作品投稿掲示板 - B-REVIEW

原口昇平


投稿作品数: 9
総コメント数: 84
今月は9作品にコメントを付与しました。
プロフィール
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プロフィール:
なぜ学び、教えるのか? 自分が誰の奴隷にもならず、誰も自分の奴隷にしないためだ。 1981年熊本生。詩人・産業翻訳者。

原口昇平の記録 ON_B-REVIEW・・・・

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選評

2018-04-05

 表題から分かることが少なくともふたつあります。  ひとつは、このタイトル表記はイタリア語圏のものではないということです。イタリア語圏におけるタイトル表記は、ふつう全体の最初の文字だけを大文字とします。  もうひとつはより重要です。すなわち“Allegro”と“Tempestoso”はそれぞれよく使われる西洋音楽の用語ではあるのですが、しかし結びつけると若干の齟齬を感じる言葉だということです。“Allegro”は、普及した音楽用語としては単に「速く」を意味すると思われがちですが、もともとのイタリア語の形容詞としては「快活な」「陽気な」という意味を第一義に持っています。そのことを知る人にとっては、“Allegro”に“Tempestoso”(嵐のように)を結びつけると、渦巻く高揚感のなかに陽気なものと陰惨なものが同時に混在しているかのような、狂乱の雰囲気が感じられるのではないでしょうか。  その二語の結びつきが帯びうるニュアンスは、イタリア語圏の表記から離れたこの詩の作者にとってどのように感じられているかはさておき、少なくとも私のような読者にとっては古典美にはっきり対立するものです(実際、“Allegro tempestoso”という速度・曲想表示は歴史的に見て比較的新しいはずであり、Googleで検索してもすぐに見つかるのは20世紀の作品における使用例がほとんどであって、そうした使用例は狭義の西洋芸術音楽の古典(クラシック)ではなくてむしろモダニズムや歴史的前衛の時代のものです)。  この詩の音楽性もまた――あらゆる詩は(いわゆるヴィジュアルポエトリーであっても)それぞれに音楽性を持つと私は信じているので、その考えに基づくとこの詩固有の音楽性もまた――古典美からは離れていて、実際、規則的な展開よりもむしろ、不規則かつ急激に立ち現れる促音によって特徴づけられています。これは、嵐のときに感じられるような、突然窓に激しく打ち付けてくる雨のごとき心象を読者に抱かせるでしょう。  古典的なものからそれほど離れてはいない要素もまた、不均衡を強調しています。一例を挙げると、末尾二行は嵐の一過を経た後で詩全体の主題に触れながら詩全体をしめくくっており、この形は西洋の詩に古くからみられる結尾です。同時にこれは冒頭四行と非対称な切り返しの関係にあります。冒頭四行は自然から自己へ強い影響があることを語る一方で、末尾二行は自己から自然への影響がないということを明かしています。そのように流れ込んでくるものは膨大に受け取られているが、流れ出ていくものはどこにも受け取り手がいないということが、この詩の御しがたい語りを生んでいるのかもしれません。 (Allegro Tempestoso)

2020-09-15

疑うか信じるかという排他的な二択になっていることが気になりました。信じることは疑うことと両立するのではないでしょうか。信頼は、疑いをもって検証された後で、「ここからあそこまでについてはある程度信じられる」という限定付きで獲得されるものではないでしょうか。疑いがない信は盲信というのではないでしょうか。と、疑いを差し挟まずにいられないのも、ここに書かれた六行がとても強く、信じることを迫られているからでした。とてもとても強い言葉だと思います。 (やさしい目)

2020-09-10

構成がお上手だなと思いながら、実体験を通じて思い発した言葉よりはむしろ引用でできているようだとも感じました。「今度こそは羽ばたいてちょうだい」や「あなたしかいないのよ」などの本来切実であるはずの発話の語尾が、少し古い小説やドラマのせりふを思わせるからかもしれません。語り手を外から対象化していないとこのように整えるのも難しい気もしますから、これほど詩の語り手が子を亡くした母視点で語っていても、詩の作者はさらにもう一歩引いたところに立って語り手を演出的にコントロールまたは分析的にトレースしているかのようで、どこか冷静な印象を受けました。 (その微かな熱さえあれば)

2020-09-10

西洋ルネサンス期のごくマイナーな小品を表面的に模倣するかのような、擬古典主義的な戯れ。 戯れを批評しようというのは無粋。戯れには戯れを。同じスタイルで返詩をうたっておきます。 友よ気をつけたまえ 愛は盲目にして 無邪気にふたつの矢を放つもの ひとつは望みをかきたてては追わせ  もうひとつは蔑みを植えつけて去らせるもの きみを射抜いた矢がどちらかは明らかでも かのひとはどうかよく目を凝らしたまえ 友よ気をつけたまえ 魂を天へ連れ去る翼は たやすく 耐えがたき地の底へも落としうるもの  たとえ地獄を知ることこそ天への近道であるとしても (あまりにも甘美な囁きよ)

2020-09-10

コメントするのが難しい作品です。初読からしばらくあれこれ考えておりました。 沙一さんは散文の必然性という観点からこの詩が改行詩として公開されていたらどうだったかと問うておられるのですが、しかしこの詩の個性と可能性はこの形式に負うところが大きいのではないでしょうか。そもそも韻文定型を使用するなら、逆に改行の必然性が視覚的理由を除いて薄れるように思います。なぜなら韻文であれば改行なしで書かれていたとしても読んだだけで一単位(一句)の区切りが理解できるからです。実際そういう理由で西欧の古い写本に書かれた詩には改行がみられないものもあります。もっともそれは、詩が書かれたものとして黙読されることを前提にしていたからではなくて、それがメモとして朗詠者によって音として読まれるか歌われることを前提としていたからかもしれないのですが。 もっとも沙一さんが感じておられる読みにくさのようなものを私もまた感じたのですが、私の場合は沙一さんと異なって改行のせいではなく、読み込んで全体像を結ぶためのとっかかりを見つけられずにいるからです。私は普段、詩のなかのどこか際立って確かな手応えがある部分に注目しながらそれを解釈のための手がかりとし、そこから芋づるのように言葉を手繰り寄せていけば、全体像を自分なりにつかみとることができるのですけれども、今回はその確かな手がかりが私にまだ見えてきません。もっともそれは詩のせいではなく読者としての私の乏しい力量のせいです。ピンとくる言葉は随所にあるのです。例えば「ヒーローいないこの世界」と「フクロウ」は危機と知性の象徴と受け取ることもできるかもしれませんし、「夜の寝床」または「地下の寝床」で「いつも帰らぬ人」を「いつまでも待」つ「一人涙の女の子」はいくつかの物語を思い出させます。それでも分かったといえるほどには分からないので、この詩に興味を惹かれて繰り返し読むもののコメントをうまく書けずにおりました。もう少し考えてみるつもりです。 付記:ふじりゅうさんが破調について指摘していらっしゃいますが、私は近代的リズム感にかなり毒されているせいか七五をたいてい八八の枠組みの中で感じていて(つまり例えば七五は七音+一休符+五音+三休符と感じており、おおよその字余り字足らずも休符を増減または移動させることでこの枠を壊さずに対応できると考えていて)、ふじりゅうさんが「リズム的に異質」といわれた「一礼したのちにやりと笑う」のくだりも、私は八音+七音+一休符または八音+一休符+七音などとやはり八八の枠組みに収まったかたちで捉えてしまうので、「異質」とは感じていませんでした。このリズム枠は私だけのものというよりはむしろ、おそらく西洋に倣った音楽教育のせいで現代の人びとの間に少なからず共有されているのではないでしょうか。 (爛れた大地の片隅で)

2020-09-09

ふじりゅうさん、テクストはどんなものであろうとも何らかの価値をもつ可能性があると私は考えています(遺跡の壁に書かれた権力者への罵詈雑言ですら、千年後に言語学的研究の一次資料となり得ます)。ゆえに「批判のための批判」一般もまた、それどころかふじりゅうさんが「誰がどう見ても明らかに悪いことであろう」とおっしゃるこの「本作で書き綴っている批判の為の批判」もまた、価値判断ばかりか善悪判断も単に論争当事者とその同時代読者だけに独占されるものではないと私は考えています(実際、私は「論破キーボード」なるものが紡ぎ出す批判以外の目的を持たない自律的批判を読んでいても、とくに初代ファイナルファンタジー論のあたりで無知な私は単純素朴に「へえそうなんだ、知らなかったなあ」と楽しみながら読んでいたわけです)。それより、前回も申し上げたように、私が初読から首をかしげて自問しているのは、詩の語り手の思考とは関係なく批判を展開する「論破キーボード」という自律型批判機械が「何のための批判なんや……w」というコメントを受け取ったときに機能停止してしまうのはなぜなのかということです。言い換えれば、なぜ自律型批判機械はそのコメントに「批判のための批判である」または「批判以外の目的を持たない批判である」と答えることができなかったのでしょうか。本作における自律型批判機械はもっぱら他者に向いていて、自己を批判するようにプログラムされていないために、自己の自律性に気づいていないからなのでしょうか(もしも自己にも批判を向けられるなら、この自律型批判機械は自己がつけた他者へのコメントにも批判を展開しうるはずなのですが、そのような描写はないためこの推測が生まれます)。それとも、何らかの意図を持つ製作者によりそう答えることを禁じられているからなのでしょうか。これに関してはまだ考え込んでいるところです。 (論破キーボード)

2020-09-09

花緒大先生、最初に「パヨク」とおっしゃったあなたがそのようなことをのたまわれるとは、本当に感服いたします。私はいずれにせよあなたも含め他の人の感想の中に分からないことがあれば今後も率直に質問するつもりです。ごきげんよう。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-09-09

花緒大先生、もったいなくも貴重なお時間を割いてお読みくださってありがとうございます。「パヨク」という批評性の欠片もない言葉から始められているように全体的に相変わらずくだらない逆張りから入るゲスなコメントを書くのだなあと思いながら私のごとき俗物とは異なる花緒大先生のご高説を拝読したのですけれども、大部分つまらないのですが本質にいささか触れている部分もありますのでそのことについて応答します。作中話者は搾取的なシステムに対して、会社をやめるところに表れているように逃げられるなら逃げようと考えており、また社会や家庭への姿勢に表れているように逃げられないならそれを変えようと努力するか自分だけはせめてできるだけ搾取的ではないように学びながら行動しようと考えています。花緒さんは前者の部分について「発想が大人じゃない」とお感じになり、後者の部分について「マッチョになればいいのに」と思っておられるようです。作者としての私は、作中話者が彼の妻とのできごとを通じてかえって信頼が強まったとか、転職前に上層部と交渉中に管理職登用を提示されたとか、はたまた転職先でより高い年収を得たとかいうエピソードは作品全体のテーマから見ると蛇足にすぎるので作中に書くつもりがなかったのですけれども、花緒さんのような逆張り好きの方に「大人じゃない」「マッチョじゃない」という感想を表明してもらえたのでやはり書かずにおいて正解だったなと思いました。何かを「大人」または成熟、「マッチョ」または理想の父と呼ぶ人のイデオロギーがかえって可視化すると私は考えているので、そのような感想は私にとって望ましいところです。本当にありがとうございました。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-09-09

水上 耀さん、ありがとうございます。いただいたコメントに私も思いをうまくまとめられずにおります。「ふたたび殺戮の時代」を完成させられるときが来るのかどうかよく分からないのですが、何とかものにしたいなと思っています。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-09-09

投稿された日にすぐ拝読して、物語全体よりもむしろ、詩の語り手の思考とは関係なく打ち込まれるという初代ファイナルファンタジー論のほうに感心しました(この手のRPGといえば私はずっと遅れてドラクエIIIとファイナルファンタジーVIをプレイしただけなので、知らないことを知れる楽しみから単純に「ほうほう」と読んでいました)。ただ、たぶん作品を読むうえで大切なのは「⑦何のための批判なんや……w」を転換点とする劇的展開のほうなのですけれども、私はまだこれを含めた全体が構成する寓喩をどうも腑に落とし込むことができていません。「論破キーボード」はこれを境に機能しなくなるので、このコメントがそれにとって論理を成立させることができなくなる難題らしきものを突きつけたのだろう、とは私も推察できるのですけれど、私は「批判のための批判(自律的批判)なんじゃね?」という感想をすぐに抱いてしまったので、かえって語り手の思考とは関係ない「論破キーボード」の自律性がどうしてここで失われるのかがよくわからなくなってしまいました。これを汲み取れないと理解したことにはならないのだと思うので、もう少し考えてみたいところです。 (論破キーボード)

2020-09-09

白目巳之三郎さんが挙げておられる詩行を私もまた印象深く読みました。 車列に象徴されるような社会システムを構成する当たり前のことの中に満ちあふれた矛盾に対峙しながら、詩の語り手は怒りとは言わないまでも言い表しがたい思いを抱いているようです。それは、道路を横断中に立ち止まって自動車を見ながら「噂の流行病より/こいつらのほうがよほど人を、、、」と言葉を詰まらせるところや、自動車向け信号が青となって「クラクション」を鳴らされているさなかに、語り手がやはり交通事故とコロナ禍の死者数に思いをめぐらせているのか「悲劇が、数字に変わった時には人は/すでに忘れていることを忘れている」と独白するところから特にうかがわれます。 鳴海幸子さんはこの語り手を「ろう者」とみておられて、それは最終行で「知らない男に手を引かれ」「多分怒鳴られていると感じながら」からそう推察されたのかもしれないのですけれども、私は語り手が「クラクションはパレードと呼ぶには騒がしい」と言っているので「ろう者」とはみておらず、むしろ上述の名状しがたい思いの渦にとらわれているので目の前の人のアクションの意味が頭に入ってこないような乖離状態なのではないかと考えました。もっとも、語り手が「ろう者」であっても不自然ではありません(その場合は、こういうときドライバーは騒がしくクラクションを鳴らすものだと知識として分かっているからそう述べたと考えられます)。少なくとも横断中に立ち尽くす「私」の手を引いて「対岸」まで連れて行ったという「知らない男」もまたそう考えたのかもしれません。 「白いワンピース」は「そのまま」汚されることなくどこまでも歩いていけるだろうかと、背中を見送るような余韻の残る読後感でした。 (パレード)

2020-09-09

いと令名高き大詩人であらせられる花緒大先生、もったいなきご高説を賜り誠にありがとうございます。前回「チンピラ」が「他者に退屈な長文で絡んでおられる」とのたまわれましたから、凡俗卑俗なる手前といたしましてはお目汚しにして退屈なる私めの愚文を花緒大先生のような高尚なる大詩人にお目通しいただけるとはゆめゆめ思わずにおりましたので最後にひっそり申し添えておりましたが、まさかまさかお読みになるとは、私のような下々の者にもずいぶんと気をかけていただきまして誠にもったいなく、感謝に堪えません。 花緒大先生がご高説の本筋に向き合うよう愚民たる私めにたびたびおっしゃっておいでですので、手前といたしましても先日より足らぬ頭をぽくぽくと叩きながら愚かなりに考えをめぐらせてまいりましたけれども、はてやはり恥ずかしながらおっしゃっていることの意味がいかにしても全く分からぬ次第でございます。この詩における描写を「通俗的イメージに依拠して被差別者を描写する表現アプローチ」と、またこの詩における「ゆうおじさん」と詩の語り手の関係に対する私めのごとき愚民の感想を「俗情との結託」とおっしゃっておいでですが、さても差別について語ろうとする方が他者の思いを「俗情」と呼んでいらっしゃることは深く感心するばかりでございます。すなわち言外のうちにそうでないご自身を「高尚」ないし「聖」と位置づけるような言葉をお遣いになるとは、さすがは大先生、ご立派なことと私のごとき愚民も感服せざるを得ません。 それにしても、公文書や高尚なる文学などには残らない民間の口伝なども頼りにしながら、有形・無形の民俗資料をもとに「被差別民」をも含む民の営みの移り変わりを明らかにし、現在の文化に残るありようまで説明しようとしてきた「民俗学」を、いと学識高き大詩人であらせられる花緒大先生は知ってか知らずか、ともかくもさすがのご慧眼をもってして「民族学」と同一視なさっていらしたわけでございます。その花緒大先生が「被差別者を語る上で極めて古典的な論点」なるものを愚かなるこの私めに説いてくださいますとは、全く字義通り「有難き」ことでございます。上野で芸能を学び、その地の路上生活者ともいくらか交わり、また自業自得の所業によりごく短期間ではあれど自らもまた路上で寝起きする身とならざるをえなかった私めのような者は、こうも世間で普通に暮らしておりますとかような目にはなかなか遭えませんで、「俗世」を超越なされた高尚なる花緒大先生ならではのご視点と拝察いたします。 そも、花緒大先生が最初に「本作は描写や音が凡庸で、叙情を浮かび上がらせるまでには至っていない」とおっしゃったときにも、愚かなる私めは実に生意気な言葉遣いで「花緒さんがいう『叙情』とは何なのか私にはさっぱりわからないのですが、何のことをおっしゃっているのでしょうか」と申しておりましたが、花緒大先生はすなわち私めのごとき愚民が愛する通俗的なるものは叙情を浮かび上がらせはしないと信じておられるようでございます。さても詩の歴史にも通じておられる大先生のことでいらっしゃいますから、かつてペトラルカが当時聖書や役人の文書や高尚な文学に用いられたラテン語ではなくいわゆる「俗語」とされたトスカーナ方言をもって「俗事」を取り扱いながらソネットを含む多数の叙情詩を書き、それによって西洋ルネサンス以降の叙情詩に決定的な影響を永らく及ぼしたということももちろん念頭に置かれた上で、゛「俗」なるものは叙情に資することがないとご自身の信ずるところを説いておられるのでございましょう。愚かなる私にはやはりいかにしても何をおっしゃっているのやらさっぱり理解できないのでございますけれども、さてもさても、ありがたき大詩人であらせられる花緒大先生のいと高尚なる「叙情」に満ちあふれた次回作がまことに楽しみでなりません。今後のご活躍をこころよりお祈りしております。 (夜を歩く)

2020-09-08

沙一さんがさらに一歩踏み込んで「夜=無意識の世界」「ゆうおじさん=詩そのもの」という解釈を出されました。 私が思うに、本作で描写される「ゆうおじさん」の「夜」へのシフトは少なくとも二つあります。 一つは「四十過ぎてからは何に気を使ってたんだか/夜に歩くようになっていた」という部分におけるように、言葉のより直接的な意味での「夜」そのものです。このシフトを「ゆうおじさん」の年齢の高まりによって説明することはできません。もちろん孔子のいう「四十不惑」については私自身もまた近づくにつれて世人には到達しようのない境地だと実感しているのですが、それでも詩の語り手が「何に気を使ってたんだか」と首をかしげるように、単なる心境の変化では根拠づけがたいところがあり、むしろ私がこれまで説明してきたとおりコミュニティの戦後から現在までの変化(境界を失っていく時世)の中で「ゆうおじさん」はそうせざるを得なくなったのではないかと私は考えています。 もう一つはまさに沙一さんが解釈されているように、「ゆうおじさん」が最期に「道の真ん中で寝てしまった」後で、彼は確かに詩の語り手の脳裏をときどき歩いているのだろうということです。 つまりコミュニティがある時代以降の都市化の中で異質性、不可解性を備えた存在ごと異界との間を排除していくうちに、「ゆうおじさん」という存在は日の当たらない空間へ追われていったのですけれども(一つめの「夜」へのシフト)、そのあとはこの詩の語り手のようにつながりのあった人々の想像の中をイメージとして彷徨するようになったのでしょう(二つめの「夜」へのシフト)。 沙一さんはここに詩の発生をみていて、その観点はまた日本の伝統芸能の発生にマージナルな存在が関わっていたとする説を私に思い出させるのですけれども(そして「ゆうおじさん」自身も人前でよく歌をうたった人であろうわけですが)、そういうことを考えていると、「ゆうおじさん」の夜へのシフトは詩そのものの社会的な位置づけの変化と無関係でもなさそうな気がしてきます。 最後に。ABさんがこれまで書いてきた詩の中には、記録に残りにくい、時世の変化の中で忘れ去られそうな言葉や存在を呼び出して提示するものがあり、この詩もまたその一つに入るかと思います。そうしたものには必ず、一言では表しがたい個人的な思い(今回なら「ゆうおじさんはうちの親戚で/でも友達には言えずじまいだったなあ」に認められる、単純に後悔とも無力感とも割り切ることができない根深い感情)が描きこまれていて、そのことは花緒さんがいうような「辺境的存在に対する温かな目線」「通俗的イメージの消費」とはおよそ全くかけ離れて、詩の語り手が決して単なる傍観者という安全な立ち位置におらずむしろ抜き差しならぬ形で関わっていることをはっきり表しています。対象について証言することで自己と時世のあいだを豊かに描き込んできたABさんの詩業から、私は、2011年以降新しいリアリズムを確立しなければならないという個人的な思いを抱く中で、大いに刺激を受け取っています。 (夜を歩く)

2020-09-08

 花緒さん、私は初めあなたに対して論争的な態度を取ったつもりがなく、単旬にどうしてそう思うのか分からなかったので尋ねたまでだったのですけれども、途中から考えを改めました。  あなたのコメントから私に伝わってくることは、あなたがこの詩を読んで何をどのように考えたかではなく、あなたがテキストを一字一句丁寧に読み書きするつもりがないということだけです。  私がそのような印象を抱く理由を述べます。  まず、詩には「島」と書かれているにもかかわらず、あなたは「本作に描かれているような都市の辺境を象徴するかのような人物」「『都市の辺境で生きている』ような感覚を想起させる存在」と繰り返し、新宿西口の話を持ち出しましたね。しかもあなたはそのような人物の例として「最近だと、コンビニでお弁当買って来てください、と道行く人に話しかけ続ける叔母様が新宿で目撃されているそうです」といい、本作で描写されている「ゆうおじさん」とはおよそかけ離れた人を類似例として扱いましたね(ちなみに「おば」という音に「叔母」という漢字を当てるのは通常、父母の妹ないし弟の妻に対してでしょう……共同通信の『記者ハンドブック』などをおすすめします)。  また私は最初に、詩のなかの歌詞の内容と描写される人物に共通する要素に触れて「この歌はおそらく『島』の歌ではなく、また歌詞としても『島』から見た境界の向こうから来訪するものを表現しています。そしてそれを歌う『ゆうおじさん』は逆に『島』の中にあってモノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在であり、いわば異界との間にいる(マージナルな)存在として描写されています」と指摘していました。にもかかわらず、あなたはその後「ところで『リアカーを引いて歩いているホームレス』はどうして辺境的存在なのでしょうか」と問いましたね。私の答えはすでに書いてあるというのに。  さらに、私が「民俗学的な記録を詩作品に昇華した一篇」と書いたにもかかわらず、あなたは「原口さんは民族学的な記録としての価値もあると書かれています」と書き(そんなことを私は書いていないのにね)、しかも「ホームレスは民族ではありませんし、日本の風俗を代表する事例でもありません」と私が主張していないことをさも主張したかのようにあなたは述べ、批判しましたね。  他にもまだまだ挙げられますが、きりがありませんので結論に至ります。あなたは今回、テキストを一字一句正確に読解し、それに基づいて自分の意見を述べるということをしていません。むしろ、(私が「ゆうおじさん」を「異界との間にいる存在」と呼んだ理由をすでに書いたにもかかわらずあなたが後から問うたことにみられるように)書かれていることを読まずに、または引用せずに疑問を呈したり、(「島」から「都市」への飛躍的読み替えや「民俗学」と「民族学」の混同のように)書かれていないことを自身の思い込みからさもそこに書かれているかのように記しながら批判したりしては、問題を自分ではなく詩や対話相手の責に帰していましたね。そうして実際にあなたが断じることでさらけ出しているのは、ABさんの作品や私の批評の問題ではなく、あなた自身の問題なのではありませんか。  もちろん、丁寧に読まないというのもひとつの態度だと私は認識しています。実際、まじめに読む気になれないテキストは私にもあります。ただ単純に、あなたはこんなにも書かれているものを読まず、書かれていないものを勝手に読み込んでいるというのに、よくそんなに自信を持って自分は読み切っているといわんばかりの強い口調で詩作品や対話相手のことを断じることができるものだなあと私は感心するばかりです。  かように嫌味ったらしいことを申しましたが、最後に真心からの忠告をいたします。詩ばかりでなく批評もまた独立した作品であり、言葉を配置することによって価値基準を提示するものであり、人に訴えかけるものであり、また書き手自身の人間性をどこかしら表現してしまうものです(もちろんこの私の嫌味なコメントもそうですよ)。どうかお忘れなく。  さて、ABさんの詩のコメント欄をこれ以上むなしいやりとりに費やしたくはありませんので、あなたへのコメントはこれで最後にいたします。ごきげんよう。 (夜を歩く)

2020-09-08

花緒さん、どこからツッコめばいいのか正直もうわからないのですけれども、とりあえずここのみ指摘します。 > ところで「リアカーを引いて歩いているホームレス」はどうして辺境的存在なのでしょうか。原口さんは民族学的な記録としての価値もあると書かれていますが、ホームレスは民族ではありませんし、日本の風俗を代表する事例でもありません。欧州におけるジプシーのようなトライブでもなく、狭義にも広義にも「民族」で無いことは明らかであって、辺境/マージナルな存在というよりは、社会が包摂できなかった貧困問題に過ぎないとも言えます。ホームレスにかかる風俗を指して「民族学」と指す構えを見るに、ホームレスを同じ社会の構成員としては捉えない、あくまで社会の辺境と捉える感受性を見るわけです。 私は「民族学」とは一度も申しておりません。「民俗学」と申しました。両者は全く異なります。どうぞ辞書を引いてみて、信頼できる文献に当たってみてください。それでも理解できなければ質問してください。これほど初歩的な誤読に基づいて対話相手の見解を非常に雑に批判なさる姿勢も含めて、残念ながら花緒さんはテキストを一字一句丁寧に読み書きなさらないようだという印象を私は抱いています。 (夜を歩く)

2020-09-07

白目巳之三郎さん、ありがとうございます。日記もまた創作だと私は考えています。これは実際のところ自分自身の日記から一部を修正しつつ抜き出して、当時書いた詩やもっと前に書いた詩と織り交ぜて仕上げたものですので、もちろん作為は含まれています。もっとも主体の一貫性のなさは私本人の一貫性のなさに起因するものである気がします。長い詩であるにもかかわらず何度も読み返していただけたとのことで、私はこれは読まれないのではと思っていましたから、ひたすら感謝するばかりです。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-09-07

花緒さんが新宿西口で見かける人物がコミュニティとどのような関係を持っているのか私にはわからないのですが、私が最近今の職場のある西口の高層ビル街に通うなかでそうした人物を見かけたことはありませんでした。 ちなみに、新宿駅西口の路上生活者たちはいちど前世紀の終わりごろに警察と行政によって大規模な仕方で追い出されていて、そのうち少なからぬ人々が2000年ごろに上野駅周辺へ移ってきました。それで上野公園内にブルーシートのテントが増えていたのです。当時その人々は地域のコミュニティに入り込むというよりはむしろ自分たち自身のコミュニティを形成し、数人の元締めのような人たちの下で、日雇い労働にありつけないときにはそれぞれ駅のごみ箱から古雑誌を集める役や公園内でそれらを広げて安価で売る役などを担って生活をしていました。もっとも街との関わりはうっすらとあって、例えば私は上野公園を抜けた先にある大学へ通いながら、新入生歓迎会の花見のときなどに、元締めのような人と話をつけていました。周りに学生の手荷物を狙って集まってくる人がいたので、元締めに飲食物の一部を渡す代わりに彼の部下に守ってもらうという取引をしていたのです(もちろんマッチポンプの可能性もありましたがそうすることが最も無難だったためその選択をしていました)。ただそうして自分たち自身のコミュニティを形成しながら街と関わっていた人々も、2010年代前半の公園再整備にともなって行政によって追い払われてしまい、ブルーシートのテントも見かけなくなってしまいました。新宿駅西口のほうでは、その後路上生活者たちは増えているのでしょうか。どのように街と関わっているのでしょうか。少なくとも、ABさんがこの詩に書いたような形ではないのではと想像しているのですが、花緒さんはご存じですか。 また、花緒さんがいう「叙情」とは何なのか私にはさっぱりわからないのですが、何のことをおっしゃっているのでしょうか。「描写や音が凡庸」とおっしゃいますが、それでは「凡庸」なまでに普及しているというこうした存在の描写の例を挙げてみていただけないでしょうか。そういうものがあるのだとして、それは最近書かれたものではないのではありませんか。私はこれが今において書かれているということに特に意義があるのではないかと考えています。例えば、とりわけ前述の上野公園がある台東区が、昨年10月、極めて猛烈な台風がやってきたときに、路上生活者の避難所受け入れを拒否したあとの今において。 (夜を歩く)

2020-09-07

ABさん、私が東京で最後にそうした人を見かけたのは2010年前後でした。未明、論文を書いているうちにおなかが空いてしまったのでコンビニへ行こうとして自宅を出ると、老人が暗いうちに自転車に乗ってどこからともなくやって来て、資源ごみ回収のため早くに出されている缶を集めて去っていきました。もちろん今もどこかにいるのかもしれないのですが、現在の地元では取り締まりが厳しいためか、徹夜での仕事明けに未明に外へ出てもそうした人を見かけることはありません。 ともかくそうした人と違って本作における「ゆうおじさん」は、コミュニティの中に露出していて、かつ誰かとつながっていて、やりとりもあります。これは地域や時代の違いなのだと思われます。多くのコミュニティでは、おそらく80年代後半からこうした露出や関係やコミュニケーションが減っていったのではないでしょうか。「ゆうおじさん」が夜に歩くようになるころがその境目かなと私は思いました。 (夜を歩く)

2020-09-07

羽田さんが「喃語がかった子供の言葉」と捉えたものは、実際には何らかの歌詞だと思われます。 遥か遠くの 風の向こうに 汽笛の音の その向こうから もうすぐ春が やってくるやも知れません このように書いてしまうと「ゆうおじさん」が気持ちよさそうに歌っていた感じがうすれてしまいますが、ともかく77/77/775のリズムをとっていること、また歌詞に「汽笛」が含まれることから、この歌は昭和初期から中期にかけて流行した歌の中に実際にありそうなものであることがわかります。ただ歌詞データベースで検索しましたところそれらしきものが見つかりませんので、これは「ゆうおじさん」が何らかの節に基づいて大部分を自分なりに歌い替えたものかもしれません。 この歌はおそらく「島」の歌ではなく、また歌詞としても「島」から見た境界の向こうから来訪するものを表現しています。そしてそれを歌う「ゆうおじさん」は逆に「島」の中にあってモノとしての命を終えたものを境界の向こうへと運搬していく存在であり、いわば異界との間にいる(マージナルな)存在として描写されています。現在では粗大ごみ、びん、かん、古新聞などは自治体に委託された業者以外は勝手に持っていってはいけないことになっていますが、かつてはその取り締まりがそこまで厳しくはありませんでしたから、「ゆうおじさん」のような存在はこの「島」に限らずどこのコミュニティにもほとんど必ずいたでしょうけれども、高度経済成長期以降の社会の変化の中で次第に見られなくなっていったことでしょう。現代はあらゆる境界が失われていく時代であると赤坂憲雄が指摘したのは1980年代後半のことだったかと思います。まさに私が言葉を覚え始めたそのころには、少なくとも私のコミュニティにはそうした存在はもう見かけなくなっていました。まして、通信技術の普及と発展の中では、その記憶すら多くの人から失われかけていることでしょう。ABさんのこの詩は、話者を通じてそうしたもういなくなってしまったマージナルな存在を記憶の中に立ち上がらせるという点で、民俗学的な記録を詩作品に昇華した一篇であり、「ゆうおじさん」が実は話者自身の縁者であることが明かされているように、そうした存在が身近な暮らしと地続きのところにいたということを私たちに証言するものです。 (夜を歩く)

2020-09-06

ぱうらさん、ありがとうございます。「出世」が「出世間」の略としての仏教用語だったとのこと、承知しました。ただ、ぱうらさんがパウロの女性形であるということを私が念頭に置いていたからかもしれないのですが、やはりこれは仏教用語としては受け取られづらいのではないでしょうか。そう受け取られるためには、もっと詩の中で仏教的な文脈を確立しなければならないのではないかと私は思います。 (戦争やめろ!)

2020-08-28

ふじりゅうさんが「後半はバグったかのような表現をされている」とおっしゃっているのですが、当該箇所は点字、モールス信号、多国語への翻訳、顔文字を交えたスタイル、ごく初歩的なアスキーアートによる愛の記号としてのハートの提示などであって、どれも「不可解な文字の羅列」ではないのではないでしょうか。少なくともふじりゅうさんや私が理解できないものであっても、われわれではない誰かには理解できる言葉ではあるわけです。もっとも、そこに「好き好き大好き愛してる」以外の意味を表すものが紛れ込んでいるかどうかは、私はチェックできていません。 (好き好き 大好き 愛してる)

2020-08-28

雨野小夜美さん、ありがとうございます。わりあい長い分量のテキストでしたから、忙しい日々を過ごされている皆さんには果たしてお読みいただけるのかどうか少しばかり懸念していましたが、雨野さんが全部お読みくださったということは私にとってうれしいことです。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-08-28

沙一さん、ありがとうございます。過大なお言葉をいただき恐縮です。迫真性というか切実さは私自身といたしましても今作だけでなく過去作でも追求してきたことですから、ご感想をいただけてうれしいです。ただ技術論や形式論の観点からの検討もぜひ自由にしていただきたいところですし、生き様かどうかを棚上げにして詩としてどうなのかというところも忌憚なく問うていただければと思っています。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチIII)

2020-08-28

「正義を騙る人の欺瞞」というテーマも、その欺瞞によって苦しめられた人が社会に復讐するストーリーも、ごくありふれたものです。 こうしたものは実際のところ正義感の強い書き手によって正義への執着から書かれていることが多いのですが、描写や展開をよほど工夫しなけれれば、面白いものには仕上がらないのではないでしょうか。 また、日本政府にせよ大阪府の与党にせよ、自らの行為が欺瞞であることを全く隠さずに平然とやり通すことが当たり前になっている現在では、もっと別のテーマとストーリーが語られてよいと思うのですが、いかがでしょうか。 (戦争やめろ!)

2020-08-28

全体が語り手の生から発されるひとつの長い切実な感嘆符のようだという印象を私は抱きました。語り手は、なぜ自分がこれほどまでに苦しまなければならないのかとはっきり問うことをもうやめていながら、それでいて苦しみそのものはやはり厳しく受け入れがたいので、忍耐のすきまから言葉を漏らし、それを念入りに並べているかのようです。 そのような印象をなぜ抱いたかというと、この構成が語り手の一日の繰り返しを表現しているかのように見えるからです。第一連は「東から」という語句によって示唆されているように朝、第二連は「真昼」と明示されているように昼、第三連は「眠れない地獄」にほのめかされるように夕方から夜にかけて、そして第四連は薬剤投与による夢の中をそれぞれ表していると解釈できます。特徴としては、「東から」「現れる」のが「絶望」であったり、見えないはずの「真昼の星々」の音が聴こえていたり、語り手自身が(人間扱いされていない)「慰み物」として「眠れない地獄」に「堕ち」たりしているように、希望の象徴や知覚できないはずのものやあるべきものがこの第一から三連においてはすべて逆転しており、それが語り手の苦痛に満ちた生を如実に表現しています。 中でも私にとって最も厳しさを極めるのは第三連「原っぱに残された骨に/一つ残らず名前が付いていて/それぞれが悲しいって泣くんだよ」です。何やら大量死の痕跡がそこにはあるようなのですけれども、ここでの語り手の感じ方が非常に過酷なのです。一般論として、大量死がただ数としてのみ把握されているうちはふつうあまり実感が湧かないものであり、単に比較によって規模の大小が把握される程度でしょう。しかし死者の一人ひとりにそれぞれ異なる名前があり、異なる顔があり、異なる生活があったことをひとたび本当に知ったなら、大量死は大変な重みをもって実感されるでしょう。この語り手はまさに、ふつうは見過ごされる骨の一つひとつの名前を知ってしまっていて、その泣き声を聴いているのです。「眠れない地獄に堕ち」てしまう理由も分かろうというものでしょう。 繰り返される一日の終わりに、語り手は第四連であきらめを抱きながら「夢のある話」をしますが、酩酊や幻覚を表す「ピンクの象」を持ち出してくる時点でそれも完全に幸福なものではないと私は感じます。それでもこの一連だけが他の連に比べて一行長いことは、この詩をそのように構成しようとした語り手自身が「東から」の「絶望」を避けて少しでも長く夢にとどまろうとすることの表れなのかもしれません。 (鬼ごっこ)

2020-08-19

私も沙一さんと同様にリストカットを想像しました。 それほど効果的でもないのに言葉をむやみに費やす作品が散見される中で、タイトル+一行というごくシンプルな構成が選択されていることについては好感を抱きます。しかし費やした言葉の数を超えることが想起されるかといえば、この作品ももっとやれることがあったのではないかと感じました。 (手首)

2020-08-19

ふじりゅうさん、お返事をいただきありがとうございました。ご自身がうつを患っておられるとのこと。作品評はいったん脇に置くとしまして、今は心のおもむくままに興味や関心のあることに取り組むとよいと思います。評価など一切気になされませんよう。人の評価や約束はすべて社会的・歴史的に構成された虚妄です。もっとも社会生活を送るにあたりそれにある程度従わなければ人間関係が破綻するので最低限は沿っていくしかないわけですが、今は食事と睡眠をとって命をつなぎながら面白いと思えることをやっていけばそれだけで十分です。どんなにささやかなことであっても、すべてが必ず未来につながります。かつてうつに苦しんだ私はそうやってゆっくりと立ち直りました。あなたの道行きが少しでも平らかとなることを祈っています。 (言い訳と善意 -Creative Writing-)

2020-08-19

多摩川の河川敷で動画を撮ることだけはやめたほうがいいのではないでしょうか。そんなにつまらないことはないでしょう。満天の星空の写真に「星がきらきら光っている」という言葉を添えるようなものです。それはともかくこの詩はお上手だなあと思いました。 (東横線が多摩川を渡る)

2020-08-08

「コミュニケーションなんてありえないんだけど、それでもみんな大体はそれぞれ奇跡的にうまくやってるよね」ってことかなと思いました。 (直列つなぎ-┣うんこ!!┳うんこ!!┫-奥さんに会いに行くの変だよ。)

2020-08-08

うつ病で入院した経験がある私としては、数行読んだあたりで「藤井君」はうつ病というよりは双極性障害の躁状態であってむしろ「横高」が抑うつ状態に陥っているように見えました。どちらも正確な病識がないので危ういなと思っていたら案の定という展開で、かずやさんのように「ポンっと放り出された感覚」は抱きませんでしたし、花緒さんが面白いと言っている部分を私は面白いと思いませんでした。興味が残っているとしたら、作者がなぜこれを書こうとしたのだろうということについてだけです。これを絶対に最後まで書き切って出すぞというパッションは、少なくとも私には決して持ちようがないので、作者がどんな思いに突き動かされていたのかに興味があります。 (言い訳と善意 -Creative Writing-)

2020-08-08

この作品は、ゲームにおけるドラマ体験の特殊性への着眼と、巧みな構成により、最終的には「弟」自身だけでなく読者自身の人生という物語における役割にまで思いを馳せさせるものです。ただ個人的には、後述するように、その着眼をもっと掘り下げたものをみたかったです。 ゲームにおけるドラマ体験の特殊性とは何でしょうか。ゲームでは、ドラマの展開のために、自分が必ず物語の中の誰かをプレイさせられます。ここがその他のあらゆるドラマ体験とはっきり異なる点です。例えば演劇では、自分が演じなくても、舞台の前に座って見ていればドラマは展開します。演劇は観客に演じることを強いず、見た出来事に対する判断を宙吊りにすることも許します。しかしゲームは傍観を許さず、決断を要求することで人を否応なくプレイヤーにします。たとえ三人称視点であっても。 Endingは明らかにこのような特殊性への着眼から書かれています。すなわち「ゲームを始めなければ、プレイヤーは主人公に出会うことはできない。そして、主人公が敵を倒して、強くなって、予め定められた結末へと向かうこともできない。ゲームの世界を動かしているのは、プレイヤーであって、プレイヤーの数だけ、ゲームの世界の主人公がいるということだ」というわけです。そして「僕」すなわち弟はただちにそれを自身の「弟」としての人生への反省に転じてから、自己の人生における自己の「役割」を引き受けます。それまでの展開のすべてをこのクライマックスへ結びつけたあとで、「ディスク」の「交換」を促し「Disc X」なる表示を残すことで、詩を読み終えて現実へ戻ってきた読者に対し、読者の人生という物語における読者自身の役割を、暗黙のうちに問うのです。 しかし私はこの暗黙の問いをそのまま受け取ることができません。なぜなら「僕」の結論に同意できないからです。月並みですが、ゲームと人生は異なります。どう異なるかを説明するには、ゲームにおけるドラマ体験の特殊性を生み出している要因ではなく、その効果に着目する必要があります。つまり、ゲームにおけるドラマ体験は道徳の次元へ直接訴えかけるものであるということについて。 演劇ももちろん道徳に関わります。しかしアンティゴネが身内の弔いをめぐってクレオンと対決した結果死なざるをえなくなったとしても、その破滅が家族の絆という私的原理を国家の原則により支配される公共空間へ持ち込んだことに起因するかは、解釈の余地があります。規律や教訓は必ずしも観客に浸透するとは限りません。 一方、ゲームは、クリアによって得られる満足感という精神的報酬のための行動を要求します。いかに倫理的な選択肢が並んでいようとも、それを選択するのはその選択肢が倫理的であるからではなく、(グッドエンドであれバッドエンドであれ)プレイヤーにとって望ましい形でクリアするために必要だからです。どんなに自由度が高くても、オープンワールドであっても、生死を決する選択から何気ない動作に至るまで、常に功利的行動が求められています。もちろん、メタルギアソリッドVのフリーモードでひたすら自分だけの特殊な目標を立てて敵地に潜入したり野生動物を保護しまくったりすることは可能ですが、結局は達成感という報酬のためなのです。 これに対し、人生における行動は、そうとは限らないでしょう。もっと複雑です。そもそもドラマと関係がないこともたくさんあります。 おそらくこの作品は、今日流行しているいわゆる異世界もののライトノベルや漫画を好意的に受容している読者には、好意的に評価される可能性があります。しかし私にとっては上記のような点で不満が残ります。 (編集)

2020-08-02

ひさびさにじっくり読み込んでいきたいなと思える詩に出会いました。 (GROUP Bの暴力)

2020-05-28

この一ヶ月近くずっとこの詩のことが頭の片隅にありました。優れた作品であると思います。個人的にはテイク2よりテイク1がむだがないので好きです。ただ、飛行機という比喩はかなりレトロかもしれないとも思いました。 空への憧れと、飛行機に乗れる人たちと乗れない人たちの圧倒的距離感といえば、是枝裕和監督『誰も知らない』(2007年)を思い出します。あの映画では飛行機は一方ではこの詩におけるのと同様、社会に認知すらされていない主人公(たち)にとって、決して乗ることができない対象として登場します。ただこの詩と違っているのは、1988年の巣鴨子供置き去り事件に取材して制作されたあの映画では、飛行機は同時に時代を象徴するものでもあるということです。ラスト近くの京成線のシーンは1978年成田空港開港から10年が経ち、バブルを迎えていたあの時代に起きたできごとなのだということをよく物語っています。 飛行機は現代の科学技術というよりはむしろ、20世紀の科学技術の象徴なのではないでしょうか。だからこの詩は、AI時代を迎える今、一部のエリートが科学技術を占有する状況がますます進む中で、持たざる者の側に立つ「私」の自己確認を象徴的に表現しようとして書かれたものだ、と受け止めることはやや難しいです。どう受け止めればよいか、考えています。 (飛行機(テイク1))

2019-12-10

survofさん、コメントありがとうございました。確かにこのテキストはスペイン語のあるスローガンに関して個人的な注釈を書き留めたものですが、タイトルは一年半前にこちらへ投稿した下記の詩との関連からつけました。 https://www.breview.org/keijiban/?id=1582 私はずっと『ふたたび殺戮の時代』という詩篇を構想していて、そこで戦後詩に嫌われてきた主語「私たち」を戦争詩とは異なる形で立ち上がらせることはできないか模索しています。 戦前のモダニズム詩人が大衆を先導することを夢見た結果、当時もっともモダンでアクチュアルな事象であった戦争の扇動へ傾倒していくむきがあったとするならば、戦後の現代詩はそれに対して固有性への注視や極私的なものの追求をもって応えたのではないでしょうか。戦後、詩人が「私たち」という言葉を使うことは、本来私と同質でない多様な人々をまるでこの「私」の複数形で塗りつぶすようなものだと忌避されがちだったのではないでしょうか。現代詩の歴史では主流の外にいるとみなされている岡林信康という稀有な詩人歌手ほぼひとりだけが、『私たちの望むものは』という歌で「私たち」を全く違う方法で立ち上がらせたことは記憶されるべきだと思います。私は戦前の詩人とも岡林とも違う仕方で、詩の言葉の中に今立ち上がるべき「私たち」を立ち上がらせたいのです。 そこで前作では私自身の散文を再構成しながら大量のカギカッコヒラクを挿入することで、引用による客体化と読者への開かれを両立させようと試みました。その試行はこの場にお集まりの方々に対してはあまり成功しなかったようですが、私はかえってやる気を出したわけです。それで今回は、私が男性であると同時にフェミニズムへの賛意を抱いていることもあって、彼女たちが私たちという主語を使うときに本来はその中に入っていないはずのこの私が、注釈という形で一時的にその彼女たち=私たちの中から発話することを試みました。私はまさに翻訳を生業としているので、三人称の存在の立場にたって一人称主語を発し、またその一人称主語の言わんとすることを三人称で説明することは日常的なことなのですけれども、それを語りに導入することにしたのです。この語りは引用、翻訳、説明を繰り返すことでできていますから、スペイン語を理解しない方でも最初から最後までストレートに読めば意味を理解できるはずなのですが、survofさんからスペイン語がわからない人には敷居が高いと言われてしまったことは少なからず残念です。しかしそもそも私にとっては何語であっても他人が発した言葉なら(ときには自身が過去に発した言葉さえも)常に距離があるものですから、逆にスペイン語を一切使わずにすべて日本語で書いていればその敷居なるものが下がるのかということをいま自問しています。 (『ふたたび殺戮の時代』のためのスケッチII)

2019-10-28

あ、そっかこの阿保はアホじゃなくてアボって読むのかな。知り合いのDJにアボくんという人がいて、本名が阿保だった気がします。だとするとこの阿保は誤変換じゃなくて、読者の予想を裏切って「食べたら(一般名詞の)アホになる」ではなく「食べたら(固有名詞の)アボさんになる」って言ってるのかな。 (でたらめ)

2019-10-26

西洋古典音楽の演奏家になるための専門教育を受けた経験がある私は南雲さんとは真逆の感想を持っていて、この作品は音楽には絶対にできない、とくに日本語の詩にしかできないことをよく追求していると思います。その取り組みはどこに現れているかというとこの詩独特の文体です。survofさんはやっぱり文体の人なんだなあとつくづく思います。意味内容は文体に左右される、思想は文体にこそ宿る、だから文体の追求こそ作品制作であると考えておられるふしがあるなと、初めてsurvofさんの詩を読んだときから思っていました。 (ソナチネ)

2019-10-26

語り手は秋の深まりのなかに特別なものとの別離のあとの孤独をにじませています。であれば、私はやはりふじりゅうさんの指摘は正しいと思います。「美しく色づいた葉がすべて/木枯らしにさらわれた日」としたほうが、そのさらわれたものの私にとっての特別さが引き立ってきませんか? 他でもないこれがさらわれたのだと。色づいた葉「が」ではなく色づいた葉「を」とするとその特別さは弱まって、代わりに隠された主語「私が」が暗示されるので、あんまり思い入れが感じられないです。 (うつろう)

2019-10-26

10年以上直接やりとりしていないある詩友を彷彿とさせる独特のリズム感とでたらめさ加減がこの詩にはあります。ちなみに「あほ」には「阿呆」という字を当てるほうが私は好きです。「阿」は中国・三国時代以降に広まった、親しみの気持ちを込めて人を呼ぶときにつける接頭辞だと考えることができます。例えば劉備の子劉禅の幼名が阿斗となっていますがあれは「斗ちゃん」という意味ですし、20世紀まで時をくだっても魯迅に阿Qという主人公がいるでしょう? 阿呆は実際もとは中国江南の言葉で「おまぬけちゃん」くらいの意味でした。阿保とするとそういうのがよくわかんなくなるというか、保はお守りをする人という意味になってくるのかな? うーん。この詩ではしかし明らかに呆ちゃんのことを言わんとしているでしょう? (でたらめ)

2019-10-26

この詩人の作は毎回おもしろいなあと思っています。もっといろんなところに出してみればいいのに。然るべきところではきっともっとふさわしい評価を得られるだろうのに。 (夢)

2019-10-25

国の象徴が複数登場するなあと思いながら読んでいると、最終行でこの「島」は本当に狭っ苦しくてしんどいなあと思いました。 (そしてユキは脳みそを捨てた)

2019-10-24

私にはこの詩が狂っているようにはぜんぜん見えないので、もっとやればいいのにと思いました。 (Calling)

2019-10-24

「秋の音」というテーマを、虫の声と全く無関係な「ぽつん」と「かつん」で表現しているこの詩を読むと、日本語詩に表現される季節感や自然観はここまで変わってきたのだなと思わされました。秋の寂しさは、散りゆく枯れ葉の地面に触れる音、風渡る枝やすすきの擦れあい、ほろびゆくはかない虫たちの今一度の宴の声によって象徴されるのではもはやないのでしょうか。この詩の寂寥感の源は、詩人が寂寥感の内実を満たしていた自然すべてを抜き捨てて、もはやからっぽになった寂寥感の形骸のようなものだけを残しているところにあるような気がします。 (秋の音)

2019-10-24

穏やかに暖かい日、川の近くのひなたにひしゃげているカエルの死体に一瞬気を留めたこと。最近の水害との連想からカエルにとっても災いだったなと思いましたが、しかしいずれ被災地外では忘れられてしまうので、この詩の読解もまたその記憶の影響を受けなくなっていくでしょう。それこそが壊滅的な打撃をよそに、季節はそれでも移ろうことを意味しているかもしれません。 (終日の日差し)

2019-10-24

このような格言を集めたビジネス書がよく売られていますが、売れるとすればそれはすでに尊敬を集めている人たちが発した言葉だからです。読者は通勤電車に揺られて苦しみながら、日々頭を悩ませている数々の問題を尊敬されている人のの視線の高みから見つめなおすことで、自分の問題はそれほど大きなものではないと達観したり、逆に尊敬されている人でもこんな日常的な悩みに苦しんでいたのかと親近感を覚えたりして、自らの苦しみとうまく付き合おうとするのでしょう。格言は往々にして、言葉がすごいから欲されるというよりはむしろその人が偉いから欲される傾向があります。格言以外に残した大きな業績が格言を価値づけるというわけです。したがって、格言に対する批評はいくら内容を問うても無意味なのではないでしょうか? もしも格言を作品形式にするなら、これは誰でも思いつきそうなアイディアですが、私なら格言という形式そのものを笑い飛ばしたいので、うその業績と肩書をもった架空の人物によるいかにももっともらしい格言をでっちあげたいですね。そこに数々の文化・社会批評を込めたい。 (言い訳)

2019-10-24

ちょっと進化した機械翻訳っぽい文体が異邦人としての私の語りとマッチしている気がします。次の方感想をどうぞ。 (カラーソング)

2019-10-23

この語りそのものは好きです。「僕」が自分の傷んだ心を誰にも晒そうとは思わないと言いながら次の連で叶わなかった願望を吐露してしまう矛盾は人間味にあふれていますし、顔を思い出せない母親に心の裡で呼びかけながら嫌いな父親の手術を報告するところは母の不在をよく際立たせています。ただその語りが整いすぎているというかすべてうまく書かれすぎているきらいがあって、実に前述の矛盾もとても整然と表現されているので、もっと書かなくていいんじゃないかとも思います。この個人的な語りが詩になる可能性は第一連にはかなり豊かにあったのに、そのあとのせいで私小説未満のところへ閉じてしまった気がします。もっと四連構成くらいにまで削り込むと、語りが抽象化されていくか、逆に具体的な描写だけで自分の見ている世界全体を象徴するしかなくなるので、そのとき初めて多くの人に開かれた詩が立ち上がってくるのではないでしょうか。 (父親が手術をします)

2019-10-23

酔翁さん、「(漢詩文にとって)人々の生活を念頭に政治にかかわることは前提事項のひとつです(略)。ですから、作品内容がどのようなものであれ、現実社会から完全に切り離された漢詩というものは原則として存在しません」とおっしゃいました。このお考えは、「選挙によって選ばれた政治家の行動は民意を常に必ず反映している」という主張に似て、規範と事実を混同しているように私には見えます。人々の生活を念頭に政治にかかわることは、漢詩文の作者の規範です。一方、個々の漢詩文が現実社会を軽んじていないかどうかということは、個々に問われるべき事実の問題です。もしも酔翁さんが規範と事実を混同しているのでないとなおもおっしゃるならば、私としては「なるほど現実社会とほとんど関係がないこの詩は漢詩ではないのだな」と受けとめるほかなくなります。 また私は「詩は『生活の労苦や農村社会の問題などの現在の問題を反省させる』べきである」とは申しておりません。「隔世」というテーマを持つ作品のなかで優れているものは一歩引いた視点を提供することで「世」への反省を促すものだ、と申しております。 もっともこの詩自体が新しい視点を提供しないわけではありません。少なくとも漢詩の読み書きがこれほどまでに下火になった現在において、古典ではなくいま書かれている漢詩を読むこと自体が新鮮であり、そのような営みを続けている方のお話を聞けること自体はめったにないチャンスです。 ただ私にあまりにも素養がないためお伺いしたいのですけれども、いま漢詩を書くということのなかに酔翁さんはどのような意義を見出しておられるのでしょうか。例えば私が読んできた詩を振り返ると、カルドゥッチは大学で西洋古典を教えながらギリシャ・ローマの韻律法や修辞に倣った詩をイタリア語で書き、決して置き換えられないものを模倣するという努力を通じてそれまでイタリア語の詩にはなかった全く新しい韻律を発明し、伝統的韻律法からの離反を自由詩の普及に先駆けて促しました。またダンヌンツィオはカルドゥッチからさらに踏み込んで、古代ギリシャの語彙をイタリア語に移植することで新しい言葉を生み出しました。翻って、明治時代の日本の翻訳者たちが豊かな漢文の教養をベースとして今日にまで受け継がれる新語を次々に生み出したことも、経緯をもって思い出されることです。そのようにして古典の教養をベースに単なる模倣ではないものを生み出し、新しい時代を築いていくということ。その営みは、この詩のなかではどのように行われているのか、よろしければこの無教養な私に教えていただけませんか? (求仙)

2018-05-02

 春、都市から離れた農村部に居を構えている知識人の暮らし。  描写はまず遠景から。霞が晴れ、ねじれた山の稜線に沿ってところどころに残った雪があらわれる。  次に中景。茅葺の家々や竹垣が、生きるものを育む川や水路のまわりに連なっている。  そしてメインである近景の生活へ。柳を伸びるに任せ、花を世話しては開かせ、俗世から離れた暮らしを寂しくないようにしている。客と交歓し、詩作し、障子を開けて庭を眺めながら読書。美しい紙片にしたためた麗しい句は、筆先から生まれ出た繊細なる玉だ。  しかし恥ずかしながら漢詩をまったく嗜んでこなかった私には、最終行が少しよくわかりません。「棋声」が将棋を打つ音、「篆影」が書体を指すのだとすると、「紙上の烟」は棋譜のことなのか、それとも戦乱の記録を指すのでしょうか。後者として読むことが許されるとすれば、この詩の語り手は、かつて政変や戦乱により隔世の暮らしを送らなければならなかった詩人たちとは異なり、いまではもっぱら記録のなかで触れるばかりだということを暗示しているように思われます。つまり今や、隔世の暮らしは、政変や戦乱を避けるために送るものではなく、もっぱら楽しむために楽しむものなのだと言っているに等しいでしょう。しかし本当にそう読んでよいのでしょうか。  もうひとつ気になるのは、本作は暮らしを描いているはずなのに、いわゆる「生活感」を持たないことです。例えば、食べているものを誰がどうやって取ってきたか、またそれを誰がどのように料理しているかが少しも見えません。少なくとも自らが田畑を耕し、炊事をしているようではありません。そこに意識があるならば、それを暗示する一字がおのずと書かれるはずでしょうが、それがここに認められない。私は、主題に照らし合わせた場合にあるべきものが書かれないことのなかに軽視の姿勢を見出すので、それを軽視してもその暮らしには何の滞りもないほど誰かに世話をされている語り手なのだなと思ってしまいます。もっと言えば、例えばしばしば、高齢者が自分よりも年上の高齢者を支えることが常態化している現在の農村部では、雑草や虫の大量発生を防ぐために休耕田を減らそうとして苦悩しているものですが、語り手はそういう努力や苦悩ともかかわりなくもっぱら自分の詩作と読書に酔いしれるだけの生活ができているようです。それは語り手が過去に生きている亡霊だからであるのか、それとも語り手が現在に生きながら現在とは関りがない生活を送っているからであるのか、はたまた書き手が何らかの意図により意識して現在との関わりを詩の語り手から排除しているからであるのか、はっきりしません。  いずれにせよ隔世というテーマを持つ詩が社会的インパクトを持つとしたら、その詩が読者に対して現在を一歩引いて捉え直す視点を提供する場合だと私は考えます。例えば、「政変や戦乱などは自然の営みに比べればささやかなことであるのに、それが生み出す悲劇たるや長らく人を荒廃させるばかりだ」といわんばかりの嘆きは、政変や戦乱をなおも続けている私たちに反省をもたらし、平和や安定への意識を育てるでしょう。しかしこの詩はどうでしょうか、上に述べたような生活の労苦や農村社会の問題などの現在の問題を反省させるでしょうか? (求仙)

2018-04-30

まりもさん、確かにこれは私がその場所を思いながら書いた日記文を含んでいますが、しかし国会前に集まったひとびとの真の肉声からはほど遠く、ただ私のなかの「私たち」の仮声であるにすぎません。 しかし私はまさかまりもさんからこの詩の内容が「リベラル正論に寄りすぎ」と言われるとは思ってもみませんでした。なぜなら私はむしろここに古いタイプのナショナリズムとの親和性があると考えているからです。それはすなわち、「金と力でこの土地に介入しながら、この土地に関係がない者たちに都合がいいようにルールを書き換えることでさらに金と力を得て、飽きたり失敗したりすればいつでもこの土地から離れて行ける者たちの好きにはさせない。この土地のことは、この土地に生きて死んでいく者が決める」という信念です。ここでnation が生まれを意味するラテン語 natio に由来することを知らなくても、またまさに近代の国民国家樹立を突き動かしていた信念のなかに同じような要素が含まれていたことを思い出さなくても、ただ郷土右翼たちに聞いてみればわかるはずです。その信念に同意できるかと。もっとも私はその危うさに気付きながら、私は私のなかの「私たち」の声を抑えつけることで「私たち」の独裁者になりたくはなかったので、むしろ「土地」という言葉を詩から取り除くことによって、これまでまったく違う角度から同じ自己決定権を求めてきた左翼にとってもやはり同意できるものにしようと努力しました。詩の巧拙はともかくとしても、その努力はきっとそれなりの形になっていると信じています。にもかかわらず単純にそれを「リベラル正論」と呼ぶまりもさんは、例えば現政権とその支持者を「保守」と呼び、その反対者を「リベラル」と呼ぶ思い込みに「寄りすぎ」ているのではないでしょうか。人の行動を左右する観念体系のことをイデオロギーだいうのだとすれば、十分に検討する前に何かをイデオロギー的だと断じることこそが最もイデオロギー的な読解であるとは言えませんか。 (「ふたたび殺戮の時代」のためのスケッチ)

2018-04-27

「あたし〜春です」という断言のキーフレーズはさっぱりしていてそれなりにキレがいいですけど、個人的にはさすがに6連はもたないんじゃないかと思います。 とはいえ、書き手がこのテーマならこの形式にしたいと考えるのにも一理あるとは思うんです。少し引いて見るとこれら6連はA-B-A’という3部形式になっていて、いわば繰り返しながらほころびにたどり着く形になってるんですよね。音楽でいえば民衆舞曲風。輪になって歌い踊りながら、飽きるまでA-Bを繰り返して、やめるときはBからA’に入って締めるというような。 だからこそ、この6連を支えられるほどのパワーフレーズか、さもなければ巧みな変奏が欲しいと思うんです。 (いつまでも春)

2018-04-25

文字で読むよりも詩人の肉声で聞いた方がリフレインのこだまが深まりそうだと思いました。いつか聞けますように。録音でもなく、肉声で。 (負けた!そんな日曜日にふさわしいのかい?いや、そんな事はない。)

2018-04-25

光を当てることと、その限界。それがこの詩を読み解くカギです。 実際、語り手が人工光の意味に気づくところからこの詩は語り始められています。第一連で「僕」は、作業用の「シェードランプ」を見ているうちに、あらゆる人工光が誰かによって何らかの目的で設置され、点灯されているという事実に改めて気づきます。「やたら明るい夜道」「知らない窓の向こう側にある光」が「変に懐かしく見えてた」のは、きっと誰でもない誰かに見守られているかように感じたり、誰かは分からない誰かの生を照らすものを家庭の記憶に結びつけたりしているからではないでしょうか。 第二連では語り手はしかし光に孤独な距離を取ります。実際、そのように群がる照明を懐かしがるどころか、まるで病のようだとも感じていることを、括弧書きのなかで打ち明けています。語り手は、すぐにそれを括弧なしの文で打ち消すほど、人の世をはっきり否定して平然としていられるような厭世家ではありませんが、それでもまるで誰かの機嫌を取るかにように「きれいだよね」と言いながら本音を隠してしまうほど、それなりの分かり合えなさを抱えてもいます。 詩が飛躍を始めるのは第三連です。ここで語り手は自分こそ光になりたいと言うのです。この展開は、若いというよりは青臭いと言わずにはいられませんが、実は同時にこれ以降の助走になっています。注目すべきはこの連最終行の「僕の眼のなかにそれを宿していたいとは思います」です。ここで光と視線が重ね合わされるので、「光になりたい」という「僕」の思いが次の連以降の事実を描き出す営みにつながります。 そういう流れで、第四連以降である会話の描写の試みが繰り返されます。ここでは、語り手がはっきり語らないにせよ、事実への近づき難さが浮き彫りにされています。光の当て方次第でものごとの見方が変わってしまうのです。「女」が職場での抑圧について語るところから開始すると見る人の共感を呼びそうですが、その前に遡って「女」が猫を脅かすことが好きだと打ち明けるところから開始すると見る人に嫌悪を抱かせるかもしれません。さらに遡って「女」がその嗜虐の理由を親から受けた虐待に求めるところから始めると、見る人に割り切れなさが生まれます。第三連の「受けとめる方しかできない」という言明は、語り手が事実をありのままに描くこともうまくできないという事実が露呈することでくじかれています。 この挫折に耐えきれなくなったのか、詩の語り手はこの試行錯誤の後に「光を当てる」こと自体をやめてしまいます。試行を断ち切ったばかりではありません。語り手は第三連では人の世へのネガティブな感情を括弧書きとはいえ言い表しはしていたのに、最後から二つ目の連では何も語らない「女」を勝手に推し量ってしゃべる「男」のセリフにすり替えてその感情を完全に覆い隠してしまいます。 最終連の語りは諦めを漂わせています。とくに最終二行「なんとか自分の部屋の電気を つけに帰ったりしてた」は示唆的です。自ら光になって事実をありのままに照らし出すことに挫折し、せいぜい自分の生活を自分のために照らすことで精一杯だというわけです。最後ににじむこの諦念が、「うそのはなし」というタイトルにはよく反映されているような気がします。これは「うそ」なんだ、はなしの内容は光の当て方(事実をどう切り取るか)で変わってしまうから……語り手はどうやらそんなふうに言いたげに見えます。 まとめると、この詩は、技法としては途中で演劇や映像のシナリオの文体を巧みに活用しながら、テーマとしては光=視座を軸に事実への近づき難さと「僕」の敗北を語っています。かなり工夫が凝らされた作品であり、その注力ぶりには書き手の静かな熱を感じます。 しかしそれでも、私は書き手というよりは語り手の姿勢に違和感を覚えます。語り手は、繰り返される会話の試行の外に立って、自分は見られることがなく登場人物から傷つけられることもない安全な場所にいながら、「女」と「男」をわれわれ読者のような物見高い観客の視線にさらしています。第三連の「見ていてもなんにもできない」という言葉は、安全なところから見るだけ見て何もしないという先回りの言い訳に過ぎなかったのではないでしょうか。 私は、事実をありのままに描くことは困難だということを認めますが、しかし事実は描写次第で無限に変化するとは考えません。事実に迫るための手がかりは有限だからです。そして語り手の身の引き方にも共感しません。私は、ドキュメンタリーにせよ歴史記述にせよ創作にせよ、事実の描写に触れていくときに、その事実そのものに興味を持っているのは言うまでもありませんが、しかしそれ以上にその光の当て方から分かる語り手の思想により大きな関心を抱いています。どの手がかりに重きを置いて事実を描写するかということは、最終的には描写する者の良心の問題です。だからこそ、その良心に基づく決断にこそ、読む側にとっての価値があるのです。事実はどうだったかという問いは法廷にとって重要です。しかし事実はどうだったとあなたは考えるのかという問いのほうが、文学や芸術の営みにとってははるかに重要なのではないでしょうか。 私は以上のような疑問を抱かずにはいられませんがが、それでも本作は間違いなく非常に巧みに構成された一篇だといえるでしょう。次の作品を読ませていただける日を心待ちにしています。 (うそのはなし)

2018-04-24

今週初めに読んですぐ、これは高度な工夫が凝らされた作品だと思いました。書き手は演劇や映像に通じた方ではないかと想像しています。ぜひきちんと批評を書かねばと思っているのですが、日々忙しく、今夜も先程職場を離れたばかりです。 (うそのはなし)

2018-04-20

私は貴音さんにじっくり読んでいただけるほど面白い批評を出せなかったようです。精進します。私が怒っているのか褒めているのか貴音さんは分からないとおっしゃいましたが、実際にはそのどちらでもありません。私はひとつの作品から、時代のなかで向かい合うべき共通の現象の特徴を見出し、そこに目印をつけながら疑問を投げかけました。 貴音さんが作品の良し悪しを述べよとおっしゃるなら、私はそれにも答えず単に「もったいない、もっとやってほしい」と述べます。貴音さんは衝動的な爆発力をさまざまな形式にまとめていくことができる、まれな書き手だと私は考えています。けれどもこの詩は最後のパート以外、言葉の強さや辛辣さに見るべきものがあるとしても全体的にはつまらないです。なぜなら批判対象が矮小だからです。もちろん、例えば現在の日本の首相のように、最も矮小な人物のなかに最も悪しきものが宿っている場合はよくあります。その場合には、的確にその部分を明るみに引きずり出すことで、批判はつまらないものではなくなるでしょう。目の前の現実のなかに隠された不正を的確に暴き出し、それを人の世に蔓延る最悪なものと結びつけること。パンクロッカーが歯に絹着せぬ率直な言葉と皮肉の両方を使い分けてそれをやってのけるとき、私は最も心を動かされます。しかしこの詩の敵はどうでしょうか? 詩や芸術のコミュニティは社会の広さからいえばとてつもなく狭いです。この詩に登場する人物のようにそこでいい気になっている人間は矮小そのものですよね。そんな奴は社会では相手にされないし、影響力も持ちません。そんなつまらない奴を相手にするだけ時間のむだではありませんか。いや、みんな見過ごしているがこの矮小な人物こそが世の悪を象徴するのだ(例えば「狭いコミュニティでしか通用しない知識を振りかざすことで、それを持たない相手を上から抑えつけながらぼこぼこに叩きのめすような批評をする奴は、ロリコンレイプ野郎と同じ征服欲の悪魔だ」)と貴音さんがおっしゃるのであれば話は別ですが、この詩にそこまで書かれているでしょうか。もっとやってほしいと思います。 (BABY NEAPOLITANS 3)

2018-04-18

こうださん、言及されたその一文がまさに拙作のすべての核心でした。ありがとうございました。 (【選評】もどいてひもといて意図)

2018-04-17

語り手は、リフレインを伴う四行詩節や八行詩節という最も古くからありそうなタイプの形式に、しかもほかの詩人や評論家のdisという最も古くからありそうな題材を載せて、「皆は常に最新さ お前は死人みたいに不感症 本当に死んでしまえ」と繰り返しぶちまけています。作者やほかの読者が何と言おうが、この矛盾こそがこの詩の最大の読みどころだと私は確信しています。結論から先に言えば、この語り手にとって歴史は終わっています。それ自体は真新しいことではないにせよ、その表出のありかたは今日的です。 そもそも「皆は常に最新」であるとはどういうことなのでしょうか。私が常識と信じているものに基づくと、一切の作品には新しさと古さが同時に含まれています。とくに詩の場合、詩人は、独自に発明したまったく新しい言語を使うのでない限り、自分以前に存在した文字や音声の要素を自分以前に存在したルールに従ったり違反したりしながら並べているため、その結果はどんなものであれ古い要素と新しい仕方を必ず同時に含みます。しかもそれらはきっぱりと切り分けられはしません。ちょうどアヴァンギャルド芸術が美術館の一角にひっそりと収蔵または展示されているように、一時的に新しいとされたものでさえすぐに古くなっていきますし、他方で新古典主義者や歴史折衷主義者のように、古いものの再生や再構成の中にこそ新しく見出されるべきものがあるともいえるでしょうから。 しかし「皆は常に最新さ」というリフレインは、明らかに、以上のごく当たり前だと思える考え方には基づいていません。では語り手は何をもってそう言っているのでしょうか。 注目すべきことにこの「皆」は非常にあいまいであり、すべての作品のことを言っているのか、すべての作者のことを指すのか判然としません。語り手はむしろそれらを区別していないようです。実際、直前の三行で、語り手は「有り触れたテーマと手法だと扱き下ろしながら/インスタントポエムを量産しているお前は/物を忘れる練習か表現をする事から離れた方が良いよ」と勧めた後で、作品を扱き下ろした「お前」の不当さを訴えるために「皆は常に最新さ」と言っています。このように語り手が「お前」からの作品評に対して「お前」に向けた人格批判を行なっているからには、ここで持ち出される「皆」とは、語り手が擁護したいすべての作品であると同時に、語り手が「お前」に対置したいすべての人格でもある何かです。そんなすべての「作品=作者」が「常に最新」であるというからには、語り手にとって、これまでに蓄積されてきたいかなる作品論も作者論ももはや照らし合わせるに値しないということを表しています。とはいえ、それは語り手にとって歴史が存在しないということを意味するのではありません。歴史はいまだに批判対象の詩人=批評家の口を借りて、「有り触れたテーマと手法」を「扱き下ろし」てくるからです。語り手にとって歴史は、終わりながらもいわば「死人みたいに」存在していて、生者になおも新しさを問いかけてくるのです。だからこそ、語り手は最も古くからありそうな形式を使って「皆は最新さ」と言い返すことで、自分が愛着を抱くすべての作品(と癒着した詩人)を歴史の問いかけから擁護しようとしています。 このような詩はおそらく今初めて書かれたわけではないでしょう。しかしそれが広く公開されるということは、インターネットでだれもが作品を公開できるようになった時代特有の新しい現象ではあります。なぜなら古い語法や主題で新しさを言い募るこのような詩は、かつて雑誌の投稿欄などに掲載されはしなかっただろうからです。その意味ではこの詩がここにあって誰にでも読まれ得るということは、「最新」の状況そのものだといえます。 しかし本当に、人は歴史を振り切ってしまえるのでしょうか。歴史が人と人のあいだで紡がれるものであるとすると、ひとつの共同体に定住せずに渡り歩いていけば、その影響を受けずにすむのかもしれません。しかし自分が同じ名前を使い続けている限りは、古い自分自身から何事かを問いかけられることはないのでしょうか? あるいは名前を変えてそれを振り切ったとしても、記憶は? そもそも人がすべての過去を捨て去ったとき、言葉は人にとって何を語るでしょうか? 私は、かつてのアヴァンギャルドには資本主義市場との親和性があったことを認めているので、新しさのみを理由として作品を高く評価することはありません。そして同様に、この詩が今日的状況をよく表しているからといって、それを称賛することもありません。むしろ私は、こうした「歴史の終わり」から生じるさまざまな効果と向き合うつもりです。いわばその対象の目印をつけておくために、この評をここに書き留めておきます。 (BABY NEAPOLITANS 3)

2018-04-10

仲程さん、いえ私こそちゃんとキャッチして投げ返せずすみませんでした。ほんとの声にするなら、いずれどこかの路上にて。実際、残業がなくて家庭も許してくれる夜にしばしば出かけていくある路上で、立ち並ぶ「あなたがた」に向き合いながら読み上げるチャンスをうかがっています。でもまだその行為の意味に確信を持っていません。いずれ時が来ますように。あるいはたくさんの人に協力してもらって、一人ずつカメラをまっすぐに見つめながら一部を読んでもらい、それをつないではどうかという考えも抱いています。でもプロジェクトを立ち上げるには時間と体力が足りなくて。ひとまずここに掲示させてもらうことから始めました。 (「ふたたび殺戮の時代」のためのスケッチ)

2018-04-07

仲程さん、コメントありがとうございます。この詩も一応「作者本人の語り」ではあります。2013年以降に書いた3つの日記文と2つの詩を編集したうえで冒頭部分を書き加えました。ただ、私自身が社会的存在としてすでに複数性を帯びており、とくに最後のソネット以外は明らかにその複数性に基づいて発話していたので、話者の声にそのことを反映させるために引用符としてのカギカッコヒラクを大量に挿入しました。その結果、確かにこれは作者自身の語りには聞こえなくなっていたかもしれません。 (「ふたたび殺戮の時代」のためのスケッチ)

2018-04-06

ちょっと疲れてる芸大生にロールシャッハテストを受けさせるのはマジで事態を激しく悪化させるだけだから止めろ。と、実際に疲れてる状態でロールシャッハテストを受けたせいで切実に辛い思いをしたことがあるリアル元芸大生(博士)の私が通りますよ。学校に通っているか独学であるかを問わず、意識的にあえてお決まりとは違う視点からものごとを捉える修練を積んできた人が、ロールシャッハテストのただのインクの染みを見て変わった答えを出したからと言って薬を大量に出す医者は、その結果を論理的に予想できないという意味で頭がおかしい。ちなみに私は臨床心理士の先生に「ただのインクの染みが見えます」と答えると満足されなかったので、「あえて別のものにたとええなければならないのなら、瀧口修造のデカルコマニー(ggrks)を思い出します」と言いました。すると「いや、もっと別の何かをお願いします。もっと別のものがあなたには見えるんです!」と言われたので、ああそういうご期待に沿わない限りこの茶番は終わらないんだなあと思い、求められていそうなことを言ってあげたら、統合失調症の疑いがあるとの所見をいただきましたよ。幸い、その所見を受け取った精神科医はそれを一笑に伏し、正しくもうつ病の診断を出してくれたおかげで、そう経たないうちに学業にもバイトにも励めるようになりましたが。というわけでこの詩で頭がおかしいのはロールシャッハテストをやって過ちに気づけなかったドクターのほう。終わり (救急車をスライスすると指になる)

2018-04-02

これのパロディなのでは? http://breview.main.jp/keijiban/?id=1334 (Rの日記より「遺留品の取り扱いと不要品の処理に関する記述」)

2018-03-25

藤さんの了見は狭いですね。古くから千行以上の詩はいくつもあるのに、それを簡単に切り捨てるようなことをおっしゃいます。およそ詩を読まない方なのか、少なくとも古典を知らない方なのでしょうね。批評には気をつけたほうがよいですよ。批評は詩以上に書き手の見識を如実に表します。そしてけなすのは誰にでもできることです。自分は満足しなかったと言えば終わりですから。本当に難しいのは不足も過剰もなく核心を突いて批評することです。勉強しておいでください。法学士さんへ。 (踏み止まるメザシ(千葉県産))

2018-03-14

一般に乳房には男女の両方からさまざまなイメージや意味が重ねられていますが、この詩は「ただのおっぱい」と柔らかく言い切ることで乳房をどんな性的な視線や神話化からも切り離しながら、また「うっくん」と飲む音を追加することで育むものとしてのありかたに引き戻しています。ところで私自身は妻と交代で産み育てたいから子宮も乳房も男性としての私にあればいいのにと常々思っているのですが、その立場がどうしても感想ににじんでしまいます。 (ときには 名もない おっぱいのように)

2018-03-14

一篇書き始めたのですが月末にできるかどうかというところなので、20歳のころに書いたものをそっと置いていきます。いま読み返すと詰めが甘い部分がとりわけ(ii)にありますが、たぶんそれも含めて私のはじまりにあった姿勢をよく写し取っているような気がします。 (殺戮の時代)

2018-03-14

頭の中で鳴ったコードはFでした。Fin. それはともかく、ギブソンが経営危機に瀕していると伝えられる現在、しかも音楽には多種多様な表現言語とそれに応じた多数の入り口があるにもかかわらず、それでもまずアコースティックギターをつかんでコードを覚え始める若者像は非常に懐古的だと私は感じます。一方で詩の中には、そんなかつての若者が経験したはずのボーリング場が賑わう様子ではなく、まさにいまのボーリング場の廃墟が描かれています。「僕」は時の流れから取り残された古い青春の影ではないでしょうか。 (アコースティック)

2018-03-07

作者は、各連最終行の末尾に現れる言葉を、続く連の開始行の冒頭で反復することにより、鎖が連なるかのような構造を作り出そうとしているようです。おそらくこの構造そのものによって詩の最終行の意味を強調しようとしているのではないでしょうか。私としてはさらに詩の最終行末尾を詩の開始行冒頭で受けるように構成すれば「繰り返す」の重みが増す気がするのですが、構成に凝る作者がその可能性を検討しないはずがないので、むしろ「ジッパー」の「外れ」に何らかの意図があると見るべきなのかもしれません。 (Mr.±0)

2018-03-07

Re: はな、うてと し、かなし、はてへ ななし、のはな、のはか とうと、う、うしな、うとて はな、うてば しか、たなし、ははの ななつ、のはか、のなは みな、もにう、しな、われて はる、 はな、つ、は、てなき、なつのはなの はう、はなばな、のな、において、てと てを、つ、なぎ、なつのなぎのなかで とて、つ、もない、ながれのなみだ、かれて あき、 はな、たれ、たかれのな、ふゆのそらに そらに、なんのなごりもな、く、はれて ははに、なをつげることもなく、よばれて な、はなに、か、つげるまえからよばれて、 うて、と、う てと、なぜ、うてと なぜ、はなは、ははよ はなつのか、しを、うつつの なのか、あとに、かな、たへあてて (はな、うてと)

2018-03-01

リズムを心地よく感じたので分析したところ、休符を入れてだいたい8拍-8拍のなかに収まるように構成されていますね (7音1休5音3休といった具合に)。多少の変化もありつつ安定して反復されていくその調子が、1から始まって兆を超えていく営みの連続を強調しているかのようです。 内容を見ると、話者が「ある」「しまった」と言っているものは、実はほとんどなくしたものであるか、もしくはなくしたものの形見や痕跡なのではないかという印象を抱きました。話者が「ある」というのは、ものとして所有しているいうよりはむしろ、生きられた経験として話者の生のなかに確かに「ある」ということなのではないでしょうか。だとするとその、実在と内在のあいだの乖離そのものが、話者に内省を促す契機なのかもしれません。そのように、もう所有していないのにいつでも今ここに「ある」ものをめぐる語りだとすると、人が誰でも一生を通じて経験することに触れた詩として読めるように思います。青春期にふさわしい主題で、青春期とは思えないほど素晴らしく巧みに構成された作品です。 (現代のしまうま)

2018-02-27

名状しがたい感覚をおぼえます。伝えるための言葉というよりは、手ごたえを確かめるための言葉。それは社会性や共通の表現などから遠のいていきながら、しかしより生に迫っていくようです。ろくな批評が書けません。すみません。私はこういう詩がすきです。 (冬、いき)

2018-02-27

世の中が遠い。そんなことを思いました。 (未処理)

2018-02-15

奇数連では第1・第3行頭が、偶数連では第2・第4行頭がそれぞれ「迷」という字から開始されていると同時に、スマホの縦画面で見たときにちょうど折り返しも余白もなしで表示されるように各行が17字で構成されているため、詩全体がテクスチャーのように模様を持ちながらぺたーっと貼り付いているかのように見えます。森は狂気や死に至る精神的危機の比喩でしょうか。 (迷彩)

2018-02-12

■miyastorageさん 戦後詩の終焉という言葉が現代詩手帖とその周辺で流行したころに内心で反発していた私は、ご指摘いただいたようなことをいまだに詩作中にしばしば意識します。 これからの状況は悪くなるか、より速く悪くなるかのいずれかしかない。私は3.11以来そう考えるようになりました。できればその速度を少しでも遅くするための努力をしようとしてきましたが、やはりあまりにもささやかなこの私の力ではどうしようもないどころか、別の場所では私自身が食べていくためにその流れに力を貸してしまってさえいるのです。そこに嫌気が差していますが、また一方ではわが祖父母もそのように生き延びたのだから人はどんな時代であれなるべく善く生きるしかないと根本的に開き直ってもいて、矛盾するばかりです。 ■完備さん ご指摘の点については、それはそうでしょうとしか申し上げられません。私はもともと内容と形式の両面から第1・2連と第3・4連目のあいだに明確な境を置いてコントラストを生み出すことを意識していたものですから、ありふれた表現が第1・2連に散見されることをご指摘いただいても「だってそれは最初からそういうつもりで書いたのですからそうでしょう」と苦笑するほかありません。 (    )

2018-02-11

■渡辺八畳@祝儀敷さん まさに実際に挑戦してみていただきたかったので結果をご報告くださって非常に嬉しいです。苦手なものが私の場合と重なっていて、やっぱり誰かにとって難しいものはたいていは誰にでも難しいものだなと思いました。 ■三浦⌘∂admin∂⌘果実さん 言及された音楽には確かに通じるところがあるかもしれません。最初に構成音をいくつか決めたうえで、ひたすら入れ替えながら、必要に応じて新しい構成音を追加しつつ続きを作っていきました。緊張を持続できなくなったり、それ以上展開できなくなったらそこで終了。 ■仲程さん ぎゅっ ■百均@B-REVIEW ON/ さん 諧謔性を感じていただければ何よりです。これは、基本的には、直観にしたがって音列の再構成を繰り返していく遊びです(平仮名部分でその音の流れを示しています)。素材として使った音列が伝統的な早口言葉である場合にはパロディー性が出てきて、皮肉な印象がかもしだされるというわけです。とはいえ、出力されるものがどんな意味やニュアンスをたまたま持ちうるかということについても作者として関心がありますが、それ以上に実際に音読してみていただくことのほうが私にとっては大きな喜びです。 ■survofさん 現在の私にとっても音読は難しいです。実は作成した当初はセンテンスごとにどれもそれぞれ噛まずに読みこなせたのですが、しばらく経ってこうしてまとめてみた今ではかなり噛むようになってしまいました。あまり声を出さない仕事をしているせいか、どんどん舌が回らなくなってきています。鍛錬せねば。 (言葉の体操 ― 創作早口言葉)

2018-02-11

2月2日生まれの語り手が、誕生日を迎えたことをきっかけに、その誕生から思春期を経て壮年までに思いを巡らせているようです。 特別な社会的事件が起きたわけではないにもかかわらず誕生日の、世の中的な定義が勝手に変わると、なんかもやっとすることもあると思うのですが、語り手はそこで世の中に対する距離感をことさらに感じるような少年ではとっくになくなっていて、ただ変わったということだけを語る程度に何かを感じているのでしょう。この、変わりゆくことを受け止める態度が、壮年から老年にかけての特有のものなのかなと感じました。その態度は第三連では明らかにもっと感情的になっていますが、それは何しろ自分の誕生から連なっていくあひるのイメージ=子どもたちに関わることですから、当然で。 (さんわのあひる よんわのあひる)

2018-02-08

女性のパートナーがいて子どもがいない立場から言うと、私にとってここに書かれていることはあまり他人事ではないので、このテーマでの率直な吐露は個人的には刺さります。ただ、だからこそなおさら、年齢や立場によって、自分が感じているか感じるかもしれない痛みだと思えるかどうかは、異なるかもしれません。これがどこに届くかを李沙英さんが目指しているかによって、書き方は変わるのだと思います。 (さよなら赤ちゃん)

2018-02-08

文をフツーにだらだらと連ねる文体の作品って、なかなかだらだら書けないですよね。本当にだらだら書くと後で見返したときにどこかに出すのをやめようかなと思うほど作品としてまとまりがなくなるし、かと言って計算づくで作り込むとせっかくのだらだら感が失われてしまって逆にちょっとフツーがフトゥになっちゃうというか、だからそこはやっぱりちょうどいいところをうろうろするしかないんですけど、まあこの作品はまさにだらだらしゃべりながら時系列も性別も超えてうろうろしっぱなしというか、実際、他人の顔がよく見えないので自分の顔にもしばらく頓着しなかったけれどあるとき友達になんか言われて気づいたら思春期くぐって顔が変わっていくのがたまらなくなったというそのまわりをぐるぐる回ってる感じですね。そうかこんなふうにうろつけばいいんだな。本題を話してしまったのでこの文終わり。 (僕の顔)

2018-02-06

音の流れと微細なニュアンスに対する類まれな配慮を感じます。こういう書き方はある種の緊張感を一定以上持続できないと成り立たなくなるので、もしもこれよりも長く展開しようとするなら、より錯乱したような文体を取るしかなくなるでしょう。この詩はそこへは行かずに、絶妙なバランスでとどまっているように思います。 (おわって、風)

2018-02-06

カギカッコ内がみうらくんのセリフの引用で、地の文が先生の内心の発話。語り手は高校生のころの経験を相対化するために先生の立場から語る試みをしたのだ、とすると、先生は本当にそぎゃんこつば思っていなさったとだろか。先生らしきひとのはなしには、本当に先生が話しよんなさるのか、実は親父の年齢に近づいていくずっと後のみうらくんが話しよるのか、ようわからんところがある。相対化の試みっちゅうのは、そぎゃんごつ過去の自分と先生と父親の記憶ば掘り起こして、語り手自身を異質化する試みなのかもしれんなと思いました。ちなみに私が混ぜているこれは作中人物がしゃべっているのとは違う方言です。九州にもいろいろあるけんね (相対化する高校生の欠片)

2018-02-01

はっきりした対象描写があるのは第一連だけで、他の連では諸感覚の断片とそれらへの反省的思考がずっと展開されています。そのコントラストから、話者が世に生を受けてから20年かそれで以上経った頃に、生きることの中に隠然たる部分を発見して、没入している様子がうかがえます。五感とそのほかのすべてを結集して得られるものが半径いわばマイナス1メートルくらいのなかにあって全部薄暗くてねばついているかのようであるなかで、見出された「くっついてる」「藁」の具体性とその邪魔な感じが突き抜けてます。 (プラモデル)

2018-02-01

英語教科書のパスティーシュでは清水義範『永遠のジャックアンドベティ』が思い出されますが、例えばその作品が本当に語るべきことを語れないあまりにも不自然な表現ばかり教える当時の日本の学校英語教育に対する皮肉になっていたのに対して、こちらはむしろステレオタイプな「性に奔放なアメリカ人」観を突き崩すどころか温存しており、それで引き起こされる笑いは批判的というより差別的なのではないかと懸念します。 (英作文特講)

2018-01-26

語るべきことなどほとんどないのに饒舌に何行も連ねる詩がある一方で、この詩はひょっとしたら語るべきことさえもちょっと省略してしまったかもしれないほど削り込んでいるかのようです。その訥々とした調子と最終2行のたたずまいから、話者がたとえ実際は日本語圏にいたとしてもほとんど外国に暮らしているかのようだなと思いました。 (警笛)

2018-01-24

個人的にはその悲しみの表現に寄り添いたい思いも強くありますが、詩の形を見ると、「あや子」を封筒なき便箋に喩える連全体(と第2連最後から2行目などの関連部分)を削除した上で、タイトルをその石のsingularityにピントを合わせたものに変更したほうがより研ぎ澄まされてくるのではないかとも思いました。もっとも、他人の表現はどこまでも他人のものであるのに「自分だったら」などとまるで半分自分の表現であるかのように傲慢にも添削じみたことをここに書きつけずにはいられないほど、私にとってはあまりにも客観的に突き放せない作品でありました。 (letters)

2018-01-22

作者ボルカさんの身体的性別を知っている私は、作者=話者ではないとは承知しながらも、「殺してでも」という表現のなかにfeminicideに至りかねない暴力性を見出してしまいそうになります。とはいえ、話者=私は、薔薇が話者であり私が君である場合について語る一方で、実は必ずしも君は薔薇だとは強く断言していないので、その暴力性はあくまで潜在的可能性にとどまるのであり、その表象が「架空の薔薇」なのかもしれません。いずれにせよ私ならその暴力性は潜在的可能性としても排除したいものです。そのように私は好きか嫌いかで言えばこれを愛と呼ぶのは好きではありませんが、それでも表現としては簡潔かつ洗練されていると思いました。 (薔薇)

2018-01-22

きしゃ、ケービン、せんぜん、ケイレー、そういった音音読みの言葉はすべて支配するヤマトの側からモノと一緒にやってきて、おじいを奪っていったのかと目をきつく閉じながら思いました。しかしその記憶はおっきいおばあと孫のあいだの言葉の壁のおかげで、直接伝えられていかないかもしれない。ヤマトからの言葉はウチナーに入ってきたのに、なぜウチナーからの言葉はヤマトに届きにくいのか。仲程さんの詩業は届くことに賭けているかのようで、あらためて貴重だと感じました。おひさしぶりです。 (かでぃなー 嘉手納)

2018-01-20

最初は全篇がかなり自由に着想された作品ではないかと思いましたが、ふと思い立って小題の一つ一つを寺の名として検索してみると、ときどき、各々の寺について伝えられている物語がある場合には、作者がさらなる改変や誇張を加えているらしいことがわかりました(わかりやすいのは井戸寺、立江寺、一宮寺のはなし)。とくに誇張されているところでは、ユーモアが発揮されていることもあれば、本来救いがあった話が全くむごいものに変えられていることもあり、その差を見ているとこの作者のいたずらごころが感じ取れてくるようです。それにしても、私は四国の霊所のいわれを生まれて初めて検索したのではないか。いずれにせよ、形式や文体も含めて、工夫の凝らされた労作だと思いました。 (詩国お遍路(1/2))

2018-01-20

夜を歩く

2020-09-05

パレード

2020-08-30