家族や動物や花などのモチーフ」を組み合わせて詩文を書くように、多くのビギナーが向かわれることでしょう。 作品の可能性とはその作者の次回作品への期待も含まれます。ここで指摘させていただきましたあざとさが作者の無意識であろうと意識的な推敲の結果であろうと、次回作にて是非活かしていただきたいと、そう期待するところでもあります。以上、こちらの推薦文を読んで、思いましたところを合評の場であればNGではないかなと、思い切ってコメントさせていただきました。

5
小林素顔
のいえられこーずさんへ
(2021-02-14)

コメントありがとうございます。 みうらさんのご指摘は、私がこの選評文を書いていた際の不安を、ほぼ全て見抜いているといっていいでしょう。 誤解していただきたくないのは、私がafterglow氏の「クロソイド曲線」を読んで感動したのは紛れもない事実であり、その魅力を何とかして他のB-REVIEW利用者に伝えたいと思った意志にも何の嘘はありません。 私の不安とは、私の解釈の虚飾であり、詩人には詩の虚飾はない、という事を申し上げたいということです。 >感動の因を作品に限定された引用に依拠するあまり、深みが失われています。それは詩人を問うこと、詩を問うてはいないところに起因します。 このご指摘は否定できないでしょう。私の不勉強はこの選評文のコメント欄でも皆様からご指摘されている通りであり、また、みうらさんの考える批評の姿勢を考えれば、私は詩人に踏み込んだ批評をすることが出来なかったのは事実です。私は「クロソイド曲線」を鑑賞し、感動し、称賛しました。しかし、それは私の感情を揺さぶられたという主観的なものであり、自分のポリシーに基づいた批評の指標によって、詩の弱点を指摘するところまでには至らなかった。それは私の詩に対する思想がまだ脆弱で、「詩人と詩人とのぶつかりあい」の中で詩を批評することが出来なかったという事に他なりません。 >クロソイド曲線は極私的な思い出を「詩にして他者へみせる」あざとさに満ちています。極私的な思い出を癒しのままに健気にも書いてしまった、という類いのものであるならば、「国境のトンネル」は「トンネル」だけの表現になるでしょう。「ナトリウム灯」は街灯の表現だけでいいし、「55個のカーブ」は余計な装飾で、「のこりをまた一つ〜」とそっけなく続くほうが好ましく受けます。好ましいとは、あざとさ無き極私的な感情を呟く人の言葉に読めるということ。つまり詩人らしいということ。ただのトンネル、ただの街灯、大袈裟な装飾無き名詞によって組み立てられているにもかかわらず、極私的なオリジナルの感情が表出されている、これが普遍な言葉による優れた詩ではないでしょうか。くどくなりますが、これをやれる人は稀であり、詩人です。詩人を見つけようとされない人は永遠に詩を読むことはないでしょう。 「好ましいとは、あざとさ無き極私的な感情を呟く人の言葉に読めるということ。」という視点はとても重要で、たしかに「クロソイド曲線」には無い概念でしょう。そういった詩を目指して書いてらっしゃる方々には、「クロソイド曲線」はお気に召さないかもしれません。 しかし、ここが重要なのですが、「クロソイド曲線」において詩人が選んだ語は――意識的か無意識かは分かりませんが――的確に言葉の距離感が測られていて、抒情を醸し出す絶妙な表現がなされています。「ナトリウム灯」「55個のカーブ」は紛れもなくこの語でなくてはならないと私は考えます。この語だったからこそ「クロソイド曲線」は詩として完成度の高い域に達したと私は考えます。そして、「あざとさ無き極私的な感情を呟く人の言葉」だけが詩の語彙ではないと考えます。私は詩の多様性を支持する立場をとります。 ただ、その発想が私の解釈の虚飾であるという不安はあります。その不安をみうらさんはズバリ言い当てた、ということになります。 >「作者の意図読みは作品の可能性を狭めてしまうのでは」という疑念については、作者の意図というよりも作家性まで読まなくては、書かれた語句に限定された読みは広がらないのでは?と逆に問いを持ってしまいます。こちらの推薦文こそがまさに意図読みに満ちている読解でありますことは誰もが理解されることに思います。更にその意図こそが優れていると評した時に、辞書やGoogle検索で見つけた「透明感ありそうな語句」「皆が心打たれるであろう家族や動物や花などのモチーフ」を組み合わせて詩文を書くように、多くのビギナーが向かわれることでしょう。 作家性への踏み込みに関しては、私はまだまだ反省点ばかりです。私はafterglowさんとTwitterで相互フォローの関係であり、日常的にツイートのやり取りをさせていただいておりますが、こと詩のことに関しての率直な意見に関しては、私は踏み込んだ意見を言えずにいることは事実です。ただそれ以前に、afterglowさんの詩が、今の私の主観では完璧に思えるほど感動的で、粗を探して指摘できるほどの思想が私にないという、私の未熟さに起因しているところはあります。これから、詩人/評者としてどうふるまっていくか、すこし考えさせてください。 繰り返しになりますが、この選評文「人にやさしい曲線」は、私の解釈の虚飾であり、「クロソイド曲線」を書いた詩人に虚飾はないのです。そして、「クロソイド曲線」は、確かに「現代詩」としてはお粗末かもしれない可能性はある。しかし、「B-REVIEWの詩」としては優秀なことは事実です。その証拠に月間賞を獲ったのですから。 そのB-REVIEWの質が下がってきているのではないかという危惧は、私にもあります。むしろ、私もそのB-REVIEWの質の低い詩人/レッサー/批評文書きなのではないかという気さえしています。この点に関して、私にできることは、ただただ自分を向上させること、より真摯にB-REVIEWと向き合っていくことしかないと思っています。 みうらさんのご満足いただける回答ではないという自覚はあります。みうらさんは紛れもなく、B-REVIEWをこの地球上で一番愛していらっしゃる人です。そんなみうらさんに対して、私がどんなに「私もB-REVIEWが好きです」と申し上げたところで、お笑い草です。なにより、過去の酷評コメント企画がつぶれた原因は私です。これは多分、私が一生許されることがないB-REVIEWの歴史の中での大罪です。その過失はどう頑張っても回復することは無いでしょう。 それでも、私はB-REVIEWでの良い詩人/評者でありたいと、今後も頑張っていきたいと思っています。

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のいえられこーず
小林素顔さんへ
(2021-02-14)

返信ありがとうございます。私自身がみえていない視点や美徳があるのだろうなあという気持ちが一方であります。特に(私からすれば)かなりシビアに普段から他人への作品評を書かれる渡辺さんも好評をコメント欄に寄せられていて、やはり私にはみえていない良さがある、あるいは何かしらのバイアスが私にはあるのかもと、再考しました。誤解されるような、ネガティブなコメントをわざわざ書くのには気が引けてました。でも、コメントしてよかったと思います。小林素顔さんの次の批評文を読んでみたいと思えるようになりましたので。 何度も発していることで恐縮ですが、自覚する詩への愛着を周囲の方々と比べてみますと度合いがかなり低い私です。ですので、興味を抱く作者はそう多くはありません。一度読んで何も感じなかった、あるいは自分なりにそうとうな労力をかけて読み、コメントしたけども、「この人はまったくわからない人なんだなあ」という人の作品など二度と読まないです。紀伊國屋書店で3000円の投資先を選ぶ時に絶対に買わない作者リストと同じで。しかし、合評する場の醍醐味は買わない作者リストの人の作品も読まないといけない、あるいは、なぜに感動しないかを述べることにあるように思うのです。おそらくその評は「感動する、感動しない」という生理学的な観点の話になっても仕方がないわけで。 なので、素顔さんからの返信が生理的な感触といいますか、推薦文にない熱量が感じれてよかったです。 (これは、感性の鈍い、文面の奥底を読めない方々のために念のために付記しますが、熱量とは返信コメントの文字数ではありません。) 黙っていても、言葉足らずな人であっても滲み出るものがあったりしますよね。僕は面倒くさがりなので、そのあたりの感覚で分かり合えなさそうな人に、合理的な言葉は尽くせないし、尽くしたくない美学があったりします。お察しかもしれませんが。 重ねて申しますが、素顔さんの次の批評文が楽しみです。

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