平素よりB-REVIEWへの投稿・コメント活動にご参加いただきありがとうございます。10月の月間B-REVIEW大賞が決定いたしましたので発表いたします。

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目次

・月間B-REVIEW大賞
・投票作品
・概観 by yasu.na
・雑感+作品コメント+雑感 by 貴音

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・月間B-REVIEW大賞

藤 一紀 『 丘の上の墓碑 』15票

・投票作品

最終投票数が3票以上の作品を発表します。

土曜の夜にリンゴを買う 11票
夜空に連れて行ったのは「僕ら」 6票
暇つぶしによる暇つぶし 5票
自由律俳句 202110-1 3票
自意識、無意識、被害者意識 3票

10月分の投票について
鈴木 海兎 ?? 氏の藤 一紀氏「丘の上の墓碑」批評文は本人の申告に基づき、推薦文としてカウントしております。

・概観 by yasu.na

【イントロダクション】

 ここに一問だけの記述式試験がある。それにはこう書かれてある。「2021年10月中にビーレビに投稿された作品群から妥当と考えられる数だけ作品を選んで話を書きなさい。ただし、得票数の多かった作品を二、三必ず扱うこと。」と。下に掲げるのは私yasu naが試みた一つの解答案である。

【解答案】

 毎日の習慣で、時刻を問わず、ビーレビの作品掲示板を縦に横に斜めに読んでいました。或る時、ちょっと気になる語がありました。無明? 無量? これって仏教の語じゃない? こんなふうに思ったのです。両方とも作品のタイトルに見出した語です。今回は、それらの作品について語ることから話を始めようと思います。

 まず湯煙さんの『無明列車より』です。私は「無明」という語が仏教の語であると当初からはっきりと認識できたわけではなく、ただなんとなくぼんやりと仏教の語ではなかったかな、と記憶の片隅で音が鳴るように感じただけです。それでとりあえず私の持っている一番小さな国語辞典、新明解国語辞典第四版で「無明」を引くと「〔仏教で〕煩悩におおわれて、道理をはっきり理解出来ない精神状態。」とありました。私としてはこれだけ分かれば十分だと感じましたが、普通の人がするようにウィキペディアの記事も見てみました。「無明」、このリンクです。でも語の意味ばかり追っていても楽しくありません。作品を読みましょう。

 私がこの作品を読んだのは、ビーレビ作品掲示板を斜めに読んでいる時に詩の本文に何か引きつけられるものを感じたからであり、先に「無明」という語に強い関心を持ったためではほとんどありません。そういう関心は、作品を読んでいる間、そしていったん読み終わった時に徐々に生まれたほぼ事後的なものであり、当面無視していいです。だから一篇の詩としてどうなのかということを何より重視して私はここでコメントしなくてはなりません。

 結論から言えば、この詩は超いいです。必読です。内容は「ぼく」が実人生を進んできた、或いは進んでいる、そして進み続ける間に考えたこと、感じたこと、見聞きしたことを、心の言葉に置き換えて、ぽつりぽつりと焦ることなく声を荒らげることなく、そして心に即して書いてゆくものです。特にこの「心の言葉に置き換えて」「心に即して」書くということは、一つの方法ですが、成功させるのは難しく、真に詩人でなくてはできないことだと思います。物を指示する言葉が物を表現するだけではなくて、心をも表現します。言葉の可能性の圏域の大きさに今さら驚きます。確かに「ぼく」は決して降りることのない列車に乗るし(降りてもまた乗る、或いは「ぼく」と列車との境界が不分明)、それに伴い駅や鉄路や乗客たちや改札が登場します。でも自明ですがこれらはこの詩において即物的な舞台の設定であるのではなく、当然「ぼく」の内面世界の設定であるわけです。

 随所に表現が光ります。抒情性も高い。

>見知らぬ街、見知らぬ空、見知らぬ人、

>駅のホームに乗客は一人、ぼく、だったろう。

「ぼくだけだったろう。」ではなく「ぼく、だったろう。」となっているところが憎いですね。「心に即して」言葉が決まってゆくわけです。

作品末尾の五行などは、鳥肌が立ちます。もう私はこの作品について書きすぎたようです。読者から読む楽しみを奪ってはならないと思うので、この作品について書くのはこれくらいにしておきます。

 次に、「無量」という語の方です。この語が見出されるのは、狂詩人さんの『無量のて、あしのために』という作品のタイトル中であるわけですが、前出の「無明」という語の場合とは異なる思いが、この「無量」という語にかんしては、私の胸中にあるのです。それについて話すことから始めたいと思います。

 試しに私の持っているボロい電子辞書の中に入っている『スーパー大辞林』という辞書を引いてみましょう。すると「無量」の意味は「はかり知れないほどに多いこと。数知れないほどあること。また、そのさま。」と出てきます。特に仏教の語ではないようです。しかし、勤勉な私はここで調査をやめません。辞書を引いたときには必ず前後の語も見るのです。するとすぐ次の項目は「無量義経」、次は「無量光」、次は「無量劫」というように続いていきます。ここにいたって、私は思いました、ハハア、これだな、私が知っていたのは、と。そして面倒くさいけれども書棚の奥を探して、二冊の埃まみれの文庫本を取り出しました。書名は『浄土三部経』上下全2冊(岩波書店のサイトへのリンクを仕掛けておきました)。私はこの書物を、祖父の葬儀の日に買ったのでした。動機は、何かその日の記念になるものを買って残そうと思ったこと、葬儀が仏式であったこと、というような大まかなことでした。そしてなぜか書店(銀座の教文館)に入ってこの書物を選び取って買ったのです!

 その日からしばらくの期間、私はこの書物を軽く流し読みしていました。ほとんど何が書かれているのか分かりませんでした。ただ、やたらと「無量」という語が出てくるのを不思議に感じたのでした。結局私は、全巻の4分の1くらいのページをめくって、この書物から自分を解放しました。あの時からだいぶ歳月は経ち、現在になって、こんなふうにこの書物を再び手に取ることになるなんて思いも寄らないことです。びっくりしています。私事はここまでにしましょう。もう私が「無量」という語にかんして持っている思いは伝えることができたと思います。

 作品『無量のて、あしのために』に戻り、便宜上、作者には済まないけれど、まずはタイトルをくだいた日本語に翻訳?してみると『はかり知れないほどに多い手、足のために』というふうに書きかえることができると思います。何の手、足なのか、これは蝉の手、足だと取れそうです。はかり知れないほどに多い、ここは私が作品の本文を読むと、どうも手、足が多いだけでなく、鳴いている蝉の数、それから死んでゆく蝉の数が多いと読めます。押さえておかないといけないことは、この作品では新しく生まれるということが書かれていないということです。このことが、この作品を暗くしているように思います。

 まったくここに書かれた詩文本体は無量の字数であり、無量の暗いイメージであり、無量の騒々しさであり、決して脱することのできない九月の輪です。夏という語はありますが、八月には全然触れられず、もっぱら九月のことだけが書かれ、しかもそれはいかにもめらめら、ぎらぎらと暑い感じを伝えてくるようです。

>九月は死んでいる血流と死んでいない粘液で回り続けて

>いる 犬歯のある風景を孕み 運命の蝉は脱皮を繰り返

>している

 この箇所などは、私は浅学ですが、仏教的な輪の考えに通ずるような気がします。そして最後の箇所はこうなっています。

>破滅する血液と蒸

>発する粘液で 死んでいる九月は 死んでいない九月の

>亜熱帯は 無意味に救出され続けている

 ここも、決して終わらない九月の輪をあらわしているように思いました。

 表現について一言しておくと、「死んでいる」の反対を「生きている」とはせずに「死んでいない」と書いているところがポイントだと思います。

 私の読解能力で及ぶことができるのはせいぜいこの辺りでした。分からなかったこととして、樹木、靴、「わたし」をどう捉えればよいのかということがありました。ともあれ、無量の、いつまでも終わらない、蝉の死、鳴き声、九月、こういうことを感じ取ることができました。そしておそらくは、これらは人間の世界の象徴なのだろうと思います。作者が書いたことの本当の意味に迫ることができたならよいのですが、無論、何の保証もありません。

 ここまで、私は仏教という一つの宗教を話の脈絡としてきました。そうだからという理由だけからではないのですが、取り上げないといけないと思う作品が、長谷川哲士さんの『ニュー宗教おニューの』です。まずタイトルが人を食ったような調子で、良いです。躍動しています。単に『おニューの宗教』ではないのですね。

>血染めの電信柱が一本だけそこに見えるでしょ

 ここはキリスト磔刑の十字架を思わせます。

>右手にガラスの動物園が見えるでしょ

 ここはテネシー・ウィリアムズ作の劇『ガラスの動物園』でしょうか。昔読みましたが内容を忘れました。

>苦しいね苦しかったねえ

>救われたいのねイイわよ此処は

「救われたい」、この思いはよく考えると奥深い思いです。人間どもはこの世であれこれやっています。あれこれ、たとえば勉強、仕事、趣味、恋愛、信仰、或いは詩など書いてみたり、或いは株や商品先物の相場に手を出してみたり(笑)、とか。これらは必ずしも苦しみになるわけではありません。これらによって喜びを感じもするのです。現世で苦しみを感じていない人もいるかもしれません。「救われたい」などと考えもしない人もいそうです。でもこの辺の事情はこの詩作品の作者にはお見通しであるように感じられます。書きっぷり、口ぶりから伝わってきます。いちおうやはり人間どもはこの世のあれこれに囚われて苦悩するものだとしておきましょう。手近なところでは、生老病死というものは確かにありますし、しょっちゅう報じられる子ども虐待とか、生まれつき体が弱かったり、貧困に陥ったり、人間関係で生き地獄を見たりもします(たとえば嫉妬されて害されたり、たとえば失恋とか、或いはいじめに遭ったり)。そうしてこの詩作品は成り立ちます。作者は読者を新宗教やユートピア建設に誘います。脱線気分を感じさせるような筆致ではありますが、意味上はそうなっています。

>ユートピア、楽園そして湯〜とぴあもです

>お背中流す男女問わずあらゆる性別の者

>取り揃えております多様性の世じゃけんね

>勿論、心の垢を落とす多種多様の教祖在中

教祖までが多種多様とは、徹底していますね。もう別に私はこの詩作品について言うことはありません。たとえ書かれていることに違和感があっても、開き直ってみんなで楽しみ、身も心も温まり、笑ってください。

笑いが続かなくなったら、また平常心を取り戻し、次の作品を読みましょう。すなわち獣偏さんの『悲しい歌だけうたってくれ』です。この作品は真面目に「この世」と「神の国」という言葉を使用していて、これまでに取り上げた三作品の特色である宗教的ということから逸れない文脈で語ることができそうです。

「おれはちっとも幸せじゃない」、「この世は悲しいことだらけ」という認識から「幸せな話なんてききたくねー」、「悲しい歌だけうたってくれ」と言うわけです。そして「おれ」が「この世」をましなものにするためにやりたいこととして、女なら「鬱病患者専門のセックスワーカー」になる、男なら「愛の金槌で自由主義者を撲殺する」と言っているようです。分かりやすいと言うか、分からなくもないと言うか、またこれを聞く人によっては考え込んでしまうかもしれない、暗い構図ではあります。一つには、「おれ」は「この世」の悪しきものとして「自由主義者」に疑義というか反感というか、そういうものを抱いているようで、ちょっと難しいです。ここの部分については私は今のところ解読することをしないでおきます。理由は、私自身が「自由」「自由主義」「リベラリズム」等々こういったものが何なのかに非常に関心があり、目下勉強中で、自分で本格的に思想家たちの著作に当たることをしている最中であり、あやふやなことを言いたくないし、安易にネット上の辞書類を見ることもしたくないからです。(セックスワーカーという存在も、考察すべき難しくて重要なテーマです)。

>四等客室に押し込まれた峻烈な魂が

>神の国に辿り着いて

>全ての悲しみに勝利するまで

>悲しい歌だけうたい続けてくれ

 このように作品は終わっています。

 さてここで、そもそも「幸せ」とは何なのか考えたくなります。中沢さんの『』という短い作品を読みましょう。

>「自分の熱情を貫徹することと、幸せのどちらが大事かな」

>と問うて

>「幸せ」と即答する君

>寂しい を知った私。

 これだけで全部(空白行を便宜上一行にさせていただきました)という、少ない文字数の作品です。ですが、読者を立ち止まらせて、冷静にさせる内容を持っています。怠けないで、細かく見てみましょう。

 問い、「自分の熱情を貫徹することと、幸せのどちらが大事かな」? もし私yasu naが答えるなら「自分の熱情を貫徹すること」と答えます。なぜなら、こちらの方にこそ「幸せ」を感じるから。ではこの問いに言われている後者の項の「幸せ」は何かということを考えなければならなくなります。前者の項に私が感じる「幸せ」とどう違うのでしょうか?

「自分の熱情を貫徹すること」により、私はどういう結果に着くでしょうか? 具体例を挙げれば、私にとってこの『概観』を書くことは「自分の熱情を貫徹すること」です。この『概観』を書いて、私はどういう結果に着くかと言えば、書く喜びを得る、運営の一員として仕事を為しているという達成感を得る、意味のあることを書いているはずだ、きっと誰かが読んでくれるという期待を得る、こういうことになるでしょう。そして私は「幸せ」を感じます。もしこの『概観』を書かないなら、私は何を得るでしょうか? 余暇を多く得ることができるでしょう。全然疲れないでしょう。危険や失敗や損失の可能性(リスク)を免れるでしょう。友人や好きな異性と遊んだり、他の好きな趣味に興じたり、長い睡眠時間を取れるでしょう。でも、なんか足りない、と感じるに違いありません。本当にやりたいことをしていないという不満が心に生じるでしょう。

 問いの中の後者の項の「幸せ」が何かということは、もうここまで考えてみれば明らかです。すなわち、さっき挙げたような、『概観』を書かないことで得られる余暇などの安楽のことです。

 中沢さんの作品『』に戻って、こういう事情を当てはめて考えると、「君」は安楽の類いを好む人物であると言えそうです。逆に、「君」の「即答」を聞いて「寂しいを知った私」は、私yasu naと同じような幸福観を持っている人物であると言えそうです。

 どちらであっても私は咎めはしませんよ。両者は支え合っているようにも見えますから。人それぞれ、頑張って生きてください。

 ここまでで五作品を取り上げたわけですが、連続してシリアスな内容で、読者の皆様は疲れたのではないでしょうか。私yasu naは少し疲れました。なのでちょっと趣を変えてみましょう。

 皆様はたぶんお気づきのことでしょうけど、九月、ビーレビ投稿作品の著者に、一匹の猫がまぎれ込んできました。しかも二作品も書いていました。名前を点子といって、その作品は『【点子が、ゆく】 作・点子』と『【点子と あの方】作・点子』でした。この点子ちゃんが登場する作品を十月には真清水るるさんが書いて投稿されています。『しっぽで お月様を 感じながら』です。短いので、ここに全文を掲げましょう。

>夜な夜な

>むやむやを

>ふみふみして

>点子ちゃんは、ゆく

 たったの四行です。覚えて暗誦できちゃう方もいらっしゃることでしょう。私はできます。光景を想像してみましょう。とりあえず時間帯は、夜ですね。タイトルに「お月様」とありますが、「しっぽでお月様を感じながら」とあり、感じればいいわけなので、特にお月様が出ている必要もないでしょう。出ていようと隠れていようと、点子ちゃんのしっぽはお月様を感じることができそうです。時間帯は夜ですけど「夜な夜な」とありますから意味的には、いつも夜に、ということになります。「むやむや」とは何でしょうか。あまり細かく切って読むとダメだろうと思います。「むやむやを/ふみふみして/点子ちゃんは、ゆく」と長めに(ほとんど全部)取り出すと分からないことが減りそうです。点子ちゃんの柔らかい足の裏が、何か「むやむや」なるものを「踏みながら」「ゆく」わけです。「踏みながら」「ゆく」。これは分かる気がします。点子ちゃんが、しっぽをふりふりしながら、一歩一歩、夜の暗がりの中を、柔らかい足の裏で「むやむや」を「踏みながら」悠々と歩いてゆく。これで分からないことはいちおう「むやむや」の部分だけになりましたが、誰がこの言葉を分かるでしょうか。これはまったく新しい日本語なのです! しかし私は或る夜、散歩に出たとき、実際に「むやむや」を「ふみふみ」して点子ちゃんのように歩いてゆくことができました。私の足の裏もなんだか柔らかくなったような感じがしました。「むやむや」という言葉は、まだ生まれたばかりの、これから人々によって使われ、体感されるべき新語です。この作者の造形能力、造語能力、擬態語を扱う能力が発揮された、新しい感覚を提案する、すぐれた詩作品だと思いました。(ただし、念のため『スーパー大辞林』で「むやむや」を引くと、副詞として「怒り・不満などで心が晴れないさま。もやもや。」と出てきて、古い用例も載っていますが、どうかなぁ、皆様はこんな副詞を知っていましたか? もしくはふだん使いますか? 私は聞いたことがありません。やっぱりここは、作者によって新語として、または新しい使い方として提案されていると考えるのが妥当だと思います。だって、点子ちゃん、そんなにいつも「もやもや」しているの?)。

ここからは最後まで、得票数や閲覧数の数値から、読者に高く支持されていると考えられる作品を見ていきましょう。まずはstereotype2085さんの『夜空に連れて行ったのは「僕ら」』、それから、この作品に寄せられた、つつみさんによる推薦文『それでも「僕ら」と呼ばれた時代に戻りたい』。

この作品は、原作をそのまま読むと、ちょっと分かりにくいと思います。なのでここに一般的な読解の一つの基本的指針を導入しましょう。オーバーな言い方をしましたが、単に、人物と、それから時制に注意する、ということです。誰? いつ? という問いを持ちながら読んでゆくのです。作品全体に私が注を入れるのは問題もあろうかと思いますので、第一連と第二連だけに試しに注を入れてみます。丸括弧の部分が私による注です。

>(僕は)卵を割り黄身をコップに落とす。白身はトロリと分離して流しの底へ。

>飲み干す卵黄が喉に触れながら胃袋に落ちる時、目眩を起こすほどの(あの時の)彼女の恍惚が聴こえる。入道雲が見えるビルの一室から始まるのは、分裂気質の男(今の僕)が見せる祝宴。

>(僕は)瞼を開いては目の前にある合わせ鏡を見てる。その奥に立ち去るのは眼帯の少女(の幻影)。帰る気配はない。

>≪shake hands≫ずっと昔に大切にしてた≪touch your brain≫「僕ら」という一人称(複数)、(それが)砂を噛むように消える。

>(今)一人きり(一人称単数)で見上げた濃紺の空は、沈む気持ちを包み込んでバターみたく溶かし、胸に蕩けさせ(あの時の)少女を呼び戻す。

 というふうになります。残りの連にもこのように注を考えながら読むと良いと思います。そうすればこの作品の意味を受け取ることができると思います。もう私から言うべきことはないです。読者の皆様が自身で原作を味わい、また推薦文も読んでみてください。

 次に、ほばさんの『暇つぶしによる暇つぶし』。「ようこんなくだらんことを考えて書くもんじゃ」と、私の敬愛する正宗白鳥先生が天国で笑っていらっしゃるのが聞こえてくるようです(リンクはウィキペディア)。私も神様目線で「人間どもがまたあれこれやっているな」と思いました。

 作品から取り出せるものとしていくつかあると思います。挙げてみると、

  1. “華麗に終わるはずもない、そんな末路もしかたない人間だもの”という作者による総括的な見解。
  2. 投身自殺して死ねなかったポエム好きおじさんによる詩文。つまり丸括弧で括られた部分。
  3. 投身自殺して死ねなかったポエム好きおじさんの、詩的ではない心の地の声。
  4. 投身自殺して死ねなかったポエム好きおじさんの声を聞いた「僕」。

こんなところでしょうか。

 しぶとい、死にきれないポエム好きおじさんに自分をかさねてみてください。

 作品タイトルに「暇つぶし」とありますが、本当に「暇つぶし」に書いたものなのかどうか、この筆力、想像力、構成力と娯楽性は凄いなと、純粋に感心してしまいました。いつか「ポエム好きおじさん」が「成仏」というか「救済」というか、そういうところに至ると良いですね。祈っています。

 次は、藤 一紀さんの『丘の上の墓碑』、それから、この作品に寄せられた、鈴木 海兎さんによる推薦文『誰のための墓碑』。月間B-REVIEW大賞、おめでとうございます!

 まずはすらすら読めてしまいます。そして読者は思うでしょう、「石を擬人化して書いているな」と。間違いありません、その通りでしょう。またこうも思うかもしれません、「平易だな」と。間違いありません、平易です。そしてもう一度読んでみたりするでしょう。いかにも石らしい静的で冷たい感じがします。人によっては穏やかで冷たい風を感じたりもするでしょう。でもこの詩はそれだけの表現なのでしょうか。こんな箇所に引っかかりはしませんか?

>石は 立っている

>ここにきてからずっと

 え? ここにきてから? 最初からあったんじゃないの? と、私は引っかかりました。それでちょっと考えて、もう一度、タイトルから読み直しました。あ、「墓碑」なんだ! と気づきました。それなら確かに「ここにきてから」ということは理解できます。誰かが死んだのです。そしてこの石は初めてここにきたわけです。読者にとってタイトルとの遭遇が作品との初めの接点となり情報源となることはしばしばですが、読んでいる最中にタイトルのことを忘れてしまったりもするのです。話を戻しましょう。つまり、誰かが死んで墓碑、すなわち石が立ち始めたわけです。では、この箇所はどうでしょうか?

>透明な音楽がつづいている

>もう 何億年 何光年も

 何光年も前に墓碑が立つことはあり得ません。墓碑が立つ前から「透明な音楽」は存在し、つづいているわけです。墓碑は後から「ここにきて」「透明な音楽」を聴くことに参与し始めたのです。この「透明な音楽」がいつ始まったかなど知り得ません。たぶん始まりも終わりもない無限のものだと思います。すると何か天上的なものだと思われてきます。

 この詩について私なりにまとめましょう。墓碑の石は誰かの死を暗示します。その石はとても静かに立っているので眠っているように見えるけれども、本当は、無限につづく天上的な音楽に耳をかたむけている。死者の魂は、無事に天に至ることができたのだ、そしてこれからずっと幸せに天という世界にありつづけるだろう、と。

 こうして見ると、なんだかこの10月は、宗教色のある作品が多いなぁと感じるのですが、私の読み方がかたよっているのでしょうか。それはさておき、話を前へ進めましょう。

 次は、飛雄馬の井戸さんの『自意識、無意識、被害者意識』という作品です。

 この作品に直面して読者は「これは何ですか?」という根本的な問いかけをしなければならないはずです。この問いに答えることによって私はこの作品を読みたいと思います。

「これは何ですか?」

「これは詩です」

「なぜそう答えることができるのですか?」

「はい、なぜならここにはセンテンスが連続していますが、センテンス間に分かりやすい意味の関係が無いから、それからさらにセンテンス内にも分かりやすい意味の関係が無いから、文学の中でも、詩という分野に分類するしかないと思うからです」

「第一に、あなたの言う、分かりやすい意味の関係、とは何ですか?」

「はい、それは私たちが、私たちの間に共有していて、常識的につなぐことのできる言葉と言葉の間の関係のことです」

「第二に、そのような関係が無いからといって、なぜ詩という分野に分類するのですか?」

「分かりません。でも、書かれたもの、ということには間違いはないと思います」

「そうですか。では、ここまでのあなたの答えをまとめると次のように言えますね。すなわち、この作品は、センテンス間でもセンテンス内でも、私たちの間に共有されている常識的な言葉と言葉の間の関係というものを欠いている、そんなセンテンスの集まりから成る、或る書かれたものである、と」

「はい、そう言えると思います」

 この作品へのアプローチとしてこのような問答もあながち無効とは言えないでしょう。ここまでで私はこの作品についてけっこう多くのことを語ったつもりです。ソクラテスなら再び問いを巻き戻すに決まっていますが、私はソクラテスではないので、ここで切ります。あとは読者の皆様の自由です。作品の中に着地点を見出せずに宙に浮いたまま作品を眺める方もいるだろうし、どこかに着地点を見出して何かしら意味やメッセージやイメージのようなものを受け取る方もいると思います。私個人としては、いえ、何も言わずにおきましょう。

 次には白犬さんの『egolightfuture』を読んでみましょう。

 私たちは何回かこの詩を読みます。それで、その後どうしますか? なんにもしないか、コメントを書くか、どちらかでしょうけど、なんにもしない方がコメントを書くよりも「無量」の楽を得るでしょう。コメントを書かれた方は大変だったと思います。なぜならこの詩に対しては、何かがどうした、だからこうである、というような文で応じることができないから。読んだ方がこの詩から受け取ったのは、ほとんどイメージだけだったのではないでしょうか。それも、球体の3D画像のようなイメージだったのではないでしょうか。第一行目は「光」、最終行も「光」です。断裂のない円環のようです。何か言葉で詩の内容を表現しようとするならば、どこか性的? どこか生殖的? くらいの曖昧な応じ方になると思われます。

 イメージにはイメージをもって応じましょう。3D画像で応じるのは難しいので、2次元のキャンバスに油彩画を詩に沿って描く想像をしてみましょう。抽象画になると思います。これが私によるこの詩へのアプローチです。

 描く過程のことは省いて、結果どういう絵画になったかを述べます。それは、キャンバスの中央で白々と眩しく光を放って輝く球体のようなものの絵になります。その輝きは決して絶えることも尽きることもないエネルギッシュな恒星のもののようです。

 血がどうした? 苦鳴がどうした? 死産がどうした? 穢れた花達がどうした? 永遠みたいな夜がどうした? 血肉がどうした? 子宮がどうした? 滲み続けた青がどうした? 海と空の奥底がどうした? それらはすべて白々とした光の中に飲まれて見えない。語調をちょっと激しくしましたが、私はこの詩から死とか滅亡的なものなど少しも感じなかったのです。生とか強い生命力、未来へ果敢に進もうとする意志、そういうものを感じました。また、書き方は、この拙文の初めで取り上げた湯煙さんの『無明列車より』に似たものを感じました。心に即して書かれているというわけです。

 さて、次の作品で締め括りましょう。武田地球さんの『土曜の夜にリンゴを買う』、それから、この作品に寄せられた、湯煙さんによる推薦文『月曜の朝に詩を読む』。

 ここまで私たちは十一篇の作品を読んできました。そしてその過程でいろいろ学び、読む力を増進させることができたのではないでしょうか。(私の読解が正解で、それを皆様が学び取ったという意味ではなくて、皆様のそれぞれが精神の力を振り絞って作品を読むことによって鍛えられた、という意味です)。長く険しい道でした。難関を突破してきました。私たちは強くなりました。最後の難関に挑みましょう。

 作品の第一連はこうです。

>こんな夜には

>リンゴを食べなくちゃいけないと

>買い物に行く

>地に足をつけて歩くと

>気持ちがいい

 おやおや? なんだか似たような詩文に出会ったことがありませんか? そうです! 真清水るるさんの『しっぽで お月様を 感じながら』の詩文です。夜、外に出て、地に足をつけて、歩く、気持ちがいい。たぶん、少なからぬ人たちがこういう感覚を体験して知っているはずです。

「こんな夜」とはどんな夜でしょうか。もう私たちは知っています、タイトルに情報を見出すことを。「こんな夜」とは、さしあたり、「土曜の夜」です。「土曜の夜」に私たちはどんな気持ちでいるでしょうか。平日とはどこか違う気持ちでいるはずです。土日が休みである人も、そうでない人も、どこか平日とは違う気持ちでいるはずです。特別な日時です。

 このように「土曜の夜」の気持ちを想像してみると、なぜか「リンゴを食べなくちゃいけない」という気持ちも分かってくるから不思議です。理屈の問題ではなく感覚で私たちは作者と通じ合うことができるものです。リンゴ、とても美味しそうです。

 第二連で着目すべきところは、「リンゴをひとつだけ買ったから」の「ひとつ」という語です。これを記憶しておいて、第三連に移るといいでしょう。

 第三連に「ひとつ」のものがいくつか出てくることにお気づきでしょうか。すなわち「犬」と「月」と「わたし」です。(そしてさらに強いて数えれば「道端」も「街灯のあかり」も「息」も「ひとつ」でしょう)。そこに「ひとつ」の「リンゴ」のことも思い出して加えてみましょう。全部「ひとつ」ずつあります。とてもシンプルな世界ですね。そんな世界から外に向けて「わたし」は「誰かの名を呼んだ」のです。この作品においては「ひとつ」あることはあんまり寂しいことではないように感じられます。「わたし」は気分よく颯爽とリンゴを買いに行って帰途につく。「ひとつ」のものたちで構成されたシンプルな世界。すでに完成され満ち足りています。でも最後、「わたし」はやはり誰かの名を、おそらく自然に、口から漏れるように呼ぶのです。「こんな夜」とは、満ち足りていながらも、やはり誰かの名を呼びたくなるような、くすぐったい気持ちのする夜であるのです。どうしても自己だけでは完結し得ない人間というものの宿命を書きあらわした、絶妙な詩であると私は思いました。

【試験を終えて】

 今回も前回と同じ作品数となる十二篇の作品を取り上げて私は解答案を作成した。その内訳は、初めから六篇目までが私が独創的に着目した作品、七篇目から最後の十二篇目までが得票数や閲覧数などの数値から見て読者に高く支持されていると考えられる作品となっている。半々である。

 ビーレビの運営の人員の中で、私は作品の得票数のカウントと『概観』の作成という役目を主に担っている。ユーザーが投票した票数によって毎月大賞が選ばれるという独特な選考方法を持ったビーレビ杯、その月次選考結果発表というものがあるということはビーレビの特徴であり、また看板でもあるから、運営の他の二名と等しく重要な役目を分け持っているのである。(ただし、運営にもいろいろな仕事があり、私のこの役目などは易しい)。

 単に得票数をカウントして高得票順に並べて示すだけのことなら機械に任せればいい。しかしそんなことが毎月続いて何の面白さがあるだろうか? ビーレビは、この世の中に無数にある人間的な活動の中のささやかな活動の一つである。私が『概観』というものを書く動機はここにある。人間の力でできることをしたいのである。

『概観』は誰が書いてもいいと思う。ただこの『概観』というものを発案した、そして書きたいと思ったのがたまたま私だったので、私が書いているのである。名称はどうであれ、そして私が運営から退いたとしても、このような文章は月次選考結果の中にあり続けて欲しいと勝手に思っている。

『概観』は「選評」ではない。私はこの文章のイントロダクションの中で「話を書きなさい」と言っている。そう表現することで、ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶというプロセス、および、カウントされた得票数の多い順に作品を並べて示す機械的作業との区別を言いたかったのである。ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶということは、ユーザーが「選評」を書くということである。運営が「選評」を書くのではない。

 私という一人の人間がビーレビに投稿された作品群から限られた数だけ作品を選び出して「話を書く」、このことの中に公正さはあるだろうか? 何を基準に選ぶのか? こういうように問うことを忘れないことがそもそも大切である。

 今回は前回よりも公正さはアップしていると思う。というのは、既に述べたように、選んだ十二篇のうち半分の六篇が得票数や閲覧数といった数値を基準にして選ばれているから。残りの六篇は、私が良作だと思ったのは当然であるが、結果としてはこの『概観』に談話としての面白い脈絡を生み出せるかどうかを考えて選んだとも言える。実際のところ今回は「解答案」の冒頭に書いたように、仏教にまつわる語を話のきっかけとして手探りで書き進めた。

 この『概観』が意味のある、そして面白いものになっていることを願うばかりである。

【付記】

 得票数と閲覧数から見て、取り上げるべきだった作品が下記の通り3作品あるのだが、私がこの『概観』の脱稿を慌てて急ぎすぎたせいで、これらを見落としてしまった。これらの作品については、次回に取り上げたいと思う。

・雑感 by 貴音

【10月の雑感】

どうも貴音です。看護師という業種から離れようと思い就活をしている最中です。この雑感が掲載される頃には何かに勤めていれば良いなぁ。なんでしょう…何が向いているか分かりませんが、看護という仕事に疲れてしまいました。患者がどうこうよりも職場の人間関係です。だったら別の病院に行けば良いじゃないとなるのですが、病院に勤めるって熱がなくなったのです。人と多く接する事に疲れてしまいました。腐っても看護師やっていた人間です。こんな精神状態で接するのは病院や患者にもよろしくないと知っています。気の向いた業種に飛び込めるならそこで働いて、それでもやっぱり看護師をやりたいとなった時に働くのが良いかも知れませんね。この10月は無職の期間だったわけですが、自分で言うのも何ですが馬鹿真面目なんですかね?1日に何か意味を持たせなければいけないと思い、筋トレに励んだりしていました。健康と充実というのは表向きの理由で、本当はただの現実逃避ですね。無職になってしまった、ゆっくりのんびり行けと言われても、お金が飛んでいくから長くは出来ないという焦り。そうやっているうちに体重が10キロも減ってガリガリになってしまいました。何かしなければいけないという謎の責任や義務を必要以上に抱えているから自滅し、悲観し、他人に優しさや余裕を持って接する事が出来ないのかも知れないなと感じました。SNSの繋がりを絞り込む方針で行こうと思っている私ですが、今回は数少ない繋がりでお言葉を頂けたのは支えになりました。この無職の期間は私の生涯において、「まぁ、いいか」「なんとかなる」を学ぶための期間なのかも知れません。「人生は先勝」「流れる川は腐らない」を価値観としてきました。これは別に悪い考えではないのだと思いますが、見直しが必要かも知れません。

【お題詩について】

運営参加して初期の頃に案として持っていたお題詩ですが、今回ビーレビ公式として投稿掲示板にて募集させて頂きました。正直なところ失敗に終わると思っていたので、想像よりも多くのユーザーさんからお題詩を頂けた事に感謝です。私自身もそうですが、お題詩への感想を本当は書いてあげると本当は良いのかも知れませんね。でも、詩作へのコメントがないからここまで投稿があったのかなと思ったりもするんです。気が向いたらやってよってお遊びな要素もありますから、そこでガチ目の批評とか付けられちゃったら白けちゃうと思うんです。貴音個人の意見なので、別にコメントすんなって訳ではないです。私も余裕があったら気になった作品にコメントを入れるようにはしたいと考えています。個人のツイキャスで話していたのですが、初恋ってなるとストレート気味になるよねって話がありました。なんかこう…現代詩、現代詩してるのってどうやったら出来るんだろうってその時に考えていました。羽根を怪我した鳥を介抱するように、破れた初恋を拾って…みたいな話とか、初恋がカップラーメン感覚で買える世界で、何度も初恋を摂取する人の話とか、ちょっと考えてはみたんですがちょっと進まなかったので諦めてしまいました。

【サイトの代謝】

過去に、ビーレビには代謝が必要だと意気込んでおりましたが、特別活発的なことをしていない私です。コメントもしなくなったしね。でもさ、改めてアーカイブを見直してみると、新しくビーレビに投稿してくれる人ってこんなにいたんだってのを感じます。私や誰かが新陳代謝だー!って動かなくても、同じユーザーだけが居座り同じ所にコメントのやりとりをし続けているってのは、思っているよりは少ないかな?投票の方はなんかうーんってなるところがあるけれど、MVPはお遊びな所があるしそこまで皆も意識していないらしいから、このままでも良いのかもね。まぁ、私としては毎回違う人が選ばれるみたいな感じだと面白いかな。だから、感想いえないーって言いながらも5月とか好きでしたね。あんなのが続けば良いなって思いました。後、10月は投稿数が少ないけど、これは何でしょうね。なんか聞くところによると同人の詩誌や詩集ブームが起きているらしいね。でも、それによりサイトの衰退とかではないと思っている。単純にコロナでの緊急事態宣言が解除になったからで、皆の意識が外に外に向かっている結果だと考えている。試しに第6波とか起きてみれば分かるけど、社会的に面倒くさいので勘弁だ。理由はなんであれビーレビの投稿数が減り続けても構わないと思う。そこでしっかりと代謝が起きていればそれで構わない。投稿数の多さは嬉しいところもあるけれど、無駄にかさばってしまっているようにも思えるからね。1つ1つに対しての読む側の意識って奴が薄まってしまうような気もするからね。見落とされてしまう。埋もれてしまうみたいなことは減るのかも知れない。まぁ、皆さん。どこで何しようが自由ですので、気が向いたら投稿して下さい。可能ならいつもの面子から離れてコンタクトしてみて下さい。

【マイブーム音楽を紹介する】

私は詩を書くにあたり音楽を流しながら書くタイプです。かっこ付けた言い方をすると、日常を過ごしている中で詩文の輪郭みたいなのは大体は出来ているので、書く!ってなった時には質や文量はともかく詰まらないで書ける方であります。大体が頭の中で出来上がっているので音楽を流す必要ってのはないんですけど、書こうとしているもののイメージと近いものを見付けて書いていると、その場でどんどん文が思い浮かんで来やすいのでやってます。後、単純に書いている時に音楽が邪魔にならないので流しているのもあります。そんな私が書いているときによく聴いているのを紹介するだけのコーナー。

Machine Girl – GEMINI (Full Album Stream)

電子音楽プロジェクト。ハードコアパンク、グラインドコア、ブレイクコア、レイヴ、ドラムンベースなどをごちゃ混ぜにした強いエネルギーの塊みたいな音楽。色彩もカラフルだったりモノトーンだったり、固体・液体・気体なんにでも化けるような感じ。要は何でもありって事。何でもありな音楽している人達って沢山いるけど、私の中で一番ドンピシャである。とにかく、聴いていて楽しいし面白いって感情が出ます。動画内のオススメは3曲目のOut by 16 (ACiDPUNKMiX)

鉄アレイー12LP

ハードコアパンクは私に取って自己啓発みたいな音楽です。なんかやり場のない、整理の出来ない自分の気持ちを代弁してくれる感じがするんです。音が私に説いてきます。何またグズグズしてんだ!いいからこうしろ!アイツ等はバカでアホだ!今のお前はそいつと同類だ!抜け出し方は知っているだろ!だったらさっさとやれ!と。へこたれ、落ち込み、挫け、嫉妬、憎悪など負の感情を頻繁に抱えながらも生きているのは、きっとハードコアパンクのおかげかも知れません。ハードコアパンクはメタルと違って、ピロピロのメロディが基本は無いストレートなビートを届けてくれます。他に例えるならば、全裸で殴りかかってくれる人です。最近、ビーレビ外の自作の詩を分析すると段々とストレートになってきているのは、以前よりもハードコアパンクを聴きながら書いていることが多くなってきたからだと思います。私が薄っぺらでも詩に意味やメッセージを込めだしてしまっているのも、ハードコアパンクがパンクと違って出口のある主張をしているからだと思います。動画内のオススメは13曲目の終わるまで!!

Windows96 : One Hundred Mornings

細かいことは分からんけどVaporwaveって音楽。なんか昔の人が思い描いていたような近未来。昭和のお洒落な都会派CMで流れていそうな音楽。ノスタルジック近未来ってイメージでこのジャンルを認識している。時々はバキバキな音楽を聴きながら怒り任せに詩を書くのではなく、おセンチメンタルなもんでも書いてみようかな

って時にお世話になっている。他者が見てそうなっているかは知らん。

【日記にでも書いておけを振り返る】

「日記にでも書いておけ」は私の書いた作品の中では最もストレート(ノンフィクション)だと思っております。当時の出来事をそのまんま書いています。ザックリ説明すると病院開業→コロナの緊急事態宣言で0人の日々→コンサルに廃業しろと言われる→以前勤めていた病院の上司に経営者としての甘さと親や人格やらを詰められて泣く→友や親、お世話になった人達に感謝とごめんなさい→もう1回頑張ってみようってのを長ったらしく書いている。ボロボロのメンタルで辛い気持ちを吐き出したくて書いているんだけど、実はちょっとだけ投稿するにあたって計算というか目的があった。何をどう書いて表現しても自由ではあるけど、私は個人の病気やトラウマ、挫折の類いを詩にするのは基本はしないし好まない所があります。あなたにとっては特別かも知れないけれど、そんなの周りには沢山溢れているんだと考えている。思っているよりあんたの人生は特別でもなく芸術じゃないよ?と考えているの。だから、そんな人が作品に自分を入れ込んで掲示板で作品=自分を見てもらって、あくまで作品に対しての評なのに、私を攻撃しているのですかとビギビギになったりしているのを見ると、ならそういうもんを書くな、それか掲示板投稿はやめたら?となっちゃうんですね。上手く伝わるか分かんないけど…作品を通してこんな自分を見て下さいじゃなくて、こんな私にだけ見せられる言語世界を見せてやるよってのが好きなんです。そんな私が「日記にでも書いておけ」を投稿したのは、否定して欲しかったんです。私のこの出来事は作品として出すには有り触れている、つまらんものだとか言われることで、いつまでも続く特別な出来事ではなく、時が経てば記憶も薄れて行くもの、普通の日常であると思いたかったんですね。廃業決意が去年の10月だったのであれから1年が過ぎました。思い出すと嫌な気持ちにはなるけど、以前ほど回数も減り鮮明さが薄れてきました。忘れてしまうのは困る場面がありますが、人にとって大切な機能なんだなと痛感しました。だから人の出来事に対しての記憶って曖昧だから、トラウマがある人は抱えているうちにヴァージョンアップしているのかも知れませんね。実は結構、最初の頃と違うものになっているかも知れませんよ?更新が止まって過ぎ去る時がくれば良いですね。

【ビーレビという出会い系サイト】

ビーレビの公式Twitterでは私の色を出したい、少しでも他の人にビーレビを知ってもらいたいという考えのもと、バリバリ個人的な呟きとかをやっているわけですが、それで少しはフォローしてくれる人がいたりして、悪い行いでは決して無いのだなと思った。だけど、スパムアカウントからオフパコ・セフレリストなんてもんに入れられてそれを処理していく中で、やっぱり…ビーレビは出会い系サイトみたいになってきているのかなと思った。表向きは詩作を中心に投稿と批評だけど、それよりも出会いたいって方の気持ちが強くなってきているのかな?これがビーレビの傾向として良いのか悪いのかは分からない。ただ、二十歳未満の利用制限や会費を設けても良いのかも知れないとおふざけに思った。それだけ。

【〆の話】

詩であれ、なんであれ、夢中になれるものを見付けるようにしたいですね。私はどの趣味も無職金なしがチラつくので何か新しいことをしようとしています。料理を少しだけやるようになりました。YouTubeで美味しそうだと感じたら、それを作って食べるってのをしています。料理をしている間は変なことを考えないで済むし、出来て食べるものは美味しいし。良いことばかりです。自分でやる事もあるけど、麻雀の配信動画を見て自分だったらどれを捨てるかシミュレーションしながら過ごしています。もうね、ひたすらやってます。ライオンに指を喰われても「お~よしよし」で済ませたムツゴロウさんでも、胃がんでメンタルをやっつけた時期があってその時に心の支えとなったのが麻雀だったそうです。私はそれっぽく出来ればいい雀なんで、役と名前が一致しない、点数計算は出来ない、リーチや上がり牌はオート任せ、たまに勘違いして役なしで詰んだりしながらも打ち続けています。打っている間だけは嫌なことを考えずにいられる麻雀に感謝しています。そして、麻雀を打っていく中で挨拶では離れようとした看護師の仕事も、またやってみようかなと思えてきました。まぁ~違う業種が増員希望だ未経験でも歓迎とか言っているのに、受けたら不採用にされてしまうので諦めみたいな所もあるんですけどね。仕事は選ばなければ有るんだと言われますが、向こうが選んでればどうしようもないですね。結局、私が不採用だったのはなんだったのだろう?向こうは結局どんな人が来て欲しいんでしょうね。まぁ…もう仕方が無いか…ってな訳で個人的な話が多かったですね。はい、おしまい。

以上で10月選考の発表とします。

2021.11.14 B-REVIEW運営 一同