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「花の死体」   

作成日時 2017-07-01
コメント日時 2017-07-08

私の部屋は ドライフラワーであふれている いたずらに触れたら サリと崩れてしまうだろうけれど 私はこの花の死体がいとおしい うつくしいまま かわいたおまえたちは もう水を吸う機能も失くした だから これ以上醜くなることはないのだ 朽ちる事を許さなかったのは私の 美への憧憬ゆえか 死への冒涜ゆえか 崩さぬように、手を触れずに おまえたちを、愛でよう 棺桶の遺体の顔だけみて 綺麗な死に顔ね、と言うように 死んでもうつくしいおまえたちと 生きるごとに醜くなってゆく私と どちらが間違っているのだろうね


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コメント数(8)
花緒 (2017-07-01):

花と死体を対比させるのではなく、すなわち、生と死、美と醜を対比させるのではなく、同一の対象物(ドライフラワー)が生(花)でもあり死でもあるという語りに独特の桐ヶ谷節を感じます。そして、<私>は、生でもなければ、死でもなく、ただ生きるごとに醜くなってゆく、という自己認識。短く平易に読まれうる詩篇の中に、美への憧憬と共に、ただ美しいだけの存在に対する疑問、十分に生きられないもどかしさが刻まれているように感じました。優れた作品のように思います。

まりも (2017-07-03):

手堅い作品だな、と思う一方、論理で組み立てていった、という印象も残りました。 〈サリと崩れてしまう〉この擬音がユニーク。しょりしょり、さりさり・・・と崩れていく、はかなさ、もろさ、薄さが伝わって来るように思いました。去り、と(無意識のうちに)かけているのか、否か・・・。 だから、とあえてわざわざ置くのは、自分自身に言い聞かせるためであるように思います。ドライフラワーだって、崩れたりカビたりして、今以上に醜くなる可能性は孕んでいるのだから・・・。 美への憧憬、死への冒涜・・・ここも、観念に回収されてしまっていて・・・狂おしいような美への憧憬、あるいは、背徳の快感を含む(かもしれない)死への冒涜(死、への、という方向性も面白いですね・・・死に至る過程への冒涜?)その内実に触れて行ったら、読む人を不穏に掻き乱す作品になったように感じます。 最終連が、もっとも伝えたいこと、なのでしょう。生きながら醜くなっていく、それは、「ほんとうに」感じていること、なのか・・・観念として、そのように、自分自身を規定してしまっている、のか・・・美しく枯れている、のであれば、プリザーブドフラワーの方が美しい、かもしれない。 水を断たれて、即身仏のように枯れていった花たちと、水を乞い、生々しい感情のうごめきを感じながら、汚れたもの、醜い(かもしれない)もの、を吸着していく、私、というような・・・ある種の、宗教的な自省を感じます。 でも、「ほんとうに」生きれば生きるほど、人は醜くなっていくのかな・・・醜いって、桐ケ谷さんにとって、どんな感情なんだろう・・・もしかしたら、醜いって、他者からの視線や規定に過ぎなくて、実はいいこと、なのかもしれない、面白い、こと、なのかもしれない・・・というような(詩からは離れてしまいますが)醜さ、という観念の逆転とか、そこに照準を当てていくとか、そういう予想外のひっくり返し、どんでん返し、を、期待したい気持ちもあります。

桐ヶ谷忍 (2017-07-03):

花緒様 コメント頂きありがとうございます。 感覚だけで書いた詩なので、そこに解説のように書いて下さると、私としては本当に有難い思いと共に、やっと、なるほど…と腑に落ちます。 書いてからつらつら眺めていて、対比させている詩だなと思っていたのですが、花緒さんのコメントを拝読し、対比しているわけではなかったのかと むしろ同一のものだったのかと、なるほどという思いと驚きがありました。 自分で書いておきながら、他人様の解説を聞かないと何を書いたのか読み取れない自分のダメさ加減が情けないですが、それだけに本当に有難いです。 どうもありがとうございました。

桐ヶ谷忍 (2017-07-03):

まりも様 コメント頂きありがとうございます。 考えて書いた詩ではないので、論理で組み立てたという印象をお持ちになられた、という事に驚きました。 観念に回収…長々しい詩が嫌いなものですから、つい端折ってしまったのかもしれません。言葉足らずになってしまいました。 仰る通り内実に触れていけばよかったなと反省しきりです。 私にとっての醜さですか…それを書いたら本当にキリがなくなってしまうほど、私には醜いもので溢れかえっているように思えます。 が、敢えてひとつだけ、この詩に沿って書くならば、いわゆる老害の醜さは私は憎しみを覚えるほど、醜悪に思えます。 祖母を実家で介護してから、高齢者の醜さが私を苦しめました。 そしてそれを醜いと思う自分こそが最も醜いと思うようになりました。 ネットをしている老人らしい人を見るにつけても、なんて人間的に醜いのだろうと感じてしまいます。 具体的には「俺の常識は世間の常識」「俺の言っている事は常に正しい」「従わない者にはヒステリックに罵倒する」等々。 祖母を介護するまでは許せていたのに、今では許せなくなりました。そういう自分が、醜くなったからだと感じております。 そしてまた、自分もそういう醜悪な老人になっていくのだろうと思うと恐ろしく感じます。 どうもありがとうございました。

shun kitaoka (2017-07-04):

ご苦労様です。 死を終わりと解釈するか、完成と解釈するか、の二つが詩に在していますよね。 強制的な死、花の死は本来枯れる事にあり、この詩での花の死は絶頂での死。栄えたままの死、です。ですが人は殆どの人が生を使い切ります。そして私たちは、死に囲まれ、生活します。 生を使い切る事は死を浪費していくこと、ですかね。その質量も概念的にも多い人は、いつからか無頓着になっていく。 この詩は、そこな気が付いた、という事を汲み取りました。 個人的には、人は、生存だけで生きてきた動物なんかよりも、遥かに醜い。だからこそ、信仰であったり、芸術、音楽、遊びを産出し、少しでも理性的に生の価値を見出そうとする生き物、だと思っています。 ありがとうございました。

桐ヶ谷忍 (2017-07-05):

shun kitaoka様 コメント頂きありがとうございます。 >死を終わりと解釈するか、完成と解釈するか 言われてみればそうですね、2つのものがありますね。 なんとかして生の価値を見出そうとする、というご意見には全く同感です。 でもその価値も人それぞれで、人類共通で認める生の価値というものが未だに生まれていないのが、救いなのか絶望なのか 私には分かりません。 価値を探す行為すら、うつくしいのか、醜いのかすら…。 どうもありがとうございました。

bananamwllow (2017-07-06):

桐ケ谷忍さん こんにちは。 一連四行目の、 サリと崩れてしまうだろうけれど が詩行全文を底支えしているように読みました。 「サリと」という表現が、それ単独でのオリジナリティというより詩行全文のなかで非常に有効に「耳」に残る。 まったくの自由連想ですが、中上健次『熊野集』の巻頭に置かれた「不死」に登場する〈被慈利〉の足音の表記である「シャナリシャナリと」の不気味さを思い出しました。 この詩行がロジカルに構成されているようにみえて、同時に舌足らずに近いリズムを使用している点に、私は惹かれました。 ただ、「サリと」がなければ、そこまで魅惑もされなかったとも思います。

桐ヶ谷忍 (2017-07-08):

bananamwllow様 コメント頂きありがとうございます。 私は擬音語はあまり使わない方だと思いますので、ごくたまにしか書かないそれに目を留めて頂けて嬉しいです。 リズム、というのも実は気にした事がありませんでした。 頭の中で音読はしますが、ここはリズムが悪いから別の言葉を使おう、といったこともありません。 けれどもそういう、私自身は気にしてなかったところで思いもよらぬ好評を頂けるのは嬉しい驚きです。 気にしない、のではなく今後はそういう所にも少しは意識的に気を配ってみようと思いました。 どうもありがとうございました。

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