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獣の変身   

蛾兆ボルカ 
作成日時 2017-08-13
コメント日時 2017-08-24

 

ひとが時にはゴキブリに変身するように (あるいは水仙に変身するように) 獣も時には変身する 私は嬉しい よく晴れてとても寒い冬の朝 昨夜の夢を思い出しているのだ この数年間、夢にたびたび出てくる不思議なナメクジがいた 私はナメクジが嫌いだ。 そのナメクジ達(だいたいいつも、20頭から1000頭ぐらいだ。「頭」と言ってもどの部分が頭かはっきりしないが。)は、犬ほどの大きさだ。そして何故か目はない。私は彼らを「獣」と呼んできた。 その辺でナメクジを捕まえてきて、飼育してみれば驚くと思うが、ナメクジの食欲というのは恐るべきものである。エサとして人参を与えると、乾電池のようになるまで食べ続け、腹の下にある口から赤く人参が吹き出しいる姿を見ることになり、好きなひとは可愛いとか思うのであろうが、ナメクジ嫌いの私としては恐怖を禁じ得ない。 そんなナメクジのことだから、こんな巨大なのに襲われて食いつかれたら大変なのだが、大部分はあまり危険ではない。動きが遅いからだ。 だが見ていると、いつも必ず一頭がナメクジに在らざるべき高速で移動し始めるのだ。人間の走る速さより少し早く、鳥の飛ぶ速度よりは遅い、私が逃げることを諦められず、しかし必ず追いつかれる速度だ。 なぜそいつはナメクジのくせにそんなに速いのか、長年の謎だったのだが、昨夜の夢でわかった。 昨夜私は夢の中で畑にいた。 季節は早春で、やっと土が溶け、生ゴミ堆肥の連用試験を始めようとしている。 畑は広く、見渡す限り、地平線まで続いていて、既に施肥、耕うん、畝たてが終わって、試験区はきれいに整っている。 あとはここに作物を植え付けるばかりだ。 と、思っているが、よく見ると、例の巨大ナメクジの群れが畑一面にウニョウニョはい回っているではないか。 しかもやや愉しげに、なんかメルヘンチックでさえある。 今回は多い。十万頭はいそうだ。土の中にも相当居るだろう。 どうやって駆除しようか、と考えているうち、例によって一頭が高速で動き始める。あれに狙われたら私の足では逃げ切れない。 描写では誰にも解らぬだろうから説明すると、犬ぐらいの大きさの巨大ナメクジに背中か顔面あたりに貼り付かれ、ナメクジ腹足の中央にあいた口から、鑢舌で少しづつ舐めとかされて削られていく感覚は、何とも言えず嫌なものなのである。 そうしかねない、いや、そうするであろう高速ナメクジを私は見て、息を飲む。 だがどうしたことだ。 こいつときどき、ぴょんぴょん跳ねているではないか。 今まで気付かなかったが、ナメクジの腹足でジャンプはできまい。奇妙である。 遠目にだが、私はそいつをじっくり観察した(そのせいで足元に来ていた別の一頭にかじられそうになったが間一髪で避けた)。 わかった! そいつは、ナメクジの身体の下に、犬みたいな四本足をもっていたのだ。 それでかあ! と、私は夢の中で嘆息した。 光が踊るような、冬の朝 こうして、昨夜の夢を思い出している。 もう私は、あのナメクジの夢はみないだろう。 別れは常に淋しい 悪夢との別れさえ、ある意味では淋しいものだ 石を並べた小道の両脇では、 霜柱がガラス繊維のように陽光を反射していた


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蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-13):

アーティストステートメント 「怪物の多様性」 妖怪とか、お化けとか、怪獣とかいうもの(ひつくるめて怪物)は、人間の想像力の産物と言ってよいのかどうか、ちょっとわからないところがあります。もしかしたら、単純に実在かもしれません。でも、おそらく現在主流の考え方では、それを人間の認識力と想像力のアイノコ産物と考えるのではないでしょうか。 ところで、なぜ怪物にはこんなに多くの、しかし生物種数よりはずっと少ない、「種族」があるのでしょうか。 想像力の産物なら、一匹一種ぐらいで、何億種族もありそうなものだし、実在なら十種族ぐらいになりそうやものです。 私の実生活で、明日にも私の生命が失われかねない、恐ろしい存在と言うと、まずはクマです。次はスズメバチか、マムシかなあ。そらからマダニとか、ヤマビルとかがいて、寄生生物や病気を媒介する生物がいます。クモもゴケグモとかいますし、トビズムカデも嫌ですね。 一つ一つの遭遇リスクはひくいのてすが、やはり恐怖というのは生活の中に結構あります。道を歩いていても、トラック何かは結構な怖さの存在ですね。 怪物がたくさんの種類いるのは、もしかしたら、恐怖を分割、分類するためも知れせん。もし、怪物が一種類しかいないのなら、出会ったら即死てすよね。 それは、クマに対する恐怖とヤマビルに対する恐怖が混ざるようなことで、怖すぎてとてもやってられません。クマに会ってしまったらダメかもしれません。でもクマだからと考えれば、心構えもあるのかもしれません。 この詩はかなり前に作ったものですが、この夢は実際に見た夢で、これを見てすごくホッとしたのを覚えています。どうせこの怪物に殺されるのは、変わらないわけですが。

花緒 (2017-08-14):

ここで書かれているナメクジは、現代社会の暗喩に思えます。社会化されることに、社会に飲み込まれることに躊躇いを感じる作中話者が、その躊躇いがゆえに、巨大で不思議な<ナメクジ>を夢に見ていると、そんな風に読みました。<悪夢との別れさえ、ある意味では淋しいものだ>という詩文が、私には印象的でした。作中話者は、社会との折り合いをつけられたがために、悪夢を見なくなったのか、完璧に社会化されてしまったがために、悪夢を見なくなったのか。なぜ、<もう私は、あのナメクジの夢はみないだろう>という感慨に至るのか。その辺りが書き込まれていても良いのでは、と言った感想も覚えました。

ハァモニィベルハァモニィベル (2017-08-14):

「ナメクジの夢」の後、 「光が踊るような、冬の朝」が訪れるなら それもまたよく、 ナメクジの夢と光が踊る朝を往復するのが、本当の知的人間かも知れませんね。 光で照らすと、ナメクジの夢だったと、後で解る場合も、 偶にあります。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-14):

花緒さん そうかなるほど!と、思いました。ありがとうございます。 寓話における寓意というのは、表面的な意味とは「違う意味」でもありますが、むしろ表面とは「逆の意味」であるケースもあると思います。 おっしゃるように解釈すると、この作品を

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-14):

(続き)非常に鋭利な、有り難い解釈ですね。これはおそらく、寓意詩なのです。 ご指摘の、不足部分についてもよくわかりました。あと少し、例えば五文字ぐらい必要だったように思います。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-14):

ハァモニィベルさん ありがとうございます。 頂いた解釈は、ひとは悪夢を、悪夢から醒めたときに、今は悪夢の状態でないことを実感するために見ている。と、いうセオリーを背景にしたもののように思いました。 この語り手の語る内容は、それで解釈しきれるように思いました。おそらく、おっしゃる通りなのです。朝が美しいとすれば、その美しさの細部に、(私の嫌いな)ナメクジの跡をも含まれていることの発見は、それもまた良し、というしかないことであります。 迷っているときに、地図を頂いたような気がします。 ありがとうございます。

まりも (2017-08-17):

足のないものが、ぞわぞわと這い上がり、舐めまくる、それが「いやだ~!!!」という生理的感覚につながっていた、のかもしれない、と思いながら・・・最後の、なんともユーモラスな「オチ」が、腑に落ちるような、落ちないような・・・。 四つ足だったら(四つ足に「進化」したら)怖くなくなるのか、気持ち悪くなくなるのか。蛇は、這うから気持ち悪いのか(私は割と蛇が好きなのですが、嫌いな人が、あまりにも多いので)蛇に、手足があれば、怖くないのか。 ナメクジの、腹から生えた手足、だけが歩いていたら、どうなんだろう、とか(祝儀さんの、手足がうにょうにょしている作品を読んだ後だから、かもしれません) いずれにせよ・・・気味悪い、どうしても受け入れられない。その原因がわからない、うちは、悪夢ですね。その原因が(たとえ、自分自身を納得させるためのこじつけであっても)わかったとたんに、「悪夢」からは解放される。気持ちの悪さ、謎の怖さ、不気味さ、からは逃れられる。その解放が、一抹の淋しさ、と感じられるほど、余裕をもって接することができるようになる。 そんな、心の仕組みの不思議について、考えさせられました。 文体としては、叙述が丁寧過ぎる、のではないか、という思いも、なくはないのですが・・・「丁寧過ぎる」ことによって、むしろ、カジュアルな「語りかけ」の感じも生まれて来るのですね。これは、新たな発見です。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-19):

まりもさん ご批評ありがとうございます。 足なんかあってもなくても、怪獣は怪獣ですよね(笑)心とは不思議なものですね。 コメントを拝読して、私はカフカの短編に出てくる不思議で意地悪で怪物的な門番についてかんがえめ

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-19):

(続き) 門番について考えたりしながら、うーんなるほどと思いました。ありがとうございます。 文体についても、ありがとうございます。 一見、ユルい選語に見せる文体を、私はときおり好んで選択するのですが、この作品については、作者ながら自信がない、とは言いませんが、まだ切り落とせる感があります。 ありがとうございした。

るるりら (2017-08-23):

題【へんし~ん】               るるりら 嫌いと言われた夜を経て 嫌いとか好きとかが、透明な朝 わたしを ほんとうの名前で呼んでください あなたのお知り合いと同じ名前の ゆきえ ではなく わたしの ほんとうは なめくじです 頭とお尻も似たように やわらかですが、あなたの おしりあいです わたしの ほんとうは 獣です えたいのしれない あなたの しりあいです こころとことばは うらはら わたしに かわいいといっておられたこともありましたよ やさしみをおぼえていますから あたえられた にんじんは 嬉しさで いくつでも ばくばくばくばく よく食べました わたしを ほんとうの名前で呼んでください 何万頭もいるものたちも、わたしと同じ ものどもです わたしは、いまやっと 犬みたいな四本足になりました もうすぐ きっと二本足で立つことでしょう ぴょんぴょんぴょん はねてみせてさしあげましょう 嫌いとか好きとかが、透明な朝 ひかりのように わらってください

るるりら (2017-08-23):

おはようございます。わたしは今、▲という詩を 自身の夢を元に書いた途端に 詩のようなものの一切が、自身から 遠ざかってしまったかのような ある種の別れの感覚にいます。 ▲は自身の夢を題材とした作品でした。そして、蛾兆さんのこの詩も むかしから気になっていた夢を題材にしておられるとのこと。 気になる夢の体現が その人の根幹にかかわっている体現だからかもしれません。 わたしは自分が夢題材の詩のあとでスランプになったので、蛾兆さんも 同じにだと嫌なので、なんとかエールが 書きたくなっています。  文章だとうまく言えないので、蛾兆さんのさらなるご活躍を祈って辺詩させていただきました。(文章以上に、上手には描けないかも、そこは笑ってやってほしいです。)

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-24):

るるりらさん コメントありがとうございます。 (返詩) 山の谷間の、湖のほとりで 私は焚火を見詰めていた タキギをくべようと手に取ったマキに ナメクジが一匹くっついている 眼柄の上の、2つの小さな目が、 たぶん私を見ている 私はナメクジが嫌いだから そのまま火にくべようかと思案する 立ち上がり、 私から2メートル離れた地面にマキを置き もとの場所に戻って、ベツのマキを火に投げる 炎を、 私は見ている たぶんナメクジも炎を見ている ある観点では美しい、ビーズみたいな目で ぬめぬめした肌を、 ある見方では美しく光らせながら 無数の星たちが、私たちを 哄笑しながら 無音で 見おろしている

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-24):

(るるりらさん) 伊藤桂一の「溶ける詩集」という詩を、遠い未来で構わないので、いつか読んでみて下さい。私からのオススメです。 夢は、それを見たひとに、おそらく何かを、時には見つめにくい何かを語っています。しかし、それは詩も同じ。作品は作者に、何かを語ってしまう。作者は作品に、語られてしまいます。 それに耐えて(伊藤はそれを知り、詩から離れましたが)、あなたはスランプ脱出されますことを、願っております。 私たちは、焦らず弛まず、自分の詩作を続けていきましょう。

ハァモニィベルハァモニィベル (2017-08-24):

曖昧のなかを夢中で泳ぎながら、=《体験している》。そこでは、イメージが生きている。それが、見慣れた日常の言葉に置き換えられた途端に死んでしまう。 ホフマンスタールの書いた『チャンドス卿の手紙』のように、書けなくなってしまうという皮肉もあれば、リルケのように、「書く」のではなく胚胎したものを生むという誠実もあるでしょう。 19世紀ならば、ゴーゴリの『鼻』のように、悪夢も現実に戻ってきます(夢オチですね)、20世紀以降は、カフカのように、悪夢は現実のまま醒めることができないのです。 それらは、セオリーではなくて、本質的なことを教えているように(わたしには)思えます。 もともと日常言語で出来ている人の場合は、詩を偽装することしかできないのではないか。 ということです。もともと《詩人》というのは、その内部が、日常言語でできていないのだが、 なるべく、日常言語に近づけて自分の内部を翻訳している、のではないか。 そうすると、発想が逆なんですね。 なるべく日常言語を離れようと、心がける人は、元来の詩人ではなくて、 なるべく日常言語に近づけようとしてるけどオリジナルなことを書いてしまうのが詩人です。 そんなことも、ささやかに、ふと、思います。

蛾兆ボルカ蛾兆ボルカ (2017-08-24):

ハァモニィベルさん ご批評ありがとうございます。 詩作の励みにさせて頂きます。


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