B-REVIEWユーザーの皆様、平素お世話になっております。
7月の月間B-REVIEW大賞ならびに選考委員個人賞が決定したため、ここに発表いたします。なお、7月の選考委員は

羽田恭

藤 一紀

白目巳之三郎

服部 剛 (外部選考委員)

帆場 蔵人

が務めました。

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目次

・大賞並びに個人賞発表
・選評
・月間最多投票数作品ならびに投票作品発表
・雑感

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・大賞並びに個人賞発表

月間B-REVIEW大賞

真清水るる「」 

個人賞

羽田恭賞 

桐ヶ谷忍「田園

藤 一紀賞 

多宇加世「シロナガス プロパンが

白目巳之三郎賞 

パワフルぽっぽ(横山はも)「あるいは、愛のこととか

服部 剛賞   

斉藤木馬「落雁(音声版)」 

帆場 蔵人賞 

エイクピア「連れて」 

・選評

大賞

今回の候補の中でも軽妙な作品です。

 自分個人として、最初この詩を読んだ時は、正直困惑しました。
作品中に点在する「し」。
何を言いたいのか。
詩、死、屍、私、史、視、使、詞、資、至、思、四、氏、趾、雌、紫、支、子、紙、志、士、飼、嗣、試、獅、指、始、歯、司。
し。しが表す意味は多い。でも二連目。

どちらでも いい し

ああ、なんでもいいのか、と気づくと気持ち良かったです。

では一連目。

だれにでも し は、ある

「詩」か「死」を当てはめて読むことが多いとは思います。
誰にでもある「し」は誰かのものでもない。
何を意味するのか。
誰にでもある“し”。
「詩」かな、でも「死」にしても意味は十分通じる。
それとも「師」? 「私」か? 「思」?
それは読む人次第でしょう。
つまりこの作品において何を体験するのか、その人の“し”次第。
ある意味投げ捨て、でもそれが楽しい。
その一連目で“し”の溜が作られ。
続く二連目。

し は、
どちらでも いい し と、いう顔をしていたが

その“し”とは?
さっき書いた通り“どちらでも いい”なら“なんでも いい”と言える。
諤々と言い合いになるかもしれない。
それでいい。それがいい。なくてもいい。どちらでも、なんでもいい。
そんな問いにここで鎮まり

この瞬間、水を得て。

飛び跳ねる三連目。

今朝、雨の匂いがして
しの 尾鰭がひるがえり

ひらがなの“し”の跳ね。それはまるで活魚の尾。
動き出す。

バタフライで ひとっとびに はねあがる
し の、飛沫

詩が勢いよくその人を駆け巡った! のか。
死が生に変わった! のか。
師の偉業がまざまざとよみがえった! のか。
私がここにおいて魚のように飛び上がった! のか。
思いが生き生きと舞い上がった! のか。
一体なんなのかわからない“し”が今、詩へ変貌した! のか。

 それは“どちらでも いいし”つまり“なんでも いい”。
この瞬間、この作品『し』が跳ね上がったと言えるかもしれません。
この『し』を読む、人の気持ちと共に。
 
 自由さ、軽妙さ。
それに緊張とそこからの解放感。
湧き上がらせる気持ち。
そんな『し』を評価したく思いました。

(選評:羽田恭)

・個人賞

羽田恭 賞 

田園」 桐ヶ谷忍

水田からやわやわとした

赤ん坊の頭が生えてきた

それが

たわわに実った無口な老人になった頭を
やはり含蓄深い顔の老人が刈り取るだろう

になってしまった! その上食卓では

私は老人が嫌いだから
毎朝のご飯は卵かけご飯で
黄身と醤油でぐちゃぐちゃにして食べる
栄養満点

無残にも保っていた姿すら否定され、跡形もなく食われてしまう。そう、命を日々食っているのだ。命を食べる事を主題にした詩はあるだろう。命を擬人化させたのは稀有だ。しかもそれを日常の風景として。
 あまりに日々の事で忘れるけれど、食べているのは生々しい命だ。 捨てられているのを見ると悲しくなるは、そのせいか。この田園の世界ではどんな光景になるのだろうか。 お茶碗いっぱいのご飯は、全て生首だったかもしれない。 ごちそうさまでした。

藤 一紀 賞 

シロナガス プロパンが」多宇加世

 冒頭から意味不明。なにが語られているのか読みすすんでいるうちに見えてくるかも、と読みすすんでみたがさっぱりわからなかった。各連の関係が断ち切られているばかりか、行ごとの意味形成も切られている。しかし読んでいるうちに作品の言葉によって作られたリズムと不明さが身体に入ってきて愉快な気持ちになってくる。詩はなにが語られているのかわからなければならないものとは限らない。それを思い出させる魔術的な明るい暴力が感じられた。

白目巳之三郎賞

あるいは、愛のこととか」 パワフルぽっぽ(横山はも)

この詩の尻軽さがなんとも心地よい。気持ち悪いはずの言葉がなぜか心地いい——。
 『きみだけはキスだけの関係でいたいんだ』——最悪。一生で一度も言いたくない、聞きたくない言葉の一つ。
 『最近は、いくら書いてもひたすら文字を拾っているみたいにしか書けなかった。』——最悪。詩人としてそんなことをあけすけに書くなんて信じられない。殺したくなってくる。
主体の現実感がチープ過ぎて深みがない。
 このチープさがなかなかなかなかに麻薬的なのだ、困ったことに——『ちょっと違う。今度は大きく違う』——主体の気持ちの悪い現実感と非現実感がこの詩にはいれこになって出てきている。
 『最近は、いくら書いてもひたすら文字を拾っているみたいにしか書けなかった。』のあとに、自分の由来をお母さんが『食べた冷凍ミートパイ』だとかお父さんが『打ったパチンコ玉の輝き』とか『ハリケーン・ジョニーの吹き飛ばした黄色い屋根』とかに求めているのが面白い。『きみだけはキスだけの関係でいたいんだ』という彼氏は『とくべつな免疫ウイルスを持っている』男だというのが面白い。そして弟は主体の意志とは関係なくわけわかんないことをしているわけで。フロリダを出産する物語って(笑)この非現実感。『プリーズプリーズ・ミー』によって『人生で口にする言葉がおおむね決められている』女なんて現実で会いたくもない。
 どこかアメリカの現代文学を思わせる乾いた文体は日本語というものが持つ湿潤さという枠組みを拡張することの一つの足掛かりを感じさせる。いわばこの詩はメンヘラ女子のたわごとなわけだが、そのたわごとをこの文体に載せると内在的にメンヘラ女子的宣誓が普遍性を持ってくる。
自分の後ろに続く布、「かぐや姫の物語」、って言いたいのかもしれない——。

服部 剛 (外部選考委員)賞

落雁(音声版)」 斉藤木馬

 海辺の風景を通して、理屈ではない生の感覚が伝わる詩です。「私」が海の風景と対話するような深い感覚は、読者をも海と語らう世界へと誘(いざな)います。読めば読むほど潮の匂いと共に、詩の中にいる「私」の胸に秘める決意がじわじわ…届きます。
 海に近い宿?で飯を食う場面も、「私」の過ごす時間の静寂と緊張感がイメージできます。また、優れた詩はときに映画の断片のように思えますが、まさにこの詩は凝縮されたいくつかのシーンが視えます。
 1点だけ、読者の視点でぜいたくな要望をお伝えすると、この詩は妥協のない作者の確立された詩世界であり、節々の言葉も動かしようのない完成度です。もし、優れた詩人である斉藤さんが、この詩世界にひとさじの大衆性を入れたら(明らかにほっとさせるというより、密かに潤滑油をさしたら)どうなるか?も、見てみたい気がしました。
     * * *
 また、この詩は7月の詩の中で、唯一朗読の動画として投稿されています。斉藤さんはクオリティのある詩を書くと同時に、優れた朗読詩人でもあります。ときにテキストが映画の断片ならば、この朗読からは舞台の雰囲気も伝わります。
 斉藤さんはテキストを妥協なく仕上げるのと同じく、朗読の表現にも妥協がありません。詩の箇所により、リズムと抑揚のある読み方で、声質も含め、プロの朗読です。詩は根本的に活字であることは大事ですが、この動画をみると、朗読の声の表情だからこそ、伝わるものがあることに気づきます。
 私が今迄出逢った多くのポエトリーリーディング(朗読)の詩人の中で、テキストと朗読のクオリティを両立し、魅力のある詩人が幾人も思い浮かびます。詩の言葉を伝える手段として、この動画で効果的な海の風景を含め、詩人の肉声による朗読のライブで伝える可能性があるということ。そこには魅力ある人間の生の詩の言葉が存在しています。今回の選考で、私は純粋にテキストの良さで『落雁』を選びましたが、同時に、斉藤さんはテキストと朗読を両立している詩人だと、改めて思いました。

帆場 蔵人賞

連れて」 エイクピア

 起、がない。この作品では突然、意思がホウキに化けて牙が冷えはじめる。ホウキに化ける意思、は何が発端で発生したのだろう。この作品はおよそ三つの連に分けられるが、起承転結でいう起、発端となる出来事が読み手には開示されていない。

○起→ここが描かれていない。
※例えば連絡帳に何か書かれていたのではないかなどが考えられる
○承(本文が始まる)
自分の意思がホウキに化けて
牙が冷えて来た
○転
牙でホウキを操作する無茶な試みに
連絡帳が凍り出す
連絡帳が朝のお茶をにがくする
ベランダの鳩の糞を
ホウキで掃くと
連絡帳が腐り出す
漢字ドリル帳が飛行機となり
大空を旋回し出す
○結
私は草取りに出かける
ホウキは家に置いて
石崎君だけを連れて

 エイクピア氏の作品はいつも謎に満ちている。シュールな出来事が綴られているが、それがまったく無意味なデタラメではなくちゃんと何がしかが物語られている。それは序破急や起承転結などの構成がしっかりとされていて、それを起点にどこを語り、どこを語らないか、意味が連鎖してくれる言葉の取捨選択や置き換えが絶妙な塩梅で行われているからだと思う。

 なので、この作品に於いても起承転結の起が語られていなくても作品が崩壊しない。そして語られないことで見えるようで見えない、チラリズムではないがわかりそうでわからない、だけど気にかかる。読み解きたい、こうでもないああでもない、と読み手はもどかしくも楽しい読み解く作業にまんまと誘い込まれていく。エイクピアマジックである。ちょっと自分なりに読み解いてみるかと考えていたが、しかし、なんとしたことかコメント欄を迂闊にものぞいてしまった僕はエイクピア氏が石崎くんは様々な解釈を許すように配置してみました、と書かれているのを見てしまった。(そうなると石崎くんはカブトムシの名前とかでも読めてしまうのだが……) つまりは起の部分に何を当てはめるかで様々な物語が生まれてくるようで面白いと言いたいわけですね。万華鏡のような面白さを感じる今作を個人賞としたいと思います。

・月間最多投票数作品ならびに投票作品発表

なお、月間最多投票数作品並びに投票作品一覧は以下の通りです。

月期最大投票数作品 
貝化石(杜 琴乃)、隅中の実在(渡辺八畳)、田園(桐ヶ谷忍)、頭の炭だけで(田邊容)、終始点(白川 山雨人)、卓上の海(帆場 蔵人)

○投票作品一覧

卓上の海3票
貝化石3票
隅中の実存3票
田園3票
頭の炭でだけ3票
終始点3票
おぼろ2票
落雁(音声版)2票
梅雨も明ければ2票
検閲アレキシサイミア2票
拝啓、イタズラ好きの君へ2票
シロナガス プロパンが2票
雨粒1票
心は理屈じゃない1票
夏、呼ばれる1票
連れて1票
イリデッセンス (三篇)1票
僕のからだが生まれた時みたいに綺麗だったら1票
ああ濁る瞳1票
死ね1票
錆世1票
女子高生1票
さよなら1票
だだ!1票
展翅1票
1票
ここのこと1票
詩を作るということについての一省察1票
15 minutes1票
海老と七夕1票
つぎつぎに潤う1票
君と梅雨1票
#LIVES1票
リズム合わせ歌(100パーセント書き換えた替え歌) 3作品1票
もう、1票
Cleanser1票

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・雑感

 さて気がつけば盆も過ぎて8月が終わろうとしている。この暑さのなかでマスクをつけているとは去年は思ってもみなかったが、それでも日常になってしまうのものである。そんななかビーレビでは新規ユーザーの投稿も活発にみられ大賞選考にも作品が食い込み最後まで候補に残っていた。それは一服の清涼剤となる変化であるのかもしれない。

 今回も投票で2位以上の作品から2作品、投票された作品のなかから1作品まで選べる形式で各選者が1~三作品を選び、そこからさらに大賞を選ぶ方式を採った。以下が各委員が選んだ作品とその評である。


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羽田恭選
①『田園』 桐ヶ谷忍(選評は個人賞参照)

②『し』 真清水るる
 漫画「あっかんべぇ一休」で一休が長くつぎはぎした紙に太い筆で一気に長―い直線を書き、最後の最後で返し、「し」の文字を書いたシーンがあった。
「いろは歌の“あさきゆめみし”の“し”だ。死にも通じる」と言っていた。この詩でもそれに近い「し」の意味があるのだろう。そしてもちろん「詩」の意味も。「し」は詩、死、屍、私、史、視、使、詞、資、至、思にも繋がる。

し は、
どちらでも いい し と、いう顔をしていたが

 とは言いつつ「し」は善い方向を指し示していそうだ。「し」その分だけ、この詩も広がっていく。恐れ忘れ尋ね、飛沫上げ飛び上がる。その人にとっていい「し」であるかのように。

③『梅雨も明ければ』 AB
 まず一連目の六月二十三日について言う必要がある。この日が沖縄戦の慰霊の日だ。つまりこの詩の寂しさはここからやってくるのだ。
 何分生まれも育ちも労働も北海道なので知らない単語が出てくる。壺屋、久茂地も沖縄の地名。射干はアヤメ科の花。右下の特徴的な花がそれだった。北海道には生えていない。また斫るとは石やコンクリートを砕く事らしい。

一連目
沖縄戦を前提にすると見え方が少し変わる。
金属が湿っているのは沖縄の熱帯からくる湿気によっていたのか。
なのに舌が乾くのは、水を飲めなかった戦死者か。
信号の点滅はそんな彼らからの通信か。

二連目
となると、蛍は魂か。
沖縄の焼野原になった久茂地にも被害が少なかった壺屋にも各所に回り、そんな日は酒を飲む気がしない。
蛍袋に主は今日いない。

三連目
そんな沖縄戦の生き残りだったかもしれない祖父。蛍袋と同じくその家は今日から主がいなくなる。シャガの花が家守のように。

四連目
そして喧騒は国際通りか。それぞれ日常を過ごしながら忘れている。月がその顔に切りつける。

ニャー。これは鎮魂だったのかもしれない

藤 一紀選

①『頭の炭だけで』 田邊容
 この作品が具体的に何を語ろうとしているのか掴めないのですが、にもかかわらずこの作品を読むと感情を強く揺さぶられてしまいます。それは深い悲しみにも似た感情なのだけど、そういうふうには名状しがたいものです。で、なにがどうしてぼくの感情を揺さぶるもとになっているんだろうと考えているけれど、それが判然としない。ただ、これは〇〇を意味している、とか、ここは云々の理由だ、と、ぼくたちの日常言語に置き換えて語り直したり、解釈というフィルターを通したりするよりももっと直接的に働きかけてくる言葉というものがあると思っていて、この作品のそうした言葉のありようにふれて、はっきりとした理由もわからないのに心が震えてしまうのだろうと考えています。なんの説明にもなっていないですね汗 しかし、作品の核みたいのが強くある。あるけれどもそれを日常言語に置き換えて語るのではなく、核に正直に向き合ってわかりにくくとも嘘でない言葉の世界を構築しようとしているように思います。だから日常言語とはとても遠い位置にあるように見えてしまうんじゃないか。

②『隅中の実存』 渡辺八畳

無感動に曇った午前には
雀の泣き声も軋みみたいなもので
奴らは散らばったねじだ

「雀の泣き声」が「軋み」ということはないし、そのように聞えるということもないのだけど、「軋みみたいなもので」と語られることによって「曇った午前」の空気という無形のものがまるで軋む音を立てるものであるかのように物質的に感じられてくる。また目には留まってもその存在を存在として明確には認識しにくい《雀》を《散らばったねじ》と無機的な物質に喩えることで、その存在感を明確にしている。こうした無形のもの、認識しがたいがために見過ごしにされている存在が、言葉を通して、あたかもモノのように手触りを感じられる形になって現れていく。

掃き捨てられるこの時刻には

とあるようにここでも《時刻》が《掃き捨てられる》モノとして扱われている(ぼくは《小数点以下のゆらぎ》がその時刻の存在に具体性を与えるのに一役買っていると思うのだけど)。生活のなかで認識されがたく意識されにくいものは多い。それが物質的に表されているのを読むことによって、日常に馴れすぎてしまったために多くの物事を見過ごしていることに気づく。ゆえに

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社用車さえも通り過ぎるだけで

の《社用車》は《通り過ぎるだけ》なのだ。いや、通常《社用車》はだいたい《通り過ぎるだけ》なのだが、ここでは通常ぼくが気にも留めない車のひとつではなく「明らかに通り過ぎる《社用車》」としてはっきり見えてくる。それらは確かに在るのだ。ところがその存在をぼくが見過ごしてしまう。そのため、それらは存在しないかのように処理されてしまう。存在物が在ることによって自らの存在を語るとしても聞きとられなければ無いに等しい。それだけに

認識されないことでの沈黙

は重く、暗く響いてくる。というのは在りながら認識されないがために沈黙とされているものが在り、それらが一つの重量をもった塊(モノ)であるかのように感じられるからだ。これはまさしく《固化していく重さ》であろう。「認識されないがためにその実在を見過ごされてしまっているものたち=沈黙」はたしかに夜の沈黙と比べると重く感じる。それはぼくの意識のありように関わってくるからだと思う。

秒針が静止している その刹那に
家主が留守にしている部屋では
扉が閉まりきっておらず
カーテンが弱く発光しながら
微生物みたいな埃が膜を張っている

一連目が外の世界を流れる時間に焦点があてられているのに対して、二連では視線が部屋に向かう。しかもここでは時間は《秒針が静止している その刹那》である。それまでの時計の動き(時間の流れ)を止めることで、そこに映る光景を映し出す。カーテンにあたっている光、そのなかで立つ埃。人がいない時、部屋はもっとも部屋らしい、と思うことがぼくにはあるが、それを在るものを通して描き出している。

その 薄暗さの 中には
なにもいない

 そこには《なにもいない》のだが、ぼくが居ながらにして見過ごしている多くのもの(存在)が沈黙として在るに違いない。見過ごしてしまいがちになってしまう物事の存在に質感を与えて明瞭にしていく言葉の置き方、構成、流れる時間と静止した時間の対比、これらとおよそ否定的消極的な語によって抑えられた語り口が重なり合っていて読む度に腹にずっしりとくるものを感じます。それでいてなぜか眩しい。

白目巳之三郎選

①『卓上の海』 帆場 蔵人
 ギャグなところがいい。『アミノ酸でも、足そうか/光合成しないと駄目なのか』というところでくすりと笑ってしまう。台所の風景から四十億年前の海に遡ってしまい、ただそれがマジじゃないのがいい。ある種の逃避行は、いわゆる現実逃避でなく、ギャグだ。しかもそのギャグから主体は真実を見つけてしまった——もう後戻りは出来はしないから/四〇億年前の海を窓から降らせた。
現代において自分の世界に逃げ込むことは往々にしてありがちであるし、それが批判されたりもするが、ある種自分の世界に逃げ込んだ先の希望を語っているところがなかなかに。詩が人々に寄り添いながら、人々を批判しながら、それでいて優しさを提示するものだとするならば、この詩は美しい。

②『田園』 桐ヶ谷忍
 うまい!の一言に尽きる。稲穂の一生を人の一生に例えているその比喩は、現代的な気持ち悪さに貫徹されていて、現実感がある。(もはや普遍へと広がっているかもしれない。)『栄養満点/今日も元気におつとめします』という部分がかわいい。それでいて最後には『大きくおなりね、と/自転車のペダルを強く踏み込んだ』という大きな肯定感がある。ある意味お手本のような詩。ただ作者しか書けないオリジナリティーがある。詩の比喩という面と伝わりやすさという点から突出している。

③『おぼろ』 AB
 作者が拾ってきた音があるなあと感じる。個人的には唯一口に出して読みたくなった詩。最近は黙読する事を目的として書かれた詩というのも多々あるのかもしれない。その中で音読することによってさらに趣深くなるのは、まれなのかもしれない。テーマを明確にしようとすると(言語化しようとすると)取りこぼしが出てしまう、そんな部分を感じる。不思議な風合いが漂っていてとても好きな感じ。

服部 剛選

①『落雁音声版』 斉藤木馬 (選評は個人賞を参照)
②『拝啓、イタズラ好きの君へ』 入間ちかa.k.a なぞみん  
 この手紙スタイルの詩を読んだ後、何ともいえない爽やかな風が私の胸に吹きました。読ませる力のある書き手であり、構成力もあり、魅力ある世界観です。  手紙で語られる「君」は肉眼では見えない存在のようで、具体的には書いていませんが、私はかけがえのない死者を想起しました(読者により想像は自由です)。変わらぬ想いが届いても届かなくても、明るく「君」に語る「私」の人柄がよく伝わります。  手紙形式で書いているためか、入間さんは意図的に詩的な描写を抑えている気がします。他の作品では人に伝わる優れた詩の言語を書く人だと思うので、今後が楽しみな詩人です。
③『つぎつぎに潤う』 真清水るる  
 この詩で優れている点は、「植物のもつ治癒力」を示唆しているところです。とくに〈モウセンゴケも~中略~少女といっしょにうずくまり/内側から光るのを 待っている〉というのは、とても深い感覚だと思います。真清水さんは独自のよい感性をもっているので、誰もが想起する日々の風景を融合して詩作したら、より説得力のある詩になるのではないでしょうか。

帆場 蔵人選
①『検閲アレキシサイミア』  みつき
 冒頭の一行でPing(ピン)というプログラム用語を使いながらも何か詩的な空気が漂った所にそれを聴いてげらげら笑うときておやっ、と足場を避けられたような気分になるのが面白い。アレキシサイミアという言葉を学んだのは学生の頃だったので思い出せず調べてみると心身症の症状なんですね。失感情。「自分の感情を表現する言葉を見つけるのが難しい」ということでした。この詩のなかの言葉は意図的ですが支離滅裂とまではいかないものの文脈を捉えにくく構成されている。だけどちゃんと語りたいことがありそれを上手くズらしている。そこに上記の失感情的なものが絡んできているのだと思える。

わかりません 勝つまでは
炭で塗らない裏手のパトロール
くだらないな これならとうります
それはそれでだめ

でも、ズレているのに読み手をはなさないものがある。例えば欲しがりません、勝つまでは、をもじっていて読み手は全体の意味はともかく詩に入っていくに当たってうまい足がかりだと思う。一行目でつかまれた作品です。

②『隅中の実在』  渡辺八畳
 何気ない昼の情景のなか在る中に確かにない、ということが実感を持って語られている。言葉で、詩で、描くことの意味を考えさせられる逸品。日常、あまり誰も気にしないようなゆらぎ、誰も観るものがいないはずの部屋の情景、

扉が閉まりきっておらず
カーテンが弱く発光しながら
微生物みたいな埃が膜を張っている

 前半の描写がこの情景へと導いてくれる。読んでいるとその薄暗さのなかをじっと凝視してしまうようなものを感じます。

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 以上の11作品が候補として挙げられた。議論のなかで 『落雁(音声版)』、『し』、『拝啓、イタズラ好きの君へ』が残り、最終的に『し』と『落雁(音声版)』に意見が別れ多数決で『し』が大賞となった。本当にぎりぎりまでどちらに転ぶかがみえなかった。
 真清水るる氏の作品『し』は詩を書いていれば(読んでいてもそうだが)誰もが一度は思うだろう、詩、とは何かという根本的な命題に触れたものだといえる。『し』という作品には動きがあり、まさにいま見ているかのような躍動、生命感がある作品であった。対する斉藤木馬氏の作品『落雁(音声版)』は静である。背景に語られない人間の人生があり、それは様々なものを通して静かに描かれていく。その世界観は深く奥行きがありじわじわと染み入ってくる作品だ。(斉藤氏のリーディングについては外部選考委員でポエトリーリーディングに造詣の深い服部氏の選評を是非読んで頂きたい)。
 今回の選考では「はじめて詩を読む人」や「詩を読み慣れない人」への視点についても議論された。 そういった視点からも入間ちかa.k.a.なぞみん 氏の作品は完成度もさることながら誰もが触れやすい詩とは何かを考えさせられるもので、選考委員の間でこれから大いに期待したい書き手だという意見が挙がった事も忘れずに触れておきたい。
 今回の選考は私が参加したなかでも特に議論が深く濃いもので、このやり取りを通して読めなかった作品への理解が大きく深まるという体験を得た。素晴らしい作品を投稿してくれたユーザーと活気ある選考を展開してくれた選考委員の皆さんに感謝意を贈りたい。そしてこうした合評がビーレビに深く根ざしてくれることを強く願っている。

(雑感 文責 帆場 蔵人)

以上で7月選考の発表とする。

2020.8.27 B-REVIEW運営/B-REVIEW選考委員 一同

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