平素よりB-REVIEWへの投稿・コメント活動にご参加いただきありがとうございます。11月の月間B-REVIEW大賞が決定いたしましたので発表いたします。

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目次

・月間B-REVIEW大賞
・投票作品
・概観 by yasu.na
・雑感 by 貴音

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・月間B-REVIEW大賞

新染 因循 『夜空のかたち』27票

・投票作品

最終投票数が3票以上の作品を発表します。

夏至祭は終わった 17票
20201116 13票
藤の花 8票
雨の痕 5票
ふるえ   3票
鎖刻    3票
おちんちんの皮の中に住んでいるよ 3票
花に嵐    3票
片目のだるま 3票
子牛を拭う 3票

11月分の投票について
千休 利氏の新染 因循氏「夜空のかたち」批評文は本人の申告に基づき、推薦文としてカウントしております。

・概観 by yasu.na

【イントロダクション】

 ここに一問だけの記述式試験がある。それにはこう書かれてある。「2021年11月中にビーレビに投稿された作品群から妥当と考えられる数だけ作品を選んで話を書きなさい。ただし、得票数の多かった作品を二、三必ず扱うこと。」と。下に掲げるのは私yasu naが試みた一つの解答案である。

【解答案】

 前回の「解答案」では、この世の生の外に何か天上的な生をほのめかすような読み方で作品を取り扱った場合が多かったと思い出されます。そういう読み方も一つですが、作品群は多面体なので、続けるわけにはいきません。今回は、ベクトルをこの世の生に強く向ける態度で作品を読みたいと感じています。こんな私の欲求にこたえてくれる作品を探ってみようと思います。

 最初には、ほばさんの『夏至祭は終わった』を取り上げましょう。つつみさんによる推薦文『枝がしなり羽撃く果実と砕け散る果実とは』とs.tさんによる推薦文『時間の流れという錯覚のなかで』がついています。

 私の個人的な読体験から言うと、ほばさんの作品は意味を取るのが難しいのに、なぜか良いということは分かるものです。私がほばさんの作品に初めて触れたのは、文学極道に投稿されていた『耳鳴りの羽音』という作品でしたが、私はこの作品に「意味を取るのは諦めたけれど、良いと思う」といった感じのコメントを送信したものです。(懐かしいなぁ)。ビーレビにもこの作品は投稿されていますね、『耳鳴りの羽音』です。

 話を『夏至祭は終わった』に戻しましょう。私自身では「夏至祭」というものについて調べようとは思わなかったのですが、代わりに、つつみさんが調べて推薦文の中で記述してくれています。参考にする程度にしておいて、私は『夏至祭は終わった』というタイトルを「夏至/祭/は/終わった」というように切って意味をつかもうとしました。「夏至」は一つには地球上で人間が体験する自然現象です。二つには一年のうちで北半球で最も昼が長く最も夜が短い暦の上でのいわばピークの日です。いずれにせよ、地上的で現世的です。「祭」の部分もそうです。「祭」の部分からは私は、神仏をまつるという側面には注意せずに、毎年夏に日本のあちらこちらで行われる夏祭りとか花火大会のような人間の生活を盛り上げるものとしての「祭」を思い浮かべました。「終わった」の部分については、詩文の中にどこか「終わり」を想起させる表現が多くあるので、そういう箇所を見てみましょう。

 作品の始まりから終わりまで順に「終わり」を想起させる言葉を拾ってゆくと、「抉り取られた」「傾いていく」「捨てられて」「うんざり」「分散」「はらり」「いらないから捨てた」「宛名がなかった」「砕け散った」「跡」「忘れ去られていく」「汚れた皿をあらう」「消えている」「点を打つ」「行き過ぎた」「もう秋の日暮れ」「実り過ぎた過日」「落ちて砕けた」などを挙げることができると思います。「夏至/祭」を中心的なピークとして描き、その前後のこと、特に後のことを際立たせているように読めます。

「夏至/祭」は毎年繰り返されます。地上の営みですね。「終わり」を表現する言葉の群れの中に、ちょっと「始まり」を示すように光彩を放つ箇所があります。「枝がしなり、羽撃いて」と「夜明けが眼を射る」という箇所です。私にはここがきらめいて見えました。きらめいて見えたのです。以上のように、私は書かれた言葉だけをたよりに、大きな想像力を働かせることなく、この作品を読みました。一つの読み方だと思っています。

 次に読みたいのは、村人崚さんの『鉄兜』です。私はおそらく作者が見た鉄兜とほぼ異ならないと思われる鉄兜を見たことがあります。2020年の秋に県立神奈川近代文学館で開催された『大岡昇平の世界展』に行った時のことです。観覧を始めた途端、そこにあって目に飛び込んで来たのが、茶色く錆びきった、まるで人間の頭のような、丸い鉄兜でした。それが兵士の頭を弾丸から守る唯一のものであったことに思いを馳せると、悲しく、また頼りない気持ちになりました。生きて還ることの奇跡を思っただけでなく、単純に、生きるということの奇跡を思いました。

 しかし、このような経験があるから私がこの作品に惹かれたのかどうかは疑わしいです。作品そのものに強烈なエネルギーがこめられていると感じるのです。出征する青年、戦地に着いた青年、戦地で生きた青年、戦地で考えた青年、そしておそらくは戦地で死んだ青年を、順に追うことで、青年の内面の変化を見事に書いています。青年は戦地にあって初めて人間性というものについての考えを抱きます。自己の野蛮と死の可能性に気づいて初めて人間性というものを考えるのです。不思議ですね、戦争という不毛なことの中に置かれてやっと人間性という豊かなことについて考え出すとは。

>忘れないでくれ

>俺が俺であったことを

>人間は人間の中だけで人間たり得るのだと

 作品の終了の仕方も良いです。ここは「僕」の内面の記述となっています。いかにも平和な光景、人間性などというものを思いもせずに遊んでいる親子を見て、「僕」は胸のうちで優しくも言うのです。

>彼の名前だけは忘れないようにしようと思った

>僕が生きている間だけは

>彼を僕の中で人間としてあげたいと思った

 次には、Natuno@ハンドメイドさんの『20201116』を読んでみましょう。s.tさんによる推薦文『とにかく居場所がない』がついています。この作品のコメントセクションを見てみて、私は正直に申しますと、恐ろしくびっくりしました。事件? 死者? ホームレス? いや、私はこの詩を読んでそんなことをまったく思いも考えもしませんでした。コメントを書いている人だけでなく、作者までが、そんなことを言っているではありませんか! 単刀直入に言うと、私はこの詩をすばらしいと思い、私たちの日常のことを思い、人間の生を思いました。タイトルについては日付の模様をした数字の羅列だとしか思わなかったし(タイトルを解釈しようと思う間もなく詩文が目に飛び込んできました)、詩の一行目は「バスのベンチの片隅を私yasu naの居場所にしてもいいですか」と読みました。作者に意外だと思われようと、コメント者に笑われようと、私は頑として私のこの詩へのこのような入り方を改めようとは思いません。この詩に書かれているのは、この世にあって、生活の糧を得ながら、社会性を持ち続けながら、なんとか生きてゆく人間の大変さです。詩の技巧面も良いです。言葉のよどみのない進行、リズム、特に最後、

>しあわせを感じること一つだけ

>お日さんが眩しい静かな朝です

>そんな日は、そんな日は私は顔を

>上げるのです

>私は顔を上げるのです

 私は人間が生きてゆくことのうちの実際の哀切さを最高潮に表現して作品を締め括っていると思い、感激しました。

 次は百均さんの『鎖刻』です。「鎖国」とは音が同じでも字は違って「鎖刻」です。「刻(とき)を鎖して外部と交流がない」ということでしょう。「刻」を所有できるのは単一の団体か個人でしょうけれど、ここは個人であると思われます。そしてこの作品の中では「私」ですね。

 冒頭一行目「灰色のサーカステントがぶら下がる」によってこの作品全体の基調色が色づけられ、また、おそらく上の方に固定されて動きようがない、人が心から拭い去ることができない重い「サーカステント」というものが提示されます。見事な表現です。何かが心にのしかかっているような感じがします。舞台は、作品に目を通してみて認められる用語から想像すると、海辺、それも湾岸で、さらに特定していくと、工場地帯と砂浜を併せ持ち、海面を水平線まで見通すことができ、道路のある場所であると決定してよいと思います。個人的には横浜から木更津あたりまで東京湾岸を車で走る時に見えるものを思い浮かべましたが、作品にはそんな具体的なことは書かれていないし、こういうふうに作品の中の言葉から飛躍してしまうのも最近の私らしくない読みであるので、こんな具体的想像は排除しましょう。舞台が、或る海岸であるということを意識することは、この長い詩の中を貫くものを一つ発見し終えたということにほかなりません。この海岸を舞台に、作者はさまざまな「詩」を連ね、展開していきます。これらの「詩」は互いに細い息で結ばれているように思います。私がこれらの「詩」たちの中から一つ抜き出すとすれば、主題を「待つ」と命名してよいような次の二箇所です。順に、引用します。

>寒い砂浜に立っている

>あなたは、祈りを聞かせて

>聞かせるふりをして

>繋がれた一人の砂漠で

>あなたを待っている

>まっているあなたはどこにもいないことに

>きがつかなかった

および、

>バス停でいつまでも私の事を、

>待ってくれるあなたがいないことを、

>ことを認めてしまったら、

>認めてしまったから、 

>「もう祈る必要はないよ」と言われた手は、

>震えました。

>煙はどこまでも上がっていく。

>私を包む鎖は離してくれない。

>鎖が離してくれてもどこにも連れて行ってくれない。

 という二箇所です。

「待つ」という言葉は、無論、「何か」や「誰か」や「何らかの行為や事象」を「待つ」、つまり目的語がある言葉です。そしてもう少し考えてみると、そういう目的語に束縛されている状況を想起させます。どこか不自由だし、悲しい感じのある言葉です。引用した詩文にも、「寒い砂浜」「祈り」「繋がれた」「一人の砂漠」「鎖」「離してくれない」などの言葉が見られ、不自由さ、悲しさをあらわしているようです。そこになんと、「まっているあなたはどこにもいない」「待ってくれるあなたがいない」という事態が発生するのです。そしてもう一度、引用しましょう。

>「もう祈る必要はないよ」と言われた手は、

>震えました。

>煙はどこまでも上がっていく。

>私を包む鎖は離してくれない。

>鎖が離してくれてもどこにも連れて行ってくれない。

 この箇所が、ついに深遠な意味をもって読者に迫ってくるはずです。私の贅言などもはや要らないでしょう。読者の皆様が体感される通り、やるせなく、むなしく、どうすればいいのか分からず、惑いに惑う「私」の心を思って胸が痛みます。「私」は依然として「私」の「刻」に「鎖」されているままです。

 ここまで四作品連続して、あの世ではなくこの世における実人生に深い関心を寄せていると私が思った作品を選んで読んできました。ここで、次から三作品、前回私のミスで取り上げることができなかった作品を続けて読もうと思います。

 まず、うたたね 宥樹〔記〕さんの『自由律俳句 202110-1』です。自由律俳句ということで私はかたく身構えてしまうほど知らないものなのですが、あえて肩の力を抜いて「自由」になろうと思います。それで、ここは無理しないで自力だけでなくコメントセクションからも情報やアプローチの仕方などを得て作品に触れてみます。しかし私が最初に関心があるのは「自由律/俳句」という分野についてなのです。ネットで調べてみますと「自由律俳句」でちゃんと検索結果が出ますね。ウィキペディアの記事に依拠してみましょう、「自由律俳句」。いやちょっとすぐには理解できそうにありません。これは自由律俳句であるとされる作品を時間をかけてたくさん読んでどういうものを自由律俳句であると言うのかを知ろうとした方が良さそうです。というわけでうたたね 宥樹〔記〕さんの『自由律俳句 202110-1』に戻りましょう。勉強不足ですみません。作品が短いので全部をここに写し取ることをお許しください。

>神無月待つビジーカーソル彼(か)の声切る

 一番特徴的な語は「ビジーカーソル」だと思います。パソコンで作業しているときコンピュータが処理に時間をかけている間に見られる、あの円いグルグル回っているようなしるしです。この語を中心にして作品を解釈すると、「ビジーカーソル」が消えるのを「待つ」のと、パソコン作業の進捗の次の段階にあらわれるはずの情報がスムーズにあらわれないで切られたような感覚がするのと、両方あります。パソコンの向こうからやって来る応答を「声」と表現しているように受け取られますが、良いです。そしてもちろん「神無月」を「待つ」ことが表現されていることもすぐに気づくことですから、二つのことを待っているということになります。kの音がこれでもかというほど書き込まれています。「待つ」が二重にかかっていることと、kの音の横溢、そして「ビジーカーソル」という語の存在感がこの「自由律俳句」の優れた点であると思います。(偶然でしょうけれど、百均さんの『鎖刻』に続き、この作品にも「待つ」という語が出てきました)。

 前回に見落とした作品の第二弾は、ぼぬんさんの『』です。うむむ、マトリョーシカですか。私個人の目にまず飛び込んで来たのは、これでした。私は過去に「ロシア語能力検定試験3級」というマイナーな試験に合格したという中途半端な経歴を持っています。ロシア語の音はきれいで、好きなのですが、今では単語も文法もほとんど忘れてしまいました。中国語も勉強したことがあります。中国語の音も好きです。あの頃の私の外国語学習の情熱はどこへ行ったのでしょうか、消えました。でも、貴重な思い出として、中国人の知人に『涼州詞』(王翰)を中国語によって音読してもらったときの衝撃を忘れられません。たいてい教科書に載っている「葡萄美酒 夜光杯 ……」、あの漢詩です。めちゃくちゃ良い音で、ほとんど音楽と言って良いものでした。

 さて、作品に戻りましょう。タイトルが『韻』ということで、しかし、『涼州詞』の中国語による音読を聴いてしまったら、日本語詩において「韻」などあり得るのだろうかと私は訝しむほどなのです。確かにありますが、難しいし、無理を来しやすいし、きたない音に終わりかねないように思うのです。『涼州詞』にはかないませんよ。でも、ぼぬんさんは果敢に取り組んでいます。私はこの作品では韻よりは言葉がおもしろいと感じました。「白い中庸」「路銀」「募金箱で死んだ蝶」「マトリョーシカの幻」「北京街のペンギンが祈る」といった表現からいろいろ情景を想像して感じ入ることができますし(まるで映画のタイトルのようではありませんか!)、或いは超現実主義的な趣があると思う向きもあるかもしれません。韻、というか音声という面だけから作品を読むと、あまり気になりませんでした。日本語だからか、ちょっと暴論かもしれませんが、たとえば直前に取り上げたうたたね 宥樹〔記〕さんの『自由律俳句 202110-1』のように或る音を効果的に多用するなどの方法とか、たとえば七五調とか、同じような母音や子音の連なりをリピートするとか、突如として衝撃的に或る音を発するなどというのが、今のところ、日本語詩における音声的効果の主たる発揮の仕方なのかもしれないと思ったりします。もちろん、音声的効果と意味的効果を切り離すのも慎重にしなければならないことだと思います。(私は和歌と、富小路禎子の短歌への憧れから、短歌を作っていた時期があり、雑誌に投稿して八首が佳作に選ばれて載ったことがあります。なので、詩歌において音声とどのように向き合うかということについては、こういう経験を持たない人よりも、この筆を持つ手に実感として染みついていると思います)。ところで、私も多くの人々と同じで、音楽が大好きで、聴くのも好きだし、演奏するのも好きだし(主にエレキ・ベースとボーカル)、カラオケも好きなのだけど、いまだにどういう原理で作詞と作曲が融合できるのか不思議でならないのです。このことについては、別に稿を起こして考えるか、どこかでまた触れるかもしれません。それはさておき、ああ、皆さんにあの『涼州詞』の中国語による音読を聴かせることができたなら! 日本語詩にまだ音声的効果の可能性が十分にあると、希望的に考えることにしましょう。(『涼州詞』をGoogleで検索すると、中国語での音読が聴けるサイトがありました)。

 前回に見落とした作品の第三弾、ラストは、クヮン・アイ・ユウさんの『インターチェンジ / interchange』です。まずはタイトルの書き方に注意が行きます。日本語で「インターチェンジ」と書くのと並置して、英語でも「interchange」と書かれています。両方を掴むように読者に迫っているように思えます。作者からのそのような呼び掛けに素直に応えてみましょう。日本語で「インターチェンジ」というと、「複数の道路をスムーズにつなぎ連絡させるように設計された立体交差部分」といったところでしょう。これは名詞です。英語の方は、英和辞典によると、名詞と動詞の両方が確認できます。名詞としては今述べた日本語での「インターチェンジ」の意味もありますが、加えて主には「交換」という意味です。そして動詞としては、他動詞としては「~を交換する」、自動詞としては「入れ替わる」です。作品タイトルをこのように重層的に捉えておいて作品本文に移りましょう。タイトルがこのように重層的であること自体がどこか「インターチェンジ」的なのですが。この作品は冒頭が良いですね。

>ふるさとが無い

>根を張る前に引っこ抜かれて

>あちこち連れ回されたから

>義務教育制度とセットの卒業は、骨組みのみ吹きさらし思い出の家屋

>鉄骨の冷たさだけずっしりと背負わされて終わらない

 義務教育制度とセットなのは、たいていの人にとって「卒業」だけではなく「ふるさと」もあると思います。そしてまた、たいていの人にとって「卒業」のことを考えることは「ふるさと」を思い出させることでもあります。懐かしいです。でもこの作品の主人公は、根を張る前に引っこ抜かれてあちこち連れ回されることが続いたために、ふるさとが無いようです。本来心の中に「ずっしり」存在するはずの、ふるさとでのかぐわしい思い出は、この作品の主人公の心には無くて、そのかわり「骨組みのみ吹きさらし思い出の家屋」、「鉄骨の冷たさ」だけが「ずっしり」と存在するようです。同じ「ずっしり」でも、このように存在するものの違いを考えてみると、おもしろいですね。

 作品はここ以降、どこか「骨組みのみ吹きさらし思い出の家屋」、「鉄骨の冷たさ」を思わせる物事を描写してゆくように読めます。主人公にふるさとが欠落していることが、内的にも外的にも何かさびしい事象を引き起こしているように読めます。タイトルに重い感じがあったことを思い出すと、「インターチェンジ」、つまり立体交差しているのはこれらの事象だと受け取ってよさそうです。「繋がりへ/インターチェンジ」、「超えて、超えてゆけ必ず/言葉をとめるな」、「言葉を繋げ/言葉で繋げ」などの箇所は、ふるさと欠落によるわびしさを振り払おうとする主人公の意気を感じさせてくれました。

 はい、ここで確認しておきましょう、ここまでで私たちは合計七作品を見てきました。いずれの作品を読むに当たっても、私は穿った読み方をせず、自分の心に入ってきたところのものを素直に書いてきました。そして、はじめに立てた方針に、つまりベクトルをこの世の生に強く向ける態度で作品を読もうという方針に、無理に作品を合わせることもしないで、自然にこの世の事柄、地上的な事柄、実人生にかんする事柄について書くことができたと思っています。(ぼぬんさんの『』だけは作品の性質が違っていたので、この方針の読み方では読みませんでした。あ、でも、肉声ってリアルで地上的な事柄かも)。さて、ここからもさらに、地上的な内容を持った作品を見ていきましょう。

 尾崎ちょこれーとさんの『ヨル。』を取り上げましょう。「目を瞑るとき/一番近い場所こそ/漆黒」。この箇所を読んで、肉体の感覚は読み手にも移って、実感されることでしょう。皆、目を瞑ると、一番近くに見えるのは、漆黒です。近くに見える、ここは、浅いところに見える、と言い換えることができるでしょう。それで続きを引用します。

>だから

>わたしの底は

>浅ければいいのに

>せめて今夜は

>あなたが簡単に

>弄(まさぐ)れてしまうくらいに

 目を瞑って見える漆黒と同じくらいに「わたし」の底も浅ければ(近ければ)いいのに、と読めます。誰にとって浅ければいいかと言えば、「あなた」にとってですね。そして「わたし」の底も、色合いは漆黒であるように感じます。そのような「わたし」の漆黒の底を弄って欲しい、非常に濃厚な欲望です。しかも詩文は、臭くない見事な表現になっています。「わたし」の底とは何だろうかと考えてみると、さしあたり心の底であるように思われますが、心というものは肉体の部位の一つではないかと感じさせる、官能的な雰囲気をこの詩はまとっています。作品は短いので、私は長く語れませんが、肉体と欲望を取り扱って成功させた秀逸な作品だと思いました。

 次に読みたいのは、s.tさんの『銀歯』です。場所は樹海の奥、時は月の光が射し込んでくる夜、主人公はなんと死亡した男の口の中にかつてはめられていた銀歯です。死亡した男はすでに白骨になっています。人間の体は白骨になると、さまざまな部位が結合を解かれ、散り散りになりやすいのでしょう。歯もそうなのでしょう。その歯の中で、他の白い歯と違って、主人公の銀歯だけ、散り散りになったのではなく、みずから死体から積極的に離れて、生き物のようにものを思い、動き回ります。おもしろいです。まだ、というか、これからもずっと生きてゆくもののように描かれています。人間の体の無常と、銀歯というちょっとかわいい、そして人工的な金属の生命の永久性(不死)との違いが、私たちを苦笑させます。死者を登場させていても、天国などのその魂の行った先にはまったく言及されていません。死んでおしまいというわけです。ただひとり、銀歯だけは、男の死後にも元気に生きています。作品にはこの銀歯の一夜の間の行動と感情が描かれています。それはこの銀歯の日常のうちの一コマなのでしょう。人間の、地上だけでの生死のはかなさを、銀歯という人間の所業の一つの永久性と対比させて、アイロニカルです。

 次はまたもs.tさんの『ダイニング・キッチン』。ヘンリー・ミラーがどこかに「キッチンほど落ち着く場所はない」というようなことを書いていたのを思い出しました。文明の中に生きながら人間の原初的な姿に思いを寄せていたヘンリー・ミラーらしい言葉ですね。食べる、飲む、こういうことに最も近い場所がキッチンです。ちなみにジーニアス英和辞典の「kitchen」の語の記事には、「an eat-in kitchen = a kitchen dining roomダイニング=キッチン」とあり、「×dining kitchen」とあります。「ダイニング・キッチン」とは和製英語のようです。それはでも問題ないでしょう。言葉というものは自由であっていいです。

 作品の舞台は「家の中」です。はじめはどうやら寝床であるようですが、作品後半は「ダイニング・キッチン」に移っています。詩文は全文が良いです。気のきいた表現だけで出来上がっているように感じますが、それらすべてを見るわけにはいかないので、三つの表現だけ見ていきましょう。

>書き留めたいことがやまほどあるのについつい放ってしまうので、翌朝めざめたとき綴りはゆきのように溶けて蒸発。

 これは最初の一文です。主人公は書くことが好きな人であるらしく、私たちに似ていますね。書かれていることはよく分かります。前夜に思い浮かんだ「書き留めたいこと」を書き留めずに寝て、朝には「綴りはゆきのように溶けて蒸発」しているというわけです。「書き留めたいこと」を「綴り」と言い換えて、それが「ゆきのように溶けて蒸発」とは、巧みで味わい深い表現です。

>真鍮の無意識という鉱物めいたやわさを映写機で反映し、トラウマが追いかけてくる四月のゆううつに浸りながらも、さいきんは、ようやくふかくふかく沈むことができるようになった。

 ここは主人公の睡眠の実態を表現しているのでしょう。「真鍮の無意識という鉱物めいたやわさを映写機で反映し」なんて箇所は良いですね!

>それから、遠いせかいに存命するドイツ民話の紙面に溺れ、挿絵に耳をすませ、つぎに、ひんやりと混濁した円柱の連なる都会におもいを馳せ、色彩や高価な記号をぶら下げるひとびとを目で追いかける、女ゴコロを灯すためにはモッテコイの集合体。

 朝、あれこれやって、ようやく目が覚めたときのことでしょう。ダイニング・キッチンにいて、『ドイツ民話集』とか、そんな書物を手にして眺めているように読み取れます。ここの表現はもう全部良いです。密度、高いです。

 続いて、cold fishさんの『おちんちんの皮の中に住んでいるよ』。ちくしょう、いいの書くなぁ。人間って、性器なんですよ。性器を身につけて生まれ、毎日何度か性器によって小便をし、性徴に気づきながら成長し、性器の成熟の最終段階において青春を経験し、そうして結婚の条件を調えて、大人になります。この過程がスムーズにいく人もいれば、悩みの多いものになる人もいます。私は後者で、けっこう自分のおちんちん事情には悩まされました。ちくしょう。おちんちんイコール自分なのですよ。秘密と言い換えてもいいです。自他の境界に性器が立ちはだかります。越えて行こうよ、ちくしょう。

 さて、次の作品で締め括りましょう。十二作目です。yamabitoさんの『藤の花』。藤の花というと、すぐに私の眼前に幻のように見えてくるのが、水蒸気か煙のように空中に消えてゆくかのような、あの消え方なのです。四月か五月かに藤色(light purple)の小花がふさ状にかたまって垂れ下がってたくさん咲いているのを見るのも良いし、花の香りを楽しむのも良いでしょう。でも私にとっては、藤の花の見どころは、花盛りを過ぎて春の終わりに突然この世から消滅する、あの消え方なのです。水蒸気か煙が空中に、サアッと、フワッと、シュワッと消えてゆくのと同じようなあの消え方なのです。急にこの世から消えるのです。あの消え方を見たら、誰にとっても、忘れられない感動的な視覚体験になると思いますが、誰か私と同じような視覚体験を持っていませんか? まあ、これは私の事であって、yamabitoさんの作品とは関係はありません。

 作品の中に入ってゆきましょう。とは言え、もうかなり多くの人がこの作品をお読みになったことと思います。私の鑑賞のことなど語らなくても良いかもしれませんね。ここでは作品の終盤に的を絞って私の思いを語りましょう。作品の終盤とは、以下に引用する箇所です。

>いろんなものを失い、それに慣れてしまった自分が存在し、その負の安寧に包まっている自分がいる。直線的に永遠に続くかのような負の連鎖の中、それを切り裂くように、藤の花の香がいっとき私を解放した。

 良いですね、良すぎます。季節は春、藤の花も盛りの頃、そんな時に「いろんなものを失い、それに慣れてしまった自分」の存在について考える、どこか季節に逆行しているような感じがありますが、実は逆行ではないのです。ここにあるのは逆行ではなく、対比です。コントラストです。咲き匂う藤の花、いや、その芳香そのものと「いろんなものを失い、それに慣れてしまった自分」の存在、この二つのものの対比なのです。この対比は難しいようで難しくないものだと思います。誰しも満開の桜の木を近くで見上げたとき、己の内なる世界の空虚を感じたことがあるのではないでしょうか。きっとあるはずです。花を桜に変えてしまいましたね、藤に戻りましょう。同じようなものです。ただ藤の場合、芳香が強く意識されねばなりません。そして作中の「自分」は、「自分」が「負の安寧に包まっている」と感じています。「負」は空虚に向かい、さらに通り越してしまうものですね。その「負」というものに「安寧」を感じている、これは前出の「いろんなものを失い、それに慣れてしまった」ことから来る「安寧」です。続く「直線的に永遠に続くかのような負の連鎖の中」という表現も、「いろんなものを失い、それに慣れてしまった自分が存在し、その負の安寧に包まっている」ということの言い換えだと思われますが、印象深いです。「連鎖」という語の「鎖」の字から私は、百均さんの『鎖刻』の「鎖」を思い出しました。「とざす」という意味です。「連鎖」とは、「とざす」ことの「つらなり」という意味だと捉えましょう。「つらなり」という語からは、藤という植物の形状、ひいては藤の花の形状を思い起こさせませんか。私は連想しました。さて、作品の中の「自分」は「負のつらなりにとざされた」状況にあるわけですが、最後、その「つらなり」を「切り裂くように」して「藤の花の香」が「いっとき私を解放」するのです。ここは、「藤」と「私」が同一化しているような感覚を催させます。「藤」という(そして「私」という)「つらなった」植物が、自らの芳香によって、「切り裂くように」自らを解放するような感じです。それほどに、藤の花の芳香は強く咲き匂うように強調されているように私は感じました。

 これで今回の「解答案」を終えたいと思います。なんという気持ちの良い終わり方でしょうか!

【試験を終えて】

 今回も前回と同じ作品数となる十二篇の作品を取り上げて私は解答案を作成した。その内訳は、初めから四篇目まで11月に投稿された作品、五篇目、六篇目、七篇目が10月に投稿された作品、その後、八篇目から十二篇目までが再び11月の作品となっている。11月の作品の数は九篇と少なめだが、それらの作品の品質は11月の作品群の代表として相応しく、また、私が多くを語るに相応しいものであったと思っている。

 ビーレビの運営の人員の中で、私は作品の得票数のカウントと『概観』の作成という役目を主に担っている。ユーザーが投票した票数によって毎月大賞が選ばれるという独特な選考方法を持ったビーレビ杯、その月次選考結果発表というものがあるということはビーレビの特徴であり、また看板でもあるから、運営の他の二名と等しく重要な役目を分け持っているのである。(ただし、運営にもいろいろな仕事があり、私のこの役目などは易しい)。

 単に得票数をカウントして高得票順に並べて示すだけのことなら機械に任せればいい。しかしそんなことが毎月続いては何の面白さもない。ビーレビは、この世の中に無数にある人間的な活動の中のささやかな活動の一つである。私は、人間の力でできることをしたい。

『概観』は誰が書いてもいいと思う。ただこの『概観』というものを発案した、そして書きたいと思ったのがたまたま私だったので、私が書いているのである。名称はどうであれ、そして私が運営から退いたとしても、このような文章は月次選考結果の中にあり続けて欲しいと勝手に思っている。

『概観』は「選評」ではない。私はこの文章のイントロダクションの中で「話を書きなさい」と言っている。そう表現することで、ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶというプロセス、および、カウントされた得票数の多い順に作品を並べて示す機械的作業との区別を言いたかったのである。ユーザーによる直接投票で大賞を選ぶということは、ユーザーが「選評」を書くということである。運営が「選評」を書くのではない。

 個々のユーザーは作品への投票にかんして4つの選択の自由を明確な形で与えられている。すなわち、1、コメントを書いて投票しない 2、コメントを書いて投票する 3、推薦文を書いて投票しない 4、推薦文を書いて投票する である。

 選考方法のこのような全体像をどうか見失わないでください。

 さて、私という一人の人間がビーレビに投稿された作品群から限られた数だけ作品を選び出して「話を書く」、このことの中に公正さや妥当性はあるだろうか? 何を基準に選ぶのか? こういうように問うことを忘れないことがそもそも大切である。

 今回の「解答案」においては、文章を貫く或る一つの大雑把なテーマを最初に決めて、そのテーマに合う作品を選んで書き進めた。そのテーマというのは、地上的、現世的、リアル、こういうことである。そして、死よりは生へと、より強い関心を向けられるということである。概ね、このテーマで書けたと私は感じているが、読者の皆さまはどう感じられたであろうか。

 この『概観』が意味のあるものになっているならば、そしてもし面白いものになっているならばと、願うばかりである。

・雑感 by 貴音

【11月の雑感】
どうも貴音です。寒い季節になりましたね。そして、今年も後僅かになりましたね。なんか1年が早かった。大雑把に言うとこんな一年でした。1~2月は廃業と撤退期間。3月~10月はあんまり合わない職場で働きやめる。10月~11月は無職で苦しむがなんとか就職が決まる。これが載る12月にはきっと働いているでしょう。研修中は通常ですが、ある程度認められたら午後から深夜まで働く感じになるので、体長面とかトイレのリズムとかもろもろ気になる所ではありますが、なんとかなるだろうと考えます。皆はどんな1年でしたか?私は去年から停滞している感じですが、少し光が見えたように感じられました。来年は良い年であればと思います。

【しろねこ社さんとのイベント】
これは本当に嬉しいお知らせでした。ビーレビはこれまで色んな方が運営を受け継いで続いてきました。同時に単発・不定期・継続と様々な形で参加して下さっているユーザーさん達がいてくれたからここまで来れました。サイトは確かにグルグルと動いていますが、どうしても閉鎖的な環境であると考えております。今回のイベントを行うことでビーレビの壁みたいなのが壊れて、一気に景色が変わるような気がします。このイベントを通して参加するしない関係なく、ビーレビってどんなサイトなのだろう。どんな人達が詩を書いているのだろうと興味を持ってくれると思っています。そこで皆さんの交流が広まると、とても開放的な場所になるのではないだろうかと考えております。このイベントが大盛り上がりすることを願っています。

【メメントモリ】
色んな出来事が重なり考えている事があります。考えるきっかけになった物事について触れるのはあれかなと思うので、自分が過去の出来事で話したいと思います。私は東日本大震災をもろに食らった地域の人間で、住んでいる所は山でしたが、1つ越えれば遺体が転がっている。そんな環境でした。なんか絆だとか、こんな中でも列を作り食べ物を買う人々なんてのがテレビで報道されていたらしいですが、北斗の拳に出てくる世紀末みたいな所を沢山見てきました。ATMから金を強奪する人、県外から支援物資を単独で持ち込んで水を1000円で売るような人達、アナタハンの女王事件みたいな空間、遺体の指輪を強奪するために指の切断、列の進みが遅いと怒るお爺さんを集団リンチする人達。親戚、同級生、知り合いの何名かは死に、なんでお前みたいなのが生きているんだって憎悪の気持ちにもなりました。そんな私は、テレビがちゃんと付く頃やけに希望ばかりを歌うアーティストに謎の怒りを持っていました。こんなんばっか歌っていたって、震災の悲惨さなんて遺せないだろ!だったら私は皆が見たがらないものを書いてやる!そんな気持ちで上で羅列したようなものをテーマに震災の詩を書いてきました。亡くなった同級生の事とかも書いていました。本人の目線になったつもりで書いたりもしました。この活動は震災から10年、不定期で行っていたのですが2~3年くらいからふと疑問に思うことが出てきました。出来上がった詩を眺めていたら、私はこの人達の事を良い奴だった、大切だった、もっと生きいてて欲しかったと確かに思っているのに、こんな程度の詩でしか書けないんだとまず思った。なんかネタにしている感じがした。震災の傷を消すための道具にしている気がした。次になんか詩に出来ちゃうくらいの存在なのかな…と思った。最後に本当に大切なら、こんな形で良いのかな…書くなら素直な手紙、なんなら形にするもんじゃないのかな…と思った。人の死への想い方や表現は自由だと思う。だけど、私にとっての答えというのはあるかも知れないと書いて来た。そこから更に仕事の関係で人の死ぬ所を見るような事もあり、それも重ねて書いて来た。結局出た答えは、詩としてそれっぽいものは書ける。だけど自分がその人をどれだけ想っていても、それを詩にするとあまりにも陳腐になる。私には出来ないものだと思った。死を想うのは難しい。そして、なんか薄情な奴だと私は思った。作品にした瞬間、これまで書いてきた作品との区別が付かなくなった。ノートの詩集では軽い一言や、書いているときに聴いていた音楽とかをメモしているんですが、必ずしている訳ではない。何の補足も書かれていない詩文を見て、もう自分が誰のことを想って書いたのか判別の付かない状態になった。言葉にすることで捨ててしまったのだと思う。だけど、これで良いのかも知れない。大切ではあるが悲しい出来事でもあるから、それをずっと持ち続けているのは苦しいと思う。私はまだ生きているから、進まないといけないから置いていかなきゃいけないんだと思う。もう今となってはどんな声だったとか思い出せない。そんな人が増えてきた。どうでも良いが震災から2~3年頃にしりあがり寿、高橋ツトム、新井英樹、人間交差点とか読むようになった。多分、生きるってなんや?死ぬってなんや?って考えていたからだと思う。

【エンジョイ勢とガチ勢】
ビーレビの人間を極端に分けるとこの2種類になると思われます。エンジョイ勢は色んな詩人との交流楽しい~!なんか分かるっスその詩!みたいなの強いタイプの人です。ガチ勢は詩とは…評とは…互いに詩の高みを目指そうぜな人。ビーレビに活動の軸を置いていないどうでもいい勢もいますが、この辺はどうでもいいので触れません。なかなかガチ勢からするといやぁ~良い詩ですね!素敵だと思います!なコメントは、こいつちゃんと読んでんのか?と多少の疑問や不快感というのはあるかも知れません。エンジョイ勢からすると、この人なんか気難しい人だな。やりにくいなって思っていることでしょう。これはどっちが良くて悪いとかではなく、皆いてもいいんだぜの一言で済む話なんですが、ちょっとだけ言うなら、楽しんだもの勝ちなのかも知れません。こいつはビーレビをエンジョイしてる人間なんやな。こいつはガチなんやなって思っておくと両者とも嫌な思いをせずに済むのかも知れません。それが自然に行われていくと、別に誰かが管理しなくても上手くいくサイトになるのではないでしょうか。

【フリーライドへのちょー個人的な意見】
あくまでも私が勝手に思っていることで、運営全体での話し合いが出れば全く真逆の意見を出すかも知れない話をネタが無いのでします。ビーレビは作品だけ投稿してコメントもらって、それに対して何にも反応しないで次の作品を投稿している人を歓迎していないとしています。感想や評を行うことでサイトの活性化や互いの創作意識の向上に繋がるからです。でも、作品だけを投稿している人がいます。不定期な投稿をしているユーザーならともかく、何ヶ月も連続で無反応はどういうことや?と運営になる前からも思っていたりはした。作者が返事で意見を言うことで、作品の自由さがなくなるのではないかと考えたこともあった。でも、お読み頂きありがとうございます。これからも精進しますとか、それくらい言えないのか?と思ったりもした。別にこれくらいなら作品に影響で無いと思うんだよね。てめぇのはそれすらも言えない繊細な作品じゃねぇだろと。作品は人前に投稿できるのに、感想を言われたときにどんな反応をしたら良いか分かりませんとか、都合の良い人見知りだなおい…なんて思ったりもした。私はよし!酷評しちゃうぞ~ってなビーレビ爆撃プロジェクトを歓迎しないとは言ったけど、別にやっても良い奴って存在していると考えていて、それがフリーライド。私の性格が悪いんだろうけどさ、こいつらって口をただ開けて美味しいものをタダでずっと食っているような状態でしょ?だからクソやゲロを流し込んでも良いと思うんですよね。真面目に連続投稿はしているけど、真面目な参加ではないよね?PCかスマホ画面で一喜一憂して終わりなだけでしょ?クソやゲロを流されてもしゃあないでしょ。その辺は皆さんに任せます。

【ポイント制についての個人的な意見】
まず、ポイントは私達の代か次の代で変えれるならやっても良いのかも知れないね。んで、私はかつて推薦文が5ポイントは多すぎるやろ、3ポイントくらいじゃないかなくらいに考えていたんだよ。1つの推薦文でMVPがひっくり返るからね。でもさ…そもそも皆がどれくらいMVPを意識しているのか分からない。ここで選ばれても何か美味しい思いが出来るわけでもないし。だからポイントを何にしたところであんま変わらないんじゃないかなと最近は思っている。んでさ、推薦文の傾向的にこれがいかに優れているか、これがとにかく好きなんだってのを普段のコメントよりも気持ち長く書いてやれば誰でも出来るんだよね。不満に思う気持ちは分かるけど、なんでやらないの?納得いかない作品があるなら、推薦文を書けば良いじゃない?なんで書けないし、書かないのかな?これが一位はおかしい!NOという気持ちで推薦文を出しても良いんじゃない?投票に不満は私もある。体感だけど、なんかこいつが投稿するとやけに投票はいるよなって人がいる。逆になんでこいつに入らないんだろうって思うことがある。でもさ、それは私自身が推薦文を書いて貰えるようなもの、投票を頂けるものを書けていなかったり、推薦文を書いていないからなんだよね。不満に思っている君達もそうなんだよ。書けていないし、書いていないんだよね。後なんだろう、数字よりは詩を見れば良いと思うよ。数字は評価として分かりやすいけど、1とか2って数字ににあんたの詩文は負けてんの?だったら力不足でしかたないね。数字が気になって仕方が無いなら、別に自由ですからビーレビから飛んで、詩雑誌なりTwitterでいいねもらってれば良いと思います。そっちの方が望んだ価値が付くんじゃないですかね?まぁ…あんま気にしないのが良いかも知れませんね。投票がないからって悪いわけでもないし、コメントがないから駄目って訳でもない。酷評ばかりでも駄目って訳でもないと思うよ。

【〆の話】
これはまだ確定している話ではないが運営の2人には話していることで、私は労働を再び始めたのだけどそれで環境がガラッと変わった。慣れるまで時間が掛かると思う。慣れても負担になるかも知れないと考えている。だから運営から離れると思う。多分…暫くは置物みたいな感じになるのかな?んで、誰かが志願したら綺麗に入れ替われたらなと勝手に考えている。そのまんま引き継ぐなら大丈夫ですよ?MMMさんがシステム面、YASUNAさんが詩の方面で積極的に携わっています。私のやっているポジションは雑感という名の個人の日記みたいなもんを書くこと、公式Twitterに人間味が欲しいよねって理由で個人的な呟きやたまには真面目に宣伝すること。DMでなんか来ることがあるので、対応できるものは個人でやるけど、別に3人で話し合いに持ち込んでもよろしい。本当に大事な話は2人がちゃんと理屈を組み立てて表に載せてくれるよ。自分でも言ってたけど、私は歴代運営で一番頭が足りない感情担当だったと思う。でも、そんな状態でもなんとか助けられながら出来ますから。安心して下さい。あ、前にも言いましたけど私は自分の詩の生活を縮小方向に向かわせているんですね。詩の投稿掲示板が段々と合わなくなってきているんです。投稿した詩が上手くいかなかったときにそれを外へ持って行ってしまったり、その反対もあったりでなんか不健康だなーと思ったのよ。だから完全に切り替わることがあった時、多分戻ってこないと思うし、仮にいたとしてもその時にどんな方針に切り替わろうと文句は言わないようにしたいなと思うんだ。そこまであれこれ言えるくらいに立派な運営ではなかったしね。最初の頃に推薦文でやらかしたし、Twitterの呟きも私物化してるって批判受けてるし。消したがりのユーザーさんの件でヒステリックになって、個人のツイキャスで愚痴ったりしてね。色んな失態を繰り返しているの。そんな奴がね今の運営に異議申し立てとかいう資格がないんだよね。だから、その時のメンバーで好きにやれば良いと思う。ボランティアでやってんだから多少わがまましても良いよ。気にくわないならお前が運営やれば?で大抵のことは良いと思うんだ。多少ってのはそうですね…私は運営はもう居なくても良いんじゃないかなくらいに考えているから、結構好きにしたい人が参加してそれを実行出来る人なら何でもやっちまえと思うよ。半年参加しないユーザーは全てアカウント削除します!とかなら、おうやれやれと思うし。ツイキャスで即興詩合戦をするならやればいいし、今は緩いと思うけど真逆のガチガチにしたいならそうすれば良い、文極からのビーレビって流れがあるけど、文極になっても良いし、ビーレビが詩を撤退して麻雀クラブになっても構わないよ。数年投稿者として参加して、クソな声と性格でキャスにまでお邪魔するくらいにのめり込んで、酒の勢いで運営に飛び込んで出た現在の答えがこれ。誰が来るか分からんけど、その時は応援してるよ。

以上で11月選考の発表とします。

2021.12.15 B-REVIEW運営 一同