純粋ラーメン - B-REVIEW
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PICK UP - REVIEW

食べ物と死ぬ人

目が付いているうちに読みたまえ諸君

傑作。 目が付いているうちに読みたまえ、諸君。他に言うべきことはない。

石村利勝

別れ

余りにも挑戦的、だがそれがいい

数ある一行詩の中でも、想像力/表現力がとても高い作品。最初は(え、これだけ?)と感じることだろう。しかし、これだけ?からの作中世界の広がり方は、これだけ?発言が恥ずかしくなるほど広すぎるのだ。

ふじりゅう

ママンへ

散り際にも見えるママンの後ろ姿

無駄なくそつなく、それでいて大胆にママンに語りかける。「ママンへ」あなたはこの書き出しで何を思い、連ねますか?

stereotype2085

名残の雪

美しいと思える作品だった

美しい空間を、踏む。踏むことで、汚す。踏むことで汚す、明示のされない寂しさ。本作にとって、雪を踏む行為、それだけが個の存在の証明なのだ。

ふじりゅう

例えば鳥の教え

色が付いたばかりの映画のように

情景の転調あるいは繋がりが「色彩」を基調にして、境界をあいまいにしながら広がる。

鈴木歯車

おかあさん

史上最強のタイトル回収

本文たったの6行、造作もなく読み切れ、詩人よ。 そして再度タイトルを見返し驚愕せよ、詩人よ。

さ、さ、さ、

空なんか見てんじゃないよ

淘汰

この詩はあるタイプの詩と詩人を淘汰するべく書かれている と言えば言い過ぎか。 要注目。

stereotype2085

はずしわすれた風鈴が鳴る

やさしくせつない短歌集

かたづけられない想い出、それでもめぐりくる季節——

沙一

春風に吹かれてる

だいじょうぶだあ

《なんてこたあ ないんだよ》 天国から呼びかける声が、聴こえる。

stereotype2085

永遠の反射

名作?それともただの習作?

ただの習作なのかもしれない。が、ここには作者当人も気付いていないかもしれない、天才がいる。俺の直観は当たるんだよ。人生で二回くらいは。

石村利勝

こんにちは まっさらな世界

「まっさら」の優れた表現

あなたの世界も「まっさら」ではないかな? 「まっさら」なのに、書けますか?

南雲 安晴

imagine

パンチング。

今からリーディング界隈を、ノックアウト。

stereotype2085

はっかといちご

詩における視覚要素の決定版

いわゆる視覚詩的なものは作ろうとするとパッと見の奇抜さで満足してしまい、それを行った理由に乏しくなってしまうことが往々にある。しかし「はっかといちご」はその域を超え、結晶の造形だからそこの効果を成せている。

渡辺八畳

独言少女

いつも終電に間に合う人生生きてますか

少女の独言は胸に刺さる。というか萌える。条件があって、少女は本当に少女でなくてはならず独言は本当に独言でなくてはならない。なのでこの詩は刺さるし萌える。

石村利勝

MY 9090 OF NO……

最先端ノスタルジア

なつかしみが 超えてゆく 未来という名のノスタルジイ 

真清水るる

骸骨スフィア

プラトニックな求愛の舞踏

ほろびたゆえに、もうほろびることのない、永遠の愛。それは、幸せか、囚われか——

沙一

人魚性

海、たましいの故郷

素直さゆえに、なじめない人間のせかいにたいする、異邦のかんかく——

沙一

宇宙飛行士の解剖

死因は、孤独

二重の夜に、追い詰められた、かれは、涯のない闇のなか、吊るされた——

沙一

家庭の檄文

悲運

そこには笑顔の絶えない、家庭があった。

stereotype2085

あす

ミのシャープはファ

「ミのシャープ/響かせる笹舟にのせて/送り出してみる」って、やりますねえ。ひねりが利いてて鮮やか軽やか、清新なリリシズム。これぞ令和の”もののあはれ”じゃないですか?

石村利勝

バナナはおやつに入りますか

たもつワールド全開

これはバナナですか いいえ詩です たもつザ・ワールドです

羽田恭

TOKYO

不良天使の幻像

広大さと、小さなもの、神聖さと、世俗的なものの、コントラストに富んだミニチュア——

沙一

風景を食む

我々も本作の出来に食まれていく

この良さは読まぬと分からぬが、読むと確実に心が仕留められる。独特の風景の描写は人の記述がないからこそ冷涼な空気を作り出す。

ふじりゅう

失踪

現代詩が現代であることを実感できる

古風な詩作品から一線を画した作風に我々は驚く。

ふじりゅう

お別れの挨拶

&氏による待望の一作

ロシヤ、という響きの不思議さに、貴方はもう逃れられない。。。

ふじりゅう

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純粋ラーメン    

今朝、通勤バスに乗っていたら、 『ラーメン』が頭に浮かんだ 本当に完全に透明で、本当に完全に真っ白な (透明な白は、論理的には存在しないけど)空間に、 ラーメンが浮かんでた 朝御飯はちゃんと食べてきたから、 そのラーメンは美味しそうじゃなかったし バスの中は暖かかったから 別に温かそうじゃなかったし 回りは何の臭いもしなかったし 他のお客さんの話し声も 意味はわからなくて 頭のなかの、真っ白な(そして透明な)空白に 一杯のラーメンが 浮かんでただけだった 一滴の雨が どこかで土に落ちる そして吸い込まれて消えるとき に、ついて考えていたなら、 純粋ラーメンが 頭の中の空間に浮かんでたら それは思考の邪魔だろうか? (そうではない) 誰かがこの世をさるとき もし、そのひとが 脳溢血による全失語状態なら (例えば僕の母なら) 純粋ラーメンが、 そのひとの頭に浮かんだり するのだろうか (そんなことは知らない) 僕は、そんなことは 何も考えなかったし 純粋ラーメンは 悲しくもなく 美しくもなく ただラーメンでありつづけ 僕にはラーメンなんか全然意味がなくて ラーメンだなあ、とすら考えず それが完全に透明な 完全に白い空間に ラーメンとしてありつづけ バスは森のなかの道を抜けて 僕の職場に近づいていった 一日の終わりに 僕はまた、純粋ラーメンを思い出して なんだか今日は、 いい一日だったな、って 思った (初出. 焔 102号)


作成日時 2017-06-28
コメント日時 2017-07-01

純粋ラーメン ポイントセクション

作品データ

コメント数 : 5
P V 数 : 257.9
お気に入り数: 0
ポイント数 : 0
項目全期間(2020/06/04現在)投稿後10日間
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2020/06/04 23時05分25秒現在
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    作品に書かれた推薦文

純粋ラーメン コメントセクション


コメント数(5)
蛾兆ボルカ (2017-06-28):

(アーティスト ステートメント) 数年前、焰で知り合った詩友として、純粋詩、と言う言葉がこぼれました。 それは僕ら二人の間に ころん、と何かが転がったような唐突さで、そのまま二人、少しだまり、その話はまだ宙に浮いたままです。 その時僕らは 民衆詩派の話をしていたのだし、 口語自由詩の100年の歴史の話をしていました。 面白い話だったしこれからもその話を続けていくのですが しかし僕は不勉強なので、いったい自分がどんな話をしていたのかも、相手が何を言っていたのかも、ここに書くことができません。 ただそのパーツとしてちょっとした小さな一つの課題として 今から 後60年ほど前に書かれた 韻律や改行や古語に頼らない、見た目が小説みたいな散文詩 の一つ について話をしていました。 そういう詩は 口語自由詩の初期からたくさん試みられたし、試みたと言うより傑作と言われるものもたくさんあります。 ずっと昔に そういう形式と 北原白秋の様な もっと詩らしい詩の対立があり、 色々あって、、、。しかし結局のところ、それら二つを共に遠く先輩として、たとえば僕が今書いているポエムっぽい詩が 歴史の先端ではないか、 というようなことを僕は 語ったと思います。 だから今更 この歯茎を 指定してより散文的なものを書くことが詩の先端だとは思わないのだ、と。 話し相手はその時 ポツリと でもご融資が僕は好きだな 憧れるんですよまだあるんだとかな 純粋詩って言うとかな。 と、言いました。 僕が不勉強のためその会話はそこで終わってしまい 純粋詩という言葉はそのままそこに放り出されたその時から僕の課題になっています。 詩らしさに頼らないのは 純粋な詩の本質。何だろう、それは。とも思うし、 そう言いながらそれが詩として読まれるのは 詩らしい詩が あるということを前提に、そこからの距離で存在しているのではないか 。だからあんまり純粋じゃないじゃないかと思うし。 1年ほど前に、「純粋おっぱい 」という書名の私家版詩集をだしました。 僕なりの純粋詩を 探求しています。

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蛾兆ボルカ (2017-06-28):

誤変換  数年前、焰で知り合った詩友として、純粋詩、と言う言葉がこぼれました。 正 焰で知り合った詩友と話ていて、純粋詩、という言葉がこぼれました。 誤変換  だから今更 この歯茎を 指定してより散文的なものを書くことが 正 だから今更この詩形を否定して、より散文的なものを書くことが どうもすみません。  

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花緒 (2017-06-28):

久々に詩を読んで、その鮮烈さに、興奮するという体験をいたしました。 完璧な作品であるように感じました。興奮のまま書き散らかしますので、乱文失礼。 極めて平易な文章で、一文一文書き綴られているように思います。が、内容は難解というか、解釈や読解に回収されない強度を備えているように思われます。否定神学的に、純粋ラーメン、について語られています。純粋ラーメンは、特別美味しいラーメンでも、特別シンプルなラーメンでもないようです。純粋に、観念的な存在なのか、というと、最終文の、牧歌的な締めが、必ずしも思惟的な存在でもなさそうなことを示唆しています。そもそも、純粋ラーメン、という言葉のナンセンスさ。しかし、単純にナンセンスで片付けることもできない、日常と地続きの感覚が伝わってきます。その意味では、単なる空想の産物とさえ言えるものではないようです。極めて平易な文章で、批評に回収され得ない虚構が構築されており、そして強烈なポエジーを感じます。端的に申しまして、こういうのだぜ!!!!と思いました。

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まりも (2017-06-29):

はじめまして。お作品と、ステートメントを拝読しながら、評、というよりは、「おしゃべり」「雑感」になるかもしれませんが、少しお話しさせてください。 『『日本詩人』と大正詩』(勝原晴希編)をぽつぽつ読み進めながら、口語詩とは何だろう、ということを考え続けています。朔太郎による否定の意味。口語(日常語)、民衆に寄り添った言葉、非学術的な、非高踏的な言葉、伝統を強制的に学ばされる行為を前提としない、自由な発話・・・は、本当に詩情を喪失させるのか。 日常の言葉、優しい、易しい言葉・・・によって、たとえば「イデア」とか「本質」とか、そういった哲学用語を用いなくとも、その概念(を思考する、想起するプロセス)の中に生まれる詩情を、表現できないか。 そのような方向性「のみ」に限定するのは間違いだと思いますが、詩の多様性、豊かさへの道筋として、そうした方向性の探索は続けられるべきだし、そこにまた、新しい発見や実りがあるだろう、と思います。 最近出会った食べ物の詩、の中で印象に残っているのは、たとえば瀬崎祐さんの「ミカサ屋」(これもラーメン屋が舞台でした、『片耳の、芒』所収)とか、川口晴美さんの「うどんを食べる」(文学フリマ、ポエケット用の小詩集、『僕たちはおなかがすく』所収)でした。いずれも五感に即した、肉薄してくるような表現で、たとえば「ミカサ屋」では、ポエジーが生まれて来るということ、消費されていく、ということ、記憶の道筋に迷い込む、ということ・・・などの、詩情が生まれて来る、その源泉が問われていく。「うどんを食べる」は、うどんを食べる、という行為の触覚や、呼びかけ、という文体の強さによって・・・官能の喜びと、愛し合う二人がせめぎ合い、奪い合い、求めあう・・・その瀬戸際に生まれる交情、その関係性そのものを描き出していく。 食べる、という行為は、生きる、行為でもある。生きる、行為である、ということは・・・この世との関係の在り方、にも繋がっていく。 日常では、いちいち、そんなことを考えていないし・・・とらわれていたら先に進んでいけない、けれど・・・だからこそ、今、ここで、生きているって、なんだろう、どんなだろう、どうすればいいんだろう、そうした、答えにならない問いを、答えが出ないからこそ、訪ねていく。その行為が、詩情を求める行為、なのだろう、と感じています。 ボルカさんの「純粋ラーメン」と「純粋詩」を巡る問い。 「純粋」なラーメンは、食欲からも切り離されているのでしょうか。 はたして、それはラーメン、なのか?観念だけで、人は生きて行けるのか? 「一滴の雨が/どこかで土に落ちる/そして吸い込まれて消えるとき/に、ついて」 考える、ということ。それは、日常生活で囚われていたら、暮らしていけない、社会生活においては「無駄」な思考でるけれども、人として生きる、その豊かさにおいて、もっとも必要なポエジーに連なる思考なのではないか。 一滴、という存在が(そこに生れ、確かに在った、ものが)消えて、無くなる、ということの意味。 「誰かがこの世をさるとき/もし、そのひとが/脳溢血による全失語状態なら」言葉を発しない、その人にとって、存在が語られない、思考が語られない、その事態は、「存在しない」ことになるのか。たとえ言葉によって語られなかったとしても、そこに想念、イメージは、生じているのではないか(他者に伝える、その手段が、なかったとしても) 食欲をそそらない、匂いも触感も味わいもない、観念だけの・・・ラーメン。純粋なラーメンのイデア、のようなもの。物であること、存在であること、の上澄み、のようなもの。美しいかもしれないけれど・・・純粋かもしれないけれど・・・それって、本当に「ラーメン」なのか?と問いかけつつ、そうした、体を養う糧になるわけでもなく、遥か遠い場所で、土に吸い込まれていく一滴の行方を想うような、そんな「日常においては、まるで役に立たない、かもしれない」想念を、豊かに思い描く、その時間を持つ、ということ。その瞬間に出会うことができる、ということ。 日常から切り離された、詩情の生まれる場所、に到る、そうした瞬間のことを、ラーメン、という、ユーモラスというのか、あまりにも身近で日常的な食べ物、その物質性を削いだ(削がれた、上澄みのような)純粋ラーメン、というイメージで描こうとしている。そのことに驚きと、新鮮さを覚えました。 あまりにもとりとめのない雑感で恐縮ですが・・・ 個人的には、前半が丁寧過ぎるような印象もあり・・・後半の展開部分を、もっと早めに出してもよいのかな、とも思いましたが・・・この、ゆったりとした時間が、読者を無理なく連れていく速度、でもあるのかな、とも思います。

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蛾兆ボルカ (2017-07-01):

花緒さん、まりもさん ありがとうございます。 細部まで味読してくださり、また激賞頂き、大変励みになります。前半が丁寧過ぎる(もたついている)ような印象、または疑問についても、忌憚なくコメントしてくださり、嬉しいです。 まりもさんが上げておられる詩書を私は読んでいないのですが、詩の現在を捉えようとする意識のなかに、私とも共有する問題意識もあるのかもされません。 もしいつか、機会がありましたら、「民衆詩派ルネッサンス」という、最近の評論を手にとってみて頂けると幸甚です。口語自由詩の歴史を見直し、詩の現在を、ちょっと新鮮な観点から考える一書だと思います。 この詩を書いたとき、私にはイデアという言葉を隠喩と並べる意識はありませんでした。 この春、小説「騎士団長殺し」を読んでイデアという言葉に出会い、今また、まりもさんから、イデアという言葉との出会いを拙作への批評の中で頂き、大変嬉しいです。

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